Case-M #2
眠りに落ちる直前まで、ミナトは胸元を指で押さえていた。
金属の冷たさ。
それが皮膚の上だけで終わらず、胸の奥へすっと入り込んでくる感覚。
沈む――という言葉すら嫌で、ミナトは頭の中で別の言い方を探した。
(落ちるじゃない。沈むでもない。……戻る)
(俺は、帰る。帰るために、戻る)
言い聞かせるたび、息が少しずつ整っていく。
整うのは良いことのはずなのに、ここではそれが怖い。
“整う”ほど、ここが正しい場所みたいで――自分が、受け入れてしまいそうで。
それでも眠気は容赦なく来る。
目の奥が重くなって、意識が薄い膜に包まれていく。
(大丈夫。俺は、帰る)
(帰るために、今日は寝る)
その言葉を握りしめるみたいにして、眠りに落ちた。
*
目が覚めた瞬間、まず「音がない」と思った。
正確には音はある。
空調の低い唸り。遠くの足音。壁の向こうの規則正しい気配。
――ただ、どれも耳に刺さらないように、きれいに“整えられている”。
それが、怖い。
ミナトはしばらく瞬きをして、天井を見上げたまま息を確かめる。
吸える。吐ける。苦しくない。
苦しくない、という事実が、昨夜の“楽”を連れてくる。
喉の奥が、きゅっと鳴った。
(……やめろ)
(思い出すな。まだ、早い)
自分に腹を立てて、わざと軽い声を出す。
「はいはい。起きました。俺、生きてます」
言ってみると、少しだけ現実が戻ってくる。
身体を起こすと、寝具がやけに良いことに気づく。
肌に触れる布が滑らかで、温度がちょうどいい。
枕の高さまで“正しい”。
――正しい、って。
笑いそうになって、笑えない。
(……ホテルかよ)
喉が乾いている。枕元を探す。
ボトルは、昨日と同じ位置に置かれていた。
ラベルが無いのが妙に怖くて、でも飲まない方がもっと怖い。
一口飲む。
冷たい水が喉を通って、胃の奥へ落ち――る。
(落ちるじゃない。戻る)
言い換えて、ようやく胸の奥が少しだけ静まった。
部屋を見回す。
淡い壁。丸い角。眩しくない照明。
机と棚。ベッド。
そして――窓は、ない。
窓がないだけで、世界が薄い。
薄いのに、息はできる。
息ができるのに、どこにも出られない感じがする。
昨夜ここで、ミナトは“数を数える声”に助けられた。
助けられた、という言い方は癪だけど、事実だ。
(……俺、ほんと必死だな)
そう思った瞬間、二回、控えめなノックがした。
間がある。急かさない間。
「起きてる?」
軽い声。
軽いのに、耳の奥に残る通り方。
扉が少しだけ開いて、レイヴが顔を覗かせた。
「おはよ、ミナト」
呼ばれた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ――ほどける方向に寄る。
その事実に腹が立って、ミナトは笑って誤魔化した。
「おはよ。出勤? 早くない?」
「早いよ。境界は朝が強いから」
さらっと言う。
それが当たり前みたいに。
「……朝が強い?」
ミナトが聞き返すと、レイヴは肩をすくめた。
説明しすぎない、でも逃がさない顔。
「切り替わる時間はズレが出やすい。朝は、境界が“起きる”から」
「起きると、方向も距離も、“正しさ”も――まとめて立つ。君みたいなのは引っ張られやすい」
軽い言い方のまま、言ってることは軽くない。
レイヴは部屋に踏み込みすぎない。扉のラインで止まって、ミナトの表情を一度だけ拾う。
瞬きが少ない。見ているのに、焦点が合っていない時間が一瞬だけある。
――気づいたと思った瞬間、笑顔に戻る。
「体調どう? 息、しんどい?」
“息”と聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
昨日の感覚がまだ粘膜の裏に残っている。
吸えなくなって、視界が薄くなって、
そして――声でほどけた。
ほどけた、が怖い。
「夢見悪かったくらい。俺、寝るとき変な夢見るタイプなんだよね」
「へぇ。じゃあ今日は夢に勝つ手順、増やそ」
「増やすなぁ」
「命令じゃないよ。規則」
柔らかいのに逃げ道が無い。
レイヴは笑って、手元のケースを軽く振った。
「その前にさ。部屋、移す」
「え」
思わず声が出た。
昨夜の“窓のない箱”を思い出して、胸の奥がきゅっとなる。
あの部屋は落ち着けたわけじゃない。ただ、目に入る情報が少なすぎて、息を数えるしかなかった。
「一時収容室、昨日のままだと君が詰む。慣らしは生活区画の方がいい」
軽い口調で言いながら、目は真面目だ。
仕事の目で、ミナトの反応を拾っている。
「……移すって、勝手に?」
「勝手じゃない。規則。――君の荷物、ほぼないしね」
「俺の人生、荷物少なすぎ」
冗談を言ってみたら、笑いが少しだけ震えた。
レイヴは笑った。軽薄に。けど、同情しない。
「歩ける? ついてきて」
「はーい、護送されまーす」
「“保護”ね」
言い直されると、優しく聞こえるのが嫌だった。
でも嫌だと言い切るほどの力もない。
ミナトはベッドから降り、喉元に残る金属の気配を指で確かめた。
昨日からつけっぱなしの、薄い札。
触れると少しだけ熱を返す。
(外したいわけじゃない)
(外せないのが、怖い)
言い訳の形すら整わないまま、ミナトはレイヴの後ろについて廊下へ出た。
*
廊下の空気は、部屋より少しだけ“生活”の匂いが混じっていた。
薬草の甘苦さ、乾いた紙の匂い、その下に洗い立ての布の匂い。
ミナトは無意識に息を吸って、すぐ止めた。
(……落ち着くな)
落ち着く方向に寄るのが怖い。
落ち着いたら、ここが“正しい”になる。
角を二つ曲がって、扉の前で止まる。
鍵の音はしないのに、扉が開く。
「ここ」
一歩踏み込んで、ミナトは足を止めた。
窓がある。
四角い窓枠。薄いカーテン。外からの光。
たったそれだけで、“世界”が入ってくる気がして胸がざわつく。
「……窓、ある」
声が少しだけ素直になった。
嬉しい、に近いものが喉まで上がってきて、ミナトは噛み潰す。
喜んだら、ここが居場所になる。
慎重に窓へ近づく。カーテンの端に指をかける。
見たら揺れる。分かってるのに、見ないでいられない。
そっと、ほんの少しだけ開く。
外は――景色があるようで、ない。
空の色はある。光もある。
なのに距離がつかめない。遠近が噛み合わない。
山の輪郭みたいなものが見えたと思った瞬間、それが“ただの影”に戻る。
方向がない。
ここがどこなのか、答えが出ない。
胃がひやっとして、ミナトは思わずカーテンを戻した。
「……これ、見ちゃダメなやつだ」
「ダメじゃない。慣れるまで短く。――長く見ると引っ張られる」
笑っているのに、言ってる内容は笑えない。
部屋全体を見回す。
机も棚もある。リネンが揃っている。
“部屋”だ。
落ち着く要素が増えているのに、落ち着けない。
情報が増えるぶん、不安も増える。
「……ここ、生活区画?」
「そう。君の“今”の部屋。――あ、いい意味でね」
軽く言うから、余計に刺さる。
今の部屋。
今、という言葉が長さを含む。
ミナトは笑って返した。
「今だけな。俺、帰るから」
「うん。帰るために、ここで生きる」
さらっと言われて、胸の奥が冷える。
“生きる”という単語が、妙に現実的だ。
レイヴはミナトの喉元――昨日からの札を目で示した。
「じゃ、ここで替える。朝の手順、続き」
“装着”よりも、少しだけ言葉を選んだ音。
ミナトの眉が、わずかに緩む。……緩んでしまうのが癪だ。
「……あの。昨日の、これ……」
喉元の札を押さえる。
外した覚えはない。外したいと思った覚えは、ある。
「これ、外せないの。外したいっていうより……なんていうか、急にこういうの、ちょっと……」
言い終わる前に、レイヴは「うん」と頷いた。
遮らない。否定もしない。
その“聞く”が、余計に怖い。
「外せないよ。外すと――この場所だと、君が迷う」
「迷う……」
「方向がほどける。距離もほどける。――昨日のは仮のやつ。応急」
レイヴの視線が札に落ちる。
指先が近づいて、触れる直前で止まる。拒否の隙を残したまま。
「今から正式に替える。委員会の台帳に通すから。……いい?」
“いい?”があるせいで、ミナトは頷いてしまう。
断ったらどうなるか分からない。
分からないなら、分かる方へ寄る――それがもう、落ち方の入口だ。
「……うん」
「ん。偉い」
褒め方だけが軽薄で、手は丁寧だった。
レイヴは仮札の留めをほどく。
首が一瞬だけひやりとして、ミナトは反射で肩をすくめる。
――外れた。
外れた瞬間、胸の奥がふっと浮いた。
軽くなる、じゃない。足場が抜ける、に近い。
息が浅くなる前に、レイヴが手のひらでミナトの鎖骨のあたりを“押さえる”。
触れ方は優しいのに、逃げ道の角度だけ潰される。
「大丈夫。抜けない。今すぐ付ける」
言いながら、レイヴはケースを開けた。
中に収まっているのは、薄い金属の札。
名札みたいな形。光が冷たい。
仮札とは違う。
昨日のは輪に近くて、肌に馴染むみたいに薄かった。
これは最初から“記録する”顔をしている。
レイヴは外した仮札をケースの端に置く。
金属同士が触れて、かすん、と乾いた音がした。
その音だけで、昨日が「応急」だったと理解してしまう。
「呼び出しも、これでちゃんと繋ぐね」
レイヴが札の縁を指で撫でると、紋様が一瞬だけ羽毛みたいにざわり、と揺れた気がした。
本人は動いていないのに、影だけがほんの少しだけ動く。
ミナトは目を逸らしきれない。
人間みたいな顔をして、人間じゃない瞬間が、ふいに混ざる。
「呼ぶときは、昨日の続き。……タグを握って、俺の名前」
レイヴは札をいったんミナトの手のひらに預けた。
冷たい。なのに指先が妙に熱くなる。
「レイヴ、って呼んで」
ミナトは小さく頷いて、札を握る。
「……レイヴ」
呼んだだけで、喉の奥がほどける予感がして、怖い。
レイヴは笑って、そのまま札をミナトの喉元へ戻した。
留め具が閉じる。カチリ、と短い音。
次の瞬間、札の表面に文字が浮かんだ。
――ミナト。
昨日みたいに揺れない。霧にならない。
最初からそこに決まっていたみたいに、落ち着いて光っている。
「はい、正式。外せないけど、安心していいやつ」
安心、という言葉が喉に引っかかる。
でもミナトは笑ってしまう。いつもの癖で。
「……俺、こういうの案外すぐ慣れちゃうタイプかも〜なんて」
「そういうの、好き」
軽い声。
でも“好き”が、人を褒める好きじゃなくて、
“囲いがうまくいく”好きに聞こえた気がして――
ミナトはもう一回だけ、息を吐いた。
「……で、これがさっき言ってた“委員会の台帳”ってやつ?」
「うん。帰還も委員会案件。ここは境界施設。俺たちは現場の保護担当」
保護、という言葉は優しい。
でも現場、と言われると急に生々しい。
紙の匂いがする。台帳の匂いがする。
――レイヴの匂い。
清潔なのに生々しい匂いが、喉の奥をほんの少しだけほどく。
(やめろ)
(落ち着くな)
落ち着いたら、ここが“正しい”になる。
ミナトはわざと明るい声を出した。
「委員会って、会社みたいだな。俺、そういうの慣れてるかも」
言った瞬間、胃が少し冷える。
慣れてるのは、書類とルール。
慣れてないのは、書類とルールで“帰れなくなる”こと。
レイヴは笑顔のまま、目だけを少し細くした。
「慣れてるのは助かる。……でも、頑張りすぎないで」
「俺、頑張るの癖なんだよね」
「知ってる。だから手順で止める」
止める。守る。
同じ音に聞こえるのが怖い。
「朝ごはん行こ。あと簡易検査。――手続きが進むと、帰還の準備も進む」
“帰還”が細い糸みたいに残る。
縋りたくなって、縋りたくなる自分が嫌で、ミナトは笑った。
「よし、手続き大好き人間になりまーす」
「ならなくていい」
軽い否定が、妙に優しい。
*
廊下は広い。
足音が反響しすぎない床。白すぎない灯り。角が丸い壁。
なのに、ふとした瞬間だけ“ズレる”。
レイヴが止まっていないのに、影だけが羽毛みたいにざわっと揺れる。
本人は動いてないのに。
ミナトは見なかったことにして、歩幅を合わせる。
合わせると安心する。安心するのが怖い。
曲がり角で、重い足音がした。
床が少しだけ鳴る。
現れたのは、でかい。
肩幅も胸板も、普通に“強い”。
なのに――腰の捻りと、手の振りがやけに艶っぽい。
「やぁだぁ、ミナトちゃん……じゃなくて、ミナト! 起きたぁ?」
低いのに、語尾だけが柔らかい。
笑顔が派手で、圧があるのに怖くない。
ミナトは反射で背筋を伸ばした。
こういうタイプ、現実にいたら絶対に目立つ。
「お、おはよ……? え、誰。」
「おはよぉ。アタシ、ゴルドっていうのよ。よろしくねぇ。顔色、まあまあねぇ。水、飲みなさい」
ゴルドは言い切ると同時に、水を差し出してきた。
押し付けじゃない。必要なタイミングを読んだ動き。
筋肉の塊みたいな腕が、妙に丁寧だ。
ミナトは受け取って飲む。
「え、ありがとう。俺、そんな喉乾いてる顔してた?」
「してるわよぉ。あとね、無理して笑ってる顔もしてる」
ミナトは一瞬だけ息が詰まった。
でも、へこたれないのが自分の武器だ。
「うわ、こわ。プロファイラー? いやゴルドさん、筋肉で人の心読めるタイプ?」
「筋肉は裏切らないのよぉ。……心は裏切るけどねぇ」
冗談みたいに言われて、ミナトは笑ってしまった。
笑うと喉が楽になる。
楽になるのが怖い。
もう一人、細い影が近づいてきた。
ぱっと見天使かと思った。金髪碧眼の美少年。
姿勢が正しくて、視線が冷たい――余計なものを入れない目。
「朝からうるさいと思ったら」
天使はミナトを一瞥し、首元の札を見る。
眉がほんの少し動く。
「……成――」
言いかけて止まる。
代わりに札の表示をそのまま読む。
「……ミナト。保護対象の人間だな」
言い直しの一拍が、妙に刺さる。
“真名”の扱いが違う。
常識が違う。
ミナトは気づいたふりをしない。
ミナト自身が、今は追いつけない。
「うん、ミナト。よろしく。えーと、誰さん?」
「リュカでいい」
「じゃ、リュカ。俺のこともミナトでいいよ。名札あるし」
ミナトが笑って札を指で弾くと、金属が小さく鳴った。
その音が、妙に身体の奥に響く。
リュカが小さく息を吐く。
「……軽いな」
「軽くしないと折れそうなんだよね、俺」
ぽろっと本音が出て、ミナトは自分で驚いた。
言うつもりじゃなかったのに。
ゴルドが一瞬だけ目を細める。
リュカも、目の角度がほんの少し変わる。
レイヴだけが笑顔のまま言った。
「それ、いい。折れそうなら支える」
支える、という言葉が抱きしめるみたいに聞こえてしまって、ミナトは喉の奥がきゅっとなる。
(やめろ。近づくな)
(……でも助かる)
矛盾が胸の中でひりひりする。
「食堂、案内するわよぉ。ミナト、胃に入れなきゃ顔色は保たないんだから」
ゴルドは肩を揺らして歩き出す。
背中が大きい。頼もしい。
頼もしいが、頼もしいほど“ここにいる理由”が増える。
リュカが淡々と続けた。
「記録は俺が回す。委員会に送る分も」
委員会。
その単語が、ここが“制度”の場所だともう一度釘を刺す。
ミナトは笑ってみせた。
「うわ、ほんとに会社みたいだな。俺、こういうの慣れてるかも」
胃が冷える。
慣れてるほど、逃げ道が無くなる。
それでも笑う。
笑うのが、自分の役目みたいになっているから。
*
食堂のスープは優しい味だった。
舌に残るわずかな異物感がある。
それがこの世界の味なのか、自分の緊張なのか分からない。
ゴルドは無駄に騒がない。
派手な口調のくせに、食事の間はミナトの箸の進みと顔色ばかり見ている。
「ミナト、熱いの苦手? 冷ましてあげよっか?」
「いや、そこまで子どもじゃないです!」
「強がりぃ。かわいいわねぇ」
“かわいい”が軽く投げられる。
でも目が笑ってないわけじゃない。
守るための言葉の投げ方だ。
リュカは必要なことだけ話す。
手順、規則、記録。
言葉が冷たいんじゃない。余計な熱を入れないだけ。
レイヴだけが、空気を軽くする。
軽くしながら、手順に落とす。
それが怖いのに、助かるのが悔しい。
「で、ミナト。単独外出、ダメ」
レイヴがスプーンを置く。
軽い声で、重いことを言う。
「出口、わかんなくなる」
「いやそれ、さっきも聞いたけど、どういう……」
「方向がほどける。歩いたつもりで戻ってきたり、戻ったつもりで奥へ行ったり」
ゴルドが横から、やけに真剣な顔で付け足した。
「ほんとよぉ。ミナト、迷ったら“いい匂い”とか“安心”に引っ張られるから。勝手に」
ミナトはスプーンを握る手に力が入った。
安心に引っ張られる――それ、まさに今の自分じゃないか。
「……じゃ、俺、安心しないように頑張るわ」
「頑張らない」
レイヴが即答する。
「頑張ると崩れる。境界はそういう場所」
ミナトは笑って流した。
流さないと、呑まれる。
「じゃあ俺、だらだらして生きます」
「うん、正解」
正解、という言葉が怖い。
ここで“正解”を覚えたら、帰るときに困る。
でも、喉の奥は少しだけ楽だった。
*
簡易検査は、輪っか状の魔具を手首に当てるだけだった。
冷たい輪が皮膚をなぞって、光が走る。
リュカが結果を淡々と読み上げる。
「適応値、低め。暴走リスクは現状低。……ただし空気に負けやすい。慣らしが必要」
慣らし。
人間に使う言葉じゃない気がして、ミナトの胃がひやっとする。
レイヴが軽く肩をすくめた。
「だから言ったじゃん。急がない方がいい」
「急がないと帰れないだろ」
ミナトが言い返すと、レイヴは笑う。
「帰るために急がない。――矛盾だけど、境界では正しい」
ミナトは笑って誤魔化した。
検査室の奥に、扉がひとつあった。
閉じているのに、存在感だけが強い。
空気がほんの少しだけ薄い。
ミナトが視線を向けると、レイヴがさらっと言った。
「“門”はまだ見ない方がいい。帰還門。立つのは先」
先。
帰れるのは先。
ミナトは頷くしかない。
「……うん。先延ばし、得意だから」
言いながら胃が冷える。
得意、なんて言葉で誤魔化せる距離じゃない。
*
夕方、部屋に戻る頃には、ミナトの頭が熱を持っていた。
身体じゃない。思考が疲れている。
明るくして、笑って、分かったふりをして、
それでも分からないものが多すぎて、脳が焼けそうだ。
窓の外は相変わらず“どこでもない”。
短く見るだけで、足場が薄くなる。
ひとりになると急に不安が来る。
明るく振る舞ってた反動で、息が浅くなる。
ミナトはベッドに座って、膝を抱えた。
笑ってみる。
「大丈夫大丈夫。……俺、こういうの何とかするタイプだろ」
声が軽く震えた。
(……呼吸)
思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
欲しい、みたいに。
それが怖い。
ミナトは首元の札に指を当てた。
冷たい。
冷たいのに、指先が熱い。
呼ぶなら――こうだ。
タグを握って、レイヴの名前を呼ぶ。
ミナトは息を吸って、札を握った。
爪が金属に当たる音が小さく鳴る。
「……レイヴ」
声は小さかった。
でも静けさに落ちて、妙に響いた。
少し間があって、二回ノック。
「はーい。呼んだ?」
扉が開く。
レイヴがいつもの軽薄な笑顔で入ってくる。
「ほんとに来るんだ」
「呼ばれたら来る。俺の仕事だし。手順だし」
仕事。
またその言葉。
でも今のミナトには、その言葉が救いだ。
“ただの仕事”なら、落ちてもいい気がする。
――落ちたくないのに。
レイヴはミナトの前にしゃがんだ。
距離が近いのに、触れない。
触れない距離の方が、効く気がする。
「……息、浅い」
レイヴの指先が空中でミナトの喉元を示す。
触れないのに、そこが熱くなる。
ミナトは飲み込む。
喉が鳴る。
その音が恥ずかしいのに、止められない。
「今日はそれだけでいい。息、合わせよ」
命令じゃない。
提案。
ミナトは頷いた。
「……お願い。落ち着きたい」
レイヴが息を吸う。
その音が聞こえた瞬間、ミナトの胸が少しだけ沈む。
沈む――違う。
“戻る”方向に寄る。
「目、閉じてもいい」
ミナトは目を閉じた。
レイヴの声は耳元じゃない。
少し距離のある場所から、静かに届く。
「吸って……吐いて」
ミナトは言われた通りにする。
息が少しずつ深くなる。
レイヴが数を数える。
「……いち。に。さん」
その数が、ミナトの思考を短くする。
言葉が減って、感覚が増える。
喉がほどける。
肩が落ちる。
指先の震えが、少しずつ引く。
――楽。
楽、が来た瞬間、ミナトは自分の中で何かが“覚えた”気がした。
この声があれば戻れる。
この手順があれば生きられる。
それが怖いのに、嬉しい。
レイヴは最後に言った。
「……はい。おしまい」
ミナトは目を開けた。
視界が少し澄んでいる。
「戻った?」
「……戻った」
ミナトは笑ってしまった。
笑ってしまうのが、怖い。
「やば。これ、効きすぎ。……俺、ちょろいな」
「ちょろいの、嫌?」
命令じゃない。確認。
ミナトは少し迷ってから首を振った。
「嫌じゃない。……助かる」
「うん。助かる方、選ぼ」
レイヴは立ち上がる。
帰る気配。
ミナトは咄嗟に札を握った。
冷たさが、もう怖いだけじゃない。
「……また、苦しくなったら呼んでいい?」
言った瞬間、ミナトは自分が自分で“手順”を増やしたことに気づく。
檻の棒を、自分で一本足した。
レイヴは笑った。
「いいよ。呼べば来る」
軽い。
軽いのに、逃げ道が消える言い方。
レイヴは部屋の端に置いてあった新しいリネンの束を指で示した。
「替え。タオルも入ってる。清潔にしとくと、落ち着くから」
落ち着くから。
理由が、優しい。
ミナトは頷いて、レイヴを見送った。
扉が閉まる。
整えられた静けさが戻る。
ミナトはリネンの束を手に取った。
その中のタオルが、ふわりと指に触れる。
匂いがした。
夜の薬草の甘苦さと、乾いた紙の匂い。
さっきレイヴが近づいた時の匂いと同じ。
ミナトは思わず息を吸ってしまって、すぐに止めた。
(……なんか一瞬安心、する気がした)
ここに来てまだ二日目だ。まだまだ慣れそうにない。
でも首元の札には、薄く「ミナト」と表示されている。
その文字が、まるで“ここでの自分”を先に決めているみたいで。
ミナトはタオルを畳み直して、枕元に置いた。
嗅ぐためじゃない。
ただ、そこに置くだけ。
言い訳を胸の中で繰り返しながら、布団に潜り込む。
目を閉じると、さっきの数え声が残っている。
「いち。に。さん」
喉の奥が静かにほどける。
(……俺、明日も笑えるかな)
笑える。
きっと笑える。
笑うのが、俺の役目だから。
そう思いながら、ミナトは首元の札を指で軽く押さえた。
冷たさが、もう怖いだけじゃなかった。




