ここは素直に、言うこと聞いときなさい
春が気を失ってからしばらく経った頃、雨足は急速に弱まり、風も止んでいた。
麻芽橋の真下……春は愛奈の膝に頭を乗せて横になっており、陣内たちの姿は既に無かった。
「…………」
愛奈は、まるで我が子を慈しむ母のように春の顔を撫でる。
だが、その表情には悲痛さが滲み出ており、目には涙で潤んでいた。
(愛奈……ん?)
そんな愛奈を、加奈江は悲しげに見つめていた。
その時、河川敷に敷き詰められた石を踏む音が小さく聞こえ、加奈江は振り向く。
振り向いた先では、雨に濡れた黒猫と三毛猫が春を見つめていた。
「……猫?」
「えっ? ……キャッ!!」
加奈江がキョトンと見つめていると、二匹の猫は春の元へ駆け寄り、春の胸元に乗る。
愛奈が春の顔を撫でる手を止めると、三毛猫が愛奈の指に噛み付く。
その痛みに愛奈が思わず手を引くと、二匹の猫は春の顔を舐めだした。
「……大丈夫?」
「う、うん」
心配そうな加奈江の声に、愛奈は三毛猫に噛み付かれた人差し指を咥えながら頷く。
そんな二人を尻目に、二匹の猫は時折春の目を見ながら顔を舐めていた。
「……な、なんなのかしら……」
「さ、さぁ……あぅ……」
二匹の猫を見ながら戸惑う加奈江の呟きに答えながら、愛奈は再び春の顔を撫でようと手を伸ばすが、低く唸りながら威嚇する三毛猫を前に、渋々手を引っ込めた。
「うっ……くぅ……」
「あっ……!!」
その時、春は身じろぎしながら薄らと目を開ける。
すると、心配そうに自分を見つめる愛奈と目が合った。
「…………んぅ?」
「雪村くん……あ、あの……」
目を開けた春は、ボンヤリと愛奈の顔を見つめる。
今にも泣き出しそうな表情の愛奈は、涙を堪えながら春に話しかける。
しばらく黙って見ていた春は、まだボヤけていた意識がはっきりした途端、目を大きく見開く。
「きっ、北見!? ぐっ!!」
春は体を素早く上半身を起こして、背中と膝に強い痛みを感じなて顔を顰める。
春が突然上半身を起こした為、驚いた二匹の猫は飛び退く。
「ダメっ、もう少しジッとしてなきゃ!!」
「い、いや……俺は……」
「……えいっ!!」
春は声を荒げる愛奈にしどろもどろになってしまうが、春が動揺するのにも構わず、愛奈は春の頭を掴み強引に自分の太腿に押し付けた。
「そ、その……もう、大丈夫やから……」
「雪村くん?」
「う……」
頬を赤くしながらなんとか言葉を絞り出した春をムッとしながら見つめる愛奈。
その表情に、春は黙り込むことしか出来なかった。
(愛奈……なんだか、妙に強引ね……)
二人のやり取りを見ていた加奈江は、愛奈がある程度元気になったと感じてホッと胸を撫で下ろしながらも、今度は、普段とは違う愛奈の様子に違和感を感じるのであった。
「雪村くん……あの……」
「北見、鈴原……巻き込んでしもて……すまん」
「えっ……」
膝枕をしてくれている愛奈が口を開くが、春は小さな声で、それでいてはっきりとした口調でそれを遮り、愛奈と、その隣に座る加奈江に申し訳なさそうに 謝罪の言葉を口にした。
そんな春の痣だらけな顔と、何処か悲しげな光が宿っている瞳を見て、愛奈は胸に刺すような痛みを感じてしまう。
「よっ……ぅ……」
春はゆっくりと体を起こして立ち上がり、フラつきながら愛奈たちに背を向けて歩き出そうとする。
「ちょっと待って!」
「……!?」
河川敷から立ち去ろうとする春の背中に、愛奈が大きな声をぶつけ、春は一瞬驚きから体を震わせると足を止める。
「雪村くん……手当てだけでもしたいから、私の家に……」
「そんなん、別にええ……って……」
愛奈の言葉は、またしても春に遮られる。
すると愛奈はすぐさま立ち上がり、春の手を両手で掴んできた。
「よくないよ……私の家、もう少しだけ歩いたところだから……だから……」
「……せやけど……」
「ううぅ……」
手を掴んで自分の顔を見つめる愛奈の目が潤んでいることに気づくが、自身の喧嘩に巻き込んだうえに、手当てまでしてもらうのは悪いと思い春はなかなか首を縦に振らない。
「あ、愛奈……雪村は大丈夫だって言ってるから……ん?」
加奈江は愛奈の様子がおかしいと思い止めに入ろうとするが、愛奈を間近で見たとき、愛奈に感じた違和感の正体に気づく。
(あっ……そっか、そういうこと……)
「雪村……ここは素直に、言うこと聞いときなさい」
「鈴原……」
苦笑を浮かべた加奈江と、自分の手を掴んで放そうとしない愛奈を交互に見ながら春は考え込むが……
「わ……わかった……」
結局断り切れず、愛奈と加奈江について行くことにしたのだった。