第2話「氷の暴君と陽だまりの香り」
視線が絡み合った瞬間、時間が止まったような錯覚に陥った。
玉座に座るガレクの瞳が、驚愕に見開かれるのをイリアは見た。
それまでの、虫けらを見るような冷酷な眼差しが一変する。
ガレクは玉座の肘掛けを強く握りしめた。ミシミシという音が静寂の中に響き、硬い木材に亀裂が入る。
周囲に控えていた側近や兵士たちが、一斉に緊張の色を強めた。皇帝の不興を買えば、その場で首が飛ぶこともある。誰もがイリアの運命を憐れみ、あるいは嘲笑うかのように息を潜めていた。
『殺される……』
イリアは恐怖で身体がすくみ、呼吸すら忘れていた。
痩せっぽちで、魅力のない身代わりのオメガだとバレたのだろうか。それとも、単に気に入らなかったのか。
だが、次の瞬間、予想もしないことが起きた。
ガレクが玉座から立ち上がったのだ。
その巨躯が動き出すと、まるで巨大な肉食獣が獲物を見つけたかのような迫力がある。
彼は段をゆっくりと降り、イリアの目の前まで歩み寄ってきた。
近い。あまりにも近い。
見上げなければ顔が見えないほどの長身。分厚い胸板と、服の上からでもわかる強靭な筋肉。圧倒的な暴力の気配に、イリアは反射的に身を縮こまらせ、頭を抱えるようにしてうずくまった。殴られる、蹴られる、そんな痛みを予想して。
しかし、痛みは訪れなかった。
代わりに感じたのは、ごつごつとした大きく温かい手が、そっと頬に触れる感触だった。
「……なんと」
頭上から降ってきたのは、呆然とした、それでいて熱を帯びた声だった。
イリアはおずおずと目を開ける。
目の前には、ガレクの顔があった。彼は片膝をつき、イリアと同じ目線の高さになっていたのだ。あの暴君と恐れられる皇帝が、敵国の捕虜同然のオメガに対してひざまずいている。その異常な事態に、周囲の兵士たちがざわめき出した。
「陛下、いかがなさいましたか? その者はルシスから送られてきた卑しい――」
「黙れ」
側近の言葉を、ガレクは視線すら向けずに遮った。その声には絶対的な王の命令が含まれており、側近は顔を青くして口をつぐむ。
ガレクの意識は、完全にイリアにだけ向けられていた。
彼の金色の瞳が、イリアの銀髪を、赤い瞳を、そして凍えて青白くなった唇を、舐めるように観察していく。そこには嫌悪や軽蔑はなく、まるで希少な宝石を見つけた探求者のような、あるいは飢えた獣が極上の肉を見つけた時のような、強烈な執着が宿っていた。
「お前……名前は」
「い、イリア……です……」
消え入りそうな声で答えると、ガレクは満足そうに目を細めた。
そして、信じられないことに、イリアの首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだのだ。
イリアは悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。熱い吐息が敏感なうなじにかかり、全身に電流が走ったような感覚に襲われる。
「甘い……」
ガレクがつぶやいた。
「雪の中で咲く花のような、いや、もっと純粋な……冬の日の陽だまりのような匂いだ」
『匂い?』
イリアは混乱した。自分にはオメガ特有のフェロモンなどほとんどないはずだ。実家の父や兄からは「埃っぽい」「カビ臭い」と罵られ続けてきた。だからこそ、自分がアルファを惹きつけることなどあり得ないと思っていたのに。
ガレクの鼻先が、愛おしそうにイリアの髪をすく。
その瞬間、イリアもまた、ガレクから漂う香りに包み込まれた。
それは先ほど国境で感じた、針葉樹と鋼の香り。強烈で、男らしく、普通ならオメガを怯えさせるほどの支配的な匂い。けれど、イリアにとってそれは、不思議なほど心地よく、冷え切った身体を内側から温めてくれるものだった。
ガレクはイリアの頬を親指でなぞると、その痩せこけた頬の冷たさに顔をしかめた。
「冷たい。まるで氷のようだ。ルシスの連中は、我が花嫁に外套一枚着せる余裕もなかったのか」
低く唸るような声には、明確な怒りが混じっていた。イリアに向けられたものではなく、イリアをここまで粗末に扱った者たちへの怒りだ。
ガレクは身につけていた分厚い毛皮のマントを脱ぐと、それをバサリとイリアの肩にかけた。
ずしりとした重みと共に、ガレクの体温と香りがイリアを包み込む。
それは今まで感じたことのない、守られているという感覚だった。
「立てるか?」
問われて頷こうとしたが、足に力が入らない。
するとガレクは、何のためらいもなくイリアの身体を軽々と抱き上げた。いわゆる、お姫様抱っこだ。
イリアはパニックになり、慌てて抵抗しようとした。
「へ、陛下!? 汚れます! 僕なんかを下ろして……」
「暴れるな。落ちるぞ」
ガレクは短く言うと、さらに強くイリアを抱き寄せた。その腕は鋼鉄のように硬いが、抱き方は驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだ。
「湯を用意しろ。最上の食事と、一番肌触りの良い寝間着もだ。今すぐに」
ガレクが広間に向かって命じると、呆気にとられていた侍従たちが慌てて走り出した。
皇帝自らが捕虜を抱えて歩くなど、前代未聞の事態だ。
しかしガレクは周囲の視線など意に介さず、大股で歩き出す。
イリアはマントの中で小さくなりながら、目の前にあるガレクの広い胸元を見つめた。
ドクン、ドクンと、規則正しく力強い心音が聞こえてくる。
恐ろしいはずの敵国の皇帝。
なのに、どうしてこんなにも安心するのだろう。
イリアの意識は、温かさと安堵感の中で、ゆっくりと溶けていった。




