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異界の境界施設  作者:


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Case-M #1



 夜は、いつもみたいに始まった。


 駅の改札を抜けて、コンビニの明かりを横目に見て、遠回りでも明るい道を選ぶ。理由なんてない。癖だ。暗い路地は避ける。人の気配がある方へ寄る。

 それだけで“ちゃんとしてる自分”になれる気がする。


 冷えた空気が頬に当たって、息が白くなる。

 肺に入る空気が少しだけ痛い。冬の夜の、あの痛さ。

 それが普通で、安心で、——だからこそ、次の違和感が際立った。


 息が、落ちてこない。


 吸ったはずの空気が喉のところで止まって、胸まで届かない。肺の手前で透明な膜に弾かれて、吸気だけが浅く跳ねる。呼吸が、体の外側だけで起きている感じ。


「……っ、は……?」


 足を止めた。

 歩きながらでも笑って誤魔化せる程度なら、いつもならそうする。具合悪いのかも、風邪かな、くらいで済ませて、帰って、寝て、明日また笑って出社すればいい。


 ——そうやって、何度もやってきた。


 だから、今も最初はそのつもりだった。


 大丈夫。

 平気。

 へこたれない。


 口に出す前に、頭の中で唱える。唱えた瞬間、喉がきゅっと縮んで、余計に空気が入らなくなる。


「……ちょ、待っ……」


 胸がざわつく。

 呼吸ができない、というより、“呼吸のやり方が分からなくなる”感覚に近い。

 息を吸おうとすると、吸う場所が見つからない。吐こうとすると、吐く道が見つからない。


 視界が一瞬、薄く揺れた。


 街灯の輪郭が滲む。コンビニの看板が遠くなる。足元のアスファルトが、ぐにゃっと柔らかくなった気がして、慌てて踏ん張る。


 ——転ぶ。


 そう思ったのに、転ぶ痛みが来ない。


 代わりに、“落ちる”感覚だけが来た。


 足元が抜ける。

 胃が置いていかれる。音が遠くなる。冷えた夜の空気が、一瞬で消えて、代わりに——湿り気のない、乾いた匂いが鼻の奥に刺さった。


 落下の時間は、短かったのか長かったのか分からない。

 ただ、世界が一枚めくられる音だけがした。


 次の瞬間、背中に硬い床の冷たさがあった。


 ——息が、入らない。


 喉の膜が厚くなって、胸が膨らまない。

 口を開けても、空気だけが浅く擦れて、肺まで届かない。


「……っ、は……っ……」


 目を開ける。


 暗い天井。金属の梁。淡い照明。

 白くない。夜のまぶたの裏に似た光で、目が痛くならない。

 なのに、その“優しさ”が逆に不気味だった。優しい光は、ここが“慣れた場所”である証拠みたいに見える。


 施設。


 そう思った途端、背中に汗がにじんだ。

 病院じゃない。駅でもない。学校でもない。

 どこだ、ここ。何が起きた。


 考えようとすると、息がさらに浅くなる。

 頭が先に回って、体が遅れる。いつもの癖だ。まず“状況を整理”してしまう。

 整理できないと不安で、不安が増えると余計に息ができなくなる。


 悪循環。


 足音が近づいた。


 規則正しい。急がない。焦らない音。

 それが余計に怖かった。焦ってない足音は、“ここが日常”だと言っている。


「……起きてる?」


 声が落ちてきた。


 低い。静か。なのに輪郭がはっきりしている。耳の奥に残る。

 顔を上げると、男がしゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた。


 長身。黒に近い髪。暗い目。

 でも口元は笑っている。軽い。人当たりのいい“お兄さん”の笑い方。

 その笑顔が、場を壊さないためのものだと分かってしまう。——分かってしまうくらいには、俺も同じことをしてきた。


 なのに、目の使い方が違った。

 人を見る目じゃない。状態を見て、順番を決める目だ。


「立てそう?」


「……だい、じょ——」


 言いかけて、息が詰まった。

 喉が勝手に鳴る。情けない音。焦りが胸の奥で膨らむ。

 焦るほど余計に吸えなくなるのが、また焦りを呼ぶ。


 男は焦らない。

 焦っている俺を“置いていかない”。


「息、合わせよ」


 短く言って、手袋越しの指先が顎の下へ添えられる。

 触れる直前に、一拍止まる。拒否できる余地を残すみたいに。


「今、吸えてない。……俺の声だけ聞いて」


 命令っぽいのに、押しつけじゃない。

 言い方が上手い。そういう種類の上手さ。


 俺は反射で笑おうとして、口角だけが引きつった。


「……俺、こ……っ…ういうのあんま得意……っじゃなくて。」


「得意な人、あんまりいない」


 軽薄な調子で言いながら、男は指を上げる。

 合図みたいに。


「……一」


 声が落ちるたび、喉の膜が薄くなる気がした。


「二」


 胸の奥が、少しほどける。


「三」


 肩が勝手に落ちた。


「四」


 空気が入った。

 肺がやっと仕事を始めたみたいに深く膨らむ。


 それだけで泣きそうになるのが悔しい。

 悔しいのに、楽だ。


「……っ、すげ……」


「うん。戻った」


 当たり前みたいに頷かれる。

 その当たり前がずるい。俺がずっと欲しかったものを、手順として渡してくる。


「……ここ、どこですか」


 声が自分のものみたいで、少し安心した。言葉が出ると、世界が繋がる。


 男は笑顔のまま、淡々と言う。


「境界施設。迷い込みの保護と、帰還の手順を回すところ」


 “保護”という言葉が、優しいのに鍵の音を連れてくる。

 “手順”という言葉が、正しいのに逃げ道を塞ぐ気がする。


 男は立ち上がり、俺にも立つよう促した。

 支える腕は強いが乱暴じゃない。重心が崩れない位置に、迷いなく手が来る。


 ——慣れている。


 それが怖いのに、頼りたくなる。


「俺はレイヴ。担当」


 名乗り方は軽い。笑顔も軽い。

 でも立ち位置だけはぶれない。


 俺は、つい、いつもの癖で明るく返しそうになって、飲み込んだ。

 ここで“場回し”をやったら、たぶん二度と止められない気がした。


 代わりに、短く頷く。


「……よろしく、お願いします」


 言ってから気づく。

 “お願いします”が、もう出てる。


 レイヴはそれを笑わない。

 笑わないのが、逆に安心を増やす。


「ここから先、ちょっと分からなくなる」


「……分からなくなる?」


「出口とか。戻り道とか。焦ると危ないから」


 言い方が丁寧で、怖がらせる言い方をわざわざ避けている。

 怖がるのを前提にして、怖くない道を用意する——そういう優しさ。


 案内された廊下は静かだった。

 白すぎない光。夜の灯りに近い明るさ。

 空気には甘苦い匂いが混ざっている。薬草みたいな清潔さと、乾いた紙の匂い。台帳みたいな匂い。


 落ち着く匂いだ、と体が先に理解してしまうのが悔しい。


「だから、タグをつける」


 レイヴが歩きながら言った。


「君の位置と状態を拾う。倒れたら、誰かが“気づける”ようにする」


 俺は思わず、冗談に逃げる。


「……倒れそうに見えます?」


「見える」


 即答だった。


 笑顔のまま容赦がない。

 でも、その容赦のなさが責めじゃないのが分かる。——分かってしまうのが怖い。


 部屋に通される。

 温度がちょうどいい。毛布と水。椅子が一脚。

 過不足がない。過不足がないってことは、選択肢が最初から狭いってことでもある。


 レイヴは細い金属の輪を取り出した。

 首にかける札みたいなもの。薄い板に、紋様が刻まれている。淡い光がすっと走る。


「痛くない。……嫌なら止める」


 止める、と言いながら手は近づいてくる。

 でも、触れる直前に一拍置く。拒否の隙がある。


 俺はその隙に、笑ってしまう。


「……こういうとき、断れない性格って損ですね」


 口に出した瞬間、しまったと思った。

 自分で言うと、軽い冗談みたいに聞こえるのに、内側は全然軽くない。

 “断れない”は、今まで何度も俺を助けてきて、何度も俺を削ってきた。


 レイヴは、その言葉を笑い飛ばさなかった。

 笑って終わらせるのが簡単な場面で、簡単な方を選ばない。


「損、って言えるのは余裕がある証拠」


 さらっと言う。軽薄に聞こえるのに、妙に丁寧だ。

 俺の表面にある“明るさ”を、そのまま褒めない。否定もしない。

 ただ、そこに体温みたいなものを一滴落とす。


「……余裕、あります?」


「今は、作る。手順で」


 手順、という言葉がまた出る。

 正しさの形をした言葉。逃げ道がないのに、安心の匂いがする言葉。


 レイヴはタグ——薄い金属の輪を、指先で持ち直した。

 首にかける札みたいに見えるのに、装飾じゃない。薄い板に刻まれた紋様が、淡く脈打つ。


 俺はそれを見ているだけで、喉の奥がきゅっと縮んだ。

 嫌だ、と言いたいわけじゃない。

 ただ、“これをつけたら”何かが始まる気がする。


 なのに、目が離せない。


「確認」


 レイヴが言った。

 優しい声で言うのに、そこだけ妙に硬い。


「意識ははっきりしてる? 吐き気は? 痛いところは?」


 質問の並びが、病院の問診みたいで。

 それが逆に、ここが病院じゃないことを際立たせる。


「……吐き気は、ないです。痛いところも……たぶん」


「“たぶん”ね」


 レイヴが笑う。軽い笑い方。

 でも、その軽さが、俺を馬鹿にする軽さじゃない。


「じゃあ次。首元、触る。嫌なら言って」


 言いながら、手は近づいてくる。

 触れる直前に一拍止まるのも、さっきと同じだ。


 断る隙をくれる。

 ——隙をくれるのに、断らない俺を見越している気もする。


 俺は喉の奥で、息を吸った。

 さっきみたいに、ちゃんと入る。入ってしまう。


「……大丈夫、です」


 言った瞬間、首の後ろが熱くなる。

 自分で選んだみたいに聞こえる言葉を、今、俺は選んだ。


 レイヴの指先が襟元に触れる。

 衣擦れの音が、小さく耳に残った。

 次の瞬間、ひやりとした感触が首筋に落ちる。


 冷たい。

 痛くはない。けれど、冷たさが“印”みたいに残る。


 ——喉の奥が、ふっと軽くなる。


 さっきまで膜が張っていた場所が、薄くなる。

 呼吸が、するりと通る。


「……え」


 思わず声が出た。

 驚いたのは、冷たさじゃない。

 俺の体が、勝手に“落ち着く”方向へ傾いたことだ。


 怖いはずなのに。

 怖さが、少しだけ下がる。


 レイヴは、覗き込むように俺を見る。

 目は真面目だ。笑顔は軽いままなのに、目だけが仕事をしている。


「変な感じする?」


「……する、けど……悪い感じじゃない、です」


「うん。正しい反応」


 正しい、と言われて、背中がぞくりとした。

 “ここでの正しい”が、どこからどこまでなのか分からない。


 タグの薄い板が、淡く揺らいだ。

 光が走って、文字が浮かびかける。


 ——けれど、完成しない。


 出かけた文字が、霧みたいに揺れて、また薄くなる。


「……出ない」


 俺が言うと、レイヴは平然と頷いた。


「未発動。いまは“仮”でいい」


 仮。

 その言葉は、本来なら軽いはずなのに、首元では重い。


 レイヴは、タグの表面を指先で軽くなぞった。

 手袋越しの動きなのに、触れ方が妙に丁寧で、目が離せない。


 そして、俺の目線に気づいたのか、軽い調子で言う。


「……見てる?」


「見てます」


 即答してしまった。

 自分でも驚くくらい素直な返事だった。


 レイヴが笑う。


「かわいい反応」


 軽薄。

 だけど、そこで終わらせない。


「タグの表示はね、焦ってると立ち上がりにくい。だから急がない」


 説明じゃない。言い聞かせでもない。

 “急がない”を選んでくれる言い方。


 俺の喉が、また鳴った。


「……俺、焦ってます?」


「うん」


 即答。

 それなのに、優しい。


「でも、ちゃんと息できてる。だから、いまは合格」


 合格、って言葉が可笑しくて、俺は笑いそうになる。

 笑ってもいいのか迷って、結局、口角だけが上がった。


「……俺、試験受けに来たんですかね」


「そういう日もある」


 レイヴはさらっと言った。

 まるで、世界がこういうものだと知っているみたいに。


 俺は、気づいた。

 レイヴは俺の名前を聞いていない。

 ——なのに、俺は名前の話をしてしまいそうになる。


 危ない。

 ここで本名を口に出したら、何かが“引っかかる”気がする。


 喉の奥が、きゅっと鳴る。


 レイヴは、その小さな変化を見逃さない。


「息、浅くなった」


 言って、指を上げた。

 また、あの合図。


「一緒にやろ」


 俺は、悔しいのに頷いてしまう。

 こういうの、悔しい。悔しいけど、助かる。


「……一」


 レイヴの声が落ちる。


「二」


 喉の奥がほどける。


「三」


 胸が広がる。


「四」


 息が、入る。


 ——怖さが、少し下がる。


 俺は自分に腹が立った。

 こんなに簡単に、誰かの声で落ち着くなんて。

 でも、その腹立たしさを飲み込むのも、いつもの癖で。


 代わりに、明るく言う。


「……レイヴさん、仕事できすぎじゃないですか」


「ありがとう」


 さらっと受け取る。

 謙遜しない。否定しない。

 そのまま次に進む。


「で、呼び名」


 俺の心臓が小さく跳ねた。


 名前の話。

 今は危ない。なのに、逃げられない。


 レイヴはタグを軽く叩く。


「未発動でも、“仮称”は出る。見える人には」


 見える人には。

 その言い方が、ぞくっとする。


 タグの表面をよく見ると、文字になりきらない淡い輪郭が、確かに揺れている。

 霧の中の看板みたいに、読めそうで読めない。


 レイヴが、その輪郭を、迷いなく口にする。


「……ミナト」


 呼ばれた瞬間、背中がぞくりとした。

 真名じゃない。フルネームでもない。

 なのに、首元に落ちた冷たさと一緒に、体の奥へすっと染みる。


「……ミナト」


 俺は、知らないのに繰り返した。

 繰り返してしまう自分が怖い。

 でも、声にすると呼吸が楽になる。


 レイヴが軽く笑う。


「仮称としては、悪くない」


 悪くない、という言い方がずるい。

 “いい”と断言しないのに、もう“採用”みたいに聞こえる。


 俺は冗談に逃げる。


「……じゃあ、今日だけ、それで」


 “今日だけ”。

 自分の口癖が、また出る。


 レイヴは頷いた。


「うん。今日だけ。……ミナト」


 呼ばれる。

 呼ばれるだけで、胸の奥が少し落ち着く。


 怖い。


 怖いのに、嬉しい。

 その混ざり方が、いちばん危ない。


 レイヴは、部屋の中を指さした。

 椅子。水。毛布。


「座れる?」


「……座れます」


 俺は椅子に腰を下ろした。

 座った途端、膝の力が抜けたのが分かる。

 さっきまで立っていられたのは、気が張っていただけだ。


 レイヴは水を取って、ふたを開け、俺の手元へ置いた。

 手渡しじゃない。“置く”。

 距離の取り方が、絶妙に上手い。


「一口。飲めそうなら」


 命令じゃない。

 提案の形をしている。

 でも、断ったら自分が損をするのが分かる提案だ。


 俺は水を持つ。

 指先が少し震えて、ボトルが小さく鳴る。


「……俺、震えてますね」


「うん」


 即答。

 でも、笑わない。


「普通。迷い込みは身体が追いつかない。だから、いまは追いつかせる」


 追いつかせる。

 その言葉が、優しいのに、管理の手触りがする。


 俺は一口飲んだ。

 水が喉を通る。冷たくて、現実味がある。


 ——現実味があるのに、現実じゃない。


 部屋の匂いが、少しだけ鼻に馴染む。

 薬草の甘苦さ。乾いた紙。清潔さ。

 落ち着く匂いだ、と体が言う。


 腹が立つ。


「……ここ、慣れてる匂いしますね」


 口に出したら、自分でも変な言い方だと思った。

 なのに、レイヴは否定しない。


「日常の匂いにしてる。迷い込みは、日常に弱いから」


 俺は目を瞬いた。

 今の、ちょっと刺さった。


 日常に弱い。

 俺は、日常を守るためにいつも笑ってる。

 でも本当は、日常にしがみついてるだけだ。


 レイヴは、その“刺さり”を見て、軽い調子に戻す。


「ミナト、目の下、疲れてる」


「……それ、初対面で言います?」


「言う。倒れたら困る」


 困る。

 その言葉が、妙に優しい。


「俺、仕事で困るの嫌いなんだよね」


 軽薄に言う。

 でも、その軽薄さが、俺の心臓を少しだけ軽くする。


 ——ずるい。


 レイヴは小さな端末みたいなものを取り出した。

 書くのではなく、確認するだけの仕草。

 機械の光は弱く、部屋の明るさを壊さない。


「今日は“保護”として預かる。帰還は、明るくなってから考える」


 断言しない。

 否定もしない。

 今夜の正解だけを置く。


 俺は頷いた。

 頷きながら、喉の奥がまた鳴った。


「……帰りたい、はずなんですけどね」


 自分で言って、笑いそうになる。

 笑ったら、たぶん、涙が混ざる。


 レイヴは俺を見て、ゆっくり言う。


「帰りたい、って言えたのが強い」


 褒められると固まる癖がある。

 だから俺は、また冗談で逃げた。


「……俺、今日だけで褒め判定多くないですか」


「いいところ、見つけるの得意なんだよね」


 軽薄に返されて、変に救われる。

 救われてしまうのが怖い。


 レイヴは立ち上がった。

 仕事の動き。迷いがない。


「——寝られそう?」


「……寝るの、怖いです」


 言ってしまった。

 初対面に、こんなこと言うタイプじゃない。

 でも、言えた。


 レイヴは、そこで笑わなかった。

 からかいも、しない。


「そりゃそうだ。怖いのが普通」


 普通、と言われて、少しだけ胸が落ちる。


「じゃあ、寝る前に一個だけ。——ここは“出られない”んじゃなくて、“出方が分からなくなる”だけ」


 言い方がずるい。

 希望の形をしているのに、出口の鍵は握ったまま。


 でも、俺の胸は少しだけ落ち着いた。


「……分かった」


「うん。分かった、って言えるのも偉い」


「また偉い……」


 俺が笑うと、レイヴも軽く笑った。

 その笑い方が、職務の笑い方と、人の笑い方の中間みたいで——俺は目を逸らした。


 見てしまうと、安心が増える。

 安心が増えると、俺は弱くなる。


 レイヴは、扉の方へ一歩引いた。

 距離を取る。逃げ道を残す。


「今日はここ。見回りは入る。——驚かないで」


「見回り……」


「保護だから」


 保護、という言葉がまた出る。

 優しい顔をした、鎖の言葉。


 俺は息を吸った。

 ちゃんと入る。

 首元の冷たさがまだ残っていて、そこに“ミナト”という音が引っかかっている。


「……わかりました」


 レイヴが頷いて、最後にもう一度だけ言った。


「おやすみ。ミナト」


 扉が閉まる。

 音は静かで、鍵の音もしないのに、俺の背中にだけ“閉まった”感覚が残った。


 ——怖い。


 でも、呼吸は乱れない。


 俺はベッドに横になって、天井を見た。

 淡い光。金属の梁。

 ここがどこなのか、まだ分からない。


 なのに。


 ミナト、と呼ばれた音だけが、喉の奥で温かく残っている。


 それが、怖いくらい嬉しかった。



[newpage]


 扉が閉まったあと、部屋は驚くほど静かだった。


 静か、というより——「余計な音がない」。

 冷蔵庫の唸りも、隣室の生活音も、外の車の走行音もない。都会の夜にいつも貼り付いている薄いノイズが、ここにはない。


 だから、自分の呼吸の音がやけに大きい。


 すぅ、と吸って。

 はぁ、と吐く。


 さっきまで詰まっていたはずの息が、今はちゃんと通る。

 胸の奥が膨らむ感覚がある。


 ……あるのに。


 安心より先に、ぞわっとした不安が背中を這った。

 こんなに簡単に“整う”のが怖い。

 整ったまま眠ってしまったら、起きたとき、また違う場所にいる気がする。


 ベッドに横になったまま、首元をそっと触る。


 タグの冷たさは薄く残っていて、肌の上に小さな「在る」を作っている。

 鎖じゃない。首輪でもない。痛くもない。

 でも——自分が自分であるための“境目”に、印が置かれた感じがする。


 やめて、と言えるはずだった。

 嫌なら止める、と言われた。

 触れる直前に、ちゃんと一拍置かれていた。


 なのに、俺は止めなかった。

 俺は、うなずいた。


 そのことが、少し遅れて胸の奥に刺さる。


「……おやすみ、ミナト」


 あの声が、まだ喉の奥に残っている。

 呼び名ひとつで、こんなに呼吸が落ち着くなんて、知らなかった。


 知らなかったのに、身体がもう覚えてしまったみたいで腹が立つ。


 それでも、俺は布団の端を握った。

 ぎゅっと掴むと、手のひらに確かな感触が返ってくる。

 現実だ、と言い聞かせるための手触り。


 深呼吸をしようとして、ふと、息が白くならないことに気づく。


 当たり前だ。

 ここは外じゃない。

 でも、その当たり前が、急に心細い。


 ……俺、今どこにいるんだ。


 考え始めると、喉の奥がきゅっと狭くなる。

 息が浅くなる。


 やばい。

 また戻る。

 さっきの、あの膜に。


 自分を落ち着かせるために、頭の中で「大丈夫」と唱えようとして——やめた。

 さっき、唱えたら余計に苦しくなった。


 代わりに、数える。


 一。

 二。

 三。


 吸って、吐いて。

 数えることに集中すると、思考が少しだけ黙る。


 ……これ、レイヴのやり方だ。


 自分の中に、他人の手順が入り込んだみたいで、また腹が立つ。

 なのに、少し楽になる。


 矛盾してる。


 天井の梁を目で追って、数える。

 一本、二本、三本。

 そうしていると、ふいに、廊下の方から小さな音がした。


 足音。


 規則正しい。急がない。焦らない。

 さっきと同じ種類の足音。


 心臓が跳ねる。

 身体が勝手に布団の中で固まる。


 見回りは入る、って言ってた。


 分かってる。分かってるのに、怖い。

 扉の向こうが、こちらの都合で止まらないのが怖い。


 足音が近づいて、止まる。

 扉の前で、空気が一瞬だけ張りつめる。


 ——ノック。


 控えめで、間の取り方が上手いノックだった。

 返事を待つための間が、ちゃんとある。


 それでも、声が出ない。

 喉が固まる。


 ……どうする。返事しないと、入ってくる?

 でも、入るって言ってた。“驚かないで”って。


 その言葉が、優しいのに、逃げ道を塞ぐ。


 もう一度、ノック。


「ミナト。起きてる?」


 呼び名が先に来る。

 そのせいで、反射で呼吸が少しだけ落ち着いてしまう。

 悔しい。


 でも、返事はしないといけない。


「……起きて、ます」


 かすれた声になった。

 情けない。でも出た。


 扉が開く音は静かだった。

 鍵の音もしない。なのに、開いた瞬間の空気の流れで“境界”が動いたのが分かる。

 部屋の中の温度と、廊下の温度が混ざる。


 レイヴは入ってきても、距離を詰めない。

 扉の近くに立ったまま、視線だけで俺を確認する。


「眠れそう?」


「……まだ」


 答えた瞬間、喉の奥が鳴った。

 言ってしまった、と思う。

 弱いところを見せるのは得意じゃない。

 得意じゃないのに、ここでは出てしまう。


 レイヴはそれを笑わない。


「そうだよね。さっき落ちたばっか」


 落ちたばっか。

 その言い方が妙に現実的で、少しだけ救われる。


「水、飲めた?」


「……一口、だけ」


「それでいい」


 “それでいい”が、肯定の形をしている。

 俺の中の焦りが、少しだけほどける。


 レイヴは一歩だけ前へ出た。

 それでも、ベッドには近づかない。

 近づかないのに、空気が支配される感じがする。


「……さっきより、目が冴えてる。息も浅い」


 言い当てられて、胸が詰まる。

 俺はまた冗談に逃げようとして、でも、逃げる言葉が見つからない。


「……自覚あります」


「うん。じゃ、短いのやろ」


 短いの。

 それが何か説明しない。

 説明しないのに、こちらが察せる温度で言う。


 レイヴは指を上げた。

 あの合図。


「声、嫌じゃない?」


 質問が、先に来る。

 手順の前に、同意の形が置かれる。

 それだけで、俺の胸が少しだけ落ちる。


「……嫌じゃ、ないです」


 言った瞬間、自分で自分が怖い。

 “嫌じゃない”が、どこまで本音なんだ。

 助かるから言ってるだけじゃないのか。


 でも、助かりたいのも本音だ。


 レイヴの声が落ちる。


「一」


 呼吸が、少しだけ深くなる。


「二」


 喉の奥の膜が薄くなる。


「三」


 肩が落ちる。


「四」


 胸が、ちゃんと膨らむ。


 ……怖さの音量が、下がった。


 レイヴはそこで終わらせる。

 長引かせない。依存させるように引き延ばさない。

 その切り上げ方が、真面目で、逆に怖い。


「いま、戻った」


 当たり前のように言われて、俺は小さく息を吐いた。

 吐いた息が震えない。


「……レイヴさん、これ……すごいですね」


 言ってしまってから、媚びみたいに聞こえたら嫌だと思う。

 でも、嘘じゃない。俺は実際、助かってる。


 レイヴは軽く笑った。


「すごいのは俺じゃなくて、君の身体。混乱しても、ちゃんと戻る」


 “戻る”。

 その言葉が救いの気がする。ここで救いに寄りかかったら、もう立てなくなる気がする。


 俺は視線を落とした。

 首元の冷たさ。そこに残っている、薄い金属の感触。


「……このタグ」


 言い直すと、喉が少しだけ詰まった。

 “これ”じゃなくて、“タグ”って呼んだ途端に、現実味が増す。


「……外せないんですか」


 聞いた瞬間、心臓が一拍遅れて鳴った。

 答えを聞きたいのに、聞きたくない。


 レイヴは一拍置いた。

 考えるふりじゃない。言葉を選ぶための間。


「外すのは、できる」


 できる。

 その単語だけで、胸が少し軽くなる。

 軽くなるぶん、次が怖い。


「ただ、今外すと迷いが強くなる。今日の君には負担が大きい」


 “君のため”の言い方だ。

 拒否しづらい。拒否したら、俺が悪いみたいになる。


 俺は唇を噛んだ。

 反射で笑いそうになって、笑わなかった。


「……分かってます」


 分かってる。

 安全のため。

 保護のため。


 でも、言わないと——自分の中で理由が腐る気がした。


「……俺、こういうの……苦手で」


 喉の奥が熱くなる。

 “こういうの”で濁すのも癖だ。

 だけど、濁したままだと、ここでは飲み込まれる気がして。


 俺は小さく息を吸って、続きを言う。


「首に“印”があるって、落ち着かないんです。……自分のものじゃなくなる感じがして」


 言った瞬間、胸の奥がひやっとした。

 言い過ぎたかもしれない。

 でも、言わないと、俺はたぶん笑って済ませて、あとで壊れる。


 レイヴは俺を見て、笑わなかった。

 否定もしない。

 その代わり、声を落とす。


「……そう感じるのは普通」


 普通、と言われて、少しだけ胸が落ちる。


「今夜は“印”じゃなくて、“手すり”だと思って。転びそうなときだけ掴むもの」


 手すり。

 やさしい言い換えなのに、握らされてる感じがするのに胃の奥がヒヤッとした。。

 でも、俺の喉の膜が少し薄くなるのも分かる。


「……手すり」


 俺が繰り返すと、レイヴは頷いた。


「怖い?」


「……怖いです」


 言えてしまった。

 言えたことが、一番怖い。


 レイヴはそれを拾って、短く肯定した。


「怖いままでいい。怖いのに、息できてる。——それで十分」


 十分。

 その言葉が、胸の奥に落ちる。


 俺はタグに指先を当てた。

 冷たい。

 冷たいのに、呼吸が通る。


「……もし、何かあったら」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 “何か”なんて曖昧なままにしたいのに、曖昧だと置いていかれる。


 レイヴが先に言った。


「呼べる」


「……どうやって」


 レイヴは、俺の首元——タグに視線を落とし、指先で自分の喉元を軽く示した。


「タグを握って、俺の名前を呼んで。小さくていい」


 “俺の名前”。

 それが、鍵のかかった言葉みたいに聞こえる。


 俺は恐る恐る、タグを握った。

 金属が指先に当たって、ひやりとする。

 その冷たさが、やけに現実的で、少しだけ安心もする。


「……レイヴ、さん」


 小さな声。

 でも、言った瞬間、空気がすっと整った気がした。


 レイヴは、笑わないまま頷いた。


「うん。拾える」


 拾える、という言葉が鍵の音をするのに、

 今はそれが救いの音にも聞こえるのが悔しい。


 レイヴは一歩下がって、扉の方へ戻る。

 距離を取る。逃げ道を残す。


「今夜の見回りは、もう一回だけ。そのあとは朝まで入らない。——それでいい?」


 それでいい?

 質問の形が置かれて、少しだけ息が楽になる。


「……はい」


「うん。じゃ、おやすみ。ミナト」


 扉が閉まる。

 音は静かで、鍵の音もしない。


 俺は布団の中で、まだタグを握っていた。

 指先が少し痺れているのに、放せない。


 成宮湊、という自分の名前が喉の奥で疼く。

 でも、今夜は言わない。


 代わりに、もう一度だけ小さく呼ぶ。


「……レイヴさん」


 それだけで、呼吸が深く入った。


 怖いくらい、簡単だった。



========-





 扉が閉まった。


 音は静かで、鍵の音もしないのに——閉まった、と身体だけが分かっている。胸の奥に薄い板を当てられたみたいな感覚が残る。


 俺は布団の中で、まだタグを握っていた。


 ひやり、とした金属が指先に張りついている。

 冷たいのに、妙に落ち着く。

 落ち着くのが腹立たしい。


 ゆっくりと手を緩める。放したくない、みたいに一瞬だけ指が粘った。そんな自分に気づいて、顔が熱くなる。誰も見てないのに。


「……落ち着け」


 声に出すと、余計に緊張が上がる。

 自分の声が、この部屋で浮いて、天井に吸われていくみたいで。


 だから、また数える。


 一。

 二。

 三。


 吸って、吐く。

 息がちゃんと胸まで落ちる。肺の奥が膨らむ。

 それだけで、身体が“まだ生きてる”って実感する。


 ——さっきまで、死ぬかもって思ってたんだっけ。


 思い出そうとすると、喉の奥がきゅっと狭くなる。

 膜が戻ってくる気配がする。

 俺は慌てて、視線を天井へ戻した。


 金属の梁。

 淡い光。

 眩しくないのに、逃げ道がない明るさ。


 布団の端を握りしめる。

 指先に布の摩擦が返ってくる。

 そういう“手触り”が、現実の証拠になる。


 部屋の匂いが、さっきより少しだけ分かるようになってきた。


 甘苦い薬草みたいな清潔さ。

 乾いた紙。

 消毒の匂いほど鋭くない。むしろ、奥に柔らかさがある。人がいる場所の匂いだ。


 ……日常の匂い。


 さっきレイヴが言った言葉が、遅れて刺さる。


 日常に弱い。


 俺は、いつも日常を守るために笑ってる。

 守れてないのに、守ってるふりをするのが上手い。

 その上手さが、ここだと“馴染みやすさ”になってしまうのが、嫌だ。


 首元に指を当てる。


 タグ。

 冷たさは薄れているのに、そこだけ肌の感覚が敏感だ。

 触れるたびに、呼吸が一拍だけ整う気がして——だから触りたくないのに、触れてしまう。


 俺は手を引っ込めて、目を閉じた。


 寝ない。

 寝なくていい。

 横になって目を閉じるだけ。


 レイヴが言った通りにする。

 その通りにするのが、悔しい。けど、助かる。


 しばらく、何も起きない。


 それが怖い。

 何も起きない時間って、考えが戻ってくる時間だから。


 成宮湊。


 喉の奥で、名前が疼く。

 言いたくなる。言って確かめたくなる。俺は俺だって。

 でも、言うのが怖い。ここで言ったら、何かが“引っかかる”気がする。


 だから、口の中でだけ転がす。


 な・る・み・や。

 み・な・と。


 音にしない。音にしたら、部屋がそれを拾って、どこかへ運びそうで。


 ……馬鹿みたいだ。


 馬鹿みたい、って思えるうちはまだ大丈夫だ。

 そうやって自分を笑えるうちは、まだ“こっち側”にいる。


 息を吸う。

 吐く。


 それでも、指先が勝手に動く。

 布団の上を探って、首元に触れそうになって、止まる。

 タグに触れたら、安心が入ってくる。

 安心が入ってきたら、俺は——ここに馴染む。


 馴染みたくない。

 でも、馴染めたら楽だ。


 その矛盾が、胸の中で静かに膨らむ。


 廊下の方で、遠くから小さな音がした。


 足音。

 さっきより遠い。誰かが通り過ぎただけの音。

 規則正しい。急がない。

 “ここが動いている”という証拠。


 俺は息を止めた。

 止めて、すぐ後悔する。


 息を止めると、膜が戻る。

 レイヴの声がないと戻る——そんな風に身体が覚え始めているのが、嫌でたまらない。


 慌てて息を吐く。

 吸う。


 ……大丈夫。

 まだ、ひとりでも吸える。


 自分に言い聞かせるために、指をぎゅっと握る。

 今度はタグじゃない。自分の手。

 爪が手のひらに食い込んで、痛みが返ってくる。


 痛いのは、現実だ。

 現実なら、まだ戦える。


 それでも、眠気がじわじわと寄ってくる。


 布団の重みが心地よく感じるのが、怖い。

 心地よさは、判断を溶かす。


 俺は目を閉じたまま、浅く笑った。


「……俺、ほんと損だな」


 小さく吐いた声は、すぐ天井に吸われた。

 誰にも届かない。

 ——だからこそ、少しだけ本音になる。


 しばらくして。


 首元が、かすかに熱を持った。


 熱い、というほどじゃない。

 薄い温度が皮膚の内側を撫でていく感じ。


 俺は目を開けて、反射で首元を押さえた。


 タグの表面が、微かに光っている。


 さっきは霧みたいに揺れて、文字にならなかった輪郭。

 それが、今は一瞬だけ、形になりかけた。


 ——ミ。


 そこまで見えた気がした瞬間、心臓が跳ねる。

 呼吸が乱れそうになって、慌てて息を吸う。


 入る。

 まだ入る。


 俺はタグから手を離した。

 触れたら、立ち上がってしまいそうで。


 光はすぐに弱くなって、また未発動の曖昧な揺らぎに戻った。


 ……なんだよ、それ。


 呼び名が勝手に近づいてくる感じがして、背中がぞくりとする。

 俺の都合じゃない。

 ここが決める。

 ここが、俺を呼ぶ。


 怖い。

 でも、同時に——呼ばれたくもある。


 俺は唇を噛んだ。

 噛んで、吐いた。


 呼びたい。

 レイヴを。


 タグを握って、名前を呼べば拾えるって言った。

 拾える。

 助けの言葉みたいに言ってた。


 ——でも。


 今、呼んだら。

 俺はきっと、もう少しだけ楽になる。

 楽になったら、もう少しだけ、頼ってしまう。


 その“もう少し”が積もるのが、一番怖い。


 だから、呼ばない。


 呼ばない代わりに、数える。


 一。

 二。

 三。

 四。


 息が整う。

 怖さの音量が、少し下がる。


 俺は布団の中で丸くなった。

 タグには触れない。

 でも、そこにある冷たさだけは意識してしまう。


 目を閉じる。


 暗闇は来ない。

 この部屋の淡い光が、まぶたの裏を薄く照らす。


 そのまま、意識がゆっくり沈んでいく。


 落ちる、じゃない。

 沈む。


 沈む途中で、ふと、誰かの声がした気がした。


 ——ミナト。


 レイヴの声じゃない。

 俺の頭の中の音でもない。


 もっと遠い、もっと均一な、“ここ”の声。


 背中が冷たくなる。

 目を開けたいのに、開けられない。

 呼吸だけは、なぜか乱れない。


 ……怖いのに、整ってる。


 それが、この施設の正しさなんだろうか。



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 ——ミナト。


 声がした気がした。


 耳で聞いたというより、皮膚の内側を撫でられたみたいな、均一な音。

 言葉なのに、息の流れと同じ場所を通ってくる。


 背中が冷たくなる。

 目を開けたいのに、まぶたが重い。身体は布団に沈んだまま、動く気配がない。


 ……やばい。


 焦ると危ない。

 レイヴの言葉が、遅れて浮かぶ。


 焦るな。

 焦るな、って思うほど焦る。


 呼吸は乱れていない。

 乱れていないのが逆に怖い。

 怖いのに、整ってる。俺の身体が、俺の怖さに反応してくれない。


 首元が、また、かすかに熱を持った。


 熱、というほど強くない。

 ただ、皮膚の内側がじわっと温まる感じ。

 まるで「そこに意識を向けろ」と言われているみたいに。


 俺は反射で首元へ手を伸ばした。

 触れた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に吸いつく。


 タグ。


 握った、と思った瞬間。

 視界の端が、薄く歪んだ。


 部屋の角が、増える。

 増える、というより、同じ角が重なっていく。

 ベッドの位置が、ほんの少しだけ遠くなる。


 ——出口が、分からなくなる。


 レイヴが言っていた“分からなくなる”が、いきなり現実になる。


「……っ」


 声が出ない。

 喉が固まる。

 息は入っているのに、声だけが出ない。


 やばい。

 このままだと、俺はここに溶ける。


 溶ける、って何だよ。

 馬鹿みたいだ。

 でも、“そうなる”気配だけは分かる。身体が、境界に馴染んでいく感じ。


 俺はタグを強く握った。


 ひやり、とする。

 冷たさが指先に刺さる。

 その痛みっぽい感覚が、現実に繋がる。


 ——呼べる。


 タグを握って、レイヴの名前を呼べば拾える。

 小さくていい。


 呼びたくない。

 呼んだら、もう少しだけ頼ってしまう。

 でも、頼らないと、このまま“分からなくなる”。


 俺は息を吸って、吐いて。

 喉をほどいて、絞り出す。


「……レイヴ、さん」


 かすれた声。

 情けないくらい小さい。


 それでも、タグが掌の中で、ほんの少しだけ温度を持った。

 冷たい金属が、かすかに生き物みたいに脈打つ。


 そして、空気が変わる。


 部屋の角の重なりが、ほどける。

 ベッドの位置が元に戻る。

 天井の梁の線が、一本に戻る。


 ——拾われた。


 誰かに掴まれた、っていうより、落ちかけた足場が戻ってきた感じ。


 次の瞬間、扉の外で足音が速くなる。

 急がない音だったはずの足音が、必要な速さだけ持つ。

 走らない。けど、遅くない。


 ノックが二回。


「ミナト。入るよ」


 短い声。

 確認というより、事前通知。驚かせないための言い方。


 扉が静かに開く。


 レイヴは部屋に入ってきても、いきなり距離を詰めなかった。

 扉の内側、半歩だけ入って、まず空気を見て、俺を見て、それから視線をタグに落とす。


 目が真面目だ。

 笑顔は軽いままなのに、目だけが仕事をしている。


「呼んだね」


 責めない。

 でも、“手順が機能した”ことを淡々と確認する声。


 俺は布団の中で、タグを握ったまま頷いた。

 頷くと、喉が小さく鳴る。


「……分からなく、なりかけました」


 言ってしまってから、幼稚に聞こえたかもと思う。

 でも、事実だ。


 レイヴは笑った。

 軽い笑い方。


「なりかけで止めた。偉い」


「また偉い……」


 俺がぼやくと、レイヴは肩をすくめた。


「褒めるの得意なんだよね。仕事だから」


 軽薄。

 でも、その軽薄さが、今の俺には救いの形をしている。


 レイヴは一歩だけ近づいた。

 でも、ベッドの脇までは来ない。距離の線を越えない。

 それが逆に、“ここでは勝手に踏み込まれない”という安心になる。


「いま、どんな感じだった?」


 質問が先に来る。

 勝手に結論を決めない。


 俺は喉の奥で息を吸う。

 言葉にすると、また起きそうで怖い。

 でも、言わないと整理できない。整理できないと余計に怖い。


「……部屋の角が、増えたみたいになって。ベッドが遠くなって……出口が、どこか分からなくなりました」


 言い終えた瞬間、胸がきゅっと縮む。

 思い出しただけで、また起きそうになる。


 レイヴは頷いた。

 驚かない。否定もしない。


「それ、迷い込みの反動で出やすい、境界がこっちを“慣れさせよう・馴染ませよう”としてくる」


 “馴染ませよう”。


 その言葉が、ぞわっとする。

 俺はここに馴染みたくない。馴染んだら、戻れなくなる気がする。


 でも、レイヴの声はそこで止まる。

 長く説明しない。

 説明されると置いていかれるのを知ってるみたいに。


「いま、呼べたから大丈夫。——呼べたのが大事」


 大事。

 その単語が、胸の奥に落ちる。


 俺はタグを握った手を見た。

 指先が白くなっている。

 握りすぎだ、と分かっているのに緩められない。


 レイヴがそれに気づいて、軽い調子で言う。


「握りつぶさないでね。それ、薄いけど丈夫。……でも君の手が痛い」


 痛い、と言われて初めて、自分の手のひらがじんとしていることに気づいた。

 爪が食い込んで、赤く跡がついている。


 俺は慌てて手を緩めた。


「……すみません」


「謝らなくていい。怖いのは普通」


 また、普通。

 その言葉が、俺の焦りの首を少しだけ締めゆるめる。


 レイヴは指を上げた。


「息、いける?」


 いける、って何だ。

 聞かれた瞬間、俺の中で“手順”が自動的に立ち上がるのが悔しい。

 でも、それが助かるのも分かってる。


「……お願いします」


 やっぱり言ってしまった。

 “お願いします”が、俺の口癖みたいに増えていくのが嫌だ。


 レイヴは、そこを笑わない。

 笑わないまま、声を落とす。


「一」


 胸の奥が、少し広がる。


「二」


 喉の膜が薄くなる。


「三」


 肩が落ちる。


「四」


 息が入る。


 怖さの音量が、下がった。


 レイヴはそこで止めた。

 引き延ばさない。

 助けを“長くしない”ことで、こっちがそれに縋りすぎないようにしている——そう見えるのが、また怖い。

 優しさと管理が、同じ手で行われている。


「……戻った」


 当たり前みたいに言われて、俺は小さく息を吐いた。

 吐いた息が震えない。


「……レイヴさん、あの」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 聞きたいことが多すぎる。

 でも、全部聞いたら、全部“ここ”の中に取り込まれる気がする。


 レイヴが待つ。

 急かさない。

 待つのも手順のうちみたいに。


 俺は、ひとつだけ選ぶ。


「……俺、今の、また起きたら。……毎回、呼んでいいんですか」


 “呼んでいい”なんて、都合のいい質問だ。

 でも、都合よくないと生きられない夜がある。


 レイヴは一拍置いて、軽い笑顔のまま言った。


「いいよ」


 即答。

 でも、そのあと、真面目な目で続ける。


「ただ、呼ぶのは“最後の手すり”にして。自分で息を戻せるときは、戻す。君の身体、ちゃんとできる」


 手すり。

 さっきの言い換えが、ここでも使われる。


 俺は頷いた。

 頷きながら、喉の奥がきゅっと鳴る。

 “自分で戻せる”って言われると、少しだけ救われるのに、少しだけ突き放される。


 レイヴは視線を落として、タグを見る。


「……今、表示が揺れたね」


 俺の心臓が跳ねた。

 見られてる。

 見られてるのに、羞恥とは違う。もっと、生々しい怖さ。


「……さっき、ミって見えました」


 言った瞬間、また角が増えそうになる気がして、息を吸う。

 入る。

 まだ入る。


 レイヴは頷く。


「揺れは普通。焦ると揺れる。眠気でも揺れる。——落ち着くと固まる」


 言い方が、淡々としていて。

 淡々としているのに、“固まる”という言葉だけが重い。


 固まる。

 呼び名が固定される。

 俺の呼ばれ方が、ここで決まる。


 俺は思わず笑ってしまった。

 へこたれない明るさ。こういうときに出るやつ。


「……俺、ペットの名前決められてるみたいですね」


 言った瞬間、しまったと思った。

 冗談にしていいラインじゃないのに。

 でも、口に出したかったんだ。怖いって言う代わりに。


 レイヴは、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 笑顔が消えそうになって、でも消えない。


「その冗談、今夜はまだ早い」


 軽い言い方なのに、線引きが硬い。

 ——手順の真面目さ。


 俺は小さく頷いた。


「……すみません」


「謝らなくていい。君が怖いのを、笑いに変える癖があるだけ」


 見抜かれている。

 その見抜き方が、責めじゃないのが、また怖い。


 レイヴは一歩だけ下がった。

 扉の近くに戻る。距離を取る。

 でも、声はちゃんと届く位置にいる。


「今夜は、“馴染ませ”がもう一回来るかもしれない」


 来るかもしれない。

 断言しない。

 断言しないのに、準備だけはさせる。


「来たら、まず呼吸を戻す。戻せないなら、タグ握って俺の名前。——順番はそれ」


 順番。

 その言葉が、俺の中に“道”を作る。


 俺は、喉の奥で息を吸って、頷いた。


「……分かりました」


 分かったと言えると、少しだけ落ち着く。

 落ち着くことが、ここに馴染むことと同じになりそうで怖いのに。


 レイヴは軽薄に笑った。


「優等生だね、ミナト」


 ミナト。

 呼ばれた瞬間、胸の奥がすとんと落ちる。

 悔しいくらいに。


 俺は目を逸らして、ぼそっと返す。


「……褒めないでください」


「なんで」


「……嬉しくなるから」


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 今日会ったばかりのよく知らない人に言うことじゃない。

 でも、口から出てしまった。


 レイヴは、ほんの一瞬だけ黙って。

 それから、軽い笑顔で言った。


「じゃあ、嬉しくなっていいよ。今夜くらい」


 今夜くらい。

 その言い方が、優しいのに、危ない。


 扉の方へ下がりながら、レイヴが最後に言う。


「眠れなくてもいい。目を閉じるだけでいい。呼吸が浅くなったら、数える。無理なら呼ぶ。——それだけ」


 それだけ。

 “それだけ”が、俺にとっては十分すぎる道標になる。


 扉が閉まる。


 今度は、閉まったあとも呼吸が乱れなかった。

 乱れないのが、また少し怖い。


 俺は布団の中で、タグに指先を当てた。

 握らない。触れるだけ。

 冷たさを確かめる程度に。


 そして、目を閉じる。


 ——また、来るかもしれない。


 来たら、まず呼吸。

 次に、名前。


 その順番を、喉の奥で反芻しながら。


 俺は、ゆっくりと沈んでいった。

 今度は、さっきみたいに“声”は聞こえなかった。


 代わりに、首元の熱が、ほんの少しだけ落ち着いて。


 タグの揺らぎが、一瞬だけ、形になる。


 ——ミナト。


 見えた気がした。



 そう思った瞬間、首元がじわっと熱を持って、胸の奥がすとんと落ちる。

 落ちるのが怖くて、俺はすぐに目を開けた。


 天井。

 梁。

 淡い光。


 何も変わってない。

 変わってないのに、身体だけが“変わった”気がする。


 ……今の、俺の気のせい?


 気のせいだって言い切れない。

 でも、言い切らなきゃ、ここに飲まれる。


 俺は布団の中で、両手を胸の上に置いた。

 タグには触れない。触れたら、また“簡単に整って”しまう気がするから。


 息を吸う。

 吐く。


 一。

 二。

 三。

 四。


 数えながら、目を閉じる。

 眠りたいわけじゃない。眠ってしまうのが怖い。

 でも、意識を尖らせ続けると、さっきみたいに角が増える。


 だから、沈む。

 沈みすぎない程度に。


 ——その境目が、いちばん難しい。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。

 時計がない。スマホもない。

 時間が掴めないだけで、人はこんなに不安になるんだ、と今さら思う。


 薄い眠気が、波みたいに寄せてくる。


 その波に、別のものが混じった。


 空気が、ひゅっと薄くなる。


 薄くなるというより、遠くなる。

 音が遠くなる。部屋の輪郭が遠くなる。自分の身体だけが、布団の中で重く残る。


 ——来た。


 レイヴが言っていた“馴染ませ”が、また来たんだと分かる。


 心臓が跳ねる。

 跳ねるのに、息は乱れない。

 乱れないのが怖い。


 視界の端で、部屋の角がまた重なり始める。


 ベッドが、ほんの少し遠い。

 毛布の手触りが、薄い。

 自分の手が、自分のものじゃないみたいに感じる。


「……っ」


 声が出そうで出ない。

 喉が固まる。


 ——順番。


 まず呼吸。

 次に、無理ならタグを握ってレイヴの名前。


 俺は焦りそうになるのを、必死で抑えた。

 焦ったら危ない。

 焦らないって、どうやるんだよ。

 でも、やるしかない。


 息を吸う。

 吐く。


 一。

 二。

 三。

 四。


 ……入らない。


 入る。

 入ってるはずなのに、“入ってる実感”がない。

 胸が膨らむ感覚が薄い。肺が遠い。


 角が増える。

 出口が分からなくなる。


 俺は歯を食いしばった。

 呼ぶな。すぐ呼ぶな。

 さっき呼んだ。呼んで助かった。

 助かったからこそ、次も呼びたくなる。


 それが、怖い。


 でも、このままだと——


 指が勝手に動いた。

 布団の上を探って、首元へ伸びる。

 自分の意思より早い。


 タグに触れた瞬間、ひやりとした冷たさが指先に刺さった。


 冷たい。

 現実だ。


 ……この冷たさが、手すり。


 レイヴの言い方が、頭の中で蘇る。

 腹が立つくらいちょうどいい例えだ。


 俺は握り込まない程度に、タグを指でつまんだ。

 握ってしまったら、もう“呼ぶ”方向へ転ぶ気がした。


 そのまま、息を吸う。


 一。

 二。

 三。

 四。


 入った。

 今度は、入った。


 胸の奥が少し膨らむ。

 喉の膜が薄くなる。


 角が、ほどける。


 ベッドが戻る。

 毛布の手触りが戻る。

 自分の手が、自分のものに戻る。


 俺はそこで、はぁ、と息を吐いた。

 吐いた息が震えない。


 ……呼ばなくても、戻れた。


 その事実が、嬉しいのに、悔しい。

 嬉しいって思った自分が、また怖い。

 この施設に“適応”したみたいで。


 俺はタグから指を離した。

 離して、布団の中で両手を握りしめた。


「……よし」


 声に出すと、少しだけ現実が濃くなる。

 よし、って、何がよしなんだよ。

 でも、それでもいい。


 へこたれない。

 そういう自分でいるのが、今は手すりになる。


 しばらくして、遠くで足音がした。


 見回りじゃない。

 巡回の音。日常の音。


 その音を聞いて、俺のまぶたがまた重くなる。

 今度の眠気は、さっきより少しだけ優しい。


 俺は目を閉じた。


 ——眠ってもいい、とは思わない。

 でも、目を閉じるだけなら、いい。


 呼吸が胸の奥まで落ちるのを確かめながら、

 俺はゆっくり沈んだ。



 次に目を開けたとき、光の色が変わっていた。


 夜の光じゃない。

 朝の色に近い。薄い金色が、部屋の角に溜まっている。


 ……朝?


 喉が乾いている。

 でも、呼吸はできる。

 胸がちゃんと膨らむ。


 首元のタグは、冷たいままそこにある。


 俺は上体を起こして、水を探した。

 昨日置かれたペットボトルが、まだ半分残っている。

 一口飲むと、喉が少しだけ生き返る。


 そのタイミングで、控えめなノックがした。


 二回。

 間がある。


「入るよ」


 声。

 レイヴだ。


 扉が静かに開いて、レイヴが入ってくる。

 今朝の彼も笑顔は軽い。でも、目は変わらず仕事だ。

 昨日の夜と違うのは——服の整い方と、手に持っている薄い板。


 書類。

 クリップボードみたいなもの。


「おはよ。……眠れた?」


 おはよ、が軽い。

 軽いから、俺の胸が少しだけ楽になる。


「……たぶん。途中、変な感じになって……でも戻れました」


「呼ばなかった?」


 聞き方が詰問じゃない。

 確認だ。手順が回ったかどうかの。


「……呼びそうになりました。でも、自分で戻しました」


 言ってから、自分の声が少しだけ誇らしげに聞こえて、恥ずかしくなる。

 誇るなよ。こんなの、誇ることじゃない。

 でも、誇りたかった。


 レイヴが目を細める。


「いいね。偉い」


「またそれ……」


 俺がぼやくと、レイヴは肩をすくめた。


「褒めるの得意なんだよね。仕事だから」


 同じ台詞なのに、昨日より少しだけ軽く聞こえる。

 昨日は必死だった。

 今日は、“朝”がある。


 朝があるだけで、人はちょっと救われるんだな。


 レイヴはクリップボードをベッドの近くの机に置いた。

 置く。手渡ししない。距離の置き方が相変わらず上手い。


「水、飲めた?」


「はい。ありがとうございます」


「うん」


 レイヴは短く頷いて、部屋をひと目見回す。

 乱れてないか、というより、“異常がないか”の確認だ。


 それから、淡々と言った。


「今日、帰還の相談に入る前に、委員会に出す最低限の記録を取る」


 委員会、という単語が出た瞬間、喉の奥が少し固くなる。

 昨日の夜は、聞くだけで刃物みたいに冷たかった言葉。


 でも、今は。

 朝の光があるぶん、少しだけ受け止められる。


 レイヴは俺の顔を見て、軽い笑顔のまま言う。


「難しいことじゃない。質問に答えて、書く。——嫌なら止める」


 また、逃げ道を先に置く。

 置かれると、逆に断りづらいのも分かってる。

 それでも、置かれないよりはマシだ。


 俺は小さく頷いた。


「……やります」


「うん。じゃ、まず呼び名の確認」


 呼び名。

 胸がきゅっとなる。


 レイヴは俺の首元を指ささない。

 触れない。

 それがありがたい。


「今、俺は君を“ミナト”って呼ぶ。混乱しにくいから」


 理由を短く言う。

 長く説明しない。


「で、書類には“本名”が要る」


 本名。

 喉の奥が疼く。


 俺は視線を落とした。

 クリップボードの一枚目。

 欄がいくつか並んでいる。


 そのいちばん上に、「氏名」の欄。


 俺は指先でそこをなぞった。

 紙の手触り。乾いた現実。


 ……成宮湊。


 それが俺の名前だ。


 昨日、口にしなかった。

 怖かった。

 ここで言ったら、何かが引っかかる気がして。


 でも、朝の光の中で、紙の上なら。

 文字なら。

 音にしないなら。


 ——言える気がした。


 レイヴは、俺の迷いを待つ。

 急かさない。


 その待ち方が、たぶんいちばん上手い。


「声に出さなくていい。書ける?」


 俺は喉の奥で息を吸った。

 胸まで落ちる。

 まだ大丈夫。


「……書きます」


 ペンが置かれていた。

 俺はそれを取って、手が少し震えるのを感じながら、名前の欄に文字を書いた。


 成宮 湊


 書き終えた瞬間、首元のタグが、かすかに熱を持った。


 びくっとして、思わず首元に触れそうになる。

 でも触れない。


 タグの熱は、すぐに落ち着いた。

 ただ、その一瞬に——紙の端の方で、淡い光が揺れた気がした。


 レイヴはそれを見たのか見てないのか、顔色を変えずに言う。


「ありがとう」


 それだけ。


 俺は内心で息を吐いた。

 俺が書いた。俺が渡した。

 ——自分で選んだ、という形を保てた。


 レイヴは書類を覗き込んで、視線だけで確認する。

 声には出さない。


 そして、次の欄を指で示した。


「次。年齢。覚えてる?」


「……はい。たぶん」


「“たぶん”でいい。今は揺れるから」


 揺れる。

 そう言われると、少しだけ救われる。

 完璧じゃなくていい、って言われた気がするから。


 俺は答えて、書く。

 質問に答えて、書く。


 それだけのことなのに、

 “帰れる道”が紙の上に少しずつできていく感じがした。


 書き終えた頃、レイヴが軽く言った。


「で。——ミナト」


 呼び名が落ちる。

 胸の奥がすとんと落ちる。


 悔しいくらいに。


「今朝の君は、昨日より顔がいい」


「それ褒めてます?」


「褒めてる。ちゃんと眠れた顔」


 軽薄な言い方。

 でも、そこに職務の真面目さが混じる。

 俺の状態を“評価”してる。


 その評価が、今はありがたい。

 ありがたいと思ってしまうのが、やっぱり怖い。


 俺は笑って、誤魔化す。


「……へこたれないのが取り柄なんで」


 言った瞬間、昨日の夜より少しだけ本音に近い自分がいるのが分かった。

 へこたれない、じゃなくて。

 へこんでも、戻ってくる。

 戻ってきたい。


 レイヴは笑って、でも目は真面目なまま言う。


「いいね。そのまま保って。——帰還審査に入る前に、もう一つだけ確認する」


 帰還審査。

 その単語が、未来の重みを連れてくる。


 俺はタグの冷たさを意識した。

 握らない。

 でも、そこにあることを確かめる。


 もしまた角が増えたら。

 もしまた出口が分からなくなったら。


 そのときは、順番。


 呼吸。

 無理なら、タグを握って——レイヴの名前。


 俺は小さく頷いた。


「……はい」


 レイヴが軽薄に笑う。



「よし。じゃ、行こうか、ミナト」


 行こう。

 その言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。

 動けば時間が進む。時間が進めば夜は終わる。——終わるはずだ。


 なのに、足を床に下ろした瞬間、身体が一拍遅れた。

 立てる。立てるのに、床との距離が少しだけ信用できない。

 昨日、足元が抜けた感覚がまだ残っている。


 レイヴはそれを見て、軽い調子で言う。


「立てる? ふらつく?」


「……ふらつく、ほどじゃないです」


 “ほどじゃない”って言い方が、逃げだと自分で分かる。

 でも、言い切るのが怖い。


 レイヴは頷いた。


「じゃあ、歩く速度は君に合わせる。走らない。急がない」


 急がない。

 昨日と同じ言葉なのに、今朝は少しだけ安心に聞こえる。

 朝だからだ。朝の光があるからだ。


 扉が開く。

 廊下の空気が入ってくる。


 昨夜より匂いが“分かる”。

 薬草の甘苦さ。乾いた紙。金属。少しだけ湿り気のない温かさ。

 人が管理している場所の匂い。


 ——そして、何より、息が通りやすい。


 俺は反射で、首元のタグを確かめたくなった。

 けれど、触れない。触れたら安心が入りすぎる気がして。


 代わりに、ゆっくり息を吸って吐いた。

 胸まで落ちる。まだ大丈夫。


 レイヴが半歩前を歩く。

 前を歩くのに、置いていかない距離。

 振り返らないのに、俺がついてきているのを当然のように分かっている歩き方。


 ……慣れてる。


 廊下を曲がるたび、景色が少しだけ似ているのが気になる。

 同じ角。似た照明。似た扉。似た匂い。

 迷わせるつもりがなくても、迷うようにできている。


 俺は喉の奥で息を吸った。

 “出口が分からなくなる”ってこういうことか、と身体が理解してしまうのが嫌だ。


「迷いそう」


 思わず口に出た。

 冗談じゃなく、本音に近い声だった。


 レイヴはすぐに振り返らない。

 でも、声だけで返す。


「目線、俺の背中」


 命令っぽい。

 でも、“助けるための短さ”だと分かる短さ。


「背中?」


「うん。壁とか扉を見すぎると、角が増える。迷いを拾う」


 説明は短い。

 余計な情報を増やさないように言っているのが分かる。


 俺はレイヴの背中を見る。

 黒い服。無駄のない動き。

 その背中を追うと、廊下の反復が少しだけ薄くなる。


 ……悔しいくらいに、効果がある。


「……ほんと、手順の人ですね」


 俺が言うと、レイヴは振り返って笑った。


「そう。手順の人。だからミナトが迷子になっても回収できる」


 回収。

 その言葉が、軽い冗談みたいに投げられるのに、胸の奥に小さな針を残す。


 回収される側。

 俺は今、その側にいる。


 でも、その針を飲み込む代わりに、俺は笑った。


「……回収されるの、人生で初めてです」


「初めて? 嘘。人はみんな何かに回収されて生きてる」


 軽薄に言うのに、妙に刺さる。

 刺さるから、俺はまた冗談に逃げる。


「……じゃあ俺、回収率低かったんだな」


 レイヴが小さく笑った。


「今から上げる?」


 言い方が軽い。

 軽いのに、逃げ道がない。


 俺は笑ったまま、何も返せなかった。

 返したら、“上げる”を受け入れることになる気がしたから。


 しばらく歩くと、空気が少し変わった。

 紙の匂いが濃くなる。インク。古い革。乾いた布。

 “記録”の匂い。


 扉の前に、小さな台がある。

 消毒や受付のそれに似ているけど、病院の匂いじゃない。

 もっと静かで、もっと冷たい。


 レイヴが立ち止まって、軽い声で言った。


「ここから先は、“手続きの場所”」


 手続き。

 その単語が、俺の肩を少しだけ硬くする。


「怖い?」


 レイヴが聞く。

 昨日よりずっと短い距離で、そういう確認が入るのが、すでに“習慣”になりかけているのが怖い。


「……ちょっと」


「ちょっと、で言えたのは偉い」


「またそれ……」


「回るから」


 回る。

 笑いそうになるのに笑えない。

 回るって言われた瞬間、俺は“機能”にされる気がした。


 扉が開いて、中に入る。


 そこは小さな部屋だった。

 机が二つ。棚。紙束。

 人は——いない。


 なのに、視線がある気がする。

 空気が“見られている”形をしている。


 机の上に、透明な板のようなものが置かれている。

 鏡じゃない。水面みたいに薄く揺れて、文字が浮かぶ。


 レイヴがそこにクリップボードを置いた。


「委員会は直接ここには来ない。……記録だけ拾う」


 説明は少ない。

 でも、その少なさが余計に怖い。


 板の表面に、淡い光が走る。

 俺がさっき書いた「成宮湊」という文字が、薄く浮かび上がって——すぐに消えた。


 消えたのに、“拾われた”感覚だけが残る。


 喉がきゅっとなる。


「……今、見られました?」


 俺が言うと、レイヴは軽く肩をすくめた。


「見られた、というより、拾われた」


 拾われた。

 昨日からこの言葉が多い。

 助けの言葉みたいで、鍵の音もする。


 俺は息を吸って吐く。

 胸まで落ちる。まだ大丈夫。


 レイヴは机の引き出しから、小さな札を取り出した。

 紙じゃない。薄い板。

 手のひらに収まるサイズで、紋様が刻まれている。


「仮の通行札。君に持たせる」


 持たせる。

 渡す、じゃない。

 持たせる、って言い方が少しだけ管理の匂いをする。


 俺は受け取った。

 板は冷たくて、指先がぴりっとする。


「これ、何の意味が」


 聞きかけて、やめた。

 説明されると置いていかれる。

 置いていかれるのが怖い。


 レイヴが代わりに短く言う。


「迷ったときの目印。あと、“勝手に扉が開かない”ようにする」


 勝手に扉が開かない。

 安全のための言い方。

 でも、“開けられない”と言っているのと同じだ。


 俺は笑って誤魔化した。


「……安全すぎません?」


「君が昨日みたいに落ちる方が困る」


 困る。

 その言葉が、優しいのに、仕事の言葉だ。


 手続きの部屋を出る。

 廊下へ戻る。


 戻った瞬間、空気が少しだけ柔らかくなる。

 さっきの部屋の冷たさが、背中から剥がれる。


 ……今の部屋、嫌いだ。


 嫌いなのに、必要だって顔をされるのが、もっと嫌だ。


「ミナト」


 レイヴが呼ぶ。


 胸の奥がすとんと落ちる。

 悔しいくらいに。

 呼ばれるだけで整う自分が、本当に腹立たしい。


「はい」


「さっきの部屋、顔色変わった」


 見抜かれている。


 俺は、へこたれない明るさで返そうとして——やめた。

 ここで明るくしたら、“怖い”がなかったことになる。

 怖いまま進まないと、俺はまたどこかで壊れる。


「……嫌です。ああいうの」


 言った瞬間、胸の奥が少し楽になる。

 言えたことが、怖いのに。


 レイヴは頷いた。


「嫌でいい。嫌でも通る。……通れたら十分」


 十分。

 その言葉が、ほんの少しだけ救いになる。


 歩きながら、レイヴがふと、軽い調子で言った。


「ミナト、ここで変に頑張らない方がいい」


「変に……?」


「“明るくして場を回すやつ”。君、得意でしょ」


 胸の奥がきゅっとなる。

 俺の癖を、もう見抜かれている。

 見抜かれているのに、責められていないのが怖い。


「……得意っていうか、癖っていうか」


「癖は便利。でも、ここだと便利すぎる」


 便利すぎる。

 その言い方が、妙に刺さる。


 俺は笑って返した。


「じゃあ、レイヴさんが回してくださいよ」


「回してる」


 即答。

 軽薄に笑って、真面目に言う。


「君が倒れないように回してる。——ミナトが生きて帰るための流れ」


 生きて帰る。

 その言葉が、急に現実になる。

 帰る、じゃなくて、生きて帰る。

 俺は昨日、死ぬかもって思った。

 それをこの人は、手順に組み込んでいる。


 胸が少しだけ重くなる。


 廊下の先、広い空間に出る。

 天井が高い。窓はないのに、光が柔らかい。

 床の模様が、円を描いている。中央に、淡い紋。


 そこに、透明なガラスケースみたいなものがあった。

 中に、細い瓶が並んでいる。


 瓶は空に見えるのに、近づくと匂いだけがふっと来た。


 甘い。

 甘いのに、喉の奥がひやっとする。

 舌の裏がきゅっと締まる匂い。

 薬草とも香水とも違う、“液体の気配”。


 俺は足が止まった。


「……何ですか、あれ」


 声が勝手に低くなる。

 怖いときの声だ。


 レイヴは、俺の視線の先を見て、短く答えた。


「保管物」


 それだけ。


 説明しない。

 説明しないのに、俺の身体だけが反応している。

 喉が乾く。呼吸が一拍だけ浅くなる。

 匂いが、胸の奥に落ちた気がする。


 レイヴが、軽い声で言った。


「今日は触れない。見るだけで十分」


 見るだけ。

 その区切りが、助かる。


 俺は頷いた。

 頷くと、匂いの輪郭が少し薄くなる。


 ……今の、何。


 答えがないのが不気味なのに、答えを聞いたら聞いたで“ここ”の中に取り込まれる気がする。

 だから、俺は今日のところは飲み込む。


 レイヴが歩き出す。

 俺もついていく。


 次の扉の前で、レイヴが立ち止まった。

 手を伸ばして、扉の横にある紋へ触れる。


 光が走る。

 扉が静かに開く。


 中は小さな面談室みたいな部屋だった。

 椅子が二脚。机。壁には何もない。

 余計なものがない空間。


 余計なものがない、というのは、逃げ道がない、ということでもある。


 レイヴが先に座らず、俺を促す。


「どっちがいい? 扉に近い方、奥の方」


 選ばせる。

 この施設で初めて、“選択”らしい選択を渡された気がした。


 俺は一瞬迷って、扉に近い方を選んだ。

 逃げ道が見える位置がいい。


 レイヴは何も言わず、奥の方に座る。

 正面じゃない。少し斜め。

 圧を減らす座り方。


 でも、視線は逃げない。

 仕事の目が、こちらを見ている。


「さて」


 レイヴが軽い声で言った。


「帰還の相談——って言うと重いから。まず“今の状態”の整理しよ」


 整理。

 その言葉だけで少し助かる。

 俺は整理が好きだ。分からないのが嫌いだ。


 レイヴは机の上に、何も置かないまま言う。


「質問。答えたくないのは“答えたくない”でいい」


 逃げ道を置かれる。

 置かれると、断りづらいのも分かっている。

 それでも、置かれないよりましだ。


 俺は小さく頷いた。


「……はい」


「昨夜、落ちる前。君はどこにいた?」


 “どこ”。

 現実の話だ。

 現実の話をすると、現実に繋がれる気がして少しだけ安心する。


「……駅から帰る途中でした。普通に」


「普通に、が一番危ない」


 レイヴが軽薄に言って、すぐ真面目な目になる。


「誰かと一緒じゃなかった?」


「一人です」


「誰かに触られた?」


「……ないです」


 その質問の並びに、俺は喉が少し固くなった。

 触られた、という言葉に、昨夜の首元の冷たさが重なる。


 レイヴは続ける。


「何か匂いは?」


 匂い。

 俺は一瞬、さっきの保管物の甘い気配を思い出して、喉が鳴った。

 違う。あれは今朝だ。

 昨夜は——冷たい夜の空気だけだった。


「……冬の夜の匂い、くらいです」


「うん」


 レイヴが短く頷く。


「じゃ、落ちたとき。何を感じた?」


 感じた。

 感覚の話に入ると、少し怖い。

 でも、言葉にしないと整理できない。


「……息が、吸えなくなって。足元が抜けて……音が遠くなりました」


「音が遠いのは、典型」


 典型。

 その言い方が、俺を“例”にする。

 例にされると、少しだけ楽になる。

 俺だけじゃない、って思えるから。


 レイヴは軽く頷いたまま、次を置く。


「で。今朝、書類に本名を書けた」


 本名。

 胸がきゅっとなる。


 レイヴは、その“きゅっ”を見逃さない。


「声に出すのは、怖い?」


 俺は一瞬迷って、正直に言った。


「……怖いです。ここで言うと、何か……持っていかれそうで」


 言った瞬間、言い過ぎたと思った。

 でも、レイヴは笑わない。


「うん。感覚としては合ってる」


 合ってる。

 その言葉が、怖い。

 俺の恐怖が、正解になってしまう。


「だから、今は“ミナト”でいい。生活側の呼び名は、短い方が迷いにくい」


 また、“君のため”。

 でも、今はその言葉に少しだけすがりたい自分がいるのが、嫌だ。


 レイヴが、少しだけ声を落とした。


「ミナト。君は“安心”に弱い」


 胸が詰まる。

 その言い方が、優しさみたいに見えて、でも診断みたいでもある。


「弱いのは悪いことじゃない。——ただ、ここでは狙われやすい」


 狙われやすい。

 背中が冷たくなる。


「……狙うって」


 俺が言うと、レイヴは軽薄に笑った。


「施設の仕組みに、ね」


 仕組み。

 人じゃない、と言い換える。

 責任が宙に浮く言い方。


 俺は喉の奥で息を吸って吐いた。

 胸まで落ちる。まだ大丈夫。


 レイヴは、少しだけ姿勢を変えた。

 圧が増えない程度に、でも、逃げない姿勢。


「今日の目標は二つ」


 また目標。

 手順の人。


「一つ。君が“自分で戻れる”手順を持つ」

「二つ。帰還に必要な最低限の確認を進める」


 説明じゃない。

 命令でもない。

 でも、“そうする流れ”ができあがっている。


 俺は笑って誤魔化した。


「……仕事できすぎて怖いです」


「怖がってくれていい。怖がらないと危ない」


 即答。


 俺は、へこたれない明るさで返した。


「じゃあ俺、今日もちゃんと怖がります」


 言った瞬間、レイヴの目がほんの少しだけ柔らかくなった。


 ——刺さった。


 俺の明るさが刺さる瞬間。

 それが、今だった。


「いいね」


 レイヴが短く言う。

 軽薄に笑うのに、目は真面目で。


「そういう“ちゃんと怖がる”人、助かる。……俺も」


 “俺も”。


 その一言が、胸の奥に残った。

 仕事の言葉じゃない。ほんの少しだけ、人の言葉。


 俺は返事ができなくて、ただ息を吸った。

 胸まで落ちる。


 レイヴが続ける。


「最後に確認。——もしまた“角が増える”みたいになったら」


 レイヴは指を上げる。

 昨日からの合図。


「まず呼吸。無理なら、タグを握って俺の名前。覚えてる?」


 覚えてる、と言われるだけで、俺の中の道が一本太くなる。


「……はい。まず呼吸。無理なら、タグ握って……レイヴさん」


「うん」


 レイヴが頷く。


「じゃあ、次。今日の行動」


 机の上に何もないのに、段取りだけが並ぶ。


「食事。休息。施設内の移動。——どれも“君の状態”を見ながら決める。決める前に聞く」


 聞く。

 その言葉が、少しだけ救いになる。


 救いになるぶん、ここに馴染むのが怖い。


 レイヴが立ち上がった。

 俺も立つ。


「……歩ける?」


「……歩けます」


 言い切ってみた。

 言い切った瞬間、少しだけ自分が戻ってくる。


 レイヴが笑った。


「よし。じゃ、朝ごはんにする」


 朝ごはん。

 普通の単語が出たのが、少し可笑しい。


 俺は思わず言った。


「……ここ、朝ごはん出るんですか」


「出る。保護だから」


 また保護。

 鎖の言葉。


 でも、今はその鎖に少しだけ助けられる自分がいる。


 廊下へ出る。

 レイヴの背中を見る。

 迷いが薄くなる。


 俺は首元のタグを、触れないまま意識した。


 ミナト。

 湊じゃない・・


 呼ばれ方が、ここで固まっていく。

 固まる前に、帰れるのか。


 帰りたいのに、帰るのが怖い。


 その矛盾を抱えたまま、

 俺はレイヴの背中を追った。


朝ごはん、その単語が落ちた瞬間、俺の中で”普通”が一段だけ上に上がった。

普通の単語は、現実に繋がる。現実に繋がるのに、ここは現実じゃない。


 その矛盾を抱えたまま、俺はレイヴの背中を追った。

 廊下は相変わらず反復している。

 似た扉。似た光。似た匂い。

 だけど、さっきレイヴに言われた通り、壁を見ないようにして背中だけを追うと、角が増える感じが薄くなる。


 ……くやしい。


 くやしいくらい効く。

 効くからこそ、ここでの正解が増えていくのが怖い。


 足音は二人分。

 俺の方が少し遅い。

 レイヴは急がない。急がないのに、迷いもない。

 その歩き方は、案内というより回収だ。


 ふと、レイヴが肩越しに言った。


「ミナト、目。半分寝てる」


「……寝てないです」


「寝てる」


 即答。

 笑いながら、真面目に言う。


「眠いのに我慢してる顔。昨日の夜の分、身体が取り返そうとしてる」


 取り返そうとしてる。

 そう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。


「……俺、取り返されるの苦手なんですよね」


「なんで」


「取り返されると、動けなくなるから」


 自分で言って、可笑しくなる。

 自分の癖が、ここだとそのまま“弱点”になる。


 レイヴは軽く笑った。


「動けない時間も必要」


 軽薄に言うのに、言い切る。

 言い切る声が、仕事の声だ。


 廊下の先に、少し広い空間が見えた。

 天井が高い。床の模様が変わる。

 匂いが、ふっと柔らかくなる。


 ——食べ物の匂い。


 湯気の匂い。だし。焼いた香ばしさ。

 胃が、勝手に反応する。

 空腹というより、“人間の生活”の匂いに釣られる感じ。


 俺は一瞬、足が止まりかけた。

 止まったのは、嬉しさじゃない。

 警戒だ。


 こんなところに、こんな匂いがあるのが怖い。


「……出るんだ」


 思わず漏れた声は、弱い。


 レイヴが振り返らずに言う。


「出る。保護だから」


 また保護。

 鎖の言葉。


 でも、食べ物の匂いは鎖より先に身体を落ち着かせる。

 その順番が怖い。


 扉の横に、小さな紋がある。

 レイヴが指先で触れると、光が走った。


 扉が静かに開く。


 中は食堂だった。


 広くはない。

 でも、整っている。机の角が丸い。椅子の脚が床を傷つけないように布が巻かれている。

 窓はないのに、光が柔らかい。

 音が控えめに吸われる設計。


 人は、いない。


 ……いないのが怖い。

 でも、いるのも怖い。

 どっちに転んでも怖いのが、この場所の嫌なところだ。


 レイヴはカウンターの奥に回らず、壁際の棚からトレーを二枚取った。

 その動きが“用意された手順”の範囲内なのが分かる。

 ここはレイヴの私室じゃない。レイヴが好き勝手できる場所じゃない。


 それが少し安心で、少し怖い。


 棚には、器が並んでいた。

 白すぎない陶器。木の箸。スプーン。

 見慣れた形なのに、紋様が微妙に違う。

 異界の“似せた日常”。


 レイヴが俺に言う。


「座る場所、選んで」


 また選ばせる。


 俺は反射で、入口に近い席を選びかけて——やめた。

 入口に近いと、誰かが入ってくるたびに心臓が跳ねる。

 跳ねたら、息が浅くなる。


 だから、壁際。

 背中を守れる位置。


 座ると、椅子がきしまず、静かに体重を受け止めた。

 その静かさが、妙に優しい。


 レイヴがカウンターの横の小さな台を押す。

 布ではない、薄い板が音もなく引き出される。

 その上に、湯気の立つ椀と、小鉢と、少しのパン——いや、パンに似たものが並んでいた。


 俺は目を瞬いた。


「……出てきた」


「出てくる。ここはそういう場所」


 そういう場所。

 言い換えで責任をぼかす言い方なのに、今はそれが助かる。


 レイヴがトレーを持って、俺の前に置く。

 手渡しじゃない。置く。

 いつも、置く。


 距離の置き方が一貫してる。

 それが“やさしさ”なのか“管理”なのか、もう分からない。


「食べられそう?」


 レイヴが聞く。


 俺は一瞬迷って、正直に言った。


「……匂いで、ちょっと落ち着きました」


 言った瞬間、自分が怖い。

 匂いで落ち着くって、何だ。

 昨日までの俺なら、絶対にそんな言い方はしない。


 でも、嘘じゃない。


 レイヴは軽く笑って、目を細めた。


「いいね。匂いは手すりになりやすい」


 手すり。

 またその言葉。

 俺の中に“手すり”が増えるたびに、この施設の中での生活が増えていく。


 怖い。


 でも、空腹はもっと怖い。

 空腹は判断を鈍らせる。倒れたら、もっと管理される。


 俺は箸を取った。

 指先が少し震える。昨日の夜の残り。


 汁を一口。


 熱い。

 だしの匂いが鼻に抜けて、胃がじわっと温まる。


 ……おいしい。


 おいしい、と感じた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 おいしいって感じたら、ここに馴染む。

 馴染んだら、帰りたい気持ちが鈍る。


 でも、飲み込めないほどではない。

 怖いのに、身体は正直だ。


「……変な味しないです」


 俺が言うと、レイヴは軽薄に笑った。


「何を警戒してたの」


「いや、ここ異界じゃないですか」


「異界でも飯は飯」


 言い切られて、少しだけ笑ってしまった。

 笑いながら、喉の奥がほどける。


 息が、深く入る。


 ——悔しい。


 会話ひとつで整ってしまう。

 俺の身体が、ここで生きる方向に動いてしまう。


 レイヴは自分の椀を取って、同じように一口飲んだ。

 食べ方が丁寧だ。急がない。職務の食べ方というより、“人に見られても崩れない”食べ方。


 その姿が、妙に落ち着く。


 俺は箸を動かしながら、ふと気づく。


 レイヴは俺の目を見すぎない。

 見なさすぎもしない。


 逃げ道を残して、見守る。

 そのバランスが、怖いほど上手い。


「……レイヴさん」


 呼ぶときは、タグを握って——って決めた。

 なのに、今、俺は普通に呼びそうになった。


 あ、違う。


 喉の奥がきゅっとなる。

 ルールが崩れるのが怖い。


 俺は箸を置いて、さりげなく首元へ手を伸ばした。

 握らない。指先で軽く触れる。

 冷たい金属が、指先に触れた。


 それだけで、呼吸が一拍整う。


「……レイヴさん。これって、いつまで」


 言ってから、曖昧だと思う。

 これって何だ。

 タグのことか。施設のことか。保護のことか。


 レイヴは俺の指先の動きを見て、すぐに分かったみたいに答えた。


「タグ? 帰還の手順に入るまで。君が自分で“迷いを戻せる”確率が上がるまで」


 確率。

 数字の言い方。

 それがこの人の“手順の真面目さ”だ。


「じゃあ、帰還の手順って」


 聞きたくないのに、聞いてしまう。

 聞いたら現実になるのに。


 レイヴは一拍置いて、軽い声で言う。


「君が帰りたいなら、進める。帰りたくないなら、進めない」


 ……え。


 そんな選択があるのか。

 あると言われると、逆に怖い。


 帰りたい。

 帰りたいはずだ。

 でも、帰るのが怖い。


 その“怖い”の形が、昨日より少しだけはっきりしている。

 帰ると、また一人で息ができなくなるかもしれない。

 帰ると、誰も数えてくれない。

 帰ると、笑って場を回して、自分を削って、また息が浅くなる。


 その未来が見えてしまって、喉が鳴る。


 俺は慌てて汁を飲んだ。

 熱さが喉を通って、現実に引き戻す。


 レイヴは俺を追い詰めない。

 追い詰めないのに、逃げ道も用意する。


「今は決めなくていい。朝ごはん、食べて」


 言い方が、柔らかい。

 柔らかいのに、手順が前に進む。


 俺は箸を動かす。

 食べる。飲み込む。

 胃が温まる。

 温まるほど、身体の緊張が少しだけ溶ける。


 その溶け方が、怖い。


 食べ終わる頃、レイヴが立ち上がった。


「水、もう一本持ってく」


 棚から小さなボトルを取って、俺のトレーの横に置く。

 置く。いつも置く。


 そして、軽い声で言った。


「ミナト、さっき“匂いで落ち着いた”って言ったね」


「……言いました」


「それ、覚えておいて。君の手すりが一個増えた」


 増える。

 増えるのが怖いのに、増えた方が生きやすい。


 俺は笑って誤魔化した。


「……俺、手すりだらけになりそう」


「手すりだらけでいい。落ちるよりマシ」


 落ちるよりマシ。

 昨日の落下の感覚が、背中に蘇る。


 確かに、落ちるよりマシだ。


 俺は立ち上がって、トレーを持とうとした。

 でも、どこに戻せばいいのか分からない。

 迷う。


 レイヴがすぐ言う。


「置いて。こっち」


 指で棚を示す。

 俺は言われた通りに置く。


 それだけのことなのに、胸の奥がすとんと落ちる。

 “正解”があると落ち着く。

 正解があると、判断をしなくて済む。


 判断をしなくて済むのが、救いになる。


 ……怖い。


 廊下へ戻ると、さっきより人の気配が少しだけ増えていた。

 足音が遠くにある。扉の向こうで何かが動く音。


 でも、誰にも会わない。

 会わないように手順が組まれている気がして、背中が冷える。


 レイヴは俺の速度に合わせて歩く。


「このあと、少しだけ“施設のルール”を見る」


 ルール。

 また重い単語。

 でも、朝ごはんを食べた俺は、昨夜より少しだけ耐えられる。


「見るだけ。覚えなくていい」


 見るだけ。

 区切りが助かる。


 壁に沿って、掲示板みたいな場所があった。

 紙が何枚も貼られている。文字は読める。読めるのに、意味が少し遠い。


 その中に、ひときわ目に入るものがあった。


 ——「タグ装着中は、出口表示が曖昧になる場合があります」


 出口表示。

 曖昧。

 昨日の夜の“分からなくなる”が、紙の上で肯定される。


 喉がきゅっとなる。


 俺は思わず、へこたれない明るさで言ってしまった。


「……書いてありますね。ちゃんと。怖いこと」


 レイヴが軽薄に笑う。


「書いてある。だから怖がっていい」


「怖がっていいって言われるの、変な感じします」


「怖がっちゃダメって言われる方が変」


 その返しが妙にまともで、俺は笑いそうになった。

 でも、笑うとまた安心が増える気がして、唇を噛んだ。


 掲示の端に、小さな注意書きがあった。


 ——「保管物に触れないこと」


 保管物。

 今朝見たガラスケースの瓶が、頭に浮かぶ。

 甘い匂い。喉の奥がひやっとする気配。


 俺は無意識に喉を鳴らした。


 レイヴがそれを見て、さらっと言う。


「見たね。さっきのやつ」


「……匂い、しました」


「匂いはする。触らなきゃいい」


 触らなきゃいい。

 言い方が簡単すぎて、逆に怖い。



 でも、今は深入りしない。

 触らなきゃいい。

 言い方が簡単すぎて、逆に怖い。


 触れたくなる人がいるから、注意書きがある。

 触れたら何かが起きるから、禁止されている。


 俺は息を吸って吐いた。

 胸まで落ちる。まだ大丈夫。


 レイヴが軽い声で言う。


「次。休息の場所に戻る」


「……戻るって、部屋に?」


「うん。君の“安全な場所”を一個固定する」


 固定。

 その言葉が、胸の奥に針を落とす。


 安全な場所が固定される。

 固定されたら、そこが“居場所”になる。

 居場所になったら、帰る理由が薄くなる。


 俺は笑って誤魔化した。


「……居場所、作るの早くないですか」


「早い方が生き残る」


 即答。

 軽薄な笑顔のまま、目だけが真面目。


 俺の背中が冷たくなる。

 生き残る、という言葉は、冗談の形をしていない。


 それでも、俺はへこたれない明るさを拾い上げて言った。


「じゃあ俺、今日も生き残ります」


 言った瞬間、レイヴの目がほんの少しだけ柔らかくなった。

 その変化が分かってしまって、胸がきゅっとなる。


「いいね」


 レイヴが短く言う。


「そういうの、刺さる」


 刺さる。

 刺さると言われて、俺の心臓が一拍だけ跳ねる。


 ……やめてくれ。

 そういう言い方。

 俺の明るさを“いい”と言われると、俺はそれを差し出してしまうから。


 差し出す癖があるから、俺はいつも損をする。


 廊下を曲がって、俺の部屋の前に戻った。

 扉は静かで、鍵の音はしない。


 レイヴが紋に触れて、開ける。


「ここ。戻る場所」


 戻る場所。

 言い方が、帰還じゃなくて帰巣みたいで、ぞくっとする。


 部屋に入ると、昨夜より匂いが柔らかい。

 薬草と紙の匂いの中に、朝ごはんの湯気が少し混ざっている気がする。

 俺が持ち込んだ匂いだ。


 ……俺の匂いが、ここに混ざる。


 それが怖い。


 レイヴが言う。


「今日はここで休む時間を作る。眠れなくても横になる。水を飲む。——それだけ」


 それだけ。

 それだけで、十分に管理だ。


 でも、昨夜の俺は、管理がなかったら壊れていた。


 俺は小さく頷いた。


「……分かりました」


 レイヴは扉の方へ下がる。


「俺は少し外す。昼前に戻る。何かあったら——」


 俺は反射で首元のタグに指を当てた。

 握らない。触れるだけ。


「……タグ握って、レイヴさん」


「うん」


 レイヴが軽薄に笑う。


「覚えがいい。偉い」


「……それ、禁止にしません?」


「禁止しない。褒めた方が伸びる」


 伸びる。

 言い方が、育成みたいでぞくっとするのに、笑顔が軽いから笑ってしまいそうになる。


 レイヴは最後に、さらっと言った。


「ミナト。ここで頑張りすぎないで。頑張ると、境界が寄ってくる」


 寄ってくる。

 その言葉が、昨夜の“声”を思い出させる。


 ——ミナト。


 均一な声。

 ここそのものの声。


 俺は喉の奥で息を吸った。


「……分かりました」


「うん。じゃ、また後で」


[newpage]


 扉が閉まった。


 静かで、鍵の音もしない。

 なのに「閉じられた」って感覚だけが、胸の真ん中に残る。


 俺は布団の中で、手のひらを見た。

 爪の跡が赤い。さっきまで必死に握っていた証拠。

 痛い。ちゃんと痛い。


 ——痛いのは、俺のものだ。


 そう思った瞬間、ほっとしてしまう自分がいて、すぐに喉が詰まる。

 何に安心してるんだ。

 こんな場所で。


 息を吸う。

 吐く。


 一。

 二。

 三。

 四。


 胸まで落ちる。


 戻る。

 戻れる。


 その「戻れる」が、救いじゃなくて恐怖に見えるのが、俺自身いちばん理解できない。


 ……だって。


 俺は「慣れる」人間だ。

 どこでも笑って、場に馴染んで、必要な役を演じて、そうやって生き延びてきた。

 慣れるのは得意だ。得意だから損をする。


 ここで慣れたら終わりだろ、って頭は叫んでるのに、

 身体はもう、少しずつ「ここでの正解」を覚え始めている。


 タグに触れたら落ち着く。

 呼吸を数えたら戻る。

 角が増えたら背中を見る。

 無理ならタグを握って、レイヴの名前。


 ——道ができてる。


 道ができると、人は歩いてしまう。

 歩けば「戻る」。

 戻れば「大丈夫」。

 大丈夫が積もると、いつか「ここでいい」になる。


 そこまでの未来が、薄い膜みたいに見えて、胃の奥がひやっとする。


 俺は布団の端を握った。

 タグじゃない。布団。

 布の摩擦が指先に返る。現実の手触り。


「……違う」


 声に出すと、喉が少しだけほどけた。


「ここでいい、じゃない」


 言葉にした途端、胸の奥が少し楽になる。

 ——楽になるって、つまり俺は「ここが怖い」ってちゃんと認めたってことだ。


 怖い。

 怖いのに、俺はさっきレイヴに呼んでしまった。


 呼びたくなかった。

 呼んだら、もう少し頼ってしまうから。

 でも、呼ばなかったら落ちた。


 落ちるくらいなら、呼ぶ。

 呼ぶくらいなら、生きる。


 ……生きるために、受け入れる。


 その結論に辿り着いてしまうのが、嫌でたまらないのに、

 俺の身体は、冷静なふりで「そうだろ」って頷いてしまう。


 息が浅くなる。

 慌てて数える。


 一。

 二。

 三。

 四。


 入る。

 胸が膨らむ。


 ——やめろ。


 戻るのが上手くなるほど、ここに根が伸びる。

 そう分かってるのに、呼吸は止められない。

 止めたら落ちる。


 俺は目を閉じた。

 閉じると均一な“声”が鳴りそうで怖い。

 でも、閉じる。

 閉じるだけ。


 薬草みたいな清潔な匂いが鼻に入る。

 朝ごはんの湯気の残り香が、微かに布に混ざっている。

 俺が持ち込んだ匂いだ。


 俺の匂いが、この部屋に混ざった。


 それが、恐ろしい。

 “居場所”が作られる感じがする。

 居場所ができたら、人は帰りづらくなる。


 でも同時に、匂いが俺を落ち着かせる。

 落ち着くな。落ち着くなよ。


 そう思うほど、呼吸が整っていく。


 ……どうして。


 どうして俺は、怖いものに落ち着いてしまうんだ。


 胸の奥が痛い。

 痛いのに、泣きたくはない。

 泣いたら、ここで「弱い」を確定させてしまいそうで。


 ——弱いのは、悪いことじゃない。


 レイヴの声が、脳裏で勝手に再生される。

 やめろ。そんなの、俺の中に置くな。


 でも、その言葉があるだけで、喉が少し楽になる。


 ……くそ。


 俺は手の甲で目元を擦った。

 泣いてない。ただ、目が乾いてるだけだ。

 そういう言い訳を、自分に用意する。


 そして、少しだけ受け入れる。


 「俺は今、怖い」

 「俺は今、一人じゃ戻せない時がある」

 「だから手すりが要る」


 受け入れた瞬間、胸の奥がすとんと落ちる。

 落ちる、という言葉に背中が冷える。


 違う、落下じゃない。

 落ち着いた、だ。


 言葉の違いにしがみつきながら、俺は自分を保つ。


 首元が、かすかに熱を持った。


 びくっとする。

 反射で手が伸びる。


 触りたい。

 触ったら整う。


 整うのは、怖い。

 でも、整わないのはもっと怖い。


 タグを握らないまま、輪郭だけを指先でなぞった。

 触れたくないのに、触れれば整うのが分かっている。

 —その一線だけを、ギリギリで守るみたいだ。


 呼吸が一拍、深くなる。


 ——ほら。


 身体が言う。

 これでいい。これで生きられる。


 その声が、自分の声なのか施設の声なのか分からなくて、胃がきゅっと縮む。


「……俺は、俺だ」


 小さく言う。

 声に出すと、現実が濃くなる。


「成宮湊だ」


 今度は、もう少しはっきり言った。

 言えたのが意外で、胸がざわつく。

 でも言えた。言えたという事実が、俺を少しだけ立たせる。


 タグは熱を持ったまま、静かにそこにある。


 ミナト、という短い音が、喉の奥に浮かんでくる。

 それを言ってしまったら、ここが一歩近づく気がして、俺は飲み込んだ。


 ……言わない。


 言わないけど、否定もしない。

 否定したら、また角が増える。

 否定が強いと、境界が寄ってくる。


 だから、受け入れる。

 でも、全部じゃない。


 「今夜だけ」

 「生きるためだけ」

 「帰るために必要な分だけ」


 そうやって、自分の中に小さな契約みたいなものを作る。

 俺はいつもそうだ。

 全部は渡さない。

 必要な分だけ差し出して、やり過ごす。


 ——やり過ごせるなら。


 胸の奥がきゅっとなる。

 また息が浅くなる。

 数える。


 一。

 二。

 三。

 四。


 入る。


 ……入る。


 入ってしまう。


 それでも、俺は目を閉じた。

 眠るためじゃない。

 崩れないために。


 怖いまま、息ができる。

 怖いまま、戻れる。

 怖いまま、受け入れられる。


 その「怖いまま」を、俺は必死に抱えていた。

 抱えていないと、ここは優しすぎて——俺を溶かすから。



 目を閉じたまま、俺は「今夜だけ」「必要な分だけ」って何度も心の中で繰り返した。

 そうでもしないと、ここは優しすぎて、俺が自分の形を保てない気がしたから。


 布団の重み。

 水の冷たさ。

 部屋の匂い。


 それらを“手すり”にして、俺は必死に「受け入れすぎない」ための受け入れを続けた。


 ——矛盾だ。


 でも、矛盾を抱えられるうちは、まだ俺だ。


[newpage]


 どれくらい寝たのか分からない。

 眠ったのか、沈んだだけなのかも曖昧で。


 ただ、次に目を開けたとき、部屋の光が少しだけ変わっていた。

 朝の金色じゃない。昼の平たい明るさでもない。

 夕方に近い、角を長くする光。


 喉が乾いている。

 胃が、静かに空っぽを訴えてくる。


 俺は起き上がって、ボトルの水を飲んだ。

 飲み込むと、現実が一段濃くなる。


 首元のタグは、冷たいままそこにある。


 触れない。

 触れないでいられる。

 ——それだけで、少しだけ自分を誇りたくなって、すぐにその気持ちを叩き潰した。


 誇ったら馴染む。

 馴染んだら、ここが俺を肯定する。


 ……危ない。


 控えめなノックが二回。


 間がある。

 急かさない間。


「ミナト。起きてる?」


 レイヴ。


 扉が開く前に、俺は反射で首元に手をやりそうになって、止めた。

 呼ぶためじゃない。今は呼ばれてる。


「起きてます」


 声に出せた。

 喉がちゃんと働く。


 扉が静かに開いて、レイヴが半歩だけ入る。

 いつも通り、いきなり距離を詰めない。


 レイヴは俺を見て、軽薄に笑った。


「生きてる顔してる」


「……どういう褒め方ですか」


「褒めてる。昼寝できたってこと」


 昼寝、という言い方が妙に現実的で、喉の奥が少し緩む。


 レイヴはクリップボードを持っていない。

 代わりに、小さな袋を一つ持っていた。


「水、飲めた?」


「はい」


「じゃ、次。——ごはん。夕方の」


 夕方のごはん。

 “日常”がまた一枚、上から被さってくる。


 怖いのに、胃が反応するのが腹立たしい。


 俺は立ち上がって、靴下のまま床に足をつけた。

 床は冷たくない。温度が一定だ。

 それがまた“管理された生活”で、背中がぞわっとする。


「歩ける?」


「歩けます」


 言い切ってみる。

 言い切れたことが、少しだけ嬉しい。

 嬉しいのが怖い。


 レイヴは頷いた。


「よし。じゃ、背中見て」


「それ、合図なんですか」


「合図。迷い始めたら背中」


 淡々としているのに、妙に優しい。

 優しいのに、手順だ。


 俺はレイヴの背中を追う。

 廊下の反復が、薄くなる。


 ……くやしい。


 でも、くやしがってる余裕があるのは良いことだ、とも思ってしまう。


 食堂に入る。

 今度は、薄い気配がある。

 遠くの席に誰かがいたような“残り香”だけがある。

 音はしない。姿も見えない。


 会わないように作られている。

 その事実が、胃を冷たくする。


 レイヴは何でもない顔でトレーを取って、俺の前に置く。

 置く。いつも置く。


「今日は味、どうだった?」


「……普通においしかったです」


 言った瞬間、胸がきゅっとなる。

 おいしいを認めたら、ここに馴染む。

 馴染みたくないのに、胃が“ありがたい”って言っている。


 レイヴは軽薄に笑った。


「よかった。食べられるのは強い」


 強い。

 その言葉が、妙に刺さる。


 俺は箸を取って、汁を飲む。

 熱い。だし。胃が温まる。


 温まると、緊張が溶ける。

 溶けると、思考が弱くなる。


 ——怖い。


 俺は食べながら、視線が勝手に食堂の奥へ流れるのを止めた。

 奥の扉の向こうに、朝の“保管物”の匂いが残っている気がして。


 甘い。

 甘いのに、喉の奥がひやっとする。


 レイヴが俺の視線を拾う。


「匂い、来てる?」


 聞き方が軽いのに、目が真面目だ。

 仕事の目。


 俺は正直に頷いた。


「……少し。さっき見たところの、甘いやつ」


「うん。夜に強くなることがある」


 夜。

 その単語だけで、背中が冷たくなる。


「怖い?」


 また確認が入る。

 この人は、俺の怖さを“言語化”させたがる。

 言語化させると、俺の中でそれが整理されて、手順に組み込まれる。


 助かる。

 助かるのが怖い。


「……怖いです」


 言えた。

 言えたことが悔しいのに、喉が少し楽になる。


 レイヴは頷いた。


「怖いなら、今夜は窓——ないけど、換気の口を塞ぐ」


「塞ぐ?」


「塞ぐ。匂いの入口を一個減らす。——君の選択で」


 君の選択。

 その言い方が、優しくて、嫌だ。

 優しいのに、誘導だと分かるから。


 俺は一瞬迷って、頷いた。


「……お願いします」


 お願いが増える。

 増えるたびに、俺はここに寄っていく。


 レイヴは軽薄に笑って、でも否定しない。


「うん。飯食ったら戻ってやる」


 戻る。

 俺の部屋に。

 戻る場所が、また固定される。


 俺は食べ終わるまで、なるべく考えないようにした。

 考えないようにすること自体が、ここでは正解なのが、嫌でたまらないのに。


[newpage]


 部屋に戻ると、レイヴは手早く換気口の前に薄い板を当てた。

 布じゃない。タオルじゃない。

 ただの板。手順のための道具。


「これで少し匂いが薄くなる」


「……匂いって、そんなに影響するんですか」


 聞きながら、俺の喉が小さく鳴った。

 影響する、と自分の身体が知っている音。


 レイヴは俺を見て、笑顔は軽いまま言う。


「する。君は特に」


 特に。

 その断定が怖い。

 “分類”が始まる音がする。


 俺は笑って誤魔化した。


「……弱点バレるの早くないですか」


「早い方が生き残る」


 またそれだ。

 軽薄に言うくせに、真面目な目が逃げない。


 レイヴは扉の方へ下がる。


「今夜は、寝る前に一回だけ確認に来る」


「……昨日も言ってましたね」


「昨日より短くする。君が自分で戻せる時間を増やす」


 優しさみたいに聞こえるのに、管理みたいに聞こえる。

 どっちでもあるのがいちばん厄介だ。


「何かあったら?」


 レイヴが言う前に、俺は首元に指先を当てた。

 握らない。触れるだけ。


「……タグ握って、レイヴさん」


 言えた。

 言えたことが、悔しい。


 レイヴは頷いた。


「うん。——ミナト、今日よく耐えた」


 褒められると、胸の奥がすとんと落ちる。

 落ちるのが怖いのに、落ちるのを止められない。


 レイヴはそれ以上、言葉を増やさないまま扉を閉めた。


 静か。


 俺はベッドに座って、首元のタグを見ようとして——やめた。

 見たら、そこに“ミナト”がある気がして。

 ある気がしたら、俺はそれを受け入れてしまうから。


 ……受け入れてしまう。


 俺は手のひらを握る。

 爪が食い込む。痛い。


 それでも、痛いだけじゃ足りない夜がある。

 痛いだけじゃ息が戻らない夜がある。


 だから、俺はまた数える。


 一。

 二。

 三。

 四。


 胸まで落ちる。


 落ちる。

 落ちる、という言葉が嫌で、俺は心の中で言い換える。


 ——戻る。


 俺は戻る。

 今夜は戻る。


 そう言い聞かせながら、目を閉じた。


[newpage]


 夜が来る。


 窓がないから、暗さで分からない。

 でも、空気の“音”が変わる。

 遠くの足音が増える。扉の開閉が微かに増える。


 そして——匂いが、来る。


 換気口を塞いでも、完全には消えない。

 どこか別の隙間から入り込んでくる。


 甘い。

 甘いのに、喉の奥が冷える。

 舌の裏がきゅっと締まる。


 それが怖いのに、同時に息が深くなる瞬間がある。

 深くなるのが、いちばん怖い。


 俺は目を開けた。

 天井は一本。梁も一本。

 角は増えてない。


 なのに、胸の中だけがざわざわする。


「……やめろ」


 声に出す。

 声に出すと、現実が濃くなる。

 濃くなれば、匂いが薄まるはずだ、と自分に言い聞かせる。


 でも、匂いは薄まらない。

 むしろ、鼻の奥に残る。


 呼吸が浅い。

 慌てて数える。


 一。

 二。

 三。

 四。


 ……入らない。


 入る。

 入ってるはずなのに、胸に落ちない。


 角が、増え始める。

 梁が二重になる。

 壁の線が、少しだけずれる。


 ——出口が分からなくなる。


 胃が冷たくなる。

 怖い。

 怖いのに、俺の身体が“正解”を探してしまう。


 まず呼吸。

 無理なら、最後の手すり。


 俺は必死に呼吸を戻そうとした。

 戻そうとして、戻らなくて、焦りが立ち上がる。


 焦ったら危ない。

 分かってるのに、止められない。


 指が勝手に首元へ伸びる。


 タグ。


 冷たい金属が指先に触れた瞬間、少しだけ現実が戻る。

 その“少し”に縋りたくなってしまう。


 ——違う。


 縋るな。

 でも、落ちるな。


 矛盾が胸の中で裂ける。


 俺は、ぎゅっとタグを握った。

 握ってしまった。

 最後の手すりに、手をかけてしまった。


 そして、喉をほどいて絞り出す。


「……レイヴ、さん」


 声が出た瞬間、角がほどける。

 梁が一本に戻る。

 壁の線が元に戻る。


 息が——胸まで落ちる。


 拾われた。


 次の瞬間、扉の外で足音が速くなる。

 走らない。でも遅くない。

 必要な速さ。


 ノックが二回。


「ミナト。入るよ」


 扉が静かに開いて、レイヴが半歩だけ入る。


 俺は布団の中で、タグを握ったまま固まっていた。

 指が白い。握りすぎだ。


 レイヴは俺を見て、手元を見る。

 それから、笑わずに言う。


「呼んだね」


 淡々とした確認。

 責めない。

 でも、手順が成立したことを確定させる声。


 俺は息を吐いた。

 吐いた息が少し震えた。


「……すみません」


「謝らなくていい」


 即答。


「匂い?」


 レイヴが短く聞く。

 答えやすい単語で、俺を現実に引っ張る。


 俺は頷いた。


「……甘い匂いが。来て……息が」


 言い終える前に喉が詰まって、俺は水を探した。

 手が震える。


 レイヴは近づかない。

 代わりに、机の上のボトルを指で示す。


「そこ。飲める?」


 俺は頷いて、一口飲んだ。

 冷たい水が喉を通る。


 少しだけ戻る。


 レイヴは指を上げる。


「息、いける?」


 俺は小さく頷いた。

 でも、まだ怖い。

 怖いのに、頼りたい気持ちが湧く。

 湧くのが最悪だ。


「……お願いします」


 言ってしまった。

 お願いがまた増える。


 レイヴの声が落ちる。


「一」


 胸が広がる。


「二」


 喉の膜が薄くなる。


「三」


 肩が落ちる。


「四」


 息が胸まで落ちる。


 怖さの音量が下がる。


 レイヴはそこで止めた。

 引き延ばさない。

 縋らせない。


「……戻った」


 当たり前みたいに言われて、俺は小さく息を吐いた。

 吐いた息が震えない。


 レイヴは扉の近くに留まったまま言う。


「今の、順番は守れた?」


 俺は頷きかけて、止まった。

 守れた、って言い切ると、俺が“ここに適応している”ことを認めるみたいで怖い。


 でも、嘘はもっと怖い。


「……呼吸、戻そうとしました。戻らなくて……最後に握って呼びました」


 言えた。

 言えたことが、少しだけ楽になる。


 レイヴは頷いた。


「正解。焦っても“最後”を守れた。今ので十分」


 その言葉で胸が落ちる。

 落ちるのが怖いのに、止められない。


 俺は必死に明るさを拾い上げた。


「……俺、今日もちゃんと怖がれました」


 言った瞬間、レイヴの目がほんの少し柔らかくなった。

 刺さった。


「いいね」


 短い肯定。


「それ、俺にも助かる」


 また“俺にも”。


 俺の胸の奥が、妙に熱くなる。

 熱くなるのが怖い。

 この熱は安心に繋がるから。


 レイヴは、俺の熱を増やしすぎないようにするみたいに、声を軽くした。


「で、ミナト。手、痛いでしょ」


 俺は自分の手を見る。

 爪の跡がまた赤い。


「……少し」


「緩めて。壊れないけど、君が壊れる」


 君が壊れる。

 その言葉が、胸に残る。


 俺はゆっくりタグを放した。

 冷たさが指先から離れて、心細さが一瞬だけ来る。


 その心細さに、俺は驚いた。


 ……心細い?


 俺が?

 こんな一日で?


 レイヴが扉の方へ下がる。


「今夜はもう来ない。君が自分で戻れる時間を増やす」


 それは優しさで、同時に手順だ。


「匂いが来たら、換気口の板、もう一枚足す。——やるのは君」


 君がやる。

 君の選択。

 君の手。


 俺は喉の奥で息を吸った。

 胸まで落ちる。


「……分かりました」


「うん」


 レイヴが軽薄に笑った。


「ミナト。今日は終わった。——明日、少し進める」


 進める。

 帰還のことだろう。

 現実が一歩近づく。


 怖いのに、少しだけ安心する自分がいるのが、腹立たしい。


 レイヴは最後に、さらっと言った。


「呼べたの、えらい。……おやすみ」


 扉が閉まる。


 静か。


 俺は布団の中で、首元のタグを見ないようにしていた。

 でも、見ないほど、そこに意識が集まる。


 冷たい金属。

 皮膚の内側の微かな熱。


 そして、ふっと、視界の端で光が揺れた。


 首元じゃない。

 空気の中。


 でも、次の瞬間、確かに首元が温かくなる。


 ——ミナト。


 今度は“見えた気がした”じゃない。

 見えた、と思った。


 自分でそう認めた瞬間、胸の奥がすとんと落ちた。


 落ちたのが怖くて、俺はすぐに息を吸う。


 一。

 二。

 三。

 四。


 胸まで落ちる。


 ……落ちるのに、戻れる。


 その矛盾を抱えたまま、俺は目を閉じた。


 怖い。

 怖いのに、息ができる。


 息ができるのが、安心で——

 安心が、いちばん怖い。


 でも俺は、生きるために、それを受け入れる。


 今夜だけ。

 必要な分だけ。


 タグの冷たさを、最後の手すりとして意識しながら。


Case-M ミナトという青年が主人公の本編が始まります。


現時点で番外編も入れて100話越える予定です。


遅筆ではありますが、お付き合いいただけると嬉しいです。


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