第6話「月夜の悲鳴と甘い毒」
平穏な日々は、唐突に揺らいだ。
黒狼城に来て数日が過ぎた、ある満月の夜のことだった。
イリアは汗びっしょりで目を覚ました。
心臓が早鐘を打ち、呼吸がうまくできない。
夢を見たのだ。
暗い塔の中。鉄格子の向こうで、兄が笑っている。父が冷ややかな目で見下ろしている。
『お前はいらない子だ』
『生贄になれ』
『死んでこい』
無数の声が頭の中で反響し、イリアの心をえぐっていく。
「はぁ、はぁ……っ!」
イリアは胸を押さえて起き上がった。
ガレクが外してくれた首輪の感触が、まだ残っているような気がして、何度も首をさする。
怖い。
ここは安全なはずなのに。ガレクが守ってくれるはずなのに。
心の奥底に染み付いた恐怖は、そう簡単には消えてくれない。
その時、異変が起きた。
イリアの身体から、かつてないほどの熱が吹き出したのだ。
発情期ではない。もっと根源的な、魂が叫び声を上げるような熱。
それと同時に、甘い、とろけるような香りが部屋中に充満した。
それは熟しきった果実のようであり、人を狂わせる麻薬のようでもあった。
『な、なに……これ……?』
イリア自身も、自分の身体から発せられるその匂いに戸惑った。
今まで「カビ臭い」と言われてきた自分のフェロモンとは、まるで違う。
ドアの外で、ドサッという音がした。
見張りの兵士が倒れた音だ。
さらに、遠くからざわめきが聞こえてくる。
「なんだ、この匂いは……!」
「頭が、くらくらする……」
「オメガか? どこだ、どこにいる!」
城中のアルファたちが、理性を失いかけている。
イリアの放つフェロモンは、壁を突き抜け、城全体を侵食し始めていた。
これが、伝説の「傾国のオメガ」の力。
本人が恐怖や絶望を感じた時、その感情を守るために、周囲のアルファを強制的に魅了し、支配下に置くための防衛本能。
しかし、制御できないその力は、ただの混乱と欲望を招くだけの「毒」でしかなかった。
「誰か……助けて……!」
イリアは涙を流しながら、シーツを握りしめた。
自分のせいで、また人が不幸になる。
やっぱり僕は、不吉な存在なんだ。
部屋の扉が乱暴に叩かれる。理性を飛ばした兵士たちが、鍵を壊そうとしているのだ。
「開けろ! そこにいるんだろう!」
「俺の番だ! 俺のものだ!」
獣のような叫び。
イリアは恐怖で動けなくなり、ベッドの隅で震えた。
扉の蝶番が悲鳴を上げ、今にも破られそうになったその時。
「――失せろッ!!!」
雷鳴のような怒声が轟いた。
同時に、凄まじい殺気が廊下を走り抜けた。
扉を叩いていた兵士たちが、悲鳴を上げて弾き飛ばされる気配がする。
一瞬の静寂の後、扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、鬼神の如き形相をしたガレクだった。
彼は剣を抜いており、その切っ先からは殺気が滴り落ちているようだった。
だが、部屋の中に入り、震えるイリアの姿を見た瞬間、その表情が一変した。
「イリア!」
ガレクは剣を放り捨て、ベッドに駆け寄った。
イリアを強く抱きしめる。
その瞬間、イリアを包んでいた甘い毒の香りが、ガレクの放つ清冽な針葉樹の香りに塗り替えられた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
イリアはガレクの胸に顔を埋めて謝り続けた。
ガレクは何も言わず、ただ強く、骨が軋むほど強く抱きしめ続けた。
不思議なことが起きた。
ガレクのフェロモンがイリアの体内に入り込むと、暴走していた熱が嘘のように引いていったのだ。
二人のフェロモンが混ざり合い、中和され、穏やかな「共鳴」へと変わっていく。
「……大丈夫だ。俺がいる」
ガレクの声は、さっきの怒号が嘘のように優しかった。
彼はイリアの背中を、赤子をあやすようにポンポンと叩く。
「怖い夢を見たんだな。……よしよし、もう大丈夫だ」
イリアのフェロモンに当てられ、正気を失いかけたはずなのに、ガレクだけは平然としていた。
いや、平然としているわけではない。彼の瞳の奥には、どろりとした暗い情欲の炎が見える。
けれど、彼は強靭な精神力でそれをねじ伏せ、イリアを守ることを最優先にしていた。
「お前の匂いは……強すぎる。並のアルファなら発狂していただろう」
ガレクは汗に濡れたイリアの髪をかき上げた。
「だが、俺には効かん。……いや、効きすぎるからこそ、俺以外には渡せん」
ガレクはイリアの額に自分の額を押し当てた。
金色の瞳が、至近距離でイリアを射抜く。
「安心しろ。お前のその魔性ごと、俺が愛してやる。お前がどんなに世界を狂わせようと、俺がその世界ごとねじ伏せてやる」
その言葉は、あまりにも傲慢で、そして頼もしかった。
イリアは張り詰めていた糸が切れ、ガレクの腕の中で声を上げて泣き出した。
恐怖の涙ではない。安堵の涙だ。
この人は、僕の「毒」すらも受け入れてくれる。
この世でたった一人、僕を僕として見てくれる人。
その夜、ガレクは朝までイリアを離さなかった。
二人の香りが溶け合った部屋には、もう誰も近づくことはできなかった。
それは、最強の皇帝と、傾国のオメガが、真の意味で「番」としての絆を結び始めた夜だった。




