1
「ごらんください、エミリアナ様。あんなところに農夫の夫婦が」
騒ぎ立てるルイーズの声が、わたしの耳を直撃してくる。
「あら、本当。何してるのかしら、あんな木陰に身を寄せ合って」
キャリーがすかさず身を乗り出すようにして、ルイーズのいる窓枠に近づいた。
するとキャリーに潰された形となったルイーズが「ちょっと、押さないでよ。狭いじゃないの」と迷惑げに眉をひそめ、「何よ、あなたが見ろと言ったんでしょう」などと反撃してきたキャリーと、一瞬で険悪な雰囲気になる。
二人はわたしの前で、醜い言い争いを始め出した。
わたし達は現在、アウトライムへ向けて出発した馬車の中にいる。
わたしと二人の侍女の女性陣は一緒に馬車の中に陣取り、その周りを我が護衛騎士の男集団が囲っているのだ。集団と言うのは言い過ぎかもしれない。なんてったって本当に少人数の、侘びしい編成だもの。
その少ないメンバーの中身は、アーサーとキャリーの婚約者であるジャン、それから年若い数人の騎士が同行しているだけ、なのよね。
彼らは馬車に積みきれなかったアウトライムへの献上品もそれぞれ持たされてるし、なんて言うか、そこはかとな〜く所帯染みた雰囲気が漂ってるの。
「キャリー、あなた最近ちょっと肥えたんじゃなくて? 気をつけないとそれ以上太ってしまったら、婚約者に嫌われてしまうわよ。少し節制したらどう?」
「まあ、ルイーズこそ、貧相なその胸元をなんとかしたらどう? そんなんじゃあ女だと認識してもらえることなく、婚期も遠退く筈よね。頑張らないと」
わたしは目の前でしつこく相手をこき下ろす侍女達から、ため息を吐きつつ目を逸らした。
だってね、はっきり言ってどうでもいいの。
貧乏臭い旅団も、農夫が木陰で何をしてようとも、わたしにとってはどうでもいいのよ。
わたしはそんなことに気を回してる余裕がないの。何故なら、この一月でなし得なければならない、大きな目的があるんだから。
「エミリィ、気をつけて行ってらっしゃい。わたし達の目がないからって、あちらで羽目を外し過ぎないようにね」
城を発つ直前、ハーディアの謁見室にて、母は丸く曲がった目で台詞だけは神妙なことを口にした。
横にいる父には何も言わせない。いつものことだけど、母は完璧にあの場を仕切っていた。
「それは勿論……」
わたしはよそ行きの声で、嫁入り前の娘に相応しく、節度ある返答を返そうとした。
そうしたらーー。
「でも、あなた達は若いのですものね。ユーフェミアに続いて新たにおめでたい話を聞かされたとしても、わたし達は一向に構わなくてよ、ねぇ、陛下?」
そう言って苦い顔をする父の口を封じ、母はわたしと隣に控えるアーサーを見比べ出す。
「だからもしも、もしもそんな事態となったとしても、今回は特別に許します。分かりましたね、アーサー?」
ほほほほほと嬉しそうに高笑いをした母は、あろうことかわたしにではなく、アーサーに水を向けてきた。
「ご配慮、傷み入ります」
横で泡を食いそうなわたしと違い、年上の騎士はにこやかに微笑んで、それを軽くかわしていたのだけど。
わたしはあの時、アーサーの母に負けない嘘臭い笑顔に心臓がキリキリと軋み、生きた心地すらしなかった。
ええ、まさに。まさに寿命が縮む思いだったわよ。これじゃ命がいくつあっても足りやしない。
あのあと逃げるようにハーディアを出てきて正解だった。
お母様にしろ、キャリー達にしろ、のんきな人達は気楽でいいわ。こっちはそれどころじゃないってのに。
「わたしの胸が何だって言うの? 胸がなくてもわたしは立派な女よ。あなたのように逞しい体つきにはなりたくないわ!」
ルイーズのヒステリックな声が、わたしの夢想を突き破ってくる。
あ〜あ、しつこいわね、まだやってるの?
いい加減、窮屈な馬車の中にずっと閉じ込められたままだから、ストレスでも溜まっているのかしら。
「ふふん、負け惜しみなんか何ともないわ。何回でも気の済むまでおっしゃいな。でもね、かわいそうなルイーズに本当のことを教えてあげる。殿方が好む女がどういうものかってことをね」
キャリーはルイーズの言うことに、全然堪えた様子がなかった。それどころか得意げに胸を反らして、余裕たっぷりの笑顔を見せた。
「あのね、それは痩せたギスギス女じゃないの。柔らかくて暖かくて、少しふっくらしたぐらいの、ズバリ抱き心地がいい女なのよ!」
「なっ?!」
ルイーズとわたしが驚愕して固まる中、キャリーはこれ見よがしに自分の胸元を見せつけてくる。
言われてみれば彼女の胸、なんだか大きくなってるわ。太ったと言うよりは、胸にお肉がついたってこと?
キャリーの迫力に気圧されてしまい、ルイーズは真っ赤になったまま何も言えなくなった。
やはり勝者は、婚約者がいるキャリーのようね。相手のいないルイーズには、何の反論も出来ないみたい。
「ジャンなんか、わたしがちょっとこの両胸を腕に当てて、『お願いよ、ジャン』って甘えて言うと、もうメロメロのイチコロよ。何でも言いなりになるんだから」
ーーな、何ですって?
わたし達の食い入るような視線に気づいているのかいないのか、キャリーは優越感に浸って惚気を言い出す。
「分かった? 恋人のいないルイーズ。男を虜にするのは、色気よ色気。これに勝るものはないの」
「な、なんてはしたない……。殿下の御前よ、キャリー!」
耐えきれなくなったらしいルイーズが、赤面したまま弱々しく叫んだ。
「構わないわ、ルイーズ」
ルイーズの抗議の声を遮って、わたしはキャリーの豊かな胸に顔を近づけた。
自分のうっす〜い胸元と見比べる。悲しいほどに差があった。
「キャリー、今の話は本当なの?」
いきなり割り込んできたわたしに驚いて、キャリーとルイーズが喧嘩も忘れ顔を見合わせている。わたしはさり気なさを装い質問を続けた。
「ねえ、その話。もう少し詳しく聞かせてくれないかしら?」
男を虜にする方法ですって。これは対アーサー戦に役立つ情報よ。
***
わたし達の一行は、日が落ちる前にアウトライムとの国境にある小さな町に着いた。
今夜はこの町で宿を取る。
少ない編成で良かったことは、どんな小さな町でも全員が横になれる場所を、すぐに見つけられるってことかしら。
「ーーと言うことで、明後日にはアウトライム城へ到着する予定です。あちらへは既に早馬で知らせを送っております」
アーサーの報告にわたしは頷く。
「分かりました。今夜は疲れたから、わたしはもう休みます。あなた達も、疲れたでしょう。もうゆっくりするといいわ」
わたしはキャリー達が整えてくれた寝台の前で、早く下がるようアーサーと二人の侍女に言い渡した。
「承知しました。それではエミリアナ様、お休みなさいませ」
キャリーとルイーズが一礼をして、部屋から出て行く。あとはアーサーだけね、わたしは彼にも早く出ていけと目線を送った。
ところが、アーサーは一向に動こうとしない。わたしの目配せに気づいている筈なのに、いつまでもじっとしているのだ。
「何故あなたは出て行かないの、アーサー・ヘルマン?」
痺れを切らしてわたしは、彼を問い詰めてやった。
主が寝たいと言ってるのよ。さっさと出て行くべきじゃないの。
アーサーはにこりともせず平然と口にする。
「何故? わたしの休む部屋もこの部屋なのですよ、殿下」
はあ?
「今、何て言ったの?」
聞き間違いかしら。この部屋で休むとか、寝言を言ってなかった?
アーサーは腕を組んで、気だるげに壁に寄りかかった。それから、眠たげな眼差しを隠しもせずわたしを見つめてくる。
「どうやら宿の主人が、わたしと殿下が婚約していると小耳に挟んだようですね。気を回して同じ部屋にしてくれたらしい。この部屋はこの宿で一番の子宝部屋だそうですよ。新婚夫婦が好んで利用する店主自慢の一等室だそうです」
「新婚ふう……ふ?」
あまりの情報にわたしは不抜けた声を漏らすだけ。
確かにここは鄙びた田舎の宿にしては、広くて快適な部屋だと思うわ。わたしが横になる予定の寝台も、一人で使うには大き過ぎる代物だ。
だけど、子宝? 新婚夫婦って……。
わたしはやんごとなき姫君なのよ。いくらなんでも結婚前に男性と寝室を共にするのは、許されるわけないでしょうが。
「何を今更慌ててらっしゃるんですか、エミリアナ様。婚約を果たした男女には、世間もこの通り甘いのですよ。わたしが今夜この部屋に泊まっても、誰も何も言わないでしょう。勿論、キャリー殿も、少々うぶなルイーズ殿もね」
「ちょっと、アーサー。あなたまさか、居直る気?」
非常識にも程がある。
わたしは歯ぎしりしながら、意地悪くこちらを見返す騎士を睨みつけた。
「居直る、ですか。さて、どう致しましょう……?」
アーサーは澄まし顔のまま、顎に手を当て物思いにふける振りをする。なんて鼻につく、白々しい仕草なんだろう!
「いい加減にして、アーサー……」
その時、わたしの頭に、突然キャリーの話がパッと浮かんだ。ほら、あの色気がどうのこうのとか、キャリーが自慢げに語っていた話よ。
「ねえ、アーサー」
わたしは腹立ちを抑え、満面の笑みを顔に貼りつける。
目前の騎士がぴくんと目を細めるのが見えた。
「ちょっと、折り入って話があるの」
ええと、キャリーは何て言ってたかしら。確か殿方を虜にするのは胸を腕に当てて甘えればいいとか、そんなことを言ってたわよね。
わたしはちろりと自分の平坦な胸を一瞥した。
うーん、いまいちだけど大丈夫よ。こんなの全然たいした問題じゃないわ。
アーサーは近づくわたしを警戒して凝視している。灰褐色の瞳を見開き、重罪人でも検分するかのような恐ろしい目つきのまま、その眼差しを逸らそうともしない。
あのね、忘れているようだけど、わたしはあなたの主なのよ。何なのよその態度、不愉快にさせるわね。
いいわ、アーサー。相手にとって不足はなし。
あなたの氷のようなガチガチの心を、わたしの色気で溶かしてあげるから。
「いい機会だから少し話をしない? わたしの隣に来てほしいの」
わたしは彼の腕にすり寄り、上目遣いで見上げた。
アーサーは身じろぎもせず、まるで彫像のように壁にすがった姿勢のままだ。
「ねえ、アーサー。少し停戦しましょうよ。考えたのだけど、わたし達お互いを誤解していると思うの。そうよ、もっとよく知り合うべきだわ。わたしはあなたのことをもっと知りたいし、わたしのことも同じように知ってほしいの」
わたしはキャリーの言ってた通り、動かない彼の腕にしがみついて、かわいらしく小首を傾げて見せた。
「殿下……」
アーサーがふうと息を吐いて、今まで聞いたこともないような甘い声を出す。
「なあに、アーサー?」
わたしは顔を上げて、彼の潤んだ眼差しと目を合わせた。心臓がどくどくとうるさく鳴っていて、なんだか彼に恋をしているみたい。
「ーーまさかと思うが、それでわたしを誘惑しているおつもりか?」
アーサーは涙の浮かんだ目を細め、愉快そうに唇を曲げると、小馬鹿にしたように言葉を吐き出す。
彼はクルリと体勢を変え、あっという間にわたしを壁際に閉じ込めた。それから、意地の悪い顔で上から悠然と見下ろしてくる。
びっくりした。近すぎる距離に息も出来そうにない。
「ちょっ……、何をするの」
アーサーの両手が邪魔して、壁と彼の間からわたしはどうしても抜け出せなかった。
「は、離しなさいよ! 人を……人を呼ぶわよ」
暴れるわたしに彼はのんびりと応える。
「どうしてですか? わたしを知りたいと言ったのは、あなたの方でしょう?」
わたしはカッと顔が熱くなった。アーサーはそんなわたしの様子を、にやにやと不真面目な顔で観察していた。
「だから一生懸命なあなたに免じて、わたしのことを教えて差し上げようと思ったのに」
「あ、あなたのこと……?」
「ええ、わたしに色仕掛けは効きませんよ」
彼は歌うようになめらかな声で囁く。その声を拾い集めた耳の奥が、何故だかぞわりとしてくすぐったかった。
「わたしはほとんどの女性が苦手なんです。むしろ、嫌っていると思ってくださって構いません」
「あ、あなた」
喉がカラカラに渇いて、潰れたような酷い声しか出ない。
「まさか、お、男の人が好きだとか言うんじゃないでしょうね……?」
「ハッーー!」
アーサーは脱力したように声を上げて俯くと、クックッと肩を震わせ笑い出した。
「ほとんどとは言いましたが、全員だとは申しておりません。信じられないかもしれませんが、俺にだって好ましく思う理想の女性像ぐらいありますよ」
「ーーそれはどんな人なの?」
恥ずかしさをごまかすために、わたしは声を荒げて聞き返す。
彼は笑うのをやめて、わたしの鼻先に触れるか触れないかの距離まで近づいてきた。
息が触れ合うかのような近い距離。こんなに接近したことなど、今まで誰とも一度だってない。
「まず、体は丸みを帯びてふっくらとしている方がいい。目は可愛く垂れていて小さい方がいい。鼻は小振りで唇も小振りな方がいい。そして一番大事なのは、ーーおとなしくて物静かな性格です」
矢継ぎ早に繰り出される条件に、すっかり度肝を抜かれてしまったわたしは、口をきく気力も残っていなかった。
アーサーは久しぶりに柔らかな微笑をわたしに向ける。彼の本性を知らなかった以前のわたしが、すっかり騙されていた優しい笑顔。
「つまり、どこもかしこも主張し過ぎるあなたとは、全く逆の女性なのですよ、エミリアナ様」
勝ち誇ったように笑うアーサーに、悔しいことにこの時わたしは、何一つ言い返せなかったのだ。




