第10話「落日の国と銀狼の朝」
イリアが黒狼城に連れ戻された翌日、ヴォルグ帝国はルシス国に対して正式に宣戦布告を行った。
その理由はシンプルかつ絶対的なものだった。
『我が国の皇后となるべきオメガを不当に扱い、偽りを用いて略取しようとした罪』
それは建前ではなく、皇帝ガレクの本心そのものだった。
彼はイリアをベッドに寝かせ、冷えた身体を自らの体温で温めながら、静かに、しかし断固として告げた。
「お前を傷つけた過去も、お前を縛ろうとする血の繋がりも、すべて俺が消し去る。お前はただ、ここで俺の腕の中にいればいい」
その言葉通り、ヴォルグ軍の進撃は迅速だった。
圧倒的な武力を誇る北の軍勢に対し、腐敗しきったルシスの軍隊はあまりにも脆かった。戦いは数日で決着がついたという。
イリアがその報告を聞いたのは、図書室で静かに本を読んでいる時だった。
「ルシス国が降伏しました。国王と第一皇子は捕らえられ、廃位が決定したそうです」
報告に来た側近の言葉を聞いても、イリアの心は凪いだ湖のように静かだった。
悲しみはなかった。喜びもなかった。
ただ、ずっと胸の奥に刺さっていた古びた棘が、ようやく抜けたような感覚だけがあった。
自分を「幽霊」と呼び、地下室に閉じ込めた父。
自分をいじめ抜き、身代わりとして差し出した兄。
彼らはもう、イリアを傷つけることはできない。
その日の夜、ガレクが寝室にやってきた。
彼は血の匂いをさせてはいなかったが、その表情には大きな仕事を終えた後のような疲労と、安堵の色が混じっていた。
「……終わったぞ、イリア」
ガレクはベッドサイドに座り、イリアの手を握った。
「ルシスは我が国の属領となる。だが、民衆への略奪は禁じた。処罰されるのは、お前を虐げた王族と、それに加担した者たちだけだ」
「はい……ありがとうございます、ガレク様」
イリアが静かに頷くと、ガレクは驚いたように眉を上げた。
「……泣かないのか? 生まれ故郷がなくなったというのに」
イリアは静かに首を横に振った。
「不思議ですね。涙が出ないんです。だって、僕の故郷はもう、ここですから」
イリアはガレクの手を両手で包み込み、頬を寄せた。
針葉樹と鋼の香り。
この匂いに包まれている時だけが、自分が生きていると感じられる瞬間だ。
ガレクの瞳が揺らぎ、次の瞬間、彼はイリアを強く抱きしめた。
「ああ、そうだ。ここがお前の家だ。二度と離さない」
その夜、二人は初めて本当の意味で結ばれた。
「傾国のオメガ」と呼ばれ、国を滅ぼすほどの魔性を持つと言われたイリア。
けれど、その魔性はただ一人の男、ガレクのためだけに使われた。
ガレクもまた、世界を敵に回してもイリアを守り抜くという誓いを、その身体に刻み込んだ。
窓の外では雪が止み、雲の切れ間から満月が顔を覗かせていた。
銀色の月光が、寄り添って眠る二人を優しく照らしていた。




