Case-M #3
箱が、ベッドの端に置かれた。
白でも黒でもない、くすんだ灰色。角の取れた紙箱。
――箱、って。
俺は喉の奥でその言葉を転がしながら、目だけでレイヴを追った。
「おはよ、ミナト。起きてる?」
軽い声。昨日と同じ笑い方。なのに今日は、手つきが違う。手袋をはめて、箱の蓋を開ける動作が、迷いなく“手順”になっている。
「それ、なに」
「ミナトの箱」
あっさり言われて、胸のどこかがひくっと鳴った。
俺の箱。俺の、って言い方が、もうだいぶ怖いのに。
レイヴは気づかないふりをするみたいに、淡々と続けた。
「昨日預かった私物。安全確認してログ取った。返すね」
箱の中には、スマホと、財布と、鍵があった。鍵は、見慣れたはずの金属の形なのに、ここでは意味を失っているみたいに見える。
スマホがいちばん現実的で、いちばん現実から遠い。
「……ありがと。え、ログって」
「どれが何で、どこまで動くか。危ない機能がないか。あと壊れてないか」
危ない機能、という言い方がやけにやわらかい。
けど内容は剥き出しだ。俺の持ち物の中身を、ここは調べる。
俺は笑ってみせた。
「俺、そんなに危ないもの持ってるように見える?」
「見えない。だから余計に危ない」
「なにそれ」
レイヴが笑う。笑うと犬歯がほんの少しだけ長い気がして、俺は視線を逸らした。
“気がする”くらいの違和感が、ここでは一番厄介だ。
箱の底から、小さな封筒が出てきた。コンビニのレシートみたいな紙が二、三枚。
レイヴはそれも並べてから、最後に箱の内側を軽く叩く。
「これで全部。……返却、完了」
完了、って言葉が、俺を“案件”にする。
俺はスマホを手に取った。画面は割れていない。電源も入る。指紋認証も通る。
当たり前のはずのことに、胸が熱くなる。
「使える?」
「端末としてはね」
ね、の言い方が妙に優しい。優しいのに、予防線みたいで嫌だ。
俺はホーム画面を見た。通知は、ない。普段なら未読が溜まってるはずのメッセージも、静まり返っている。
電波マークは――圏外。
俺は笑って誤魔化す。
「うわ、地下?」
「地下じゃない。境界」
境界、って言葉は、もう二回聞いた。なのに、まだ実感が追いつかない。
俺は指を滑らせて、メッセージアプリを開いた。送信ボタンを押してみる。
送れない。
電話アプリも開く。発信。
繋がらない。
メールも、SNSも、地図も、全部。
いつもなら当たり前に“外”へ伸びるはずの糸が、根元から切られている。
見られるのに、繋がらない。
指先が冷える。
「……外部連絡、無理なんだ」
声が少しだけ低くなった。自分でも分かる。
レイヴはそれを拾う。
「うん。ここから外へは基本、出ない。送信不可。GPSも動かない。位置情報が暴れると、境界が引っ張るから」
説明になりそうなところを、すぐ終わらせる言い方だった。
“理由”は置く。だけど長く話さない。手順だけ残す。
「でも、写真とかメモは使えるよ。オフラインの機能は大丈夫」
大丈夫、という言葉が、俺の胸に落ちてこない。
落ちてこないのに、手が勝手に写真アプリを開いた。
指が覚えてる。暇なとき、寂しいとき、何かを確認したいとき。
俺は、ここへ来る前からずっと、そうやって現実を繋ぎ止めてた。
画面に出てきたのは、去年の夏。
居酒屋のテーブル。笑いすぎて目が細くなってる俺。隣で腕を組んでる圭介。ピースしてる翔太。奥で変な顔してる健二。
音は出ないのに、音が聞こえた気がした。
うるさい笑い声。氷の音。焼き鳥の匂い。
――匂い。
思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと鳴る。
今いる部屋の空気は清潔で、何もない。だから余計に、写真の中の匂いが刺さる。
俺は笑って、笑って、笑えなくなる。
「……見られるのに、繋がらないって、最悪だな」
口に出したら、想像以上に痛かった。
レイヴは、軽い顔のまま、重くない言葉で返す。
「最悪って言っていいよ。そういう日、ある」
否定しない。
同情もしない。
“許可”だけくれる。
俺の胸が少しだけ緩むのが悔しくて、俺はわざと明るい声を作った。
「じゃあ俺、今日は“最悪の日”ってことで。カレンダーに書いとくわ」
「メモ、使えるしね」
レイヴが笑う。
笑いながら、箱を手元に引き寄せて蓋を閉めた。
空の箱。なのに、俺の名前がついた箱。
――ミナトの箱。
喉が乾いた。
「ねえ」
「ん?」
「これ、箱、返さなくていいの?」
「箱は備品。回収する」
「俺の箱なのに?」
「ミナトの“私物”を入れた箱」
区切り方が正確すぎる。
優しさの皮を被った管理が、言葉の端で光る。
俺は笑って、頷いた。
「了解。俺、箱には勝てない」
「勝たなくていい。ここは勝負しない場所」
さらっと言われて、胃が冷えた。
勝負しない場所。
それは、諦める場所と紙一重だ。
俺は胸元に指をやった。
タグがそこにある。昨日から外れていない。外せない。
薄い金属が皮膚の上で存在を主張する。
表示は、ミナト。
俺の名前が、俺より先にここへ馴染んでいるみたいで、むず痒い。
「……これもさ、ずっと?」
言いながら、タグを指で押さえた。
レイヴの視線がそこへ落ちる。落ち方が“確認”だ。
「ずっと。外さない。外せない。――落ち着くまで、特に」
「落ち着くまでって、俺が?」
「境界が」
俺は息を吐いた。
境界が落ち着くまで。
まるで俺じゃなくて、この場所が主役みたいだ。
レイヴは、急に声のトーンを変えずに言う。
「あとさ。ミナト」
「え」
「気軽にして。質問していい。分かんないって言っていい。……俺、そういうの嫌いじゃない」
嫌いじゃない、が妙に効く。
“許可”は人を楽にする。楽にした分だけ、動けなくする。
「……じゃあ、レイヴも敬語とかやめてよ」
「俺、してないつもりだけど」
「してるっていうか、距離ある」
「距離はあるよ。仕事だから」
仕事、という言葉が、ここに線を引く。
線があるのは助かる。線があるのに、線の内側へ誘導されるのが怖い。
俺は話題をずらすみたいに、スマホの画面を見せた。
「なあ、これさ。俺の友達。圭介、翔太、健二。……今たぶん、俺がいなくて、なんか騒いでる」
言いながら、胸が痛い。
騒いでる、という言い方が、あまりにも願望だから。
レイヴは写真を覗き込む。
近い。近いのに、触れない距離。
体温が、俺の隣だけ少し違う気がする。冷たいようで、手だけ熱いみたいな。
「楽しそう」
「楽しかった」
「季節、いつ?」
「夏。暑くてさ、もう二度と外出たくないって言いながら外で飲んでた」
「矛盾」
「人間、矛盾でできてるんだよ」
俺が言うと、レイヴは笑う。
「じゃあミナト、今も矛盾してる」
「してるわ!」
勢いで言ってしまって、自分で笑った。
笑ったら喉の奥がまた乾く。笑うほど、乾く。
乾くのに、ここには“外”へ繋がる水がない。
レイヴが箱を抱え直して、ドアへ向かう。
「今日の予定、軽く言う。朝ごはん、検査の続き少し。あとは慣らし。……帰還は委員会の手続き待ち」
淡々と。
重く言わない。
けど“すぐには帰れない”だけが、言葉の底に残る。
俺は頷いて、明るく返した。
「了解。俺、慣らし得意。犬みたいにすぐ慣れる」
レイヴの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
笑顔のままなのに、焦点が合わない時間が一拍だけある。
「……犬、ね」
その一拍が、変に残った。
けど俺は追わない。追ったら、ここが“確定”になる気がする。
レイヴはドアのところで振り返る。
「ミナト」
「ん?」
「呼びたくなったら、呼んで。昨日の通り。タグ握って、名前」
言い方が軽い。
軽いのに、手順が増える音がする。
俺は笑って、頷いた。
「はいはい。……気が向いたらね」
「うん。気が向いたら」
レイヴは出ていった。
扉が閉まると、部屋の静けさが戻る。
窓の外は相変わらず“どこでもない”。
短く見るだけで足場が薄くなるから、俺はカーテンに触れない。
代わりにスマホを握る。
握ったところで、誰にも繋がらない。
それでも握ってしまう。握らないと、俺がここに居る理由が薄くなる。
俺は写真をもう一度見た。
圭介の笑い方。翔太の無駄に元気なピース。健二のふざけた顔。
――声を出して笑ったら、泣く気がした。
俺は笑わないまま、画面を閉じた。
*
夜は、早かった。
日が落ちた、という確かな実感はない。
ただ、照明が少し暗くなって、空調の音がもう少し目立つ。
それだけで“夜”が来る。夜が来ると、俺の中の明るさが剥がれる。
俺はベッドに腰掛けて、スマホを見ていた。
圏外のまま。
未読も既読もない。
メッセージ欄は、白いまま。
見られるのに、繋がらない。
昼間は誤魔化せたのに、夜は刺さる。
刺さって、息が浅くなる。
(……やば)
自分で分かる。
でも止め方が分からない。
タグに指が伸びる。
金属の冷たさが指先に返って、俺は反射で握り込んだ。
呼べば来る。
来ると楽になる。
楽になるのが怖い。
怖いのに、喉の奥が渇いている。
渇きが、助けを求める形に似ていて嫌だ。
俺は息を吸って、吐いた。
吐いた息が震えて、自分で笑いそうになる。笑ったら壊れる。
タグを握って、言う。
「……レイヴ」
声は小さかった。
でも部屋が静かすぎて、妙に響いた。
少し間があって、ノックが二回。
間がある。急かさない間。
「はーい。呼んだ?」
扉が開いて、レイヴが入ってくる。
今日も軽薄な笑顔。今日も仕事の足音。
「……ごめん、なんか、急に」
「いいよ。急でいい。……息、浅いね」
レイヴは俺の前にしゃがむ。
距離が近い。近いのに触れない。
触れないから余計に、喉の奥が渇く。
「今日はそれだけでいい。息、合わせよ」
命令じゃない。
提案。
提案なのに、俺は頷いてしまう。
「……うん。お願い」
「目、閉じてもいい」
俺は目を閉じた。
レイヴの声が、少しだけ近くなる。
耳元じゃない。耳元にしない配慮。
でも近い。声が、喉の奥を撫でるみたいに入ってくる。
「吸って……吐いて」
俺は言われた通りにする。
最初は浅くて、途中で引っかかって、喉が鳴る。
恥ずかしい。
でも笑えない。
レイヴは数を数える。
「……いち。に。さん」
その数が、俺の思考を短くする。
圏外とか、委員会とか、帰還とか。
全部の言葉が遠くなる。
残るのは、喉の渇きと、上気と、声の近さ。
息が深くなる。
肩が落ちる。
指先の震えが、少しずつ引く。
――楽。
楽、が来た瞬間、俺は自分が“覚えてしまった”ことを知った。
この手順があれば、戻れる。
戻れるなら、ここでも生きられる。
それが怖いのに、身体が正直だ。
胸の奥がふっとほどけて、熱がじわっと上がる。
「……はい。おしまい」
レイヴの声で区切られて、俺は目を開けた。
視界が少し澄んでいる。
涙は出ていない。出さなかった。出したら戻れない気がしたから。
「戻った?」
レイヴが聞く。
確認みたいに。優しく。
「……戻った」
俺が言うと、レイヴは笑う。
その笑い方が軽いのが、助かる。
重い優しさは、俺を潰す。
「ミナト、えらい」
「えらいってなに……子どもじゃない」
「えらいは、えらい」
言い切られて、俺は笑ってしまった。
笑ったらまた喉が渇く。渇くのに、息は楽だ。
レイヴが立ち上がる。
帰る気配。
俺は反射でタグに触れた。
触れたことに気づいて、すぐ手を引っ込めた。
――増やすな、手順を。
でも、もう遅い。
「……また、苦しくなったら呼んでいい?」
言った瞬間、自分で分かった。
俺が自分で檻を一本増やした。
レイヴは笑って、軽く頷いた。
「いいよ。呼べば来る」
軽い声。
軽いのに、逃げ道が少しだけ消える言い方。
レイヴがドアへ向かう前に、ふとこちらを見た。
照明の加減で、瞳の黒が深すぎる。
虹彩の端に、烏の羽みたいな偏光が一瞬だけ走る。
俺が瞬きする間に、普通の笑顔に戻った。
「……おやすみ、ミナト」
「……おやすみ」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
俺はベッドに仰向けになって、タグを指で押さえた。
冷たい。
冷たいのに、今はそれが“ここにいる証拠”みたいで嫌だ。
表示は、ミナト。
スマホの画面がまだ点いていた。
さっき閉じたはずなのに、指が勝手に写真に戻していた。
圭介、翔太、健二。
笑ってる俺。
画面の中の俺は、繋がっている。
ここにいる俺は、繋がらない。
見られるのに、繋がらない。
タグは見えるのに、外せない。
――ミナト。
俺の名前が、ここでだけ正しく光っている。
俺はスマホを胸の上に置いた。
写真の光がまぶしくて、目を細める。
(帰りたい)
(でも、今は――息ができる)
その事実が一番怖いまま、俺は目を閉じた。
タグの冷たさと、画面の熱だけが残っていた。




