第5話「首輪の鍵と所有の証」
その夜。
夕食を終え、イリアは再び与えられた寝室に戻っていた。
侍女たちが用意してくれたのは、肌触りの良いシルクのナイトウェアだ。
ベッドに入ろうとした時、コンコンと控えめなノックの音がした。
「入れ」
イリアが答える前に、扉が開く。
現れたのはガレクだった。
彼は湯浴みを済ませたのか、髪が少し濡れ、ラフなガウンを羽織っている。
その無防備な姿に、イリアはドキリとした。昼間の威厳ある皇帝とは違う、一人の「雄」としての色気が漂っている。
「へ、陛下……どうされたのですか?」
イリアがベッドの上で正座をして尋ねると、ガレクは枕元まで歩み寄り、顔をしかめてイリアの首元を指差した。
「それが気になっていた」
指差されたのは、イリアの首に嵌められた金属のチョーカーだ。
ルシスを出発する際、父王によって着けられた「隷属の証」。鍵がなければ外せない仕組みになっており、重くて冷たいそれは、常にイリアの肌を傷つけていた。
「見せろ」
ガレクがベッドに腰掛け、イリアを引き寄せる。
太い指がチョーカーの隙間に滑り込んだ。
イリアは思わず「ひっ」と声を漏らす。金属の縁が擦れて赤く腫れている部分に、指が触れたからだ。
「……やはりか。皮膚が擦りむけている」
ガレクの声が、地を這うように低くなった。
その瞳に、静かな、しかし激しい怒りの炎が宿る。
「こんなふざけた首輪、犬にすら着けさせん。ルシスの王は、実の息子を家畜以下だと思っているのか」
「あ、あの……これは、僕がオメガだから……逃げないようにって……」
「逃げる? どこへ逃げるというのだ。この極寒の地で」
ガレクは鼻を鳴らし、チョーカーの留め具を確認した。
小さな鍵穴がついているが、当然、鍵など持たされていない。
「じっとしていろ」
ガレクは両手でチョーカーを掴んだ。
え、まさか、とイリアが思う間もなく、ガレクの腕に血管が浮き上がる。
ミシッ、という嫌な音がした。
鋼鉄製のチョーカーが、ガレクの怪力によって歪んでいく。
「へ、陛下!? 無理です、そんな……!」
「黙っていろ」
ガレクは歯を食いしばり、さらに力を込めた。
パキィン!
鋭い金属音が響き、チョーカーが真っ二つに割れて弾け飛んだ。
カラン、カランと床に落ちる音。
イリアは呆然とそれを見つめた。父が「絶対に外れない」と言っていた呪縛が、ガレクの手によってあっさりと破壊されたのだ。
「……痛くなかったか?」
ガレクが心配そうに覗き込んでくる。
イリアは首を振った。痛みなどない。あるのは、急に首元が軽くなったという解放感と、信じられないものを見たという驚きだけだ。
「あ、ありがとうございます……」
イリアが震える声で礼を言うと、ガレクは優しくイリアの首筋を撫でた。
赤く腫れた傷跡を、親指で愛おしそうになぞる。
「こんな傷、すぐに治してやる。……だが、勘違いするなよ」
ガレクが顔を近づけてくる。
金色の瞳が、獲物を狙う獣のように細められた。
「あの鉄屑は外したが、お前が自由になったわけではない」
「え……?」
「お前は俺のものだ。ルシスから送られた人質ではなく、俺自身が選んだ、俺だけのものだ」
ガレクの顔が、首筋に埋められる。
熱い唇が、チョーカーがあった場所――喉仏のすぐ横の、脈打つ場所に押し当てられた。
ちゅっ、と音を立てて吸われる。
「んっ……!」
イリアの身体がビクリと跳ねた。
噛みつかれたわけではない。ただ、口づけを落とされただけだ。
けれど、そこから流し込まれた「何か」が、イリアの全身を駆け巡った。
それはガレクのフェロモンだ。
濃厚で、支配的で、それでいて甘美な森の香り。それがイリアの肌に染み込み、マーキングされていく。
「これでいい。鉄の輪よりも、俺の匂いのほうがよく似合う」
ガレクは顔を上げ、満足げに笑った。
イリアは鏡を見なくてもわかった。きっと今、自分の首には赤いキスマークが残り、全身からガレクの匂いが漂っているはずだ。
それは、どんな首輪よりも強力な「所有の証」だった。
「……陛下は、独占欲が強いんですね」
イリアがぼんやりとつぶやくと、ガレクはきょとんとし、それから大声で笑った。
「ああ、そうだ。俺は強欲な皇帝だからな。手に入れた宝は、誰にも触らせんし、見せもしない」
宝。
また、そう呼ばれた。
自分はゴミだと言われ続けてきたのに。
イリアの胸の奥で、冷たく凍りついていた何かが、パリンと音を立てて割れた気がした。
その下から溢れ出してきたのは、温かくて、少しだけ切ない感情だった。
「おやすみ、イリア。明日はもっと広い世界を見せてやる」
ガレクはそう言い残し、上機嫌で部屋を出て行った。
残されたイリアは、首筋に残る熱を指で確かめながら、ベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋めると、そこからも微かにガレクの匂いがした。
その夜、イリアは初めて、悪夢を見ずに眠りにつくことができた。




