Case-M #1
夜は、いつもみたいに始まった。
駅の改札を抜けて、コンビニの明かりを横目に見て、遠回りでも明るい道を選ぶ。理由なんてない。癖だ。暗い路地は避ける。人の気配がある方へ寄る。
それだけで“ちゃんとしてる自分”になれる気がする。
冷えた空気が頬に当たって、息が白くなる。
肺に入る空気が少しだけ痛い。冬の夜の、あの痛さ。
それが普通で、安心で、——だからこそ、次の違和感が際立った。
息が、落ちてこない。
吸ったはずの空気が喉のところで止まって、胸まで届かない。肺の手前で透明な膜に弾かれて、吸気だけが浅く跳ねる。呼吸が、体の外側だけで起きている感じ。
「……っ、は……?」
足を止めた。
歩きながらでも笑って誤魔化せる程度なら、いつもならそうする。具合悪いのかも、風邪かな、くらいで済ませて、帰って、寝て、明日また笑って出社すればいい。
——そうやって、何度もやってきた。
だから、今も最初はそのつもりだった。
大丈夫。
平気。
へこたれない。
口に出す前に、頭の中で唱える。唱えた瞬間、喉がきゅっと縮んで、余計に空気が入らなくなる。
「……ちょ、待っ……」
胸がざわつく。
呼吸ができない、というより、“呼吸のやり方が分からなくなる”感覚に近い。
息を吸おうとすると、吸う場所が見つからない。吐こうとすると、吐く道が見つからない。
視界が一瞬、薄く揺れた。
街灯の輪郭が滲む。コンビニの看板が遠くなる。足元のアスファルトが、ぐにゃっと柔らかくなった気がして、慌てて踏ん張る。
——転ぶ。
そう思ったのに、転ぶ痛みが来ない。
代わりに、“落ちる”感覚だけが来た。
足元が抜ける。
胃が置いていかれる。音が遠くなる。冷えた夜の空気が、一瞬で消えて、代わりに——湿り気のない、乾いた匂いが鼻の奥に刺さった。
落下の時間は、短かったのか長かったのか分からない。
ただ、世界が一枚めくられる音だけがした。
次の瞬間、背中に硬い床の冷たさがあった。
——息が、入らない。
喉の膜が厚くなって、胸が膨らまない。
口を開けても、空気だけが浅く擦れて、肺まで届かない。
「……っ、は……っ……」
目を開ける。
暗い天井。金属の梁。淡い照明。
白くない。夜のまぶたの裏に似た光で、目が痛くならない。
なのに、その“優しさ”が逆に不気味だった。優しい光は、ここが“慣れた場所”である証拠みたいに見える。
施設。
そう思った途端、背中に汗がにじんだ。
病院じゃない。駅でもない。学校でもない。
どこだ、ここ。何が起きた。
考えようとすると、息がさらに浅くなる。
頭が先に回って、体が遅れる。いつもの癖だ。まず“状況を整理”してしまう。
整理できないと不安で、不安が増えると余計に息ができなくなる。
悪循環。
足音が近づいた。
規則正しい。急がない。焦らない音。
それが余計に怖かった。焦ってない足音は、“ここが日常”だと言っている。
「……起きてる?」
声が落ちてきた。
低い。静か。なのに輪郭がはっきりしている。耳の奥に残る。
顔を上げると、男がしゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた。
長身。黒に近い髪。暗い目。
でも口元は笑っている。軽い。人当たりのいい“お兄さん”の笑い方。
その笑顔が、場を壊さないためのものだと分かってしまう。——分かってしまうくらいには、俺も同じことをしてきた。
なのに、目の使い方が違った。
人を見る目じゃない。状態を見て、順番を決める目だ。
「立てそう?」
「……だい、じょ——」
言いかけて、息が詰まった。
喉が勝手に鳴る。情けない音。焦りが胸の奥で膨らむ。
焦るほど余計に吸えなくなるのが、また焦りを呼ぶ。
男は焦らない。
焦っている俺を“置いていかない”。
「息、合わせよ」
短く言って、手袋越しの指先が顎の下へ添えられる。
触れる直前に、一拍止まる。拒否できる余地を残すみたいに。
「今、吸えてない。……俺の声だけ聞いて」
命令っぽいのに、押しつけじゃない。
言い方が上手い。そういう種類の上手さ。
俺は反射で笑おうとして、口角だけが引きつった。
「……俺、こ……っ…ういうのあんま得意……っじゃなくて。」
「得意な人、あんまりいない」
軽薄な調子で言いながら、男は指を上げる。
合図みたいに。
「……一」
声が落ちるたび、喉の膜が薄くなる気がした。
「二」
胸の奥が、少しほどける。
「三」
肩が勝手に落ちた。
「四」
空気が入った。
肺がやっと仕事を始めたみたいに深く膨らむ。
それだけで泣きそうになるのが悔しい。
悔しいのに、楽だ。
「……っ、すげ……」
「うん。戻った」
当たり前みたいに頷かれる。
その当たり前がずるい。俺がずっと欲しかったものを、手順として渡してくる。
「……ここ、どこですか」
声が自分のものみたいで、少し安心した。言葉が出ると、世界が繋がる。
男は笑顔のまま、淡々と言う。
「境界施設。迷い込みの保護と、帰還の手順を回すところ」
“保護”という言葉が、優しいのに鍵の音を連れてくる。
“手順”という言葉が、正しいのに逃げ道を塞ぐ気がする。
男は立ち上がり、俺にも立つよう促した。
支える腕は強いが乱暴じゃない。重心が崩れない位置に、迷いなく手が来る。
——慣れている。
それが怖いのに、頼りたくなる。
「俺はレイヴ。担当」
名乗り方は軽い。笑顔も軽い。
でも立ち位置だけはぶれない。
俺は、つい、いつもの癖で明るく返しそうになって、飲み込んだ。
ここで“場回し”をやったら、たぶん二度と止められない気がした。
代わりに、短く頷く。
「……よろしく、お願いします」
言ってから気づく。
“お願いします”が、もう出てる。
レイヴはそれを笑わない。
笑わないのが、逆に安心を増やす。
「ここから先、ちょっと分からなくなる」
「……分からなくなる?」
「出口とか。戻り道とか。焦ると危ないから」
言い方が丁寧で、怖がらせる言い方をわざわざ避けている。
怖がるのを前提にして、怖くない道を用意する——そういう優しさ。
案内された廊下は静かだった。
白すぎない光。夜の灯りに近い明るさ。
空気には甘苦い匂いが混ざっている。薬草みたいな清潔さと、乾いた紙の匂い。台帳みたいな匂い。
落ち着く匂いだ、と体が先に理解してしまうのが悔しい。
「だから、タグをつける」
レイヴが歩きながら言った。
「君の位置と状態を拾う。倒れたら、誰かが“気づける”ようにする」
俺は思わず、冗談に逃げる。
「……倒れそうに見えます?」
「見える」
即答だった。
笑顔のまま容赦がない。
でも、その容赦のなさが責めじゃないのが分かる。——分かってしまうのが怖い。
部屋に通される。
温度がちょうどいい。毛布と水。椅子が一脚。
過不足がない。過不足がないってことは、選択肢が最初から狭いってことでもある。
レイヴは細い金属の輪を取り出した。
首にかける札みたいなもの。薄い板に、紋様が刻まれている。淡い光がすっと走る。
「痛くない。……嫌なら止める」
止める、と言いながら手は近づいてくる。
でも、触れる直前に一拍置く。拒否の隙がある。
俺はその隙に、笑ってしまう。
「……こういうとき、断れない性格って損ですね」
口に出した瞬間、しまったと思った。
自分で言うと、軽い冗談みたいに聞こえるのに、内側は全然軽くない。
“断れない”は、今まで何度も俺を助けてきて、何度も俺を削ってきた。
レイヴは、その言葉を笑い飛ばさなかった。
笑って終わらせるのが簡単な場面で、簡単な方を選ばない。
「損、って言えるのは余裕がある証拠」
さらっと言う。軽薄に聞こえるのに、妙に丁寧だ。
俺の表面にある“明るさ”を、そのまま褒めない。否定もしない。
ただ、そこに体温みたいなものを一滴落とす。
「……余裕、あります?」
「今は、作る。手順で」
手順、という言葉がまた出る。
正しさの形をした言葉。逃げ道がないのに、安心の匂いがする言葉。
レイヴはタグ——薄い金属の輪を、指先で持ち直した。
首にかける札みたいに見えるのに、装飾じゃない。薄い板に刻まれた紋様が、淡く脈打つ。
俺はそれを見ているだけで、喉の奥がきゅっと縮んだ。
嫌だ、と言いたいわけじゃない。
ただ、“これをつけたら”何かが始まる気がする。
なのに、目が離せない。
「確認」
レイヴが言った。
優しい声で言うのに、そこだけ妙に硬い。
「意識ははっきりしてる? 吐き気は? 痛いところは?」
質問の並びが、病院の問診みたいで。
それが逆に、ここが病院じゃないことを際立たせる。
「……吐き気は、ないです。痛いところも……たぶん」
「“たぶん”ね」
レイヴが笑う。軽い笑い方。
でも、その軽さが、俺を馬鹿にする軽さじゃない。
「じゃあ次。首元、触る。嫌なら言って」
言いながら、手は近づいてくる。
触れる直前に一拍止まるのも、さっきと同じだ。
断る隙をくれる。
——隙をくれるのに、断らない俺を見越している気もする。
俺は喉の奥で、息を吸った。
さっきみたいに、ちゃんと入る。入ってしまう。
「……大丈夫、です」
言った瞬間、首の後ろが熱くなる。
自分で選んだみたいに聞こえる言葉を、今、俺は選んだ。
レイヴの指先が襟元に触れる。
衣擦れの音が、小さく耳に残った。
次の瞬間、ひやりとした感触が首筋に落ちる。
冷たい。
痛くはない。けれど、冷たさが“印”みたいに残る。
——喉の奥が、ふっと軽くなる。
さっきまで膜が張っていた場所が、薄くなる。
呼吸が、するりと通る。
「……え」
思わず声が出た。
驚いたのは、冷たさじゃない。
俺の体が、勝手に“落ち着く”方向へ傾いたことだ。
怖いはずなのに。
怖さが、少しだけ下がる。
レイヴは、覗き込むように俺を見る。
目は真面目だ。笑顔は軽いままなのに、目だけが仕事をしている。
「変な感じする?」
「……する、けど……悪い感じじゃない、です」
「うん。正しい反応」
正しい、と言われて、背中がぞくりとした。
“ここでの正しい”が、どこからどこまでなのか分からない。
タグの薄い板が、淡く揺らいだ。
光が走って、文字が浮かびかける。
——けれど、完成しない。
出かけた文字が、霧みたいに揺れて、また薄くなる。
「……出ない」
俺が言うと、レイヴは平然と頷いた。
「未発動。いまは“仮”でいい」
仮。
その言葉は、本来なら軽いはずなのに、首元では重い。
レイヴは、タグの表面を指先で軽くなぞった。
手袋越しの動きなのに、触れ方が妙に丁寧で、目が離せない。
そして、俺の目線に気づいたのか、軽い調子で言う。
「……見てる?」
「見てます」
即答してしまった。
自分でも驚くくらい素直な返事だった。
レイヴが笑う。
「かわいい反応」
軽薄。
だけど、そこで終わらせない。
「タグの表示はね、焦ってると立ち上がりにくい。だから急がない」
説明じゃない。言い聞かせでもない。
“急がない”を選んでくれる言い方。
俺の喉が、また鳴った。
「……俺、焦ってます?」
「うん」
即答。
それなのに、優しい。
「でも、ちゃんと息できてる。だから、いまは合格」
合格、って言葉が可笑しくて、俺は笑いそうになる。
笑ってもいいのか迷って、結局、口角だけが上がった。
「……俺、試験受けに来たんですかね」
「そういう日もある」
レイヴはさらっと言った。
まるで、世界がこういうものだと知っているみたいに。
俺は、気づいた。
レイヴは俺の名前を聞いていない。
——なのに、俺は名前の話をしてしまいそうになる。
危ない。
ここで本名を口に出したら、何かが“引っかかる”気がする。
喉の奥が、きゅっと鳴る。
レイヴは、その小さな変化を見逃さない。
「息、浅くなった」
言って、指を上げた。
また、あの合図。
「一緒にやろ」
俺は、悔しいのに頷いてしまう。
こういうの、悔しい。悔しいけど、助かる。
「……一」
レイヴの声が落ちる。
「二」
喉の奥がほどける。
「三」
胸が広がる。
「四」
息が、入る。
——怖さが、少し下がる。
俺は自分に腹が立った。
こんなに簡単に、誰かの声で落ち着くなんて。
でも、その腹立たしさを飲み込むのも、いつもの癖で。
代わりに、明るく言う。
「……レイヴさん、仕事できすぎじゃないですか」
「ありがとう」
さらっと受け取る。
謙遜しない。否定しない。
そのまま次に進む。
「で、呼び名」
俺の心臓が小さく跳ねた。
名前の話。
今は危ない。なのに、逃げられない。
レイヴはタグを軽く叩く。
「未発動でも、“仮称”は出る。見える人には」
見える人には。
その言い方が、ぞくっとする。
タグの表面をよく見ると、文字になりきらない淡い輪郭が、確かに揺れている。
霧の中の看板みたいに、読めそうで読めない。
レイヴが、その輪郭を、迷いなく口にする。
「……ミナト」
呼ばれた瞬間、背中がぞくりとした。
真名じゃない。フルネームでもない。
なのに、首元に落ちた冷たさと一緒に、体の奥へすっと染みる。
「……ミナト」
俺は、知らないのに繰り返した。
繰り返してしまう自分が怖い。
でも、声にすると呼吸が楽になる。
レイヴが軽く笑う。
「仮称としては、悪くない」
悪くない、という言い方がずるい。
“いい”と断言しないのに、もう“採用”みたいに聞こえる。
俺は冗談に逃げる。
「……じゃあ、今日だけ、それで」
“今日だけ”。
自分の口癖が、また出る。
レイヴは頷いた。
「うん。今日だけ。……ミナト」
呼ばれる。
呼ばれるだけで、胸の奥が少し落ち着く。
怖い。
怖いのに、嬉しい。
その混ざり方が、いちばん危ない。
レイヴは、部屋の中を指さした。
椅子。水。毛布。
「座れる?」
「……座れます」
俺は椅子に腰を下ろした。
座った途端、膝の力が抜けたのが分かる。
さっきまで立っていられたのは、気が張っていただけだ。
レイヴは水を取って、ふたを開け、俺の手元へ置いた。
手渡しじゃない。“置く”。
距離の取り方が、絶妙に上手い。
「一口。飲めそうなら」
命令じゃない。
提案の形をしている。
でも、断ったら自分が損をするのが分かる提案だ。
俺は水を持つ。
指先が少し震えて、ボトルが小さく鳴る。
「……俺、震えてますね」
「うん」
即答。
でも、笑わない。
「普通。迷い込みは身体が追いつかない。だから、いまは追いつかせる」
追いつかせる。
その言葉が、優しいのに、管理の手触りがする。
俺は一口飲んだ。
水が喉を通る。冷たくて、現実味がある。
——現実味があるのに、現実じゃない。
部屋の匂いが、少しだけ鼻に馴染む。
薬草の甘苦さ。乾いた紙。清潔さ。
落ち着く匂いだ、と体が言う。
腹が立つ。
「……ここ、慣れてる匂いしますね」
口に出したら、自分でも変な言い方だと思った。
なのに、レイヴは否定しない。
「日常の匂いにしてる。迷い込みは、日常に弱いから」
俺は目を瞬いた。
今の、ちょっと刺さった。
日常に弱い。
俺は、日常を守るためにいつも笑ってる。
でも本当は、日常にしがみついてるだけだ。
レイヴは、その“刺さり”を見て、軽い調子に戻す。
「ミナト、目の下、疲れてる」
「……それ、初対面で言います?」
「言う。倒れたら困る」
困る。
その言葉が、妙に優しい。
「俺、仕事で困るの嫌いなんだよね」
軽薄に言う。
でも、その軽薄さが、俺の心臓を少しだけ軽くする。
——ずるい。
レイヴは小さな端末みたいなものを取り出した。
書くのではなく、確認するだけの仕草。
機械の光は弱く、部屋の明るさを壊さない。
「今日は“保護”として預かる。帰還は、明るくなってから考える」
断言しない。
否定もしない。
今夜の正解だけを置く。
俺は頷いた。
頷きながら、喉の奥がまた鳴った。
「……帰りたい、はずなんですけどね」
自分で言って、笑いそうになる。
笑ったら、たぶん、涙が混ざる。
レイヴは俺を見て、ゆっくり言う。
「帰りたい、って言えたのが強い」
褒められると固まる癖がある。
だから俺は、また冗談で逃げた。
「……俺、今日だけで褒め判定多くないですか」
「いいところ、見つけるの得意なんだよね」
軽薄に返されて、変に救われる。
救われてしまうのが怖い。
レイヴは立ち上がった。
仕事の動き。迷いがない。
「——寝られそう?」
「……寝るの、怖いです」
言ってしまった。
初対面に、こんなこと言うタイプじゃない。
でも、言えた。
レイヴは、そこで笑わなかった。
からかいも、しない。
「そりゃそうだ。怖いのが普通」
普通、と言われて、少しだけ胸が落ちる。
「じゃあ、寝る前に一個だけ。——ここは“出られない”んじゃなくて、“出方が分からなくなる”だけ」
言い方がずるい。
希望の形をしているのに、出口の鍵は握ったまま。
でも、俺の胸は少しだけ落ち着いた。
「……分かった」
「うん。分かった、って言えるのも偉い」
「また偉い……」
俺が笑うと、レイヴも軽く笑った。
その笑い方が、職務の笑い方と、人の笑い方の中間みたいで——俺は目を逸らした。
見てしまうと、安心が増える。
安心が増えると、俺は弱くなる。
レイヴは、扉の方へ一歩引いた。
距離を取る。逃げ道を残す。
「今日はここ。見回りは入る。——驚かないで」
「見回り……」
「保護だから」
保護、という言葉がまた出る。
優しい顔をした、鎖の言葉。
俺は息を吸った。
ちゃんと入る。
首元の冷たさがまだ残っていて、そこに“ミナト”という音が引っかかっている。
「……わかりました」
レイヴが頷いて、最後にもう一度だけ言った。
「おやすみ。ミナト」
扉が閉まる。
音は静かで、鍵の音もしないのに、俺の背中にだけ“閉まった”感覚が残った。
——怖い。
でも、呼吸は乱れない。
俺はベッドに横になって、天井を見た。
淡い光。金属の梁。
ここがどこなのか、まだ分からない。
なのに。
ミナト、と呼ばれた音だけが、喉の奥で温かく残っている。
それが、怖いくらい嬉しかった。
[newpage]
扉が閉まったあと、部屋は驚くほど静かだった。
静か、というより——「余計な音がない」。
冷蔵庫の唸りも、隣室の生活音も、外の車の走行音もない。都会の夜にいつも貼り付いている薄いノイズが、ここにはない。
だから、自分の呼吸の音がやけに大きい。
すぅ、と吸って。
はぁ、と吐く。
さっきまで詰まっていたはずの息が、今はちゃんと通る。
胸の奥が膨らむ感覚がある。
……あるのに。
安心より先に、ぞわっとした不安が背中を這った。
こんなに簡単に“整う”のが怖い。
整ったまま眠ってしまったら、起きたとき、また違う場所にいる気がする。
ベッドに横になったまま、首元をそっと触る。
タグの冷たさは薄く残っていて、肌の上に小さな「在る」を作っている。
鎖じゃない。首輪でもない。痛くもない。
でも——自分が自分であるための“境目”に、印が置かれた感じがする。
やめて、と言えるはずだった。
嫌なら止める、と言われた。
触れる直前に、ちゃんと一拍置かれていた。
なのに、俺は止めなかった。
俺は、うなずいた。
そのことが、少し遅れて胸の奥に刺さる。
「……おやすみ、ミナト」
あの声が、まだ喉の奥に残っている。
呼び名ひとつで、こんなに呼吸が落ち着くなんて、知らなかった。
知らなかったのに、身体がもう覚えてしまったみたいで腹が立つ。
それでも、俺は布団の端を握った。
ぎゅっと掴むと、手のひらに確かな感触が返ってくる。
現実だ、と言い聞かせるための手触り。
深呼吸をしようとして、ふと、息が白くならないことに気づく。
当たり前だ。
ここは外じゃない。
でも、その当たり前が、急に心細い。
……俺、今どこにいるんだ。
考え始めると、喉の奥がきゅっと狭くなる。
息が浅くなる。
やばい。
また戻る。
さっきの、あの膜に。
自分を落ち着かせるために、頭の中で「大丈夫」と唱えようとして——やめた。
さっき、唱えたら余計に苦しくなった。
代わりに、数える。
一。
二。
三。
吸って、吐いて。
数えることに集中すると、思考が少しだけ黙る。
……これ、レイヴのやり方だ。
自分の中に、他人の手順が入り込んだみたいで、また腹が立つ。
なのに、少し楽になる。
矛盾してる。
天井の梁を目で追って、数える。
一本、二本、三本。
そうしていると、ふいに、廊下の方から小さな音がした。
足音。
規則正しい。急がない。焦らない。
さっきと同じ種類の足音。
心臓が跳ねる。
身体が勝手に布団の中で固まる。
見回りは入る、って言ってた。
分かってる。分かってるのに、怖い。
扉の向こうが、こちらの都合で止まらないのが怖い。
足音が近づいて、止まる。
扉の前で、空気が一瞬だけ張りつめる。
——ノック。
控えめで、間の取り方が上手いノックだった。
返事を待つための間が、ちゃんとある。
それでも、声が出ない。
喉が固まる。
……どうする。返事しないと、入ってくる?
でも、入るって言ってた。“驚かないで”って。
その言葉が、優しいのに、逃げ道を塞ぐ。
もう一度、ノック。
「ミナト。起きてる?」
呼び名が先に来る。
そのせいで、反射で呼吸が少しだけ落ち着いてしまう。
悔しい。
でも、返事はしないといけない。
「……起きて、ます」
かすれた声になった。
情けない。でも出た。
扉が開く音は静かだった。
鍵の音もしない。なのに、開いた瞬間の空気の流れで“境界”が動いたのが分かる。
部屋の中の温度と、廊下の温度が混ざる。
レイヴは入ってきても、距離を詰めない。
扉の近くに立ったまま、視線だけで俺を確認する。
「眠れそう?」
「……まだ」
答えた瞬間、喉の奥が鳴った。
言ってしまった、と思う。
弱いところを見せるのは得意じゃない。
得意じゃないのに、ここでは出てしまう。
レイヴはそれを笑わない。
「そうだよね。さっき落ちたばっか」
落ちたばっか。
その言い方が妙に現実的で、少しだけ救われる。
「水、飲めた?」
「……一口、だけ」
「それでいい」
“それでいい”が、肯定の形をしている。
俺の中の焦りが、少しだけほどける。
レイヴは一歩だけ前へ出た。
それでも、ベッドには近づかない。
近づかないのに、空気が支配される感じがする。
「……さっきより、目が冴えてる。息も浅い」
言い当てられて、胸が詰まる。
俺はまた冗談に逃げようとして、でも、逃げる言葉が見つからない。
「……自覚あります」
「うん。じゃ、短いのやろ」
短いの。
それが何か説明しない。
説明しないのに、こちらが察せる温度で言う。
レイヴは指を上げた。
あの合図。
「声、嫌じゃない?」
質問が、先に来る。
手順の前に、同意の形が置かれる。
それだけで、俺の胸が少しだけ落ちる。
「……嫌じゃ、ないです」
言った瞬間、自分で自分が怖い。
“嫌じゃない”が、どこまで本音なんだ。
助かるから言ってるだけじゃないのか。
でも、助かりたいのも本音だ。
レイヴの声が落ちる。
「一」
呼吸が、少しだけ深くなる。
「二」
喉の奥の膜が薄くなる。
「三」
肩が落ちる。
「四」
胸が、ちゃんと膨らむ。
……怖さの音量が、下がった。
レイヴはそこで終わらせる。
長引かせない。依存させるように引き延ばさない。
その切り上げ方が、真面目で、逆に怖い。
「いま、戻った」
当たり前のように言われて、俺は小さく息を吐いた。
吐いた息が震えない。
「……レイヴさん、これ……すごいですね」
言ってしまってから、媚びみたいに聞こえたら嫌だと思う。
でも、嘘じゃない。俺は実際、助かってる。
レイヴは軽く笑った。
「すごいのは俺じゃなくて、君の身体。混乱しても、ちゃんと戻る」
“戻る”。
その言葉が救いの気がする。ここで救いに寄りかかったら、もう立てなくなる気がする。
俺は視線を落とした。
首元の冷たさ。そこに残っている、薄い金属の感触。
「……このタグ」
言い直すと、喉が少しだけ詰まった。
“これ”じゃなくて、“タグ”って呼んだ途端に、現実味が増す。
「……外せないんですか」
聞いた瞬間、心臓が一拍遅れて鳴った。
答えを聞きたいのに、聞きたくない。
レイヴは一拍置いた。
考えるふりじゃない。言葉を選ぶための間。
「外すのは、できる」
できる。
その単語だけで、胸が少し軽くなる。
軽くなるぶん、次が怖い。
「ただ、今外すと迷いが強くなる。今日の君には負担が大きい」
“君のため”の言い方だ。
拒否しづらい。拒否したら、俺が悪いみたいになる。
俺は唇を噛んだ。
反射で笑いそうになって、笑わなかった。
「……分かってます」
分かってる。
安全のため。
保護のため。
でも、言わないと——自分の中で理由が腐る気がした。
「……俺、こういうの……苦手で」
喉の奥が熱くなる。
“こういうの”で濁すのも癖だ。
だけど、濁したままだと、ここでは飲み込まれる気がして。
俺は小さく息を吸って、続きを言う。
「首に“印”があるって、落ち着かないんです。……自分のものじゃなくなる感じがして」
言った瞬間、胸の奥がひやっとした。
言い過ぎたかもしれない。
でも、言わないと、俺はたぶん笑って済ませて、あとで壊れる。
レイヴは俺を見て、笑わなかった。
否定もしない。
その代わり、声を落とす。
「……そう感じるのは普通」
普通、と言われて、少しだけ胸が落ちる。
「今夜は“印”じゃなくて、“手すり”だと思って。転びそうなときだけ掴むもの」
手すり。
やさしい言い換えなのに、握らされてる感じがするのに胃の奥がヒヤッとした。。
でも、俺の喉の膜が少し薄くなるのも分かる。
「……手すり」
俺が繰り返すと、レイヴは頷いた。
「怖い?」
「……怖いです」
言えてしまった。
言えたことが、一番怖い。
レイヴはそれを拾って、短く肯定した。
「怖いままでいい。怖いのに、息できてる。——それで十分」
十分。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
俺はタグに指先を当てた。
冷たい。
冷たいのに、呼吸が通る。
「……もし、何かあったら」
言いかけて、言葉が詰まる。
“何か”なんて曖昧なままにしたいのに、曖昧だと置いていかれる。
レイヴが先に言った。
「呼べる」
「……どうやって」
レイヴは、俺の首元——タグに視線を落とし、指先で自分の喉元を軽く示した。
「タグを握って、俺の名前を呼んで。小さくていい」
“俺の名前”。
それが、鍵のかかった言葉みたいに聞こえる。
俺は恐る恐る、タグを握った。
金属が指先に当たって、ひやりとする。
その冷たさが、やけに現実的で、少しだけ安心もする。
「……レイヴ、さん」
小さな声。
でも、言った瞬間、空気がすっと整った気がした。
レイヴは、笑わないまま頷いた。
「うん。拾える」
拾える、という言葉が鍵の音をするのに、
今はそれが救いの音にも聞こえるのが悔しい。
レイヴは一歩下がって、扉の方へ戻る。
距離を取る。逃げ道を残す。
「今夜の見回りは、もう一回だけ。そのあとは朝まで入らない。——それでいい?」
それでいい?
質問の形が置かれて、少しだけ息が楽になる。
「……はい」
「うん。じゃ、おやすみ。ミナト」
扉が閉まる。
音は静かで、鍵の音もしない。
俺は布団の中で、まだタグを握っていた。
指先が少し痺れているのに、放せない。
成宮湊、という自分の名前が喉の奥で疼く。
でも、今夜は言わない。
代わりに、もう一度だけ小さく呼ぶ。
「……レイヴさん」
それだけで、呼吸が深く入った。
怖いくらい、簡単だった。
========-
扉が閉まった。
音は静かで、鍵の音もしないのに——閉まった、と身体だけが分かっている。胸の奥に薄い板を当てられたみたいな感覚が残る。
俺は布団の中で、まだタグを握っていた。
ひやり、とした金属が指先に張りついている。
冷たいのに、妙に落ち着く。
落ち着くのが腹立たしい。
ゆっくりと手を緩める。放したくない、みたいに一瞬だけ指が粘った。そんな自分に気づいて、顔が熱くなる。誰も見てないのに。
「……落ち着け」
声に出すと、余計に緊張が上がる。
自分の声が、この部屋で浮いて、天井に吸われていくみたいで。
だから、また数える。
一。
二。
三。
吸って、吐く。
息がちゃんと胸まで落ちる。肺の奥が膨らむ。
それだけで、身体が“まだ生きてる”って実感する。
——さっきまで、死ぬかもって思ってたんだっけ。
思い出そうとすると、喉の奥がきゅっと狭くなる。
膜が戻ってくる気配がする。
俺は慌てて、視線を天井へ戻した。
金属の梁。
淡い光。
眩しくないのに、逃げ道がない明るさ。
布団の端を握りしめる。
指先に布の摩擦が返ってくる。
そういう“手触り”が、現実の証拠になる。
部屋の匂いが、さっきより少しだけ分かるようになってきた。
甘苦い薬草みたいな清潔さ。
乾いた紙。
消毒の匂いほど鋭くない。むしろ、奥に柔らかさがある。人がいる場所の匂いだ。
……日常の匂い。
さっきレイヴが言った言葉が、遅れて刺さる。
日常に弱い。
俺は、いつも日常を守るために笑ってる。
守れてないのに、守ってるふりをするのが上手い。
その上手さが、ここだと“馴染みやすさ”になってしまうのが、嫌だ。
首元に指を当てる。
タグ。
冷たさは薄れているのに、そこだけ肌の感覚が敏感だ。
触れるたびに、呼吸が一拍だけ整う気がして——だから触りたくないのに、触れてしまう。
俺は手を引っ込めて、目を閉じた。
寝ない。
寝なくていい。
横になって目を閉じるだけ。
レイヴが言った通りにする。
その通りにするのが、悔しい。けど、助かる。
しばらく、何も起きない。
それが怖い。
何も起きない時間って、考えが戻ってくる時間だから。
成宮湊。
喉の奥で、名前が疼く。
言いたくなる。言って確かめたくなる。俺は俺だって。
でも、言うのが怖い。ここで言ったら、何かが“引っかかる”気がする。
だから、口の中でだけ転がす。
な・る・み・や。
み・な・と。
音にしない。音にしたら、部屋がそれを拾って、どこかへ運びそうで。
……馬鹿みたいだ。
馬鹿みたい、って思えるうちはまだ大丈夫だ。
そうやって自分を笑えるうちは、まだ“こっち側”にいる。
息を吸う。
吐く。
それでも、指先が勝手に動く。
布団の上を探って、首元に触れそうになって、止まる。
タグに触れたら、安心が入ってくる。
安心が入ってきたら、俺は——ここに馴染む。
馴染みたくない。
でも、馴染めたら楽だ。
その矛盾が、胸の中で静かに膨らむ。
廊下の方で、遠くから小さな音がした。
足音。
さっきより遠い。誰かが通り過ぎただけの音。
規則正しい。急がない。
“ここが動いている”という証拠。
俺は息を止めた。
止めて、すぐ後悔する。
息を止めると、膜が戻る。
レイヴの声がないと戻る——そんな風に身体が覚え始めているのが、嫌でたまらない。
慌てて息を吐く。
吸う。
……大丈夫。
まだ、ひとりでも吸える。
自分に言い聞かせるために、指をぎゅっと握る。
今度はタグじゃない。自分の手。
爪が手のひらに食い込んで、痛みが返ってくる。
痛いのは、現実だ。
現実なら、まだ戦える。
それでも、眠気がじわじわと寄ってくる。
布団の重みが心地よく感じるのが、怖い。
心地よさは、判断を溶かす。
俺は目を閉じたまま、浅く笑った。
「……俺、ほんと損だな」
小さく吐いた声は、すぐ天井に吸われた。
誰にも届かない。
——だからこそ、少しだけ本音になる。
しばらくして。
首元が、かすかに熱を持った。
熱い、というほどじゃない。
薄い温度が皮膚の内側を撫でていく感じ。
俺は目を開けて、反射で首元を押さえた。
タグの表面が、微かに光っている。
さっきは霧みたいに揺れて、文字にならなかった輪郭。
それが、今は一瞬だけ、形になりかけた。
——ミ。
そこまで見えた気がした瞬間、心臓が跳ねる。
呼吸が乱れそうになって、慌てて息を吸う。
入る。
まだ入る。
俺はタグから手を離した。
触れたら、立ち上がってしまいそうで。
光はすぐに弱くなって、また未発動の曖昧な揺らぎに戻った。
……なんだよ、それ。
呼び名が勝手に近づいてくる感じがして、背中がぞくりとする。
俺の都合じゃない。
ここが決める。
ここが、俺を呼ぶ。
怖い。
でも、同時に——呼ばれたくもある。
俺は唇を噛んだ。
噛んで、吐いた。
呼びたい。
レイヴを。
タグを握って、名前を呼べば拾えるって言った。
拾える。
助けの言葉みたいに言ってた。
——でも。
今、呼んだら。
俺はきっと、もう少しだけ楽になる。
楽になったら、もう少しだけ、頼ってしまう。
その“もう少し”が積もるのが、一番怖い。
だから、呼ばない。
呼ばない代わりに、数える。
一。
二。
三。
四。
息が整う。
怖さの音量が、少し下がる。
俺は布団の中で丸くなった。
タグには触れない。
でも、そこにある冷たさだけは意識してしまう。
目を閉じる。
暗闇は来ない。
この部屋の淡い光が、まぶたの裏を薄く照らす。
そのまま、意識がゆっくり沈んでいく。
落ちる、じゃない。
沈む。
沈む途中で、ふと、誰かの声がした気がした。
——ミナト。
レイヴの声じゃない。
俺の頭の中の音でもない。
もっと遠い、もっと均一な、“ここ”の声。
背中が冷たくなる。
目を開けたいのに、開けられない。
呼吸だけは、なぜか乱れない。
……怖いのに、整ってる。
それが、この施設の正しさなんだろうか。
---------------------------------
——ミナト。
声がした気がした。
耳で聞いたというより、皮膚の内側を撫でられたみたいな、均一な音。
言葉なのに、息の流れと同じ場所を通ってくる。
背中が冷たくなる。
目を開けたいのに、まぶたが重い。身体は布団に沈んだまま、動く気配がない。
……やばい。
焦ると危ない。
レイヴの言葉が、遅れて浮かぶ。
焦るな。
焦るな、って思うほど焦る。
呼吸は乱れていない。
乱れていないのが逆に怖い。
怖いのに、整ってる。俺の身体が、俺の怖さに反応してくれない。
首元が、また、かすかに熱を持った。
熱、というほど強くない。
ただ、皮膚の内側がじわっと温まる感じ。
まるで「そこに意識を向けろ」と言われているみたいに。
俺は反射で首元へ手を伸ばした。
触れた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に吸いつく。
タグ。
握った、と思った瞬間。
視界の端が、薄く歪んだ。
部屋の角が、増える。
増える、というより、同じ角が重なっていく。
ベッドの位置が、ほんの少しだけ遠くなる。
——出口が、分からなくなる。
レイヴが言っていた“分からなくなる”が、いきなり現実になる。
「……っ」
声が出ない。
喉が固まる。
息は入っているのに、声だけが出ない。
やばい。
このままだと、俺はここに溶ける。
溶ける、って何だよ。
馬鹿みたいだ。
でも、“そうなる”気配だけは分かる。身体が、境界に馴染んでいく感じ。
俺はタグを強く握った。
ひやり、とする。
冷たさが指先に刺さる。
その痛みっぽい感覚が、現実に繋がる。
——呼べる。
タグを握って、レイヴの名前を呼べば拾える。
小さくていい。
呼びたくない。
呼んだら、もう少しだけ頼ってしまう。
でも、頼らないと、このまま“分からなくなる”。
俺は息を吸って、吐いて。
喉をほどいて、絞り出す。
「……レイヴ、さん」
かすれた声。
情けないくらい小さい。
それでも、タグが掌の中で、ほんの少しだけ温度を持った。
冷たい金属が、かすかに生き物みたいに脈打つ。
そして、空気が変わる。
部屋の角の重なりが、ほどける。
ベッドの位置が元に戻る。
天井の梁の線が、一本に戻る。
——拾われた。
誰かに掴まれた、っていうより、落ちかけた足場が戻ってきた感じ。
次の瞬間、扉の外で足音が速くなる。
急がない音だったはずの足音が、必要な速さだけ持つ。
走らない。けど、遅くない。
ノックが二回。
「ミナト。入るよ」
短い声。
確認というより、事前通知。驚かせないための言い方。
扉が静かに開く。
レイヴは部屋に入ってきても、いきなり距離を詰めなかった。
扉の内側、半歩だけ入って、まず空気を見て、俺を見て、それから視線をタグに落とす。
目が真面目だ。
笑顔は軽いままなのに、目だけが仕事をしている。
「呼んだね」
責めない。
でも、“手順が機能した”ことを淡々と確認する声。
俺は布団の中で、タグを握ったまま頷いた。
頷くと、喉が小さく鳴る。
「……分からなく、なりかけました」
言ってしまってから、幼稚に聞こえたかもと思う。
でも、事実だ。
レイヴは笑った。
軽い笑い方。
「なりかけで止めた。偉い」
「また偉い……」
俺がぼやくと、レイヴは肩をすくめた。
「褒めるの得意なんだよね。仕事だから」
軽薄。
でも、その軽薄さが、今の俺には救いの形をしている。
レイヴは一歩だけ近づいた。
でも、ベッドの脇までは来ない。距離の線を越えない。
それが逆に、“ここでは勝手に踏み込まれない”という安心になる。
「いま、どんな感じだった?」
質問が先に来る。
勝手に結論を決めない。
俺は喉の奥で息を吸う。
言葉にすると、また起きそうで怖い。
でも、言わないと整理できない。整理できないと余計に怖い。
「……部屋の角が、増えたみたいになって。ベッドが遠くなって……出口が、どこか分からなくなりました」
言い終えた瞬間、胸がきゅっと縮む。
思い出しただけで、また起きそうになる。
レイヴは頷いた。
驚かない。否定もしない。
「それ、迷い込みの反動で出やすい、境界がこっちを“慣れさせよう・馴染ませよう”としてくる」
“馴染ませよう”。
その言葉が、ぞわっとする。
俺はここに馴染みたくない。馴染んだら、戻れなくなる気がする。
でも、レイヴの声はそこで止まる。
長く説明しない。
説明されると置いていかれるのを知ってるみたいに。
「いま、呼べたから大丈夫。——呼べたのが大事」
大事。
その単語が、胸の奥に落ちる。
俺はタグを握った手を見た。
指先が白くなっている。
握りすぎだ、と分かっているのに緩められない。
レイヴがそれに気づいて、軽い調子で言う。
「握りつぶさないでね。それ、薄いけど丈夫。……でも君の手が痛い」
痛い、と言われて初めて、自分の手のひらがじんとしていることに気づいた。
爪が食い込んで、赤く跡がついている。
俺は慌てて手を緩めた。
「……すみません」
「謝らなくていい。怖いのは普通」
また、普通。
その言葉が、俺の焦りの首を少しだけ締めゆるめる。
レイヴは指を上げた。
「息、いける?」
いける、って何だ。
聞かれた瞬間、俺の中で“手順”が自動的に立ち上がるのが悔しい。
でも、それが助かるのも分かってる。
「……お願いします」
やっぱり言ってしまった。
“お願いします”が、俺の口癖みたいに増えていくのが嫌だ。
レイヴは、そこを笑わない。
笑わないまま、声を落とす。
「一」
胸の奥が、少し広がる。
「二」
喉の膜が薄くなる。
「三」
肩が落ちる。
「四」
息が入る。
怖さの音量が、下がった。
レイヴはそこで止めた。
引き延ばさない。
助けを“長くしない”ことで、こっちがそれに縋りすぎないようにしている——そう見えるのが、また怖い。
優しさと管理が、同じ手で行われている。
「……戻った」
当たり前みたいに言われて、俺は小さく息を吐いた。
吐いた息が震えない。
「……レイヴさん、あの」
言いかけて、言葉が詰まる。
聞きたいことが多すぎる。
でも、全部聞いたら、全部“ここ”の中に取り込まれる気がする。
レイヴが待つ。
急かさない。
待つのも手順のうちみたいに。
俺は、ひとつだけ選ぶ。
「……俺、今の、また起きたら。……毎回、呼んでいいんですか」
“呼んでいい”なんて、都合のいい質問だ。
でも、都合よくないと生きられない夜がある。
レイヴは一拍置いて、軽い笑顔のまま言った。
「いいよ」
即答。
でも、そのあと、真面目な目で続ける。
「ただ、呼ぶのは“最後の手すり”にして。自分で息を戻せるときは、戻す。君の身体、ちゃんとできる」
手すり。
さっきの言い換えが、ここでも使われる。
俺は頷いた。
頷きながら、喉の奥がきゅっと鳴る。
“自分で戻せる”って言われると、少しだけ救われるのに、少しだけ突き放される。
レイヴは視線を落として、タグを見る。
「……今、表示が揺れたね」
俺の心臓が跳ねた。
見られてる。
見られてるのに、羞恥とは違う。もっと、生々しい怖さ。
「……さっき、ミって見えました」
言った瞬間、また角が増えそうになる気がして、息を吸う。
入る。
まだ入る。
レイヴは頷く。
「揺れは普通。焦ると揺れる。眠気でも揺れる。——落ち着くと固まる」
言い方が、淡々としていて。
淡々としているのに、“固まる”という言葉だけが重い。
固まる。
呼び名が固定される。
俺の呼ばれ方が、ここで決まる。
俺は思わず笑ってしまった。
へこたれない明るさ。こういうときに出るやつ。
「……俺、ペットの名前決められてるみたいですね」
言った瞬間、しまったと思った。
冗談にしていいラインじゃないのに。
でも、口に出したかったんだ。怖いって言う代わりに。
レイヴは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
笑顔が消えそうになって、でも消えない。
「その冗談、今夜はまだ早い」
軽い言い方なのに、線引きが硬い。
——手順の真面目さ。
俺は小さく頷いた。
「……すみません」
「謝らなくていい。君が怖いのを、笑いに変える癖があるだけ」
見抜かれている。
その見抜き方が、責めじゃないのが、また怖い。
レイヴは一歩だけ下がった。
扉の近くに戻る。距離を取る。
でも、声はちゃんと届く位置にいる。
「今夜は、“馴染ませ”がもう一回来るかもしれない」
来るかもしれない。
断言しない。
断言しないのに、準備だけはさせる。
「来たら、まず呼吸を戻す。戻せないなら、タグ握って俺の名前。——順番はそれ」
順番。
その言葉が、俺の中に“道”を作る。
俺は、喉の奥で息を吸って、頷いた。
「……分かりました」
分かったと言えると、少しだけ落ち着く。
落ち着くことが、ここに馴染むことと同じになりそうで怖いのに。
レイヴは軽薄に笑った。
「優等生だね、ミナト」
ミナト。
呼ばれた瞬間、胸の奥がすとんと落ちる。
悔しいくらいに。
俺は目を逸らして、ぼそっと返す。
「……褒めないでください」
「なんで」
「……嬉しくなるから」
言った瞬間、自分でも驚いた。
今日会ったばかりのよく知らない人に言うことじゃない。
でも、口から出てしまった。
レイヴは、ほんの一瞬だけ黙って。
それから、軽い笑顔で言った。
「じゃあ、嬉しくなっていいよ。今夜くらい」
今夜くらい。
その言い方が、優しいのに、危ない。
扉の方へ下がりながら、レイヴが最後に言う。
「眠れなくてもいい。目を閉じるだけでいい。呼吸が浅くなったら、数える。無理なら呼ぶ。——それだけ」
それだけ。
“それだけ”が、俺にとっては十分すぎる道標になる。
扉が閉まる。
今度は、閉まったあとも呼吸が乱れなかった。
乱れないのが、また少し怖い。
俺は布団の中で、タグに指先を当てた。
握らない。触れるだけ。
冷たさを確かめる程度に。
そして、目を閉じる。
——また、来るかもしれない。
来たら、まず呼吸。
次に、名前。
その順番を、喉の奥で反芻しながら。
俺は、ゆっくりと沈んでいった。
今度は、さっきみたいに“声”は聞こえなかった。
代わりに、首元の熱が、ほんの少しだけ落ち着いて。
タグの揺らぎが、一瞬だけ、形になる。
——ミナト。
見えた気がした。
そう思った瞬間、首元がじわっと熱を持って、胸の奥がすとんと落ちる。
落ちるのが怖くて、俺はすぐに目を開けた。
天井。
梁。
淡い光。
何も変わってない。
変わってないのに、身体だけが“変わった”気がする。
……今の、俺の気のせい?
気のせいだって言い切れない。
でも、言い切らなきゃ、ここに飲まれる。
俺は布団の中で、両手を胸の上に置いた。
タグには触れない。触れたら、また“簡単に整って”しまう気がするから。
息を吸う。
吐く。
一。
二。
三。
四。
数えながら、目を閉じる。
眠りたいわけじゃない。眠ってしまうのが怖い。
でも、意識を尖らせ続けると、さっきみたいに角が増える。
だから、沈む。
沈みすぎない程度に。
——その境目が、いちばん難しい。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
時計がない。スマホもない。
時間が掴めないだけで、人はこんなに不安になるんだ、と今さら思う。
薄い眠気が、波みたいに寄せてくる。
その波に、別のものが混じった。
空気が、ひゅっと薄くなる。
薄くなるというより、遠くなる。
音が遠くなる。部屋の輪郭が遠くなる。自分の身体だけが、布団の中で重く残る。
——来た。
レイヴが言っていた“馴染ませ”が、また来たんだと分かる。
心臓が跳ねる。
跳ねるのに、息は乱れない。
乱れないのが怖い。
視界の端で、部屋の角がまた重なり始める。
ベッドが、ほんの少し遠い。
毛布の手触りが、薄い。
自分の手が、自分のものじゃないみたいに感じる。
「……っ」
声が出そうで出ない。
喉が固まる。
——順番。
まず呼吸。
次に、無理ならタグを握ってレイヴの名前。
俺は焦りそうになるのを、必死で抑えた。
焦ったら危ない。
焦らないって、どうやるんだよ。
でも、やるしかない。
息を吸う。
吐く。
一。
二。
三。
四。
……入らない。
入る。
入ってるはずなのに、“入ってる実感”がない。
胸が膨らむ感覚が薄い。肺が遠い。
角が増える。
出口が分からなくなる。
俺は歯を食いしばった。
呼ぶな。すぐ呼ぶな。
さっき呼んだ。呼んで助かった。
助かったからこそ、次も呼びたくなる。
それが、怖い。
でも、このままだと——
指が勝手に動いた。
布団の上を探って、首元へ伸びる。
自分の意思より早い。
タグに触れた瞬間、ひやりとした冷たさが指先に刺さった。
冷たい。
現実だ。
……この冷たさが、手すり。
レイヴの言い方が、頭の中で蘇る。
腹が立つくらいちょうどいい例えだ。
俺は握り込まない程度に、タグを指でつまんだ。
握ってしまったら、もう“呼ぶ”方向へ転ぶ気がした。
そのまま、息を吸う。
一。
二。
三。
四。
入った。
今度は、入った。
胸の奥が少し膨らむ。
喉の膜が薄くなる。
角が、ほどける。
ベッドが戻る。
毛布の手触りが戻る。
自分の手が、自分のものに戻る。
俺はそこで、はぁ、と息を吐いた。
吐いた息が震えない。
……呼ばなくても、戻れた。
その事実が、嬉しいのに、悔しい。
嬉しいって思った自分が、また怖い。
この施設に“適応”したみたいで。
俺はタグから指を離した。
離して、布団の中で両手を握りしめた。
「……よし」
声に出すと、少しだけ現実が濃くなる。
よし、って、何がよしなんだよ。
でも、それでもいい。
へこたれない。
そういう自分でいるのが、今は手すりになる。
しばらくして、遠くで足音がした。
見回りじゃない。
巡回の音。日常の音。
その音を聞いて、俺のまぶたがまた重くなる。
今度の眠気は、さっきより少しだけ優しい。
俺は目を閉じた。
——眠ってもいい、とは思わない。
でも、目を閉じるだけなら、いい。
呼吸が胸の奥まで落ちるのを確かめながら、
俺はゆっくり沈んだ。
*
次に目を開けたとき、光の色が変わっていた。
夜の光じゃない。
朝の色に近い。薄い金色が、部屋の角に溜まっている。
……朝?
喉が乾いている。
でも、呼吸はできる。
胸がちゃんと膨らむ。
首元のタグは、冷たいままそこにある。
俺は上体を起こして、水を探した。
昨日置かれたペットボトルが、まだ半分残っている。
一口飲むと、喉が少しだけ生き返る。
そのタイミングで、控えめなノックがした。
二回。
間がある。
「入るよ」
声。
レイヴだ。
扉が静かに開いて、レイヴが入ってくる。
今朝の彼も笑顔は軽い。でも、目は変わらず仕事だ。
昨日の夜と違うのは——服の整い方と、手に持っている薄い板。
書類。
クリップボードみたいなもの。
「おはよ。……眠れた?」
おはよ、が軽い。
軽いから、俺の胸が少しだけ楽になる。
「……たぶん。途中、変な感じになって……でも戻れました」
「呼ばなかった?」
聞き方が詰問じゃない。
確認だ。手順が回ったかどうかの。
「……呼びそうになりました。でも、自分で戻しました」
言ってから、自分の声が少しだけ誇らしげに聞こえて、恥ずかしくなる。
誇るなよ。こんなの、誇ることじゃない。
でも、誇りたかった。
レイヴが目を細める。
「いいね。偉い」
「またそれ……」
俺がぼやくと、レイヴは肩をすくめた。
「褒めるの得意なんだよね。仕事だから」
同じ台詞なのに、昨日より少しだけ軽く聞こえる。
昨日は必死だった。
今日は、“朝”がある。
朝があるだけで、人はちょっと救われるんだな。
レイヴはクリップボードをベッドの近くの机に置いた。
置く。手渡ししない。距離の置き方が相変わらず上手い。
「水、飲めた?」
「はい。ありがとうございます」
「うん」
レイヴは短く頷いて、部屋をひと目見回す。
乱れてないか、というより、“異常がないか”の確認だ。
それから、淡々と言った。
「今日、帰還の相談に入る前に、委員会に出す最低限の記録を取る」
委員会、という単語が出た瞬間、喉の奥が少し固くなる。
昨日の夜は、聞くだけで刃物みたいに冷たかった言葉。
でも、今は。
朝の光があるぶん、少しだけ受け止められる。
レイヴは俺の顔を見て、軽い笑顔のまま言う。
「難しいことじゃない。質問に答えて、書く。——嫌なら止める」
また、逃げ道を先に置く。
置かれると、逆に断りづらいのも分かってる。
それでも、置かれないよりはマシだ。
俺は小さく頷いた。
「……やります」
「うん。じゃ、まず呼び名の確認」
呼び名。
胸がきゅっとなる。
レイヴは俺の首元を指ささない。
触れない。
それがありがたい。
「今、俺は君を“ミナト”って呼ぶ。混乱しにくいから」
理由を短く言う。
長く説明しない。
「で、書類には“本名”が要る」
本名。
喉の奥が疼く。
俺は視線を落とした。
クリップボードの一枚目。
欄がいくつか並んでいる。
そのいちばん上に、「氏名」の欄。
俺は指先でそこをなぞった。
紙の手触り。乾いた現実。
……成宮湊。
それが俺の名前だ。
昨日、口にしなかった。
怖かった。
ここで言ったら、何かが引っかかる気がして。
でも、朝の光の中で、紙の上なら。
文字なら。
音にしないなら。
——言える気がした。
レイヴは、俺の迷いを待つ。
急かさない。
その待ち方が、たぶんいちばん上手い。
「声に出さなくていい。書ける?」
俺は喉の奥で息を吸った。
胸まで落ちる。
まだ大丈夫。
「……書きます」
ペンが置かれていた。
俺はそれを取って、手が少し震えるのを感じながら、名前の欄に文字を書いた。
成宮 湊
書き終えた瞬間、首元のタグが、かすかに熱を持った。
びくっとして、思わず首元に触れそうになる。
でも触れない。
タグの熱は、すぐに落ち着いた。
ただ、その一瞬に——紙の端の方で、淡い光が揺れた気がした。
レイヴはそれを見たのか見てないのか、顔色を変えずに言う。
「ありがとう」
それだけ。
俺は内心で息を吐いた。
俺が書いた。俺が渡した。
——自分で選んだ、という形を保てた。
レイヴは書類を覗き込んで、視線だけで確認する。
声には出さない。
そして、次の欄を指で示した。
「次。年齢。覚えてる?」
「……はい。たぶん」
「“たぶん”でいい。今は揺れるから」
揺れる。
そう言われると、少しだけ救われる。
完璧じゃなくていい、って言われた気がするから。
俺は答えて、書く。
質問に答えて、書く。
それだけのことなのに、
“帰れる道”が紙の上に少しずつできていく感じがした。
書き終えた頃、レイヴが軽く言った。
「で。——ミナト」
呼び名が落ちる。
胸の奥がすとんと落ちる。
悔しいくらいに。
「今朝の君は、昨日より顔がいい」
「それ褒めてます?」
「褒めてる。ちゃんと眠れた顔」
軽薄な言い方。
でも、そこに職務の真面目さが混じる。
俺の状態を“評価”してる。
その評価が、今はありがたい。
ありがたいと思ってしまうのが、やっぱり怖い。
俺は笑って、誤魔化す。
「……へこたれないのが取り柄なんで」
言った瞬間、昨日の夜より少しだけ本音に近い自分がいるのが分かった。
へこたれない、じゃなくて。
へこんでも、戻ってくる。
戻ってきたい。
レイヴは笑って、でも目は真面目なまま言う。
「いいね。そのまま保って。——帰還審査に入る前に、もう一つだけ確認する」
帰還審査。
その単語が、未来の重みを連れてくる。
俺はタグの冷たさを意識した。
握らない。
でも、そこにあることを確かめる。
もしまた角が増えたら。
もしまた出口が分からなくなったら。
そのときは、順番。
呼吸。
無理なら、タグを握って——レイヴの名前。
俺は小さく頷いた。
「……はい」
レイヴが軽薄に笑う。
「よし。じゃ、行こうか、ミナト」
行こう。
その言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。
動けば時間が進む。時間が進めば夜は終わる。——終わるはずだ。
なのに、足を床に下ろした瞬間、身体が一拍遅れた。
立てる。立てるのに、床との距離が少しだけ信用できない。
昨日、足元が抜けた感覚がまだ残っている。
レイヴはそれを見て、軽い調子で言う。
「立てる? ふらつく?」
「……ふらつく、ほどじゃないです」
“ほどじゃない”って言い方が、逃げだと自分で分かる。
でも、言い切るのが怖い。
レイヴは頷いた。
「じゃあ、歩く速度は君に合わせる。走らない。急がない」
急がない。
昨日と同じ言葉なのに、今朝は少しだけ安心に聞こえる。
朝だからだ。朝の光があるからだ。
扉が開く。
廊下の空気が入ってくる。
昨夜より匂いが“分かる”。
薬草の甘苦さ。乾いた紙。金属。少しだけ湿り気のない温かさ。
人が管理している場所の匂い。
——そして、何より、息が通りやすい。
俺は反射で、首元のタグを確かめたくなった。
けれど、触れない。触れたら安心が入りすぎる気がして。
代わりに、ゆっくり息を吸って吐いた。
胸まで落ちる。まだ大丈夫。
レイヴが半歩前を歩く。
前を歩くのに、置いていかない距離。
振り返らないのに、俺がついてきているのを当然のように分かっている歩き方。
……慣れてる。
廊下を曲がるたび、景色が少しだけ似ているのが気になる。
同じ角。似た照明。似た扉。似た匂い。
迷わせるつもりがなくても、迷うようにできている。
俺は喉の奥で息を吸った。
“出口が分からなくなる”ってこういうことか、と身体が理解してしまうのが嫌だ。
「迷いそう」
思わず口に出た。
冗談じゃなく、本音に近い声だった。
レイヴはすぐに振り返らない。
でも、声だけで返す。
「目線、俺の背中」
命令っぽい。
でも、“助けるための短さ”だと分かる短さ。
「背中?」
「うん。壁とか扉を見すぎると、角が増える。迷いを拾う」
説明は短い。
余計な情報を増やさないように言っているのが分かる。
俺はレイヴの背中を見る。
黒い服。無駄のない動き。
その背中を追うと、廊下の反復が少しだけ薄くなる。
……悔しいくらいに、効果がある。
「……ほんと、手順の人ですね」
俺が言うと、レイヴは振り返って笑った。
「そう。手順の人。だからミナトが迷子になっても回収できる」
回収。
その言葉が、軽い冗談みたいに投げられるのに、胸の奥に小さな針を残す。
回収される側。
俺は今、その側にいる。
でも、その針を飲み込む代わりに、俺は笑った。
「……回収されるの、人生で初めてです」
「初めて? 嘘。人はみんな何かに回収されて生きてる」
軽薄に言うのに、妙に刺さる。
刺さるから、俺はまた冗談に逃げる。
「……じゃあ俺、回収率低かったんだな」
レイヴが小さく笑った。
「今から上げる?」
言い方が軽い。
軽いのに、逃げ道がない。
俺は笑ったまま、何も返せなかった。
返したら、“上げる”を受け入れることになる気がしたから。
しばらく歩くと、空気が少し変わった。
紙の匂いが濃くなる。インク。古い革。乾いた布。
“記録”の匂い。
扉の前に、小さな台がある。
消毒や受付のそれに似ているけど、病院の匂いじゃない。
もっと静かで、もっと冷たい。
レイヴが立ち止まって、軽い声で言った。
「ここから先は、“手続きの場所”」
手続き。
その単語が、俺の肩を少しだけ硬くする。
「怖い?」
レイヴが聞く。
昨日よりずっと短い距離で、そういう確認が入るのが、すでに“習慣”になりかけているのが怖い。
「……ちょっと」
「ちょっと、で言えたのは偉い」
「またそれ……」
「回るから」
回る。
笑いそうになるのに笑えない。
回るって言われた瞬間、俺は“機能”にされる気がした。
扉が開いて、中に入る。
そこは小さな部屋だった。
机が二つ。棚。紙束。
人は——いない。
なのに、視線がある気がする。
空気が“見られている”形をしている。
机の上に、透明な板のようなものが置かれている。
鏡じゃない。水面みたいに薄く揺れて、文字が浮かぶ。
レイヴがそこにクリップボードを置いた。
「委員会は直接ここには来ない。……記録だけ拾う」
説明は少ない。
でも、その少なさが余計に怖い。
板の表面に、淡い光が走る。
俺がさっき書いた「成宮湊」という文字が、薄く浮かび上がって——すぐに消えた。
消えたのに、“拾われた”感覚だけが残る。
喉がきゅっとなる。
「……今、見られました?」
俺が言うと、レイヴは軽く肩をすくめた。
「見られた、というより、拾われた」
拾われた。
昨日からこの言葉が多い。
助けの言葉みたいで、鍵の音もする。
俺は息を吸って吐く。
胸まで落ちる。まだ大丈夫。
レイヴは机の引き出しから、小さな札を取り出した。
紙じゃない。薄い板。
手のひらに収まるサイズで、紋様が刻まれている。
「仮の通行札。君に持たせる」
持たせる。
渡す、じゃない。
持たせる、って言い方が少しだけ管理の匂いをする。
俺は受け取った。
板は冷たくて、指先がぴりっとする。
「これ、何の意味が」
聞きかけて、やめた。
説明されると置いていかれる。
置いていかれるのが怖い。
レイヴが代わりに短く言う。
「迷ったときの目印。あと、“勝手に扉が開かない”ようにする」
勝手に扉が開かない。
安全のための言い方。
でも、“開けられない”と言っているのと同じだ。
俺は笑って誤魔化した。
「……安全すぎません?」
「君が昨日みたいに落ちる方が困る」
困る。
その言葉が、優しいのに、仕事の言葉だ。
手続きの部屋を出る。
廊下へ戻る。
戻った瞬間、空気が少しだけ柔らかくなる。
さっきの部屋の冷たさが、背中から剥がれる。
……今の部屋、嫌いだ。
嫌いなのに、必要だって顔をされるのが、もっと嫌だ。
「ミナト」
レイヴが呼ぶ。
胸の奥がすとんと落ちる。
悔しいくらいに。
呼ばれるだけで整う自分が、本当に腹立たしい。
「はい」
「さっきの部屋、顔色変わった」
見抜かれている。
俺は、へこたれない明るさで返そうとして——やめた。
ここで明るくしたら、“怖い”がなかったことになる。
怖いまま進まないと、俺はまたどこかで壊れる。
「……嫌です。ああいうの」
言った瞬間、胸の奥が少し楽になる。
言えたことが、怖いのに。
レイヴは頷いた。
「嫌でいい。嫌でも通る。……通れたら十分」
十分。
その言葉が、ほんの少しだけ救いになる。
歩きながら、レイヴがふと、軽い調子で言った。
「ミナト、ここで変に頑張らない方がいい」
「変に……?」
「“明るくして場を回すやつ”。君、得意でしょ」
胸の奥がきゅっとなる。
俺の癖を、もう見抜かれている。
見抜かれているのに、責められていないのが怖い。
「……得意っていうか、癖っていうか」
「癖は便利。でも、ここだと便利すぎる」
便利すぎる。
その言い方が、妙に刺さる。
俺は笑って返した。
「じゃあ、レイヴさんが回してくださいよ」
「回してる」
即答。
軽薄に笑って、真面目に言う。
「君が倒れないように回してる。——ミナトが生きて帰るための流れ」
生きて帰る。
その言葉が、急に現実になる。
帰る、じゃなくて、生きて帰る。
俺は昨日、死ぬかもって思った。
それをこの人は、手順に組み込んでいる。
胸が少しだけ重くなる。
廊下の先、広い空間に出る。
天井が高い。窓はないのに、光が柔らかい。
床の模様が、円を描いている。中央に、淡い紋。
そこに、透明なガラスケースみたいなものがあった。
中に、細い瓶が並んでいる。
瓶は空に見えるのに、近づくと匂いだけがふっと来た。
甘い。
甘いのに、喉の奥がひやっとする。
舌の裏がきゅっと締まる匂い。
薬草とも香水とも違う、“液体の気配”。
俺は足が止まった。
「……何ですか、あれ」
声が勝手に低くなる。
怖いときの声だ。
レイヴは、俺の視線の先を見て、短く答えた。
「保管物」
それだけ。
説明しない。
説明しないのに、俺の身体だけが反応している。
喉が乾く。呼吸が一拍だけ浅くなる。
匂いが、胸の奥に落ちた気がする。
レイヴが、軽い声で言った。
「今日は触れない。見るだけで十分」
見るだけ。
その区切りが、助かる。
俺は頷いた。
頷くと、匂いの輪郭が少し薄くなる。
……今の、何。
答えがないのが不気味なのに、答えを聞いたら聞いたで“ここ”の中に取り込まれる気がする。
だから、俺は今日のところは飲み込む。
レイヴが歩き出す。
俺もついていく。
次の扉の前で、レイヴが立ち止まった。
手を伸ばして、扉の横にある紋へ触れる。
光が走る。
扉が静かに開く。
中は小さな面談室みたいな部屋だった。
椅子が二脚。机。壁には何もない。
余計なものがない空間。
余計なものがない、というのは、逃げ道がない、ということでもある。
レイヴが先に座らず、俺を促す。
「どっちがいい? 扉に近い方、奥の方」
選ばせる。
この施設で初めて、“選択”らしい選択を渡された気がした。
俺は一瞬迷って、扉に近い方を選んだ。
逃げ道が見える位置がいい。
レイヴは何も言わず、奥の方に座る。
正面じゃない。少し斜め。
圧を減らす座り方。
でも、視線は逃げない。
仕事の目が、こちらを見ている。
「さて」
レイヴが軽い声で言った。
「帰還の相談——って言うと重いから。まず“今の状態”の整理しよ」
整理。
その言葉だけで少し助かる。
俺は整理が好きだ。分からないのが嫌いだ。
レイヴは机の上に、何も置かないまま言う。
「質問。答えたくないのは“答えたくない”でいい」
逃げ道を置かれる。
置かれると、断りづらいのも分かっている。
それでも、置かれないよりましだ。
俺は小さく頷いた。
「……はい」
「昨夜、落ちる前。君はどこにいた?」
“どこ”。
現実の話だ。
現実の話をすると、現実に繋がれる気がして少しだけ安心する。
「……駅から帰る途中でした。普通に」
「普通に、が一番危ない」
レイヴが軽薄に言って、すぐ真面目な目になる。
「誰かと一緒じゃなかった?」
「一人です」
「誰かに触られた?」
「……ないです」
その質問の並びに、俺は喉が少し固くなった。
触られた、という言葉に、昨夜の首元の冷たさが重なる。
レイヴは続ける。
「何か匂いは?」
匂い。
俺は一瞬、さっきの保管物の甘い気配を思い出して、喉が鳴った。
違う。あれは今朝だ。
昨夜は——冷たい夜の空気だけだった。
「……冬の夜の匂い、くらいです」
「うん」
レイヴが短く頷く。
「じゃ、落ちたとき。何を感じた?」
感じた。
感覚の話に入ると、少し怖い。
でも、言葉にしないと整理できない。
「……息が、吸えなくなって。足元が抜けて……音が遠くなりました」
「音が遠いのは、典型」
典型。
その言い方が、俺を“例”にする。
例にされると、少しだけ楽になる。
俺だけじゃない、って思えるから。
レイヴは軽く頷いたまま、次を置く。
「で。今朝、書類に本名を書けた」
本名。
胸がきゅっとなる。
レイヴは、その“きゅっ”を見逃さない。
「声に出すのは、怖い?」
俺は一瞬迷って、正直に言った。
「……怖いです。ここで言うと、何か……持っていかれそうで」
言った瞬間、言い過ぎたと思った。
でも、レイヴは笑わない。
「うん。感覚としては合ってる」
合ってる。
その言葉が、怖い。
俺の恐怖が、正解になってしまう。
「だから、今は“ミナト”でいい。生活側の呼び名は、短い方が迷いにくい」
また、“君のため”。
でも、今はその言葉に少しだけすがりたい自分がいるのが、嫌だ。
レイヴが、少しだけ声を落とした。
「ミナト。君は“安心”に弱い」
胸が詰まる。
その言い方が、優しさみたいに見えて、でも診断みたいでもある。
「弱いのは悪いことじゃない。——ただ、ここでは狙われやすい」
狙われやすい。
背中が冷たくなる。
「……狙うって」
俺が言うと、レイヴは軽薄に笑った。
「施設の仕組みに、ね」
仕組み。
人じゃない、と言い換える。
責任が宙に浮く言い方。
俺は喉の奥で息を吸って吐いた。
胸まで落ちる。まだ大丈夫。
レイヴは、少しだけ姿勢を変えた。
圧が増えない程度に、でも、逃げない姿勢。
「今日の目標は二つ」
また目標。
手順の人。
「一つ。君が“自分で戻れる”手順を持つ」
「二つ。帰還に必要な最低限の確認を進める」
説明じゃない。
命令でもない。
でも、“そうする流れ”ができあがっている。
俺は笑って誤魔化した。
「……仕事できすぎて怖いです」
「怖がってくれていい。怖がらないと危ない」
即答。
俺は、へこたれない明るさで返した。
「じゃあ俺、今日もちゃんと怖がります」
言った瞬間、レイヴの目がほんの少しだけ柔らかくなった。
——刺さった。
俺の明るさが刺さる瞬間。
それが、今だった。
「いいね」
レイヴが短く言う。
軽薄に笑うのに、目は真面目で。
「そういう“ちゃんと怖がる”人、助かる。……俺も」
“俺も”。
その一言が、胸の奥に残った。
仕事の言葉じゃない。ほんの少しだけ、人の言葉。
俺は返事ができなくて、ただ息を吸った。
胸まで落ちる。
レイヴが続ける。
「最後に確認。——もしまた“角が増える”みたいになったら」
レイヴは指を上げる。
昨日からの合図。
「まず呼吸。無理なら、タグを握って俺の名前。覚えてる?」
覚えてる、と言われるだけで、俺の中の道が一本太くなる。
「……はい。まず呼吸。無理なら、タグ握って……レイヴさん」
「うん」
レイヴが頷く。
「じゃあ、次。今日の行動」
机の上に何もないのに、段取りだけが並ぶ。
「食事。休息。施設内の移動。——どれも“君の状態”を見ながら決める。決める前に聞く」
聞く。
その言葉が、少しだけ救いになる。
救いになるぶん、ここに馴染むのが怖い。
レイヴが立ち上がった。
俺も立つ。
「……歩ける?」
「……歩けます」
言い切ってみた。
言い切った瞬間、少しだけ自分が戻ってくる。
レイヴが笑った。
「よし。じゃ、朝ごはんにする」
朝ごはん。
普通の単語が出たのが、少し可笑しい。
俺は思わず言った。
「……ここ、朝ごはん出るんですか」
「出る。保護だから」
また保護。
鎖の言葉。
でも、今はその鎖に少しだけ助けられる自分がいる。
廊下へ出る。
レイヴの背中を見る。
迷いが薄くなる。
俺は首元のタグを、触れないまま意識した。
ミナト。
湊じゃない・・
呼ばれ方が、ここで固まっていく。
固まる前に、帰れるのか。
帰りたいのに、帰るのが怖い。
その矛盾を抱えたまま、
俺はレイヴの背中を追った。
朝ごはん、その単語が落ちた瞬間、俺の中で”普通”が一段だけ上に上がった。
普通の単語は、現実に繋がる。現実に繋がるのに、ここは現実じゃない。
その矛盾を抱えたまま、俺はレイヴの背中を追った。
廊下は相変わらず反復している。
似た扉。似た光。似た匂い。
だけど、さっきレイヴに言われた通り、壁を見ないようにして背中だけを追うと、角が増える感じが薄くなる。
……くやしい。
くやしいくらい効く。
効くからこそ、ここでの正解が増えていくのが怖い。
足音は二人分。
俺の方が少し遅い。
レイヴは急がない。急がないのに、迷いもない。
その歩き方は、案内というより回収だ。
ふと、レイヴが肩越しに言った。
「ミナト、目。半分寝てる」
「……寝てないです」
「寝てる」
即答。
笑いながら、真面目に言う。
「眠いのに我慢してる顔。昨日の夜の分、身体が取り返そうとしてる」
取り返そうとしてる。
そう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。
「……俺、取り返されるの苦手なんですよね」
「なんで」
「取り返されると、動けなくなるから」
自分で言って、可笑しくなる。
自分の癖が、ここだとそのまま“弱点”になる。
レイヴは軽く笑った。
「動けない時間も必要」
軽薄に言うのに、言い切る。
言い切る声が、仕事の声だ。
廊下の先に、少し広い空間が見えた。
天井が高い。床の模様が変わる。
匂いが、ふっと柔らかくなる。
——食べ物の匂い。
湯気の匂い。だし。焼いた香ばしさ。
胃が、勝手に反応する。
空腹というより、“人間の生活”の匂いに釣られる感じ。
俺は一瞬、足が止まりかけた。
止まったのは、嬉しさじゃない。
警戒だ。
こんなところに、こんな匂いがあるのが怖い。
「……出るんだ」
思わず漏れた声は、弱い。
レイヴが振り返らずに言う。
「出る。保護だから」
また保護。
鎖の言葉。
でも、食べ物の匂いは鎖より先に身体を落ち着かせる。
その順番が怖い。
扉の横に、小さな紋がある。
レイヴが指先で触れると、光が走った。
扉が静かに開く。
中は食堂だった。
広くはない。
でも、整っている。机の角が丸い。椅子の脚が床を傷つけないように布が巻かれている。
窓はないのに、光が柔らかい。
音が控えめに吸われる設計。
人は、いない。
……いないのが怖い。
でも、いるのも怖い。
どっちに転んでも怖いのが、この場所の嫌なところだ。
レイヴはカウンターの奥に回らず、壁際の棚からトレーを二枚取った。
その動きが“用意された手順”の範囲内なのが分かる。
ここはレイヴの私室じゃない。レイヴが好き勝手できる場所じゃない。
それが少し安心で、少し怖い。
棚には、器が並んでいた。
白すぎない陶器。木の箸。スプーン。
見慣れた形なのに、紋様が微妙に違う。
異界の“似せた日常”。
レイヴが俺に言う。
「座る場所、選んで」
また選ばせる。
俺は反射で、入口に近い席を選びかけて——やめた。
入口に近いと、誰かが入ってくるたびに心臓が跳ねる。
跳ねたら、息が浅くなる。
だから、壁際。
背中を守れる位置。
座ると、椅子がきしまず、静かに体重を受け止めた。
その静かさが、妙に優しい。
レイヴがカウンターの横の小さな台を押す。
布ではない、薄い板が音もなく引き出される。
その上に、湯気の立つ椀と、小鉢と、少しのパン——いや、パンに似たものが並んでいた。
俺は目を瞬いた。
「……出てきた」
「出てくる。ここはそういう場所」
そういう場所。
言い換えで責任をぼかす言い方なのに、今はそれが助かる。
レイヴがトレーを持って、俺の前に置く。
手渡しじゃない。置く。
いつも、置く。
距離の置き方が一貫してる。
それが“やさしさ”なのか“管理”なのか、もう分からない。
「食べられそう?」
レイヴが聞く。
俺は一瞬迷って、正直に言った。
「……匂いで、ちょっと落ち着きました」
言った瞬間、自分が怖い。
匂いで落ち着くって、何だ。
昨日までの俺なら、絶対にそんな言い方はしない。
でも、嘘じゃない。
レイヴは軽く笑って、目を細めた。
「いいね。匂いは手すりになりやすい」
手すり。
またその言葉。
俺の中に“手すり”が増えるたびに、この施設の中での生活が増えていく。
怖い。
でも、空腹はもっと怖い。
空腹は判断を鈍らせる。倒れたら、もっと管理される。
俺は箸を取った。
指先が少し震える。昨日の夜の残り。
汁を一口。
熱い。
だしの匂いが鼻に抜けて、胃がじわっと温まる。
……おいしい。
おいしい、と感じた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
おいしいって感じたら、ここに馴染む。
馴染んだら、帰りたい気持ちが鈍る。
でも、飲み込めないほどではない。
怖いのに、身体は正直だ。
「……変な味しないです」
俺が言うと、レイヴは軽薄に笑った。
「何を警戒してたの」
「いや、ここ異界じゃないですか」
「異界でも飯は飯」
言い切られて、少しだけ笑ってしまった。
笑いながら、喉の奥がほどける。
息が、深く入る。
——悔しい。
会話ひとつで整ってしまう。
俺の身体が、ここで生きる方向に動いてしまう。
レイヴは自分の椀を取って、同じように一口飲んだ。
食べ方が丁寧だ。急がない。職務の食べ方というより、“人に見られても崩れない”食べ方。
その姿が、妙に落ち着く。
俺は箸を動かしながら、ふと気づく。
レイヴは俺の目を見すぎない。
見なさすぎもしない。
逃げ道を残して、見守る。
そのバランスが、怖いほど上手い。
「……レイヴさん」
呼ぶときは、タグを握って——って決めた。
なのに、今、俺は普通に呼びそうになった。
あ、違う。
喉の奥がきゅっとなる。
ルールが崩れるのが怖い。
俺は箸を置いて、さりげなく首元へ手を伸ばした。
握らない。指先で軽く触れる。
冷たい金属が、指先に触れた。
それだけで、呼吸が一拍整う。
「……レイヴさん。これって、いつまで」
言ってから、曖昧だと思う。
これって何だ。
タグのことか。施設のことか。保護のことか。
レイヴは俺の指先の動きを見て、すぐに分かったみたいに答えた。
「タグ? 帰還の手順に入るまで。君が自分で“迷いを戻せる”確率が上がるまで」
確率。
数字の言い方。
それがこの人の“手順の真面目さ”だ。
「じゃあ、帰還の手順って」
聞きたくないのに、聞いてしまう。
聞いたら現実になるのに。
レイヴは一拍置いて、軽い声で言う。
「君が帰りたいなら、進める。帰りたくないなら、進めない」
……え。
そんな選択があるのか。
あると言われると、逆に怖い。
帰りたい。
帰りたいはずだ。
でも、帰るのが怖い。
その“怖い”の形が、昨日より少しだけはっきりしている。
帰ると、また一人で息ができなくなるかもしれない。
帰ると、誰も数えてくれない。
帰ると、笑って場を回して、自分を削って、また息が浅くなる。
その未来が見えてしまって、喉が鳴る。
俺は慌てて汁を飲んだ。
熱さが喉を通って、現実に引き戻す。
レイヴは俺を追い詰めない。
追い詰めないのに、逃げ道も用意する。
「今は決めなくていい。朝ごはん、食べて」
言い方が、柔らかい。
柔らかいのに、手順が前に進む。
俺は箸を動かす。
食べる。飲み込む。
胃が温まる。
温まるほど、身体の緊張が少しだけ溶ける。
その溶け方が、怖い。
食べ終わる頃、レイヴが立ち上がった。
「水、もう一本持ってく」
棚から小さなボトルを取って、俺のトレーの横に置く。
置く。いつも置く。
そして、軽い声で言った。
「ミナト、さっき“匂いで落ち着いた”って言ったね」
「……言いました」
「それ、覚えておいて。君の手すりが一個増えた」
増える。
増えるのが怖いのに、増えた方が生きやすい。
俺は笑って誤魔化した。
「……俺、手すりだらけになりそう」
「手すりだらけでいい。落ちるよりマシ」
落ちるよりマシ。
昨日の落下の感覚が、背中に蘇る。
確かに、落ちるよりマシだ。
俺は立ち上がって、トレーを持とうとした。
でも、どこに戻せばいいのか分からない。
迷う。
レイヴがすぐ言う。
「置いて。こっち」
指で棚を示す。
俺は言われた通りに置く。
それだけのことなのに、胸の奥がすとんと落ちる。
“正解”があると落ち着く。
正解があると、判断をしなくて済む。
判断をしなくて済むのが、救いになる。
……怖い。
廊下へ戻ると、さっきより人の気配が少しだけ増えていた。
足音が遠くにある。扉の向こうで何かが動く音。
でも、誰にも会わない。
会わないように手順が組まれている気がして、背中が冷える。
レイヴは俺の速度に合わせて歩く。
「このあと、少しだけ“施設のルール”を見る」
ルール。
また重い単語。
でも、朝ごはんを食べた俺は、昨夜より少しだけ耐えられる。
「見るだけ。覚えなくていい」
見るだけ。
区切りが助かる。
壁に沿って、掲示板みたいな場所があった。
紙が何枚も貼られている。文字は読める。読めるのに、意味が少し遠い。
その中に、ひときわ目に入るものがあった。
——「タグ装着中は、出口表示が曖昧になる場合があります」
出口表示。
曖昧。
昨日の夜の“分からなくなる”が、紙の上で肯定される。
喉がきゅっとなる。
俺は思わず、へこたれない明るさで言ってしまった。
「……書いてありますね。ちゃんと。怖いこと」
レイヴが軽薄に笑う。
「書いてある。だから怖がっていい」
「怖がっていいって言われるの、変な感じします」
「怖がっちゃダメって言われる方が変」
その返しが妙にまともで、俺は笑いそうになった。
でも、笑うとまた安心が増える気がして、唇を噛んだ。
掲示の端に、小さな注意書きがあった。
——「保管物に触れないこと」
保管物。
今朝見たガラスケースの瓶が、頭に浮かぶ。
甘い匂い。喉の奥がひやっとする気配。
俺は無意識に喉を鳴らした。
レイヴがそれを見て、さらっと言う。
「見たね。さっきのやつ」
「……匂い、しました」
「匂いはする。触らなきゃいい」
触らなきゃいい。
言い方が簡単すぎて、逆に怖い。
でも、今は深入りしない。
触らなきゃいい。
言い方が簡単すぎて、逆に怖い。
触れたくなる人がいるから、注意書きがある。
触れたら何かが起きるから、禁止されている。
俺は息を吸って吐いた。
胸まで落ちる。まだ大丈夫。
レイヴが軽い声で言う。
「次。休息の場所に戻る」
「……戻るって、部屋に?」
「うん。君の“安全な場所”を一個固定する」
固定。
その言葉が、胸の奥に針を落とす。
安全な場所が固定される。
固定されたら、そこが“居場所”になる。
居場所になったら、帰る理由が薄くなる。
俺は笑って誤魔化した。
「……居場所、作るの早くないですか」
「早い方が生き残る」
即答。
軽薄な笑顔のまま、目だけが真面目。
俺の背中が冷たくなる。
生き残る、という言葉は、冗談の形をしていない。
それでも、俺はへこたれない明るさを拾い上げて言った。
「じゃあ俺、今日も生き残ります」
言った瞬間、レイヴの目がほんの少しだけ柔らかくなった。
その変化が分かってしまって、胸がきゅっとなる。
「いいね」
レイヴが短く言う。
「そういうの、刺さる」
刺さる。
刺さると言われて、俺の心臓が一拍だけ跳ねる。
……やめてくれ。
そういう言い方。
俺の明るさを“いい”と言われると、俺はそれを差し出してしまうから。
差し出す癖があるから、俺はいつも損をする。
廊下を曲がって、俺の部屋の前に戻った。
扉は静かで、鍵の音はしない。
レイヴが紋に触れて、開ける。
「ここ。戻る場所」
戻る場所。
言い方が、帰還じゃなくて帰巣みたいで、ぞくっとする。
部屋に入ると、昨夜より匂いが柔らかい。
薬草と紙の匂いの中に、朝ごはんの湯気が少し混ざっている気がする。
俺が持ち込んだ匂いだ。
……俺の匂いが、ここに混ざる。
それが怖い。
レイヴが言う。
「今日はここで休む時間を作る。眠れなくても横になる。水を飲む。——それだけ」
それだけ。
それだけで、十分に管理だ。
でも、昨夜の俺は、管理がなかったら壊れていた。
俺は小さく頷いた。
「……分かりました」
レイヴは扉の方へ下がる。
「俺は少し外す。昼前に戻る。何かあったら——」
俺は反射で首元のタグに指を当てた。
握らない。触れるだけ。
「……タグ握って、レイヴさん」
「うん」
レイヴが軽薄に笑う。
「覚えがいい。偉い」
「……それ、禁止にしません?」
「禁止しない。褒めた方が伸びる」
伸びる。
言い方が、育成みたいでぞくっとするのに、笑顔が軽いから笑ってしまいそうになる。
レイヴは最後に、さらっと言った。
「ミナト。ここで頑張りすぎないで。頑張ると、境界が寄ってくる」
寄ってくる。
その言葉が、昨夜の“声”を思い出させる。
——ミナト。
均一な声。
ここそのものの声。
俺は喉の奥で息を吸った。
「……分かりました」
「うん。じゃ、また後で」
[newpage]
扉が閉まった。
静かで、鍵の音もしない。
なのに「閉じられた」って感覚だけが、胸の真ん中に残る。
俺は布団の中で、手のひらを見た。
爪の跡が赤い。さっきまで必死に握っていた証拠。
痛い。ちゃんと痛い。
——痛いのは、俺のものだ。
そう思った瞬間、ほっとしてしまう自分がいて、すぐに喉が詰まる。
何に安心してるんだ。
こんな場所で。
息を吸う。
吐く。
一。
二。
三。
四。
胸まで落ちる。
戻る。
戻れる。
その「戻れる」が、救いじゃなくて恐怖に見えるのが、俺自身いちばん理解できない。
……だって。
俺は「慣れる」人間だ。
どこでも笑って、場に馴染んで、必要な役を演じて、そうやって生き延びてきた。
慣れるのは得意だ。得意だから損をする。
ここで慣れたら終わりだろ、って頭は叫んでるのに、
身体はもう、少しずつ「ここでの正解」を覚え始めている。
タグに触れたら落ち着く。
呼吸を数えたら戻る。
角が増えたら背中を見る。
無理ならタグを握って、レイヴの名前。
——道ができてる。
道ができると、人は歩いてしまう。
歩けば「戻る」。
戻れば「大丈夫」。
大丈夫が積もると、いつか「ここでいい」になる。
そこまでの未来が、薄い膜みたいに見えて、胃の奥がひやっとする。
俺は布団の端を握った。
タグじゃない。布団。
布の摩擦が指先に返る。現実の手触り。
「……違う」
声に出すと、喉が少しだけほどけた。
「ここでいい、じゃない」
言葉にした途端、胸の奥が少し楽になる。
——楽になるって、つまり俺は「ここが怖い」ってちゃんと認めたってことだ。
怖い。
怖いのに、俺はさっきレイヴに呼んでしまった。
呼びたくなかった。
呼んだら、もう少し頼ってしまうから。
でも、呼ばなかったら落ちた。
落ちるくらいなら、呼ぶ。
呼ぶくらいなら、生きる。
……生きるために、受け入れる。
その結論に辿り着いてしまうのが、嫌でたまらないのに、
俺の身体は、冷静なふりで「そうだろ」って頷いてしまう。
息が浅くなる。
慌てて数える。
一。
二。
三。
四。
入る。
胸が膨らむ。
——やめろ。
戻るのが上手くなるほど、ここに根が伸びる。
そう分かってるのに、呼吸は止められない。
止めたら落ちる。
俺は目を閉じた。
閉じると均一な“声”が鳴りそうで怖い。
でも、閉じる。
閉じるだけ。
薬草みたいな清潔な匂いが鼻に入る。
朝ごはんの湯気の残り香が、微かに布に混ざっている。
俺が持ち込んだ匂いだ。
俺の匂いが、この部屋に混ざった。
それが、恐ろしい。
“居場所”が作られる感じがする。
居場所ができたら、人は帰りづらくなる。
でも同時に、匂いが俺を落ち着かせる。
落ち着くな。落ち着くなよ。
そう思うほど、呼吸が整っていく。
……どうして。
どうして俺は、怖いものに落ち着いてしまうんだ。
胸の奥が痛い。
痛いのに、泣きたくはない。
泣いたら、ここで「弱い」を確定させてしまいそうで。
——弱いのは、悪いことじゃない。
レイヴの声が、脳裏で勝手に再生される。
やめろ。そんなの、俺の中に置くな。
でも、その言葉があるだけで、喉が少し楽になる。
……くそ。
俺は手の甲で目元を擦った。
泣いてない。ただ、目が乾いてるだけだ。
そういう言い訳を、自分に用意する。
そして、少しだけ受け入れる。
「俺は今、怖い」
「俺は今、一人じゃ戻せない時がある」
「だから手すりが要る」
受け入れた瞬間、胸の奥がすとんと落ちる。
落ちる、という言葉に背中が冷える。
違う、落下じゃない。
落ち着いた、だ。
言葉の違いにしがみつきながら、俺は自分を保つ。
首元が、かすかに熱を持った。
びくっとする。
反射で手が伸びる。
触りたい。
触ったら整う。
整うのは、怖い。
でも、整わないのはもっと怖い。
タグを握らないまま、輪郭だけを指先でなぞった。
触れたくないのに、触れれば整うのが分かっている。
—その一線だけを、ギリギリで守るみたいだ。
呼吸が一拍、深くなる。
——ほら。
身体が言う。
これでいい。これで生きられる。
その声が、自分の声なのか施設の声なのか分からなくて、胃がきゅっと縮む。
「……俺は、俺だ」
小さく言う。
声に出すと、現実が濃くなる。
「成宮湊だ」
今度は、もう少しはっきり言った。
言えたのが意外で、胸がざわつく。
でも言えた。言えたという事実が、俺を少しだけ立たせる。
タグは熱を持ったまま、静かにそこにある。
ミナト、という短い音が、喉の奥に浮かんでくる。
それを言ってしまったら、ここが一歩近づく気がして、俺は飲み込んだ。
……言わない。
言わないけど、否定もしない。
否定したら、また角が増える。
否定が強いと、境界が寄ってくる。
だから、受け入れる。
でも、全部じゃない。
「今夜だけ」
「生きるためだけ」
「帰るために必要な分だけ」
そうやって、自分の中に小さな契約みたいなものを作る。
俺はいつもそうだ。
全部は渡さない。
必要な分だけ差し出して、やり過ごす。
——やり過ごせるなら。
胸の奥がきゅっとなる。
また息が浅くなる。
数える。
一。
二。
三。
四。
入る。
……入る。
入ってしまう。
それでも、俺は目を閉じた。
眠るためじゃない。
崩れないために。
怖いまま、息ができる。
怖いまま、戻れる。
怖いまま、受け入れられる。
その「怖いまま」を、俺は必死に抱えていた。
抱えていないと、ここは優しすぎて——俺を溶かすから。
目を閉じたまま、俺は「今夜だけ」「必要な分だけ」って何度も心の中で繰り返した。
そうでもしないと、ここは優しすぎて、俺が自分の形を保てない気がしたから。
布団の重み。
水の冷たさ。
部屋の匂い。
それらを“手すり”にして、俺は必死に「受け入れすぎない」ための受け入れを続けた。
——矛盾だ。
でも、矛盾を抱えられるうちは、まだ俺だ。
[newpage]
どれくらい寝たのか分からない。
眠ったのか、沈んだだけなのかも曖昧で。
ただ、次に目を開けたとき、部屋の光が少しだけ変わっていた。
朝の金色じゃない。昼の平たい明るさでもない。
夕方に近い、角を長くする光。
喉が乾いている。
胃が、静かに空っぽを訴えてくる。
俺は起き上がって、ボトルの水を飲んだ。
飲み込むと、現実が一段濃くなる。
首元のタグは、冷たいままそこにある。
触れない。
触れないでいられる。
——それだけで、少しだけ自分を誇りたくなって、すぐにその気持ちを叩き潰した。
誇ったら馴染む。
馴染んだら、ここが俺を肯定する。
……危ない。
控えめなノックが二回。
間がある。
急かさない間。
「ミナト。起きてる?」
レイヴ。
扉が開く前に、俺は反射で首元に手をやりそうになって、止めた。
呼ぶためじゃない。今は呼ばれてる。
「起きてます」
声に出せた。
喉がちゃんと働く。
扉が静かに開いて、レイヴが半歩だけ入る。
いつも通り、いきなり距離を詰めない。
レイヴは俺を見て、軽薄に笑った。
「生きてる顔してる」
「……どういう褒め方ですか」
「褒めてる。昼寝できたってこと」
昼寝、という言い方が妙に現実的で、喉の奥が少し緩む。
レイヴはクリップボードを持っていない。
代わりに、小さな袋を一つ持っていた。
「水、飲めた?」
「はい」
「じゃ、次。——ごはん。夕方の」
夕方のごはん。
“日常”がまた一枚、上から被さってくる。
怖いのに、胃が反応するのが腹立たしい。
俺は立ち上がって、靴下のまま床に足をつけた。
床は冷たくない。温度が一定だ。
それがまた“管理された生活”で、背中がぞわっとする。
「歩ける?」
「歩けます」
言い切ってみる。
言い切れたことが、少しだけ嬉しい。
嬉しいのが怖い。
レイヴは頷いた。
「よし。じゃ、背中見て」
「それ、合図なんですか」
「合図。迷い始めたら背中」
淡々としているのに、妙に優しい。
優しいのに、手順だ。
俺はレイヴの背中を追う。
廊下の反復が、薄くなる。
……くやしい。
でも、くやしがってる余裕があるのは良いことだ、とも思ってしまう。
食堂に入る。
今度は、薄い気配がある。
遠くの席に誰かがいたような“残り香”だけがある。
音はしない。姿も見えない。
会わないように作られている。
その事実が、胃を冷たくする。
レイヴは何でもない顔でトレーを取って、俺の前に置く。
置く。いつも置く。
「今日は味、どうだった?」
「……普通においしかったです」
言った瞬間、胸がきゅっとなる。
おいしいを認めたら、ここに馴染む。
馴染みたくないのに、胃が“ありがたい”って言っている。
レイヴは軽薄に笑った。
「よかった。食べられるのは強い」
強い。
その言葉が、妙に刺さる。
俺は箸を取って、汁を飲む。
熱い。だし。胃が温まる。
温まると、緊張が溶ける。
溶けると、思考が弱くなる。
——怖い。
俺は食べながら、視線が勝手に食堂の奥へ流れるのを止めた。
奥の扉の向こうに、朝の“保管物”の匂いが残っている気がして。
甘い。
甘いのに、喉の奥がひやっとする。
レイヴが俺の視線を拾う。
「匂い、来てる?」
聞き方が軽いのに、目が真面目だ。
仕事の目。
俺は正直に頷いた。
「……少し。さっき見たところの、甘いやつ」
「うん。夜に強くなることがある」
夜。
その単語だけで、背中が冷たくなる。
「怖い?」
また確認が入る。
この人は、俺の怖さを“言語化”させたがる。
言語化させると、俺の中でそれが整理されて、手順に組み込まれる。
助かる。
助かるのが怖い。
「……怖いです」
言えた。
言えたことが悔しいのに、喉が少し楽になる。
レイヴは頷いた。
「怖いなら、今夜は窓——ないけど、換気の口を塞ぐ」
「塞ぐ?」
「塞ぐ。匂いの入口を一個減らす。——君の選択で」
君の選択。
その言い方が、優しくて、嫌だ。
優しいのに、誘導だと分かるから。
俺は一瞬迷って、頷いた。
「……お願いします」
お願いが増える。
増えるたびに、俺はここに寄っていく。
レイヴは軽薄に笑って、でも否定しない。
「うん。飯食ったら戻ってやる」
戻る。
俺の部屋に。
戻る場所が、また固定される。
俺は食べ終わるまで、なるべく考えないようにした。
考えないようにすること自体が、ここでは正解なのが、嫌でたまらないのに。
[newpage]
部屋に戻ると、レイヴは手早く換気口の前に薄い板を当てた。
布じゃない。タオルじゃない。
ただの板。手順のための道具。
「これで少し匂いが薄くなる」
「……匂いって、そんなに影響するんですか」
聞きながら、俺の喉が小さく鳴った。
影響する、と自分の身体が知っている音。
レイヴは俺を見て、笑顔は軽いまま言う。
「する。君は特に」
特に。
その断定が怖い。
“分類”が始まる音がする。
俺は笑って誤魔化した。
「……弱点バレるの早くないですか」
「早い方が生き残る」
またそれだ。
軽薄に言うくせに、真面目な目が逃げない。
レイヴは扉の方へ下がる。
「今夜は、寝る前に一回だけ確認に来る」
「……昨日も言ってましたね」
「昨日より短くする。君が自分で戻せる時間を増やす」
優しさみたいに聞こえるのに、管理みたいに聞こえる。
どっちでもあるのがいちばん厄介だ。
「何かあったら?」
レイヴが言う前に、俺は首元に指先を当てた。
握らない。触れるだけ。
「……タグ握って、レイヴさん」
言えた。
言えたことが、悔しい。
レイヴは頷いた。
「うん。——ミナト、今日よく耐えた」
褒められると、胸の奥がすとんと落ちる。
落ちるのが怖いのに、落ちるのを止められない。
レイヴはそれ以上、言葉を増やさないまま扉を閉めた。
静か。
俺はベッドに座って、首元のタグを見ようとして——やめた。
見たら、そこに“ミナト”がある気がして。
ある気がしたら、俺はそれを受け入れてしまうから。
……受け入れてしまう。
俺は手のひらを握る。
爪が食い込む。痛い。
それでも、痛いだけじゃ足りない夜がある。
痛いだけじゃ息が戻らない夜がある。
だから、俺はまた数える。
一。
二。
三。
四。
胸まで落ちる。
落ちる。
落ちる、という言葉が嫌で、俺は心の中で言い換える。
——戻る。
俺は戻る。
今夜は戻る。
そう言い聞かせながら、目を閉じた。
[newpage]
夜が来る。
窓がないから、暗さで分からない。
でも、空気の“音”が変わる。
遠くの足音が増える。扉の開閉が微かに増える。
そして——匂いが、来る。
換気口を塞いでも、完全には消えない。
どこか別の隙間から入り込んでくる。
甘い。
甘いのに、喉の奥が冷える。
舌の裏がきゅっと締まる。
それが怖いのに、同時に息が深くなる瞬間がある。
深くなるのが、いちばん怖い。
俺は目を開けた。
天井は一本。梁も一本。
角は増えてない。
なのに、胸の中だけがざわざわする。
「……やめろ」
声に出す。
声に出すと、現実が濃くなる。
濃くなれば、匂いが薄まるはずだ、と自分に言い聞かせる。
でも、匂いは薄まらない。
むしろ、鼻の奥に残る。
呼吸が浅い。
慌てて数える。
一。
二。
三。
四。
……入らない。
入る。
入ってるはずなのに、胸に落ちない。
角が、増え始める。
梁が二重になる。
壁の線が、少しだけずれる。
——出口が分からなくなる。
胃が冷たくなる。
怖い。
怖いのに、俺の身体が“正解”を探してしまう。
まず呼吸。
無理なら、最後の手すり。
俺は必死に呼吸を戻そうとした。
戻そうとして、戻らなくて、焦りが立ち上がる。
焦ったら危ない。
分かってるのに、止められない。
指が勝手に首元へ伸びる。
タグ。
冷たい金属が指先に触れた瞬間、少しだけ現実が戻る。
その“少し”に縋りたくなってしまう。
——違う。
縋るな。
でも、落ちるな。
矛盾が胸の中で裂ける。
俺は、ぎゅっとタグを握った。
握ってしまった。
最後の手すりに、手をかけてしまった。
そして、喉をほどいて絞り出す。
「……レイヴ、さん」
声が出た瞬間、角がほどける。
梁が一本に戻る。
壁の線が元に戻る。
息が——胸まで落ちる。
拾われた。
次の瞬間、扉の外で足音が速くなる。
走らない。でも遅くない。
必要な速さ。
ノックが二回。
「ミナト。入るよ」
扉が静かに開いて、レイヴが半歩だけ入る。
俺は布団の中で、タグを握ったまま固まっていた。
指が白い。握りすぎだ。
レイヴは俺を見て、手元を見る。
それから、笑わずに言う。
「呼んだね」
淡々とした確認。
責めない。
でも、手順が成立したことを確定させる声。
俺は息を吐いた。
吐いた息が少し震えた。
「……すみません」
「謝らなくていい」
即答。
「匂い?」
レイヴが短く聞く。
答えやすい単語で、俺を現実に引っ張る。
俺は頷いた。
「……甘い匂いが。来て……息が」
言い終える前に喉が詰まって、俺は水を探した。
手が震える。
レイヴは近づかない。
代わりに、机の上のボトルを指で示す。
「そこ。飲める?」
俺は頷いて、一口飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ戻る。
レイヴは指を上げる。
「息、いける?」
俺は小さく頷いた。
でも、まだ怖い。
怖いのに、頼りたい気持ちが湧く。
湧くのが最悪だ。
「……お願いします」
言ってしまった。
お願いがまた増える。
レイヴの声が落ちる。
「一」
胸が広がる。
「二」
喉の膜が薄くなる。
「三」
肩が落ちる。
「四」
息が胸まで落ちる。
怖さの音量が下がる。
レイヴはそこで止めた。
引き延ばさない。
縋らせない。
「……戻った」
当たり前みたいに言われて、俺は小さく息を吐いた。
吐いた息が震えない。
レイヴは扉の近くに留まったまま言う。
「今の、順番は守れた?」
俺は頷きかけて、止まった。
守れた、って言い切ると、俺が“ここに適応している”ことを認めるみたいで怖い。
でも、嘘はもっと怖い。
「……呼吸、戻そうとしました。戻らなくて……最後に握って呼びました」
言えた。
言えたことが、少しだけ楽になる。
レイヴは頷いた。
「正解。焦っても“最後”を守れた。今ので十分」
その言葉で胸が落ちる。
落ちるのが怖いのに、止められない。
俺は必死に明るさを拾い上げた。
「……俺、今日もちゃんと怖がれました」
言った瞬間、レイヴの目がほんの少し柔らかくなった。
刺さった。
「いいね」
短い肯定。
「それ、俺にも助かる」
また“俺にも”。
俺の胸の奥が、妙に熱くなる。
熱くなるのが怖い。
この熱は安心に繋がるから。
レイヴは、俺の熱を増やしすぎないようにするみたいに、声を軽くした。
「で、ミナト。手、痛いでしょ」
俺は自分の手を見る。
爪の跡がまた赤い。
「……少し」
「緩めて。壊れないけど、君が壊れる」
君が壊れる。
その言葉が、胸に残る。
俺はゆっくりタグを放した。
冷たさが指先から離れて、心細さが一瞬だけ来る。
その心細さに、俺は驚いた。
……心細い?
俺が?
こんな一日で?
レイヴが扉の方へ下がる。
「今夜はもう来ない。君が自分で戻れる時間を増やす」
それは優しさで、同時に手順だ。
「匂いが来たら、換気口の板、もう一枚足す。——やるのは君」
君がやる。
君の選択。
君の手。
俺は喉の奥で息を吸った。
胸まで落ちる。
「……分かりました」
「うん」
レイヴが軽薄に笑った。
「ミナト。今日は終わった。——明日、少し進める」
進める。
帰還のことだろう。
現実が一歩近づく。
怖いのに、少しだけ安心する自分がいるのが、腹立たしい。
レイヴは最後に、さらっと言った。
「呼べたの、えらい。……おやすみ」
扉が閉まる。
静か。
俺は布団の中で、首元のタグを見ないようにしていた。
でも、見ないほど、そこに意識が集まる。
冷たい金属。
皮膚の内側の微かな熱。
そして、ふっと、視界の端で光が揺れた。
首元じゃない。
空気の中。
でも、次の瞬間、確かに首元が温かくなる。
——ミナト。
今度は“見えた気がした”じゃない。
見えた、と思った。
自分でそう認めた瞬間、胸の奥がすとんと落ちた。
落ちたのが怖くて、俺はすぐに息を吸う。
一。
二。
三。
四。
胸まで落ちる。
……落ちるのに、戻れる。
その矛盾を抱えたまま、俺は目を閉じた。
怖い。
怖いのに、息ができる。
息ができるのが、安心で——
安心が、いちばん怖い。
でも俺は、生きるために、それを受け入れる。
今夜だけ。
必要な分だけ。
タグの冷たさを、最後の手すりとして意識しながら。
Case-M ミナトという青年が主人公の本編が始まります。
現時点で番外編も入れて100話越える予定です。
遅筆ではありますが、お付き合いいただけると嬉しいです。




