……食いしばれよ
(やっと退院……思ったより、時間かかってしもたな……)
そんなことを考えながら春は病院を出て、迎えに来ると言っていた兄の元へと向かった。
春が陣内によって額に負った怪我は、決してひどい怪我とはいえないものの、一度は意識を失ったうえに、出血量が多かったため、検査などの為に入院することになったのだった。
(北見……)
春の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんぶ。
北見愛奈……芍薬のようなたおやかとした立ち姿に抜群のスタイル、腰の辺りまである流麗な長い黒髪、目鼻立ちの整った端正な顔立ちは十五歳という年齢には不相応な優雅さを纏う少女。
そんな彼女は、春が入院してから毎日病室に来ては、授業内容を丁寧にまとめたノートを見せたり、学校であった出来事を話してくれていた。
春は自分から話しかけることはなく、愛奈の言葉に相槌を打つか、一言だけ返事をするだけであり、表情も愛想が無かったが、内心では愛奈が自分のところへ何度も来てくれることが嬉しかった。
「よっ、久しぶりだな」
「おにぃ……悪いな、わざわざ迎えに来てもろて……」
黒塗りの普通車に背中を預けて立つ信は、春に向かって右手をビッと上げる。春は伏し目がちになりながら、迎えに来てくれた信に謝辞の言葉を口にした。
「流石に今日退院する弟を歩いて帰らせるわけにはいかないだろ?ここからだと、家はあまり近くないしな……ま、とりあえず乗れ」
「……おう」
雪のように白い歯を見せて微笑みながらそう言うと、信は車に乗り込む。春もそれに続くように助手席に乗った。
「さってと……今日はドラムでもやってくかな……」
春が退院したその日の夕方、四谷岳は学校帰りにゲームセンターに来ていた。
南高の制服キチッと身に付けた中肉中背の体と、短く切られた爽やかな印象の黒髪に、黒縁眼鏡をかけた特筆するところも無い顔立ちは、どこにでもいる平凡な少年に見える。
「あんまり並んでねえといいんだがな……」
そう呟くと、岳は両替機に向かいながらスラックスのポケットから財布を取り出した。その時……
「おうテメェ……ちょっと聞きてえことあんだけど……」
背後から声を掛けられ、岳はゆっくり振り向く。そこにいたのは、黒い学ランを着た、見るからにヤンキーといった雰囲気の少年たちだった。
(中央の一年か。今は相手にしたくねえんだが……それを許してくれるわけねえよな)
「まずは、外に出てくれるか?」
「……ああ、いいぜ」
四谷が連れてこられたのは、ゲームセンターの裏口近く……二台ほど車が停まっているが、人影は見当たらない。
「それで、聞きてえことってのはなんだよ?」
「俺らの仲間がおっかねえ目に遭わされたんだよ……雪村とかいう南高の一年にな……」
岳を囲むようにして、中央高校の不良たちはニヤニヤと笑っている。彼らの態度に、岳は小さく肩を竦める。その表情には、今の状況に危機感を抱いている感じは見受けられない。
「その腹癒せに、"テメェをボコっていいですか?"って聞こうと思ったんだが……」
リーダー格と思しき少年の顔から笑みが消える。それに呼応するかのように周りの不良たちの顔も険しくなる。それでも、岳は余裕のある態度を崩さない。
「やっぱボコらせてもらうぜ……テメェ、なんか気に入らねえから」
そう言った瞬間、リーダー格の少年は右手を上げた。それを合図に、不良たちは一斉に岳に襲いかかった。
「まったく……回りくどい一年坊だな……」
岳はカバンから手を放す。手から離れたカバンがドサッと地面に落ちたその時……
「おごぉっ!?」
岳から見て左方から向かってきた不良の鳩尾に、春はボディーブローを叩き込んでいた。鳩尾への強烈な一撃に、不良は地面に転がり、腹を抑えながら足をジタバタと動かした。
「いてぇ、いてええええぇ!!!」
そんな彼の姿を見て、岳に向かっていた不良たちの足が止まる。その表情には、一様に驚愕の色が浮かんでいた。
「こういうこと……やりたかったんだろ?やりたくてしょうがないんだろ?そんなツラしてねえでどんどん向かって来い」
楽しくて堪らないといった表情で、岳は不良たちを挑発するように人差し指をチョイチョイと動かした。
「び、ビビんなっ!!行くぞっ!!」
リーダー格の少年は一喝しながら、岳に正面から殴りかかる。
「そうそう、そうこなくっちゃあな……」
「オラァ!!」
リーダー格の少年の握り締めた右手が岳の頬へと向かう。
「……食いしばれよ」
屈むようにして躱した岳は、小さくそう言うと、グッと右の拳に力を込める。
「せいっ!!」
掛け声とともに放たれた拳はリーダー格の少年の顎を正確に捉え、岳は一切の躊躇無く振り抜いた。
「っあ……」
強い踏み込みから放たれたアッパーカット……
その一撃を受けたリーダー格の少年は、膝から崩れ落ちた。
「ああっ!?たいちゃんが!!」
「や、やべえよ……たいちゃんが敵わねえなんて……」
たいちゃんと呼ばれた少年は、倒れこんだまま動かなかった。一度は戦意を取り戻した不良たちの表情が青ざめていく。
「だ、だけど……逃げたりしたら生田さんからなにされるかわかんないし……」
「なにゴチャゴチャ言ってんだ……こっちは来いって言ってんだ……止まってんじゃねえ……」
苛立ちながら岳は不良たちに近づく。不良たちは互いに目で合図を送り、行動を起こした。
「たいちゃんをそのままにはしておけないよな……逃げるぞっ!!」
不良たちは素早くたいちゃんと呼ばれた少年と、鳩尾を抑えて苦しんでいる少年を二人一組で抱えて逃げ出した。
「チッ……ダサいヤツらだな」
不良たちが逃げた方向を向いて岳は舌打ちをすると、カバンを拾った。
「今度はもっと、大勢連れて来いよ。逃げんのも無しだからな……さて、ドラムドラムっと……」
岳は苦笑混じりに呟くと、不完全燃焼な今の心をゲームで燃やし尽くそうと考えながら、歩き出した。