ありがとうな……
冬樹たちが出て行った後の屋上で、幸いすぐに鼻血が止まった春はフェンスに背を預けて腰を降ろしていた。
その隣には、春の顔を微笑みながら見つめる愛奈が行儀良く正座をしている。
「はい、お弁当」
「…………おう」
「……あっ……」
春が愛奈から差し出された自分の弁当袋を受け取ったとき、五時限目の始業五分前、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「……もう、そんな時間なんか……」
(飯……食い損ねた……)
弁当袋を開くこともせず、春は立ち上がり屋上を出ようとする。
「待って……食べないの?」
「……食べる時間、無いやろ……」
突然、愛奈が春の手首を掴んできた。
春は愛奈の突然の行動に驚きながらも、それを顔に出さずに落ち着いて答える。
「いいよ、休んでて……」
「……けど……」
「先生には、私から言っておくから……ね?」
「うっ……」
自分をまっすぐに見つめてくる愛奈の瞳に、春はたじろいでしまう。
結局、春は元の場所に腰を降ろした。
「じゃ、私は行くから……ゆっくり食べててね?」
「……おう……」
屋上の出入口で小さく手を振ると、愛奈はドアを開けて屋上を出た。
(北見……ホンマ、ええ奴やな……)
愛奈が出て行った後のドアを見つめて、春は微笑を浮かべる。 そこでふと、春は入院した日から考えていたことを思い出す。
(いろいろとありがとうて……言おう思とったのに……また、言いそびれてしもた……)
病院に運ばれた自分を心配してくれたこと、毎日のように見舞いに来てくれたうえに、勉強まで教えてくれたこと、退院した自分に、"おめでとう"と言ってくれたこと……そして今も……
春は一言、感謝の言葉を言いたいと思っていた。だが、愛奈の顔を見るとどうしても伝えたい言葉が出てこなかった。
(……教室戻ったら言おう。今度こそ、ちゃんと……ん?)
そこまで考えたとき、学校指定のスラックスのポケットに入れていた携帯電話が小刻みに震えた。
いったい誰なのかと思い、春は黒一色のストラップの着いていない折りたたみ式の携帯電話を開き、誰からの発信か見るが、ディスプレイには番号だけが表示されていた。
春は恐る恐る、通話ボタンを押して、耳に当てた。
「……はい……」
『もしもし、雪村くん。私だけど……』
「……えっと……」
スピーカーから聞こえたのは、今しがた屋上を出て行ったクラスメイトのものだった。
なぜ、いきなり愛奈から電話がかかってきたのかわからない春は、言葉が出なかった。
『驚かせちゃったよね?ごめんね……』
「いや、別に……それよか、なんで北見が……」
『あのね、雪村くんのお兄さんに番号を聞いてたの。そのことを教えようと思ってたんだけど、忘れちゃってて……』
そういうことかと、春はなぜ愛奈が電話してきたのかを理解した春は、なるほどといった感じで頷いた。
『じゃあ、登録しておいてね……それじゃ、またあとで……』
そこまで言ったところで、愛奈が電話を切ろうとしたその時だった。
「ま、待ってくれ!!」
『キャッ!……ど、どうしたの?』
春が突然、普段はあまり出さない大声を出す。
初めて聞く春の大声に、愛奈は驚きと戸惑いを感じる。
「あ、えっと……その……」
(あかん……いきなり、なに言うとるんや……)
自分でも今言った言葉が信じ難いと思いながら、なにを言うべきか春は悩む。
『いきなり電話したの……迷惑だったかな……』
「そ、そうやない……」
(な、なんか言わんと……なんか……)
春は、なぜ愛奈を引き止めてしまったかわからないまま、春は悩み続ける。
そして、数分経ってから春の口から出たのは、春が伝えたいと思っていた言葉だった。
「……み、見舞いとか、"退院おめでとう"とか……い、いろいろ、ありがとうな……」
『あ……』
そこまで言うと春はすかさず電話を切り、両手をブラリと下げて溜め息を吐いた。
(言えた……けど、待たしてしもた……すまん、北見……)
感謝の言葉を伝えたばかりなのだが、春は自分がその言葉を言うまで待ってくれた愛奈に、心の中で謝るのだった。