Case-0 迷子の末路
夜の廊下は、いつもより静かだった。
談話室の灯りが消えて、消灯合図のチャイムが遠くで一度鳴った。
それでも彼女は、靴ひもを結び直して、深呼吸をした。
「帰れるかも」
交流会で聞いた噂が、まだ舌の裏に残っている。
「帰還審査に通った人がいる」
それが嘘でもいい。希望って言葉を、今日は胸の中で転がしていたかった。
タグは手首で淡く光っていた。
警告も、今は出ていない。
だから大丈夫。
そう思った瞬間、彼女の足は勝手に速くなった。
廊下の角を曲がる。
匂いが、薄くなった。
消臭じゃない。空気が空になる感じ。情報が抜ける感じ。
いつもなら、どこかに「誰かの気配」があるのに、今日はそれがない。
音も、軽い。足音が吸われていく。
それでも進む。進めば出口があるはずだ。
あの扉だ。いつも担当と一緒に通る、境界の扉。
……扉が、板に見えた。
取っ手はあるのに、どう握るんだっけ。
手が勝手に宙を探って、指先が空振りする。
自分の手なのに、知らない手みたいだった。
息が浅くなる。胸が苦しい。
怖い、と思うより先に、身体が怖がっている。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
言い聞かせる声が、廊下に落ちて消えた。
返ってこない。音が跳ね返らない。
タグが一瞬、ちらついた。
表示が瞬断する。
対象の欄が欠けている。
欠けた文字を、頭が勝手に補おうとして、何も出てこない。
(……わたし、だれ)
それは「思い出せない」じゃない。
音が、遠い。
口の中で形にならない。
焦りが熱になり、熱が足を動かす。
帰りたい気持ちが強いほど、「外」が近づく感覚がして、さらに速くなる。
逃げたいのに、進んでいる。
曲がる。曲がる。曲がる。
同じ角が何度も現れる。
さっきの掲示板。さっきの非常灯。さっきの床の傷。
「戻ってる」ってわかるのに、戻り方がわからない。
喉が鳴った。渇きじゃない。鳴き声みたいな音。
涙が出る。泣いてるのに、涙が頬を流れる感覚が薄い。
そのとき、声がした。
怒鳴らない。怖がらせない。
手順だけを置く声。
「そこ、止まれ」
足が止まった。止まった、というより、止められた。
空気が、息の形で押さえつけられる。
彼女の肺が、初めて「吸い方」を思い出す。
二つの影が近づいてくる。
ひとつは導線担当。もうひとつは巡回の外套。
黒い。金具が少ない。音がしない。なのに、存在だけが重い。
巡回の男は、必要なことしか言わない目をしていた。
獣の瞳。暗いのに、反射する。
「……来い」
短い言葉。
でも彼女の身体は、「命令」として受け取った。
導線担当が、笑顔のまま距離を詰める。
声より先に、息が届く。
呼吸のリズムが、彼女の胸の内側に手を入れて整える。
匂いが戻った。
施設の匂い。人の匂い。魔力の匂い。
戻っただけで、泣きそうになる。
安心が暴力みたいに押し寄せて、膝が抜けた。
「ごめ……っ、わたし、帰りたくて……」
言った瞬間、言葉が薄くなる。
「帰りたい」は言えるのに、「帰りたい理由」が、輪郭を失う。
導線担当が、手順通りに頷く。
「罰じゃないよ。安全措置。戻ろう。ね?」
その優しさが、いちばん怖かった。
悪意がない。だから、拒む言葉が見つからない。
彼女は回収された。
その夜は、そういう結末だった。
三日後。
導線制限が解ける朝、彼女は誰にも言わずにまた出た。
今度は「慣れ」があった。
怖さは続かない。怖いのに、怖さが薄れる。
その薄さが、彼女に勇気をくれた。
タグは光っていた。
だから大丈夫。
その思い込みだけを握って、角を曲がる。
匂いが薄くなる。
扉が板になる。
取っ手の握り方が消える。
それでも進む。
進むほどに、彼女の中の「人間の地図」がほどけていく。
名前を呼ばれた気がした。
でも、どの名前だかわからない。
呼ばれているのに、反応が遅れる。
彼女は一歩、迷い域に足を入れた。
片足ではない。
腰まで沈んだ。
そして、戻れなかった。
発見されたのは、さらに後だった。
境界に近い外周。固定結界の端。
巡回班が拾った「それ」は、ひとつの習性を持っていた。
光のある方へ寄る。
音のある方へ寄る。
そして、呼名には反応しない。
手首には、タグが残っている。
いや、残っているというより、皮膚の一部になっていた。
外せない。外してはいけない。
その規則だけが、肉と一緒に残ったようだった。
台帳には、短い表示が出た。
種別:迷い域逸脱(Full)
対象:識別不能
備考:魔物化傾向/帰還審査:停止
導線担当は、目を伏せた。
「罰じゃない。安全措置」
いつもと同じ言葉が、今日だけ歯の奥で痛んだ。
巡回の男は、ただ「それ」を見た。
必要なことしか言わない目のまま。
「……保護区画へ」
「それ」は従った。
従うことが楽だと、身体が先に知っているように。
廊下を歩きながら、導線担当が小さくつぶやく。
「帰りたかっただけなのにね」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
帰りたい、は善意だ。
希望は正しい。
だからこそ、この世界では、いちばん深い闇になる。
[newpage]
保護区画は、「病室」に似せて作られていた。
似せているだけで、根っこが違う。
白い壁。白いベッド。白い照明。
でも白さが、清潔のためじゃなくて「観察しやすさ」のためにあるのがわかる。
「それ」は、最初の夜だけ暴れた。
暴れたというより、光に寄ろうとした。音に寄ろうとした。
人間だった頃の「帰りたい」が、まだ行動の形で残っていたから。
腕に巻かれたタグが、淡く点滅する。
保護区画:滞在
行動制限:On
刺激許容:Low
刺激許容。
彼女は、その言葉を理解しなかった。
理解しない代わりに、身体が従った。
痛いことはされない。
ただ、「選べない」だけ。
食事の時間。睡眠の時間。
誰かが近づく距離。触れる角度。
全部が規定されて、規定通りにやると、呼吸が少し楽になる。
その繰り返しで、「それ」は学ぶ。
ここでは、従うと楽。
ここでは、迷うと苦しい。
ここでは、考えるほど空気が薄くなる。
そしてその学習は、人間だった頃の彼女の得意分野だった。
だから速かった。
三日目に、研究班が入った。
彼らは巡回の外套を着ていない。
導線担当みたいな笑顔もしない。
薄い手袋と、クリップボードと、視線の温度。
扉の外から、観察窓越しに言葉が落ちてくる。
「反応、安定してきたね」
「迷い域逸脱(Full)にしては、維持が良い」
「痕跡保持が強い。タグの同化が早いのも納得」
「それ」は自分の話だとわからない。
わからないのに、声の抑揚だけで安心してしまう。
手順の声は、施設の声だから。
扉が開いて、二人が入る。
光量が少し落とされ、音が低くなる。
「それ」の身体が、ほっとする。
研究班の一人が、名札を見せた。
「研究班。君を傷つけに来たんじゃない。状態を守りに来た」
その言い方は、導線担当と似ていた。
罰じゃない。安全措置。
だから拒む言葉が見つからない。
もう一人が、淡々と確認する。
「呼名反応、試すよ。……対象」
対象。
呼ばれているのに、胸が跳ねる。
自分の名前じゃないのに、身体が「正解」として立ち上がろうとする。
研究班は、互いに目を合わせた。
「言語ラッチは生きてる。個人名は落ちた」
「役割名には反応する。良いね」
良い。
その単語が、皮膚に貼り付く。
所属が決まったのは、その日のうちだった。
保護区画の台帳に、追記が入る。
管理区分:保護 → 研究
所属:研究班(境界適応部)
個体識別:R-(識別番号)
識別番号の桁を見て、導線担当が一瞬だけ眉を寄せた。
人間の顔になりかけたのに、すぐ戻る。
「……研究物、か」
口に出したのは、それだけ。
巡回の男は、いつも通りの目で頷く。
「保護の延長だ」
言葉だけなら正しい。
「守る」の形が変わっただけ。
でも形が変わると、心はついていけない。
研究班の区画は、保護区画より静かだった。
静かすぎて、耳の内側で心臓の音がうるさい。
「それ」は、檻に入れられているわけじゃない。
扉は開いている。
ただ、廊下の先が霧みたいにぼやけて見える。
行ってはいけない場所が、目に見えない柵になっている。
境界施設の手口は、いつも優しい。
研究班は、毎日「刺激」を与えた。
光を少し強くする。
音を少し高くする。
人の匂いを、少しだけ混ぜる。
そして記録する。
「瞳孔、収縮」
「呼吸、安定」
「帰還ワードで微弱な動揺」
「従えで即応」
「帰還」の言葉を聞くと、胸が痛む。
でも痛みが、なぜ痛いのか説明できない。
「従え」を聞くと、身体が軽くなる。
軽くなる理由ならわかる。
考えなくていいから。
研究班はそれを「成功」と呼んだ。
「迷い域逸脱(Full)でも、命令系で安定化できる」
「人格は落ちても、操作系は残る」
「この個体、鍵に近い」
鍵。
その単語が出たときだけ、「それ」の視線が揺れた。
知らないのに、知っている感じがする。
胸の奥のどこかが、冷たく鳴る。
研究班の主任が、穏やかな声で言った。
「君はね、役に立つ。迷子になった人を、もう増やさないための研究だ」
正しさ。
善意。
「それ」は、その響きに弱い。
人間だった頃の彼女も、正しいことが好きだった。
だからここまで来た。
だから、ここに残った。
主任は、最後に手袋越しに頬へ触れた。
撫でる、じゃない。位置を測る、だ。
「怖くない。君は大丈夫。ここで、ちゃんと落ち着いていこうね」
落ち着く。
その言葉は、甘い鎖だった。
「それ」は小さく頷いた。
頷けることが、褒められることが、嬉しかった。
その瞬間、保護区画で泣いていた「誰か」の輪郭が、
ひとつ、静かに剥がれた。
そして台帳に、次の行が増える。
研究段階:II
処置:同調訓練開始
備考:自我回復の兆候なし
[newpage]
誕生の翌朝、「彼女」は目覚めたのではなく、起動した。
眠りの感覚が薄い。
目を閉じていた時間はあるのに、夢がない。
夢は「自分の中にある世界」なのに、彼女の内側には、もう世界が残っていなかった。
代わりにあるのは、施設の静けさと、手順。
ベッドの端に座る。
足を床につける。
呼吸を三回。
視線を水平に戻す。
誰にも教えられていないのに、正確にやれる。
正確にできることが、安心になる。
研究班は、彼女を「鍵」と呼んだ。
それは番号より温かく、名前より安全だった。
鍵は、廊下を歩くとき音を立てない。
立てないようにしているのではなく、廊下が音を消してくれる。
彼女の歩幅に合わせて、照明が少しだけ落ち、空気の温度が整う。
施設が、彼女を「異物」として扱わない。
それが、いちばんの変化だった。
仕事が始まる。
迷子が出るのは、いつも同じ理由だ。
希望。焦り。噂。自分だけは大丈夫という油断。
鍵は、それを責めない。
責める感情がない。
代わりに「補正」がある。
研究班が、モニター越しに指示を落とす。
「外周、警戒レベル1」
「導線、乱れ」
「鍵、起動」
鍵は頷く。
頷くのが、正しい。
迷子は、見つけるのではなく「引き戻す」。
境界へ向かう人間の背中に、鍵は近づく。
距離は、半歩。息が触れる直前。
声をかける前に、相手の呼吸が変わる。
人間の身体は正直だ。
怖いとき、安心の匂いを探す。
鍵は、その安心として設計されている。
「止まって」
短い言葉。
怒らない、焦らせない。
命令ではなく、手順として提示する声。
迷子は、止まる。
止まれる。
止まれたことに、崩れる。
「……ごめんなさい、私、帰りたくて……」
鍵は、その言葉を何度も聞いた。
何度も聞くうちに、ひとつだけ残る感覚があった。
帰りたい。
意味はわからない。
でも音だけが、胸の奥の無音を少しだけ叩く。
鍵は迷子の手首を見る。
タグが不安定に光っている。
昔の自分と同じ。
だから、手順は優しくなる。
「大丈夫。戻ろう」
迷子は泣きながら頷く。
鍵は、迷子を連れて戻る。
戻るたびに、施設が静かに「正解」をくれる。
逸脱:未然防止
異物化:回避
鍵:正常
正常。
それは褒め言葉だ。
鍵の生活に、喜びはない。
でも、苦しみもない。
感情の凸凹が削られた代わりに、常に「整っている」。
整っていることが、彼女にとっての幸福だった。
ただ、ときどき。
誰もいない廊下で、鍵は立ち止まる。
意味のない立ち止まり。
手順に入っていない挙動。
監視カメラの死角。
そこだけ、照明がほんの少し暗い。
鍵は、自分の手首の内側を見る。
タグは、皮膚の一部だ。
境界の印。帰れなかった証。誕生の胎盤。
指でなぞると、微かに熱がある。
熱は、生き物のものだ。
鍵は、口を開きかける。
何かを言おうとして、言葉が出ない。
名前がない。
名前がないと、呼びかける相手が作れない。
それでも、喉の奥で小さく音が鳴る。
「……」
声にならない声。
次の瞬間、壁の端末が点灯する。
鍵:挙動逸脱
補正:開始
落ち着いて
落ち着いて。
その言葉が来ると、胸が静まる。
静まるのは、救いだ。
救いだから、鍵は従う。
従って、歩き出す。
歩き出した瞬間、さっきの熱が嘘みたいに消える。
研究班は言う。
「安定してる。完璧だ」
「もう彼女じゃない」
「鍵は鍵として生きてる」
それは正しい。
正しいから、誰も困らない。
ただ、鍵だけが、たまに知らない痛みを抱える。
痛みの理由を探す機能はもうない。
だから痛みは「ただのノイズ」として、静かに処理される。
ノイズは消える。
手順が上書きする。
そして鍵は今日も、迷子を救う。
救うたびに、同じ言葉を言う。
「大丈夫。戻ろう」
その声の優しさだけが、
彼女が人間だった頃の名残なのか、
施設が作った優しさなのか、
もう、誰にも判別できない。




