第8話「故郷からの黒い手紙」
その日の午後、城内の空気が一変した。
イリアが図書室で本を読んでいると、廊下が騒がしくなったのだ。
普段は静粛なはずの城内で、兵士たちが慌ただしく走り回る音が聞こえる。
不安に駆られて廊下に出ると、顔色の悪い侍女と鉢合わせた。
「イリア様! お部屋に戻っていてください!」
「な、何があったの?」
「ルシス国からの……使者が……」
その言葉を聞いた瞬間、イリアの血の気が引いた。
ルシス。あの悪夢のような故郷。
なぜ今になって? 自分はもう捨てられたはずなのに。
イリアは制止する侍女を振り切り、謁見の間へと走った。
重厚な扉の隙間から、怒号が聞こえてくる。
「ふざけるなッ! あの時、貴様らはイリアをゴミのように捨てたはずだ!」
ガレクの声だ。いつもの冷静さをかなぐり捨て、激情を露わにしている。
イリアは息を潜めて中を覗き込んだ。
広間の中央には、見覚えのある男が立っていた。
ルシスの宰相だ。狡猾で、いつもイリアをいじめていた兄の腰巾着のような男。
彼は丁寧すぎるほど丁寧な態度で、巻物を広げていた。
「誤解でございます、皇帝陛下。我々はイリア様を捨てたわけではありません。一時的に、友好の証としてお預けしたに過ぎません。ルシスの国王陛下は、愛する息子が恋しくて夜も眠れないと仰せです」
「……どの口が言う」
ガレクの殺気が膨れ上がり、室内の温度が急激に下がる。
しかし宰相は動じない。むしろ、薄ら笑いを浮かべている。
「それに、我が国の第二皇子が病に伏せっておりましてな。占い師によれば、双子の弟であるイリア様がそばにいれば回復すると。……実の兄を見捨てるような薄情な真似は、イリア様にはなさいませんでしょう?」
嘘だ。
全部、嘘だ。
兄は自分を嫌っていた。病気になったとしても、自分がそばにいたら「お前のせいで悪化した」と罵るに決まっている。
それに、自分と兄は双子ではない。年齢も違う。そんな基本的な嘘をついてまで、何が目的なのか。
『まさか……僕のオメガとしての特異な力に気づいたの?』
先日の一件。イリアがフェロモンを暴走させた夜のこと。
あの情報は箝口令が敷かれたはずだが、どこからか漏れたのかもしれない。
もしそうなら、彼らはイリアを「兵器」として利用するために取り戻そうとしているのだ。
「断る。イリアは渡さん」
ガレクが言い放つ。
すると、宰相はわざとらしい溜息をつき、懐から一枚の封筒を取り出した。
「そうですか。では、この手紙をイリア様にお渡しください。お母上からの、涙ながらの手紙です。『もし戻らなければ、母は悲しみのあまり命を絶つかもしれません』と」
イリアの心臓が早鐘を打つ。
母。
記憶の中の母は、いつも遠くから悲しげな目で自分を見ているだけだった。助けてくれたことはない。でも、いじめたりもしなかった。
彼女が人質に取られているとしたら?
ガレクは手紙を受け取ることなく、指先から青白い炎を出してそれを焼き尽くした。
「そんな紙切れに価値はない。……失せろ。これ以上、俺の庭を汚すなら、その首をルシスへ送り返してやる」
宰相は初めて表情を強張らせ、慌てて逃げ出していった。
広間に静寂が戻る。
ガレクは肩で息をしていた。その背中は、怒りと、そして何か得体の知れない焦りに震えているように見えた。
イリアは扉の影で立ち尽くしていた。
ガレクは守ってくれた。
けれど、宰相の言葉が呪いのように耳に残る。
『母は命を絶つかもしれません』
もし、自分のせいで誰かが死ぬとしたら。
ガレクに迷惑がかかるとしたら。
ルシスは小国だが、卑劣な手段を使うことにかけては天才的だ。ガレクに毒を盛るかもしれない。寝首を掻くかもしれない。
僕がいなければ、ガレクは安全なのに。
「……イリアか」
いつの間にか、ガレクがこちらを見ていた。
その瞳は、先ほどの修羅のような色は消え、悲痛なほどに優しかった。
イリアは動けなかった。
ガレクが近づいてくる。
いつもなら嬉しいはずのその足音が、今は怖かった。
彼を愛してしまったからこそ、彼を巻き込みたくない。
イリアの本能が、警鐘を鳴らしていた。
このままここにいてはいけない。
自分は「不吉な子」なのだから。
「聞いていたのか」
ガレクが目の前に立ち、そっと手を伸ばしてきた。
イリアは反射的に、その手を避けて一歩下がってしまった。
ガレクの手が空を切る。
その瞬間の、ガレクの傷ついたような顔を見て、イリアの胸が張り裂けそうになった。
「ごめんなさい……」
イリアは踵を返し、その場から走り去った。
背後でガレクが名前を呼ぶ声がしたが、振り返れなかった。
振り返れば、二度と離れられなくなる。
それが、破滅への入り口だとわかっていても。




