第4話「氷雪の庭と皇帝の瞳」
豪華な食事を終えたあと、イリアはふかふかの絨毯の上で立ち尽くしていた。
目の前には、うず高く積まれた衣服の山がある。
どれも最高級の素材で作られたものばかりだ。艶やかなシルクのシャツ、肌触りの良いカシミヤのニット、そして銀糸で刺繍が施された厚手のコート。
部屋に入ってきた侍女たちが、きらきらと目を輝かせながらイリアを取り囲む。
「まあ、なんと可愛らしい!」
「こちらの淡い青色が、イリア様のお髪の色に映えますわ」
「いえ、こちらの純白のほうが、雪の精霊のようで素敵です!」
彼女たちは楽しそうにお喋りをしながら、次々と服をイリアの身体にあてがう。
イリアはされるがままになっていた。
ルシス国では、使用人たちからも「呪われた子」として避けられ、目を合わせることさえ拒絶されていた。だから、こんなふうに温かい言葉をかけられ、世話を焼かれることに慣れていない。
戸惑いと、くすぐったいような気持ちが入り混じり、イリアは小さく身を縮める。
「……どれも似合うな」
ふいに、低い声が降ってきた。
部屋の入り口に、ガレクが腕を組んで立っていた。
侍女たちが一斉に姿勢を正し、深く頭を下げる。
ガレクはゆっくりと歩み寄り、イリアの前に立った。その視線は、新しく着せられた真珠色のチュニックに注がれている。
「少し、大きいか」
「は、はい……でも、温かいです」
イリアが袖から少しだけ指先を覗かせて答えると、ガレクは口元を緩めた。
「まあいい。すぐに肉がついて、ちょうど良くなるだろう。行くぞ、イリア」
「ど、どこへ……?」
「散歩だ。食後の運動も兼ねて、この城を案内してやる」
ガレクはそう言うと、自然な動作でイリアの手を取った。
大きく、分厚い手のひら。
イリアの手は、ガレクの手の中にすっぽりと収まってしまう。
その熱が指先から伝わり、ドクンドクンと脈打つのがわかった。
イリアは驚いて顔を上げたが、ガレクは何でもないことのように前を向いている。
廊下に出ると、そこは黒と銀の世界だった。
黒曜石の柱が並び、高い天井からはシャンデリアが吊るされている。窓の外は相変わらずの吹雪だが、城の中は魔法のように暖かい。
すれ違う兵士や使用人たちは、ガレクの姿を見るなり、壁際に寄って最敬礼をする。
その光景は、ガレクがこの国でどれほどの権威を持っているかを物語っていた。
けれど、彼らが向ける視線は恐怖だけではない。そこには確かな敬意と、そしてイリアに向けられる好奇の目があった。
『敵国の皇子を、なぜ陛下が自ら……』
『あれが噂の生贄か? 随分とひ弱そうだが……』
ひそひそとした気配を感じ、イリアは思わずガレクの背中に隠れるように身を寄せた。
すると、ガレクは繋いだ手にきゅっと力を込めた。
そして、周囲を一瞥する。
ただそれだけで、好奇の視線は霧散し、静寂が戻った。
「気にするな。俺の隣にいれば、誰も手出しはできない」
その言葉は、どんな盾よりも強固にイリアを守ってくれた。
しばらく歩くと、巨大なガラス扉の前に着いた。
扉の向こうからは、湿り気を帯びた温かい空気が漂ってくる。
「入れ」
ガレクに促され、イリアはおずおずと足を踏み入れた。
その瞬間、イリアは息をのんだ。
そこは、真冬の北国とは思えない、緑溢れる楽園だった。
ガラスの天井がドーム状に空を覆い、外の雪景色を遮断している。内部には色とりどりの花が咲き乱れ、小川がさらさらと流れ、見たこともない果実が木々に実っている。
巨大な温室だ。
「……きれい」
イリアは夢遊病者のようにふらふらと歩き出し、一輪の青い花の前で立ち止まった。
故郷のルシスは温暖な国だったが、塔に閉じ込められていたイリアは、本物の花を間近で見たことがほとんどなかった。図鑑の中でしか知らない世界が、今、目の前に広がっている。
「ヴォルグは冬が長い。だから、先代の母君のためにこの温室を作ったのだ」
ガレクが後ろから近づき、静かに言った。
「母は南の出身でな。寒さに弱かった。……お前と同じように」
イリアは振り返り、ガレクを見上げた。
暴君と呼ばれる男の瞳に、ほんの一瞬、寂しげな色が浮かんだ気がした。
この人も、大切な誰かを失ったことがあるのだろうか。
そう思うと、不思議と恐怖心が薄れていく。
「素敵です、陛下。ここは、本当に……天国みたいです」
イリアが素直な感想を口にして微笑むと、ガレクは目を見開いた。
そして、まるで眩しいものを見るように目を細め、手を伸ばしてイリアの銀髪に触れた。
「……笑うと、そうなるのか」
「え?」
「いや。……花よりも、お前の方が美しい」
ストレートな言葉に、イリアの顔がカッと熱くなる。
そんな歯の浮くような台詞、物語の中でしか聞いたことがない。ましてや、自分のような「不吉な子」に向けられる言葉だとは信じられなかった。
けれど、ガレクの瞳は真剣そのもので、嘘をついているようには見えない。
その時、温室の中に微風が吹き抜け、花の香りと共に、ガレクの香りがふわりと舞った。
針葉樹と鋼の香り。
それが、甘い花の匂いと混ざり合い、イリアの鼻腔をくすぐる。
体の奥が熱くなり、膝が震えた。
これは何だろう。この感覚は。
ガレクのそばにいると、心が安らぐと同時に、何かが溶け出していくような甘い痺れを感じる。
「顔が赤いぞ。のぼせたか?」
ガレクが心配そうに覗き込み、額に手を当ててくる。
その手のひらの熱さに、イリアはさらに鼓動を早めた。
「い、いえ……大丈夫です。ただ、少し……良い匂いがして」
「匂い? 花の香りか」
「あ、はい……それと、陛下の……」
言いかけて、イリアは慌てて口をつぐんだ。
アルファに対して「匂いがする」などと言うのは、無礼にあたるかもしれない。しかも、それが「良い匂い」だなんて、まるで誘っているようだと思われたらどうしよう。
しかし、ガレクは怒るどころか、興味深そうに眉を上げた。
「俺の匂いが、わかるのか?」
「は、はい……あの、森のような、落ち着く匂いが……」
ガレクは一瞬、呆気にとられたような顔をし、それから低く笑った。
それは今まで聞いたことのない、心からの楽しげな笑い声だった。
「そうか。森か。……お前は本当に面白いオメガだ」
ガレクはそう言うと、イリアの肩を抱き寄せた。
その力強さに、イリアはもう抵抗しなかった。
温室のガラス越しに、雪が激しく降り続いている。
けれど、この腕の中だけは、春のように穏やかだった。




