第3話「初めての温かいスープ」
目が覚めると、そこは天国かと思うような場所だった。
ふかふかの羽毛布団、肌触りの良いシルクのシーツ。天井には見たこともない精巧な彫刻が施され、暖炉では火がパチパチと心地よい音を立てて燃えている。
部屋全体が、春のように暖かかった。
イリアは飛び起きようとして、身体の軽さに驚いた。
昨夜、お風呂に入れられた記憶がおぼろげにある。侍女たちが数人がかりで、しかし丁寧にイリアの身体を洗い、傷の手当てをしてくれた。その後、温かいミルクのようなものを飲まされ、そのまま眠ってしまったのだ。
「目が覚めたか」
部屋の隅にある椅子に、ガレクが座っていた。
彼は書類のようなものに目を通していたが、イリアが動いた気配を察知して顔を上げた。
昨日のような重厚な儀礼服ではなく、少しラフなシャツ姿だ。襟元が開き、逞しい首筋が見えている。それだけでも、彼の野性的な色気が際立っていた。
イリアは反射的に布団を頭までかぶりそうになったが、慌てて姿勢を正し、ベッドの上で正座をした。
「お、おはようございます……陛下……」
「ああ。気分はどうだ?」
「は、はい。あの、ありがとうございます……こんな、良い部屋を……」
イリアがおどおどと礼を言うと、ガレクは小さくため息をつき、ベッドの端に腰掛けた。
マットレスが沈み込み、彼との距離が縮まる。
また、あの針葉樹と鋼の香りがふわりと漂ってきた。
ガレクはサイドテーブルに置かれていた銀のワゴンを引き寄せた。そこには湯気を立てるスープや、焼き立てのパン、新鮮な果物が並んでいる。
「食え。昨日はほとんど何も腹に入れていないだろう」
言われて、イリアのお腹が小さく鳴った。顔がカッと熱くなる。
しかし、イリアはすぐに手を出せなかった。
故郷のルシスでは、食事といえば使用人の残飯か、カビの生えたパンだった。時には、兄がいたずらで泥や虫を混ぜたものを食べさせられたこともある。
目の前の料理はあまりにも美しく、美味しそうで、だからこそ「罠」ではないかと疑ってしまう自分がいた。
イリアの躊躇を読み取ったのか、ガレクは無言でスープの皿を手に取り、スプーンですくって一口、自分で飲んで見せた。
「毒など入っていない」
そう言って、新しいスプーンをイリアに差し出す。
イリアは自分の浅ましい疑いを恥じ、涙ぐみそうになりながらスプーンを受け取った。
震える手でスープをすくい、口に運ぶ。
濃厚なカボチャの甘みと、ミルクのコクが口いっぱいに広がった。
温かい。とろけるように美味しい。
喉を通ってお腹に落ちると、身体の芯から力が湧いてくるようだ。
「おい、しい……」
思わず声が漏れた。
気づけば、涙がポロポロとこぼれていた。
食事をして「美味しい」と感じたのは、生まれて初めてかもしれない。
ガレクは何も言わず、ただ静かにイリアが食べる様子を見守っていた。
その視線は鋭いが、決して冷たくはない。むしろ、イリアがパンをかじり、果物を口にするたびに、満足そうに目を細め、頷いているようにも見える。
「もっと食え。お前は痩せすぎだ」
ガレクが手を伸ばし、イリアの頬についたパン屑を親指で拭った。
その指先が、イリアの頬にある古い火傷の痕に触れる。それは幼い頃、兄に熱した火箸を押し付けられた時の傷だ。
「……この傷は?」
ガレクの声が低くなった。室内の温度が一瞬で下がったような錯覚を覚えるほどの、静かな怒気が滲んでいる。
イリアはビクリと肩を震わせ、俯いた。
「こ、これは……昔、僕が不注意で……」
「嘘をつくな」
ガレクは強く言い放つと、イリアの顎を指で持ち上げ、無理やり目を合わせさせた。
金色の瞳が、燃えるように揺らめいている。
「お前の身体には、無数の古傷がある。鞭の跡、打撲の跡、火傷の跡……。ルシスという国では、皇子をこのように扱うのが習わしなのか?」
イリアは何も言えず、ただ唇を噛み締めた。
もし本当のことを言えば、故郷の家族が咎められるかもしれない。彼らに愛された記憶はないが、それでも自分のせいで国が戦火に巻き込まれるのは怖かった。
「……言いたくないなら、今はいい」
ガレクはふっと力を緩め、イリアの頭をポンと撫でた。
その手つきは不器用だが、温かい。
「だが、覚えておけ。お前はもうヴォルグのものだ。俺のものだ。誰にも傷つけさせないし、過去の亡霊にも怯えなくていい」
俺のもの。
その言葉が、イリアの胸に深く突き刺さった。所有物としての宣言なのに、なぜかそれが、世界で一番頼もしい約束のように聞こえる。
「さあ、全部食ったら着替えだ。今日は城の中を案内してやる」
ガレクはそう言うと、初めて微かに口元を緩めた。
それは、獣が見せる獰猛な笑みではなく、不器用な男が精一杯見せる優しさの形だった。
イリアは、この人の前では「幽霊皇子」ではなく、ただの「イリア」でいられるのかもしれない。
そんな淡い希望を抱きながら、イリアは残りのスープを大切に飲み干した。
窓の外では、雪が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。




