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野獣の群れに解き放たれ逃げ惑う子うさぎみたいに、アンジェラは騎士達の間を駆け抜けていた。
びっくりし過ぎて動くことも出来ず、わたしは小さな影を追う。
彼女の進行方向で、組手をしていた男がバランスを崩し、横を通るアンジェラを踏み潰そうになった。
「危ない!」
思わず走り出そうとして気づく。駄目だわ、ここからはどんなに急いだって間に合わない。
その時誰かがアンジェラの後ろに回り込み、彼女の首根っこを捕まえた。
そう、比喩なんかじゃくて、本当に襟首をむんずと引っ捕まえたのだ。
その誰かは、驚いて振り向くアンジェラを問答無用で引きずって行く。
「ちょっと、何よあの子供!」
わたしは、騎士達の群から強引に放り出されそうになっているアンジェラの元へと急いだ。
余計なことをと言わんばかりの顔つきで、アーサーがすぐにあとを追いかけてくる。
「お待ちください。あれは当然の対処です。あのままだと間違いなくアンジェラ様はお怪我をされていた」
「確かにそうかもしれないけど、アンジェラは曲がりなりにもアウトライムの王女よ。ただの小姓にあんな荒っぽく扱われる謂れはないわ」
アンジェラを背後から捕まえたのは、彼女より幾分年上の小姓の少年だったのだ。
少年は飛び跳ねんばかりのアンジェラの体を慣れた手つきで押さえ込み、動きの激しい騎士達の間を器用に避け移動していく。その行為の荒々しいこと。相手を下に見ていることは間違いない。
「まったく……」
アーサーがため息を吐きつつ、なにやらごちょごちょと呟いた。
「直情型の興奮屋だな、相変わらず……」
後方からの独り言にわたしは思わず足を止める。
ちょっと、それってわたしのこと?
婚約者という名目があるとはいえ、それが臣下の取る態度かしら。
「いかがされましたか、殿下?」
わたしの視線に気づいたアーサーが、顔を上げて柔らかく微笑んだ。凄く嘘くさい顔だ。わたしが睨みつけても気にもしないと言いたいらしい。
「何でもないわ」
わたしは今の暴言に対する謝罪を命じるのを、既のところで踏みとどまった。
今はアンジェラの問題が先よね。このムカつく男の失言に対してはあとできっちり絞めあげてやるわ。
「お前な、いい加減にしろよな。鍛錬の邪魔をする気か?」
「だって、ラジェどこにもいないんだもの。僕の特訓してくれる約束だろ?」
騎士達の間を抜け二人は開けた場所までやって来ると、早速言い合いを始めていた。
子犬みたいにキャンキャン喚くだけのアンジェラを一瞥し、少年は盛大なため息で黙らす。
「特訓て、あのなあ。俺には仕事があるの。お前みたいな暇なガキの面倒ばかり見ていられるか!」
わたしとアーサーが追いついた頃には、アンジェラは情け容赦もなく土の上に放り捨てられたところだった。そのまま彼女を省みることなく少年は踵を返す。
「ラジェ、待ってよ!」
アンジェラが悲痛な声を出して、そのあとを追うべくよろよろと立ち上がった。
「ちょっとあなた!」
この似非小姓、レディに何てことしているの。確かにレディには見えないゴブリンもどきだけど。
「な、殿下、やめーー」
「あなたは黙ってて!」
わたしはアーサーが止めるのを振り切り、彼らにずんずんと近寄ると傍若無人な小姓を呼び止めた。
「そこのあなた、今何をしたのか分かってるの?」
「はあ? 何だよ、あんた」
振り返った少年は、こちらの存在にやっと気づいたらしくじろりと睨み返してくる。
見たところアンジェラより二つ三つ年上のよう、つまり、まだ立派な子供ってこと。
彼女に負けず劣らず乱雑に切られた髪型と服装をしていて、お世辞にも上品とは言えない風体をしている。
アウトライムは礼儀作法を小姓に教えないのかしらね。大国の上に胡座を書いてる証拠だわ。結構なご身分だこと。
頭の中にアウトライムを象徴するミネア妃の勝ち誇ったような笑い顔が浮かび、わたしは唸り声が出そうになった。
「何か用かよ」
少年はふてぶてしいほどに横柄な態度を崩さない。
わたしは負けじと尊大に振舞った。
「用があるから呼び止めたに決まってるでしょう?」
生意気を絵に書いたような顔つきが、面白いくらい険しく変貌していく。どうやら礼儀を全く知らないのは、疑いようもない事実らしいわね。
アンジェラもわたしに気づいたのか、顔色をサッと変え身構えるのが見えた。
「あのさ姉さん、誰か知らないけどさ、女の分際で男の領域にずかずかと入って来ないでくれるかな? そんなヒラヒラしたドレス姿でさ、邪魔だって分かんないもんかね」
はあ?
「こっ、こっこっこっ……」
「鶏かよ、姉さん」
こっ、ここの城には、まともな教育を施す大人はいないようねっ!? よ〜おく分かったわっ。
わたしがブルブルと肩を震わせている後から、大きな人影が前を塞いでくる。
ちょっとアーサー、邪魔をしないでよ。
「これは大変失礼致しました。こちらは少し前より貴国に滞在しているハーディア王国のエミリアナ王女殿下でございます。今日はエリク王子殿下より城内を案内していただいておりました。すぐに失礼させていただきますので、どうぞ我らにお構いなく」
「エリク殿下?」
少年はふと言葉を途切らせ身じろぎした。彼はわたし達の向こうにエリク王子を見つけたんだろう。ふーんと独り言を呟く。
アーサーは笑顔を浮かべたままわたしをグイグイと押しやり、少年らの前から少しずつ後退し始めていた。
「ハーディア? そういやあ親父がユーフェミア様のお身内が来るとかなんとか言ってたな」
わたしの身分を聞いても少しも動じようとしない礼儀知らずの、のんびりとした声に耳を疑う。
「あなたね〜、ちょっとアーサー離してよ」
わたしは前を隠す広い胸から急いで顔を出し、この何も物を知らない相手に、他国の客人をもてなすとは何たるかをこんこんと説明しようと試みた。
「いい加減にしないか、ラジェット!」
「あいたっ」
でも、わたしの忠告はいらなかったみたい。
少年は体格のいい強面の壮年の騎士に、頭へ派手な拳骨を一発入れられていたの。
ふふ、ざまあみろだわ。
あとから現れた騎士はわたし達の前に向き直ると、馬鹿者小姓、もとい生意気小姓を押さえつけ頭を下げる。
「うちの下っ端が大変失礼な真似を致した。どうぞお許しくだされ、エミリアナ王女殿下」
「あ、あら……」
話の分かる大人の出現にわたしが気をよくしていると、またしても横から影が邪魔してきた。ちょ、ちょっと……。
「お気になさらずどうぞ頭を上げて下さい。殿下はこのようなことではお怒りになどなりません。それにこちらも勝手に鍛錬場に足を踏み入れご迷惑をおかけ致した。お許しくださるといいのですが」
ア、アーサー、あなた主のお株を奪うわけ?
厳つい顔をした逞しい体の騎士は、アーサーと砕けた感じでニヤリと笑い合い、日に焼けた手のひらを差し出してくる。わたしのことはすっかり頭から飛んでしまったみたいだ。
「わたしはアウトライムで団を預かるヘッセンと申す」
「アーサー・ヘルマンです」
主のわたしを無視して二人の騎士はいやに満足げに固い握手を交していた。




