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異界の境界施設  作者:


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Case-M #2



 眠りに落ちる直前まで、ミナトは胸元を指で押さえていた。


 金属の冷たさ。

 それが皮膚の上だけで終わらず、胸の奥へすっと入り込んでくる感覚。

 沈む――という言葉すら嫌で、ミナトは頭の中で別の言い方を探した。


(落ちるじゃない。沈むでもない。……戻る)

(俺は、帰る。帰るために、戻る)


 言い聞かせるたび、息が少しずつ整っていく。

 整うのは良いことのはずなのに、ここではそれが怖い。

 “整う”ほど、ここが正しい場所みたいで――自分が、受け入れてしまいそうで。


 それでも眠気は容赦なく来る。

 目の奥が重くなって、意識が薄い膜に包まれていく。


(大丈夫。俺は、帰る)

(帰るために、今日は寝る)


 その言葉を握りしめるみたいにして、眠りに落ちた。



 目が覚めた瞬間、まず「音がない」と思った。


 正確には音はある。

 空調の低い唸り。遠くの足音。壁の向こうの規則正しい気配。

 ――ただ、どれも耳に刺さらないように、きれいに“整えられている”。


 それが、怖い。


 ミナトはしばらく瞬きをして、天井を見上げたまま息を確かめる。

 吸える。吐ける。苦しくない。


 苦しくない、という事実が、昨夜の“楽”を連れてくる。

 喉の奥が、きゅっと鳴った。


(……やめろ)

(思い出すな。まだ、早い)


 自分に腹を立てて、わざと軽い声を出す。


「はいはい。起きました。俺、生きてます」


 言ってみると、少しだけ現実が戻ってくる。

 身体を起こすと、寝具がやけに良いことに気づく。

 肌に触れる布が滑らかで、温度がちょうどいい。

 枕の高さまで“正しい”。


 ――正しい、って。


 笑いそうになって、笑えない。


(……ホテルかよ)


 喉が乾いている。枕元を探す。

 ボトルは、昨日と同じ位置に置かれていた。

 ラベルが無いのが妙に怖くて、でも飲まない方がもっと怖い。


 一口飲む。

 冷たい水が喉を通って、胃の奥へ落ち――る。


(落ちるじゃない。戻る)


 言い換えて、ようやく胸の奥が少しだけ静まった。


 部屋を見回す。

 淡い壁。丸い角。眩しくない照明。

 机と棚。ベッド。


 そして――窓は、ない。


 窓がないだけで、世界が薄い。

 薄いのに、息はできる。


 息ができるのに、どこにも出られない感じがする。

 昨夜ここで、ミナトは“数を数える声”に助けられた。

 助けられた、という言い方は癪だけど、事実だ。


(……俺、ほんと必死だな)


 そう思った瞬間、二回、控えめなノックがした。

 間がある。急かさない間。


「起きてる?」


 軽い声。

 軽いのに、耳の奥に残る通り方。


 扉が少しだけ開いて、レイヴが顔を覗かせた。


「おはよ、ミナト」


 呼ばれた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ――ほどける方向に寄る。

 その事実に腹が立って、ミナトは笑って誤魔化した。


「おはよ。出勤? 早くない?」


「早いよ。境界は朝が強いから」


 さらっと言う。

 それが当たり前みたいに。


「……朝が強い?」


 ミナトが聞き返すと、レイヴは肩をすくめた。

 説明しすぎない、でも逃がさない顔。


「切り替わる時間はズレが出やすい。朝は、境界が“起きる”から」

「起きると、方向も距離も、“正しさ”も――まとめて立つ。君みたいなのは引っ張られやすい」


 軽い言い方のまま、言ってることは軽くない。


 レイヴは部屋に踏み込みすぎない。扉のラインで止まって、ミナトの表情を一度だけ拾う。

 瞬きが少ない。見ているのに、焦点が合っていない時間が一瞬だけある。

 ――気づいたと思った瞬間、笑顔に戻る。


「体調どう? 息、しんどい?」


 “息”と聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。

 昨日の感覚がまだ粘膜の裏に残っている。


 吸えなくなって、視界が薄くなって、

 そして――声でほどけた。


 ほどけた、が怖い。


「夢見悪かったくらい。俺、寝るとき変な夢見るタイプなんだよね」


「へぇ。じゃあ今日は夢に勝つ手順、増やそ」


「増やすなぁ」


「命令じゃないよ。規則」


 柔らかいのに逃げ道が無い。

 レイヴは笑って、手元のケースを軽く振った。


「その前にさ。部屋、移す」


「え」


 思わず声が出た。

 昨夜の“窓のない箱”を思い出して、胸の奥がきゅっとなる。

 あの部屋は落ち着けたわけじゃない。ただ、目に入る情報が少なすぎて、息を数えるしかなかった。


「一時収容室、昨日のままだと君が詰む。慣らしは生活区画の方がいい」


 軽い口調で言いながら、目は真面目だ。

 仕事の目で、ミナトの反応を拾っている。


「……移すって、勝手に?」


「勝手じゃない。規則。――君の荷物、ほぼないしね」


「俺の人生、荷物少なすぎ」


 冗談を言ってみたら、笑いが少しだけ震えた。

 レイヴは笑った。軽薄に。けど、同情しない。


「歩ける? ついてきて」


「はーい、護送されまーす」


「“保護”ね」


 言い直されると、優しく聞こえるのが嫌だった。

 でも嫌だと言い切るほどの力もない。


 ミナトはベッドから降り、喉元に残る金属の気配を指で確かめた。

 昨日からつけっぱなしの、薄い札。

 触れると少しだけ熱を返す。


(外したいわけじゃない)

(外せないのが、怖い)


 言い訳の形すら整わないまま、ミナトはレイヴの後ろについて廊下へ出た。



 廊下の空気は、部屋より少しだけ“生活”の匂いが混じっていた。

 薬草の甘苦さ、乾いた紙の匂い、その下に洗い立ての布の匂い。


 ミナトは無意識に息を吸って、すぐ止めた。


(……落ち着くな)


 落ち着く方向に寄るのが怖い。

 落ち着いたら、ここが“正しい”になる。


 角を二つ曲がって、扉の前で止まる。

 鍵の音はしないのに、扉が開く。


「ここ」


 一歩踏み込んで、ミナトは足を止めた。


 窓がある。


 四角い窓枠。薄いカーテン。外からの光。

 たったそれだけで、“世界”が入ってくる気がして胸がざわつく。


「……窓、ある」


 声が少しだけ素直になった。

 嬉しい、に近いものが喉まで上がってきて、ミナトは噛み潰す。


 喜んだら、ここが居場所になる。


 慎重に窓へ近づく。カーテンの端に指をかける。

 見たら揺れる。分かってるのに、見ないでいられない。


 そっと、ほんの少しだけ開く。


 外は――景色があるようで、ない。


 空の色はある。光もある。

 なのに距離がつかめない。遠近が噛み合わない。

 山の輪郭みたいなものが見えたと思った瞬間、それが“ただの影”に戻る。


 方向がない。


 ここがどこなのか、答えが出ない。


 胃がひやっとして、ミナトは思わずカーテンを戻した。


「……これ、見ちゃダメなやつだ」


「ダメじゃない。慣れるまで短く。――長く見ると引っ張られる」


 笑っているのに、言ってる内容は笑えない。


 部屋全体を見回す。

 机も棚もある。リネンが揃っている。

 “部屋”だ。


 落ち着く要素が増えているのに、落ち着けない。

 情報が増えるぶん、不安も増える。


「……ここ、生活区画?」


「そう。君の“今”の部屋。――あ、いい意味でね」


 軽く言うから、余計に刺さる。


 今の部屋。

 今、という言葉が長さを含む。


 ミナトは笑って返した。


「今だけな。俺、帰るから」


「うん。帰るために、ここで生きる」


 さらっと言われて、胸の奥が冷える。

 “生きる”という単語が、妙に現実的だ。


 レイヴはミナトの喉元――昨日からの札を目で示した。


「じゃ、ここで替える。朝の手順、続き」


 “装着”よりも、少しだけ言葉を選んだ音。

 ミナトの眉が、わずかに緩む。……緩んでしまうのが癪だ。


「……あの。昨日の、これ……」


 喉元の札を押さえる。

 外した覚えはない。外したいと思った覚えは、ある。


「これ、外せないの。外したいっていうより……なんていうか、急にこういうの、ちょっと……」


 言い終わる前に、レイヴは「うん」と頷いた。

 遮らない。否定もしない。


 その“聞く”が、余計に怖い。


「外せないよ。外すと――この場所だと、君が迷う」


「迷う……」


「方向がほどける。距離もほどける。――昨日のは仮のやつ。応急」


 レイヴの視線が札に落ちる。

 指先が近づいて、触れる直前で止まる。拒否の隙を残したまま。


「今から正式に替える。委員会の台帳に通すから。……いい?」


 “いい?”があるせいで、ミナトは頷いてしまう。

 断ったらどうなるか分からない。

 分からないなら、分かる方へ寄る――それがもう、落ち方の入口だ。


「……うん」


「ん。偉い」


 褒め方だけが軽薄で、手は丁寧だった。

 レイヴは仮札の留めをほどく。


 首が一瞬だけひやりとして、ミナトは反射で肩をすくめる。


 ――外れた。


 外れた瞬間、胸の奥がふっと浮いた。

 軽くなる、じゃない。足場が抜ける、に近い。


 息が浅くなる前に、レイヴが手のひらでミナトの鎖骨のあたりを“押さえる”。

 触れ方は優しいのに、逃げ道の角度だけ潰される。


「大丈夫。抜けない。今すぐ付ける」


 言いながら、レイヴはケースを開けた。


 中に収まっているのは、薄い金属の札。

 名札みたいな形。光が冷たい。


 仮札とは違う。

 昨日のは輪に近くて、肌に馴染むみたいに薄かった。

 これは最初から“記録する”顔をしている。


 レイヴは外した仮札をケースの端に置く。

 金属同士が触れて、かすん、と乾いた音がした。


 その音だけで、昨日が「応急」だったと理解してしまう。


「呼び出しも、これでちゃんと繋ぐね」


 レイヴが札の縁を指で撫でると、紋様が一瞬だけ羽毛みたいにざわり、と揺れた気がした。

 本人は動いていないのに、影だけがほんの少しだけ動く。


 ミナトは目を逸らしきれない。

 人間みたいな顔をして、人間じゃない瞬間が、ふいに混ざる。


「呼ぶときは、昨日の続き。……タグを握って、俺の名前」


 レイヴは札をいったんミナトの手のひらに預けた。

 冷たい。なのに指先が妙に熱くなる。


「レイヴ、って呼んで」


 ミナトは小さく頷いて、札を握る。


「……レイヴ」


 呼んだだけで、喉の奥がほどける予感がして、怖い。


 レイヴは笑って、そのまま札をミナトの喉元へ戻した。

 留め具が閉じる。カチリ、と短い音。


 次の瞬間、札の表面に文字が浮かんだ。


 ――ミナト。


 昨日みたいに揺れない。霧にならない。

 最初からそこに決まっていたみたいに、落ち着いて光っている。


「はい、正式。外せないけど、安心していいやつ」


 安心、という言葉が喉に引っかかる。

 でもミナトは笑ってしまう。いつもの癖で。


「……俺、こういうの案外すぐ慣れちゃうタイプかも〜なんて」


「そういうの、好き」


 軽い声。

 でも“好き”が、人を褒める好きじゃなくて、

 “囲いがうまくいく”好きに聞こえた気がして――

 ミナトはもう一回だけ、息を吐いた。


「……で、これがさっき言ってた“委員会の台帳”ってやつ?」


「うん。帰還も委員会案件。ここは境界施設。俺たちは現場の保護担当」


 保護、という言葉は優しい。

 でも現場、と言われると急に生々しい。

 紙の匂いがする。台帳の匂いがする。


 ――レイヴの匂い。


 清潔なのに生々しい匂いが、喉の奥をほんの少しだけほどく。


(やめろ)

(落ち着くな)


 落ち着いたら、ここが“正しい”になる。


 ミナトはわざと明るい声を出した。


「委員会って、会社みたいだな。俺、そういうの慣れてるかも」


 言った瞬間、胃が少し冷える。

 慣れてるのは、書類とルール。

 慣れてないのは、書類とルールで“帰れなくなる”こと。


 レイヴは笑顔のまま、目だけを少し細くした。


「慣れてるのは助かる。……でも、頑張りすぎないで」


「俺、頑張るの癖なんだよね」


「知ってる。だから手順で止める」


 止める。守る。

 同じ音に聞こえるのが怖い。


「朝ごはん行こ。あと簡易検査。――手続きが進むと、帰還の準備も進む」


 “帰還”が細い糸みたいに残る。

 縋りたくなって、縋りたくなる自分が嫌で、ミナトは笑った。


「よし、手続き大好き人間になりまーす」


「ならなくていい」


 軽い否定が、妙に優しい。



 廊下は広い。

 足音が反響しすぎない床。白すぎない灯り。角が丸い壁。


 なのに、ふとした瞬間だけ“ズレる”。


 レイヴが止まっていないのに、影だけが羽毛みたいにざわっと揺れる。

 本人は動いてないのに。


 ミナトは見なかったことにして、歩幅を合わせる。

 合わせると安心する。安心するのが怖い。


 曲がり角で、重い足音がした。

 床が少しだけ鳴る。


 現れたのは、でかい。

 肩幅も胸板も、普通に“強い”。

 なのに――腰の捻りと、手の振りがやけに艶っぽい。


「やぁだぁ、ミナトちゃん……じゃなくて、ミナト! 起きたぁ?」


 低いのに、語尾だけが柔らかい。

 笑顔が派手で、圧があるのに怖くない。


 ミナトは反射で背筋を伸ばした。

 こういうタイプ、現実にいたら絶対に目立つ。


「お、おはよ……? え、誰。」


「おはよぉ。アタシ、ゴルドっていうのよ。よろしくねぇ。顔色、まあまあねぇ。水、飲みなさい」


 ゴルドは言い切ると同時に、水を差し出してきた。

 押し付けじゃない。必要なタイミングを読んだ動き。

 筋肉の塊みたいな腕が、妙に丁寧だ。


 ミナトは受け取って飲む。


「え、ありがとう。俺、そんな喉乾いてる顔してた?」


「してるわよぉ。あとね、無理して笑ってる顔もしてる」


 ミナトは一瞬だけ息が詰まった。

 でも、へこたれないのが自分の武器だ。


「うわ、こわ。プロファイラー? いやゴルドさん、筋肉で人の心読めるタイプ?」


「筋肉は裏切らないのよぉ。……心は裏切るけどねぇ」


 冗談みたいに言われて、ミナトは笑ってしまった。

 笑うと喉が楽になる。

 楽になるのが怖い。


 もう一人、細い影が近づいてきた。

 ぱっと見天使かと思った。金髪碧眼の美少年。

 姿勢が正しくて、視線が冷たい――余計なものを入れない目。


「朝からうるさいと思ったら」


 天使はミナトを一瞥し、首元の札を見る。

 眉がほんの少し動く。


「……成――」


 言いかけて止まる。

 代わりに札の表示をそのまま読む。


「……ミナト。保護対象の人間だな」


 言い直しの一拍が、妙に刺さる。

 “真名”の扱いが違う。

 常識が違う。


 ミナトは気づいたふりをしない。

 ミナト自身が、今は追いつけない。


「うん、ミナト。よろしく。えーと、誰さん?」


「リュカでいい」


「じゃ、リュカ。俺のこともミナトでいいよ。名札あるし」


 ミナトが笑って札を指で弾くと、金属が小さく鳴った。

 その音が、妙に身体の奥に響く。


 リュカが小さく息を吐く。


「……軽いな」


「軽くしないと折れそうなんだよね、俺」


 ぽろっと本音が出て、ミナトは自分で驚いた。

 言うつもりじゃなかったのに。


 ゴルドが一瞬だけ目を細める。

 リュカも、目の角度がほんの少し変わる。


 レイヴだけが笑顔のまま言った。


「それ、いい。折れそうなら支える」


 支える、という言葉が抱きしめるみたいに聞こえてしまって、ミナトは喉の奥がきゅっとなる。


(やめろ。近づくな)

(……でも助かる)


 矛盾が胸の中でひりひりする。


「食堂、案内するわよぉ。ミナト、胃に入れなきゃ顔色は保たないんだから」


 ゴルドは肩を揺らして歩き出す。

 背中が大きい。頼もしい。

 頼もしいが、頼もしいほど“ここにいる理由”が増える。


 リュカが淡々と続けた。


「記録は俺が回す。委員会に送る分も」


 委員会。

 その単語が、ここが“制度”の場所だともう一度釘を刺す。


 ミナトは笑ってみせた。


「うわ、ほんとに会社みたいだな。俺、こういうの慣れてるかも」


 胃が冷える。

 慣れてるほど、逃げ道が無くなる。


 それでも笑う。

 笑うのが、自分の役目みたいになっているから。



 食堂のスープは優しい味だった。

 舌に残るわずかな異物感がある。

 それがこの世界の味なのか、自分の緊張なのか分からない。


 ゴルドは無駄に騒がない。

 派手な口調のくせに、食事の間はミナトの箸の進みと顔色ばかり見ている。


「ミナト、熱いの苦手? 冷ましてあげよっか?」


「いや、そこまで子どもじゃないです!」


「強がりぃ。かわいいわねぇ」


 “かわいい”が軽く投げられる。

 でも目が笑ってないわけじゃない。

 守るための言葉の投げ方だ。


 リュカは必要なことだけ話す。

 手順、規則、記録。

 言葉が冷たいんじゃない。余計な熱を入れないだけ。


 レイヴだけが、空気を軽くする。

 軽くしながら、手順に落とす。


 それが怖いのに、助かるのが悔しい。


「で、ミナト。単独外出、ダメ」


 レイヴがスプーンを置く。

 軽い声で、重いことを言う。


「出口、わかんなくなる」


「いやそれ、さっきも聞いたけど、どういう……」


「方向がほどける。歩いたつもりで戻ってきたり、戻ったつもりで奥へ行ったり」


 ゴルドが横から、やけに真剣な顔で付け足した。


「ほんとよぉ。ミナト、迷ったら“いい匂い”とか“安心”に引っ張られるから。勝手に」


 ミナトはスプーンを握る手に力が入った。

 安心に引っ張られる――それ、まさに今の自分じゃないか。


「……じゃ、俺、安心しないように頑張るわ」


「頑張らない」


 レイヴが即答する。


「頑張ると崩れる。境界はそういう場所」


 ミナトは笑って流した。

 流さないと、呑まれる。


「じゃあ俺、だらだらして生きます」


「うん、正解」


 正解、という言葉が怖い。

 ここで“正解”を覚えたら、帰るときに困る。


 でも、喉の奥は少しだけ楽だった。



 簡易検査は、輪っか状の魔具を手首に当てるだけだった。

 冷たい輪が皮膚をなぞって、光が走る。


 リュカが結果を淡々と読み上げる。


「適応値、低め。暴走リスクは現状低。……ただし空気に負けやすい。慣らしが必要」


 慣らし。

 人間に使う言葉じゃない気がして、ミナトの胃がひやっとする。


 レイヴが軽く肩をすくめた。


「だから言ったじゃん。急がない方がいい」


「急がないと帰れないだろ」


 ミナトが言い返すと、レイヴは笑う。


「帰るために急がない。――矛盾だけど、境界では正しい」


 ミナトは笑って誤魔化した。


 検査室の奥に、扉がひとつあった。

 閉じているのに、存在感だけが強い。

 空気がほんの少しだけ薄い。


 ミナトが視線を向けると、レイヴがさらっと言った。


「“門”はまだ見ない方がいい。帰還門。立つのは先」


 先。

 帰れるのは先。


 ミナトは頷くしかない。


「……うん。先延ばし、得意だから」


 言いながら胃が冷える。

 得意、なんて言葉で誤魔化せる距離じゃない。



 夕方、部屋に戻る頃には、ミナトの頭が熱を持っていた。

 身体じゃない。思考が疲れている。


 明るくして、笑って、分かったふりをして、

 それでも分からないものが多すぎて、脳が焼けそうだ。


 窓の外は相変わらず“どこでもない”。

 短く見るだけで、足場が薄くなる。


 ひとりになると急に不安が来る。

 明るく振る舞ってた反動で、息が浅くなる。


 ミナトはベッドに座って、膝を抱えた。

 笑ってみる。


「大丈夫大丈夫。……俺、こういうの何とかするタイプだろ」


 声が軽く震えた。


(……呼吸)


 思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。

 欲しい、みたいに。

 それが怖い。


 ミナトは首元の札に指を当てた。

 冷たい。

 冷たいのに、指先が熱い。


 呼ぶなら――こうだ。

 タグを握って、レイヴの名前を呼ぶ。


 ミナトは息を吸って、札を握った。

 爪が金属に当たる音が小さく鳴る。


「……レイヴ」


 声は小さかった。

 でも静けさに落ちて、妙に響いた。


 少し間があって、二回ノック。


「はーい。呼んだ?」


 扉が開く。

 レイヴがいつもの軽薄な笑顔で入ってくる。


「ほんとに来るんだ」


「呼ばれたら来る。俺の仕事だし。手順だし」


 仕事。

 またその言葉。


 でも今のミナトには、その言葉が救いだ。

 “ただの仕事”なら、落ちてもいい気がする。

 ――落ちたくないのに。


 レイヴはミナトの前にしゃがんだ。

 距離が近いのに、触れない。

 触れない距離の方が、効く気がする。


「……息、浅い」


 レイヴの指先が空中でミナトの喉元を示す。

 触れないのに、そこが熱くなる。


 ミナトは飲み込む。

 喉が鳴る。

 その音が恥ずかしいのに、止められない。


「今日はそれだけでいい。息、合わせよ」


 命令じゃない。

 提案。


 ミナトは頷いた。


「……お願い。落ち着きたい」


 レイヴが息を吸う。

 その音が聞こえた瞬間、ミナトの胸が少しだけ沈む。

 沈む――違う。

 “戻る”方向に寄る。


「目、閉じてもいい」


 ミナトは目を閉じた。


 レイヴの声は耳元じゃない。

 少し距離のある場所から、静かに届く。


「吸って……吐いて」


 ミナトは言われた通りにする。

 息が少しずつ深くなる。


 レイヴが数を数える。


「……いち。に。さん」


 その数が、ミナトの思考を短くする。

 言葉が減って、感覚が増える。


 喉がほどける。

 肩が落ちる。

 指先の震えが、少しずつ引く。


 ――楽。


 楽、が来た瞬間、ミナトは自分の中で何かが“覚えた”気がした。

 この声があれば戻れる。

 この手順があれば生きられる。


 それが怖いのに、嬉しい。


 レイヴは最後に言った。


「……はい。おしまい」


 ミナトは目を開けた。

 視界が少し澄んでいる。


「戻った?」


「……戻った」


 ミナトは笑ってしまった。

 笑ってしまうのが、怖い。


「やば。これ、効きすぎ。……俺、ちょろいな」


「ちょろいの、嫌?」


 命令じゃない。確認。


 ミナトは少し迷ってから首を振った。


「嫌じゃない。……助かる」


「うん。助かる方、選ぼ」


 レイヴは立ち上がる。

 帰る気配。


 ミナトは咄嗟に札を握った。

 冷たさが、もう怖いだけじゃない。


「……また、苦しくなったら呼んでいい?」


 言った瞬間、ミナトは自分が自分で“手順”を増やしたことに気づく。

 檻の棒を、自分で一本足した。


 レイヴは笑った。


「いいよ。呼べば来る」


 軽い。

 軽いのに、逃げ道が消える言い方。


 レイヴは部屋の端に置いてあった新しいリネンの束を指で示した。


「替え。タオルも入ってる。清潔にしとくと、落ち着くから」


 落ち着くから。

 理由が、優しい。


 ミナトは頷いて、レイヴを見送った。

 扉が閉まる。


 整えられた静けさが戻る。


 ミナトはリネンの束を手に取った。

 その中のタオルが、ふわりと指に触れる。


 匂いがした。


 夜の薬草の甘苦さと、乾いた紙の匂い。

 さっきレイヴが近づいた時の匂いと同じ。


 ミナトは思わず息を吸ってしまって、すぐに止めた。


(……なんか一瞬安心、する気がした)


 ここに来てまだ二日目だ。まだまだ慣れそうにない。


 でも首元の札には、薄く「ミナト」と表示されている。

 その文字が、まるで“ここでの自分”を先に決めているみたいで。


 ミナトはタオルを畳み直して、枕元に置いた。

 嗅ぐためじゃない。

 ただ、そこに置くだけ。


 言い訳を胸の中で繰り返しながら、布団に潜り込む。


 目を閉じると、さっきの数え声が残っている。


「いち。に。さん」


 喉の奥が静かにほどける。


(……俺、明日も笑えるかな)


 笑える。

 きっと笑える。

 笑うのが、俺の役目だから。


 そう思いながら、ミナトは首元の札を指で軽く押さえた。

 冷たさが、もう怖いだけじゃなかった。


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