第9話「雪原の誓いと真実の愛」
その夜、黒狼城は猛吹雪に見舞われていた。
視界は白一色で、一寸先も見えない。
イリアは薄い外套一枚を羽織り、城の裏口から外へと飛び出した。
目指すあてなどない。ただ、ここから離れなければという強迫観念だけが足を動かしていた。
『僕がいなくなれば、ガレク様はルシスと戦わなくて済む』
『お母様も助かるかもしれない』
『僕は一人で生きていくんだ。……ううん、死ぬのかもしれない』
雪が容赦なく頬を打ち、体温を奪っていく。
足が雪に埋まり、何度も転倒した。
手足の感覚はとうになくなり、意識が朦朧としてくる。
それでもイリアは進んだ。
遠くに見える森の闇。あそこへ行けば、狼に食われて終わるだろうか。それとも凍え死ぬだろうか。
どちらでもいい。ガレクの温かい手を知ってしまった今、あの孤独な塔に戻るくらいなら、死んだほうがマシだ。
「……さよなら、ガレク様」
イリアがつぶやき、雪の中に膝をついたその時だった。
「――どこへ行くつもりだ」
風の音に混じって、地鳴りのような声が聞こえた。
イリアが顔を上げると、吹雪の向こうから、巨大な影が現れた。
馬に乗ったガレクだ。
彼は馬から飛び降りると、雪を蹴散らしてイリアのもとへ駆け寄ってきた。
その顔は鬼のように険しく、金色の瞳が怒りに燃えている。
「へ、陛下……どうして……」
「どうしてだと!? 俺の番が家出したのに、寝ていられるわけがないだろう!」
ガレクはイリアの腕を掴み、強引に引き立たせた。
その手は震えていた。寒さのせいではない。恐怖のせいだ。失うことへの恐怖。
「放してください! 僕は……僕は戻らなきゃいけないんです! 僕がいると、あなたに迷惑がかかる! ルシスは僕を使ってあなたを……!」
イリアが必死に叫ぶと、ガレクはいきなりイリアを抱きすくめ、その唇を塞いだ。
乱暴で、しかし切実な口づけだった。
冷え切った唇が、ガレクの熱で溶かされていく。
息ができなくなるほど深く、長く、口付けられたあと、ガレクはわずかに顔を離した。
「馬鹿者」
ガレクの声が震えている。
「迷惑? 利用される? そんなこと、最初からわかっている。俺が誰だと思っている。ヴォルグの皇帝だぞ。小国の脅しごときに屈する男に見えるか?」
「でも……お母様が……」
「それも嘘だ。調べはついている。お前の母親は、お前が産まれた直後に亡くなっている」
「え……?」
イリアは呆然とした。
母が、死んでいる? じゃあ、あの塔からたまに見かけた女性は?
「あれは乳母だ。お前の父は、お前を支配するために嘘をつき続けていたんだ。お前には帰る場所などない。……いや、違うな」
ガレクはイリアの頬を両手で包み込み、視線を合わせた。
雪が二人の肩に降り積もる。でも、今のイリアには寒さを感じなかった。
「ここが、お前の帰る場所だ。俺の腕の中だけが、お前の居場所だ」
その言葉を聞いた瞬間、イリアの中で張り詰めていた何かがプツンと切れた。
自分を縛っていた「呪い」が、ガレクの圧倒的な「愛」によって粉砕されたのだ。
同時に、イリアの身体から、再びあの甘い香りが爆発的に溢れ出した。
「傾国のオメガ」のフェロモン。
しかし今回は、暴走ではなかった。
それは明確な意志を持って、ガレクだけを包み込み、癒やし、力を与えるための「祝福」の香りだった。
「……いい匂いだ」
ガレクがうっとりと目を細め、イリアの首筋に顔を埋める。
周囲の雪が一瞬にして溶けたかのような錯覚を覚えるほどの熱気。
「お前のこの力、国一つ傾けるほどの魔性だ。だが、俺は傾かない。俺だけが、お前を受け止められる」
「はい……ガレク様……」
イリアはガレクの背中に手を回し、しがみついた。
もう迷わない。
たとえ世界中を敵に回しても、この人のそばにいたい。
その時、暗闇から数人の男たちが現れた。
ルシスの刺客だ。イリアを連れ戻すために待ち伏せしていたのだろう。
「そこまでだ、皇帝! そのオメガを渡せ!」
男たちが剣を抜く。
しかし、ガレクはイリアを抱いたまま、振り返りもしない。
ただ、金色の瞳だけをギロリと向けた。
「……邪魔だ」
一言。
それだけで十分だった。
ガレクから放たれた覇気――アルファとしての圧倒的な威圧感が、衝撃波となって刺客たちを襲った。
男たちは悲鳴を上げることもできず、白目を剥いてその場に倒れ込んだ。気絶している。
剣を振るうまでもない。王者の風格だけで、雑魚を制圧したのだ。
「帰るぞ、イリア」
ガレクは何事もなかったかのようにイリアを馬に乗せ、自分もその後ろに飛び乗った。
広い背中が、冷たい風を防いでくれる。
イリアはその背中に頬を押し付け、深く息を吸い込んだ。
針葉樹と鋼の香り。
それが、自分を守ってくれる最強の盾だと確信しながら。
「……愛しています、ガレク様」
風に消えそうな小さな声でつぶやくと、ガレクの背中がピクリと反応した。
彼は何も言わなかったが、馬の手綱を握る手に力が入り、そしてイリアの腰に回された腕が、いっそう優しく強くなったのがわかった。
雪はまだ止まない。
けれど、二人の行く先には、確かな光が見えていた。




