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ユーフェ姉様の部屋は、日当たりの良いアウトライム城の南側にあった。
部屋の中はほのかに甘い香りが漂っていて、それは生まれたばかりの王子様のものだと分かる。
小さな指をきゅっと握って、スヤスヤと眠る可愛らしい王子様の横で、ユーフェ姉様は聖母のように穏やかな笑顔で、わたしを迎えてくれた。
気がつけば、あの結婚式以来会ってなかったのが嘘みたいに、わたし達はすぐに打ち解けることが出来ていた。
「ええぇ? 何を見たって言うのエミリィ、もう一度言って」
姉様はクスクスと軽やかな笑い声を上げる。
わたしは窓際から身を乗り出して、整然と建てられている、まるで作り物みたいに綺麗な城下の街並みを見下ろしていた。
人形の住みかのように小さく見える家々の軒先には、王子様誕生を祝う色とりどりの旗がはためき、あちこちで料理や祝杯が振る舞われているようで、通りには陽気に笑う人々が溢れ、お祭りのような賑わいが出来ている。
わたしは、ベッドの上で微笑む、いずれ国母となる姉様を振り返った。わたしまでお祝いされてるみたいで、なんだかちょっと誇らしいじゃない。
「だからね、このお城ってゴブリンでもいるの、って聞いたのよ」
「ゴブリン?」
「ええ、そうよ」
わたしは鼻息も荒く頷いた。
昨日目撃した、あの小汚い子供。あれは人間ではなく、ゴブリンだったんじゃないの?
アウトライム城ぐらい歴史があって古いお城なら、ゴブリンの一匹や二匹いたって全然不自然じゃないもの。
あれから姿を見てないけど、まさかシャルダン王やわたしに敵意を向けてくるミネア妃になんか聞ける訳ないし、確認のしようがなかった。
あのあと外で待機していた騎士達に、不審な子供について問いつめたんだけど、皆変に言葉を濁して少しも要領を得ないのだ。
けど、見間違いなんかじゃない。断じてない。
だって、わたしだけじゃなく、アーサーもキャリーもルィーズも見たんだから、絶対にいたのよ。
「ゴブリンて良くないことをする妖精でしょう? そんなものがいたなんて噂は聞いたことないし、フィリップから教えられたこともないわ。勿論、わたしだって見たことなんかないわよ」
ユーフェはクスクス笑いを止められないのか、肩を震わせて苦笑している。あまりに笑いすぎたせいで、横の小さな王子がムニャと猫のように鳴いて、少しだけ身じろぎをした。
我が子が動いたことに気がついたユーフェは、わたしから視線を外してベッドの上を見下ろす。
「ふふ、エミリィって少しも変わらないのね。わたしの中ではおませな女の子のままだったけど、今でもそうだと思わなかったわ」
姉様は慈愛に満ちた眼差しで、王子様の柔らかそうな髪の毛を優しく撫でた。子猫のような王子様は、ぐずがることもなくそのままぐっすりだ。それを愛しそうに眺める姉様の、丸く緩んだ頬を見てわたしは思わず口走っていた。
「ユ……、ユーフェは変わったわよねっ」
ハッーー!
し、しまった。遂に出てしまったわ。
わたしは慌てて口を押さえる。
でも、もう遅い。
馬鹿、馬鹿、わたしの軽い口の馬鹿。あれほど言わないでおこう、言っちゃ駄目と思って、出そうになる度に必死に飲み込んでいた一言を、思わず口から滑らせてしまうなんて。
生まれたばかりの王子様のために、城の中へ用意された母子が過ごす部屋へと通されたわたしは、中央に鎮座する大きなベッドの上に身を起こした人物を見た時、あまりにびっくりして二の句が告げなかった。
「ね、姉……さ……ま?」
「そうよ、わたしよ。エミリィ、久しぶりね」
ユーフェはわたしの仰天振りに関心を示さず、ニコニコと福々しい笑顔を見せている。
そう、福々しい笑顔ーー。
ふっくらと丸みを帯びた両頬に、元々優しげに垂れていた目が埋まっているよう。にっこりと曲線を描く小粒な唇の下には、隠しきれない二重の顎が存在感を表していた。
その見事なまでの福々しさは、実はお顔だけにとどまってはいなかった。
お顔と同じように、ううん、それ以上に膨らんだ豊かな胸と、負けないくらい柔らかそうな肩が見える。
ど、どういうこと? ね、姉様、どうして?!
わたしの記憶にいた姉様は、とても可憐な美少女だった。
まるでおとぎ話の主人公のように清楚で優しいお姫様。華奢でか細い手足と、触れたら消えてしまうんじゃないかって言うくらい儚げな笑顔の、まさに生きてる妖精だった。
勿論、この妖精はゴブリンなんかじゃない。可愛い方の妖精だわ、当たり前じゃない。
と、とにかく……そ、それが、それがよ?
この変貌ぶりはいったい何なの? 嘘でしょう。
そこには丸々と丸くなったかつての可憐な美少女、わたしの大事なユーフェミア姉様の変わり果てた姿があったのだ。
「やあねえ、エミリィ。そんなに驚くこと? わたしは二人も子供を生んでるのよ。体型が変わっていたって不思議じゃないでしょう」
姉様は気分を害した様子も見せず、相変わらず微笑を浮かべている。
「だ、だけど……ユーフェ……」
わたしは姉様と違って、なかなか現実に向き直れない。そんなわたしに呆れたのか、ユーフェは意地悪く笑って、チランと流し目を寄越してきた。
「わたしのことより、あなたはどうなの? 聞いたわよ、騎士のアーサーと婚約したんですって」
「バッーー!!」
不意に出てきた名前に、わたしは酷く気が動転した。
「馬鹿じゃないの、あんな人……」
お陰でとんでもない汚い言葉が出てしまう。
アウトライムに来る前、宿で言われた言葉の数々と先日のリシェル紛いのお説教を思い出し、腸が煮えたぎってきた。
あの、勝ち誇った顔を思い出すと、ぶるぶるとどうしようもなく体が震え出す。
も〜、どうしてくれよう。抑えきれないじゃない。
アーサーがこの場にいなくてよかった。今、あの小憎らしい顔を見てしまったら、何を口走ってしまうか分かりはしないわ。
これ以上横柄な説教を聞かされるなんて冗談じゃないもの。
ユーフェはわたしの暴言にも目をつぶって、脳天気な口調でとどめを刺してきた。
「エミリィってば可愛いわね。真っ赤になって憎まれ口をきくなんて、彼を愛してるからでしょう。あなたが幸せそうでよかったわ」
「あっーー」
愛してるですって?
わたしはむせたように咳をしてごまかした。ユーフェはうふふと笑っている。
「ね、姉様……、そ、そんなことより、今は姉様の体のことを……」
わたしは必死で話題を変えてやった。見当違いのことでからかわれるなんて、我慢ならないもの。しかも、あのにっくきアーサーのことでよ。当然でしょ。
「嫌だ、またその話に戻るの」
姉様は心底がっかりしたようにぼやく。
「産後すぐなんだから太ってても当たり前だって言ってるじゃない。わたしは我が子のために、たっぷりと乳を出さなくちゃならないんだから、そうでしょう? それをあなたったら、恐ろしいトロルでも見たような顔をしちゃって……、酷い子ね」
ユーフェは失礼な指摘にも、大らかな笑顔でコロコロと笑った。
無事にアーサーから話が逸れて、わたしはホッとする。
ユーフェの笑顔の中には、繊細な美少女だった面影はどこにもない。
恥ずかしがり屋で、控えめで、あまり自分の気持ちを表さないあの頃のユーフェとは、見た目だけじゃなくて纏う雰囲気もどこか別人みたいだった。
「え? 姉様、乳母はいないの」
姉の外見の他にも、わたしは気になる点を見つけた。
王子妃であるユーフェが、自分の乳で生まれた赤ちゃんを育てるなんて意外な気がしたのだ。
たいていどこの王族でも出産したばかりの妃の体調を気遣い、専用の育児係に乳幼児の養育を任せるものだ。王族だけではなく、ちょっとは名のしれた領主でも同様のことをしている。
なのに、姉様が自分で育児をしていると言ってきたから、驚いたのだった。
でも、そう言えば、この部屋に乳母がいる気配はなかった。姉のベッドには、当然のように王子様が寝かされていて、周りに侍る侍女は子供のような若い娘達ばかり。あの中に乳が出そうな者は、どう見てもいなさそうだった。
「乳母なんて嫌よ。我が子は自分で育てたいの、わたしは!」
朗らかだった顔を強ばらせて、ユーフェは急に態度を硬直させてきた。
「ねえ……さま?」
あまりの変わりように呆然とするわたしの前で、頑なな表情を見せる。
「いや、いやなの、わたしの子なのに」
それから、寝ている王子様をユーフェはいきなり抱き寄せて、声を絞り出した。
「だって、わたしは母親よ。母親が子供を育てるのは普通のことでしょう」
王子様は突然強い力で抱きしめられびっくりしたのか、火がついたように泣き出す。
ぎゃあぎゃあと泣き喚く赤ちゃんの声で侍女達は慌てだし、部屋の中は騒然とした様相になってきた。
「ね、姉様、落ち着いて……、ど、どうしたの?」
こ、これって、もしかしてわたしのせいかしら?
わたしが不用意な一言を口にしたから、姉様はおかしくなってしまったの……?
おろおろと困り果てた侍女達が、わたしを責めるように見上げてくる。
そ、そうね、なんとかしなきゃ、わたしのせい……みたいだし。取りあえずは姉様に謝らなくちゃ駄目よね。
「ご、ごめんなさい。わたしは決して、姉様を非難した訳じゃないの。ちょ、ちょっと疑問を感じただけで……。ね、ねぇ、王子様を離してあげて、びっくりしているわ」
苦しそうにもがく王子様を楽にしてあげたくて、わたしは二人に近づいた。その時ーー。
「母様から離れろ、この空気も読めない馬鹿女!」
突然大きな音がして扉が開き、昨日の小汚い子供が部屋へと転がるように飛び込んで来たのだった。




