#7 西尾・東条の戦い 其の一
◼︎永禄三年九月 三河国 西尾城
我が名は吉良義昭。
足利将軍家の血を引く、三河吉良の嫡流である。
御所が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ――
そう語られてきた。
それは法でもなく、定めでもない。
だが、この国の秩序を支えてきた暗黙の序列である。
近年、世は力のみを尊ぶようになったが、名分なき支配が長く続かぬことは、歴史がすでに証している。
我は今、西尾城を居城とし、東条城を押さえ、三河西南部を固めている。
今川の威を借りたのは、家を保つためであって、心を預けたわけではない。
尾張の織田は勢いに乗ろう。
されど、国を束ねるには兵と銭に加え、人が従うに足る格が要る。
我は天下を望まぬ。
ただ、三河一国を預かるに、我ほど相応しい家はないと知っているだけだ。
「殿、岡崎より急報です。」
「申せ。……松平の若造が、ついに動いたか?」
松平元康――
かつて三河に覇を唱えた松平家に生を受け、今川の人質として歳月を送り、
桶狭間の後も軽挙を見せず、岡崎城へも入らずに大樹寺の滞在を続けてきた男。
その沈黙ゆえにこそ、三河の国衆たちは彼から目を離さずにいた。
「はっ……。松平、岡崎城に入り申した。以前お伝えした通り、今川の城代はすでに駿府へ落ち延びておりますので、もぬけの殻の城に悠々と。松平はその場で独立を宣言したとのこと」
――やはり、か。
今川が桶狭間で崩れた今、もはや駿府にこの国を束ねる力はない。
兵を集め、裁きを下し、国を守る者が現れねば、三河は割れる。
誰が導くのか。
誰がこの国の主となるのか。
その答えが、まさに今からの行動で決まる。
「分かった。今日は城下に津島屋が来ていたな。面会の約があったはずだ。
……あやつから、情報を買う」
家臣たちの視線が集まるのを感じつつ、義昭は続けた。
「ここが勝負所だ。
我ら吉良家が三河の雄となるか否か――それが、今から決まる。
出し惜しみはせぬ。蔵から全ての銭を持ってこい。」
そう言い残し、わずかな供回りを伴って城下へと向かった。
今日の私は、運がいい。
尾張一の豪商・津島屋が、西尾に逗留している。
尾張のみならず、三河・遠江・駿河にまで商圏を広げる、ただの商人ではない男だ。
西尾の町を整える折に懇意となり、店を開かせ、物だけでなく裏の情報も買ってきた。
金で買えぬものなど、戦国にはほとんどない。
津島屋から三河の情勢を買い、
その隙を突いて、取るべき地を取る。
それこそが――
今、この乱世において、吉良が選ぶべき最善の一手であった。
義昭は城門をくぐり、城下へと出た。
その途端、胸の奥に、言い知れぬ違和感が生じた。
――町が、騒がしい。
ただの活気ではない。
それは、かつて桶狭間の報が走り、義元公討死の報に町が揺れたあの日以上の、落ち着きのなさであった。
軒先では人が集まり、声を潜め、あるいは声高に何事かを語っている。
荷をまとめる者、店を閉める者、町を離れようとする者。誰もが、戦の匂いを嗅ぎ取った者の振る舞いであった。
義昭は、近ごろ出店したばかりの駿河屋の前で足を止めた。
店主は、慌ただしく商品を荷に積み上げている。
「如何したのだ」
声をかけると、店主ははっとして振り返った。
「こ、これは……吉良様。
西尾の町が、織田から攻め込まれると聞きまして……。商品を一時、津島へ避難させようとしているのです。」
義昭は眉をひそめた。
声が少し大きかったのか、駿河屋の隣で店を構える商人も、話に割って入ってきた。
「私は、松平が攻めて来ると聞いておるぞ。
岡崎を取った勢いで、西尾の経済を抑えに来ると――」
――なるほど。
どうやら、相手こそ違えど、
「西尾が攻められる」という話だけは、すでに町に広まっているらしい。
義昭は静かに言葉を返した。
「そのようなことはない。
城には、そなたらから借り受けた銭で雇った兵が数多おる。万が一があっても、東条城からすぐに援軍が来る。
西尾の町が、戦火に巻き込まれることはない――安心せよ」
商人たちは、表向きにはうなずき、ほっとした顔を作った。
――だが、信じてはおるまい。
商人というものは、耳が早く、そして何より合理的だ。
品を失う可能性が一分でもある限り、私が背を向けたその瞬間から、再び荷積みを始めるに違いない。
義昭は小さく息を吐いた。
当初の目的は変わった。
だが、急ぐ理由は、むしろ増した。
町の一等地を与えた、あの男――
津島屋のもとへ、足を向ける。
「津島屋、いるか。吉良である。
面会の刻を早めてすまぬが、急ぎの用ができた」
店に着くなり、義昭は店先で声を張った。
見ると、津島屋もまた、使用人に命じて荷を積ませている最中であった。
「これはこれは、吉良様。
そのように慌てておいでとは、いかがなさいましたかな」
――白々しい。
この男が、要件を察しておらぬはずがない。
「町が騒がしいのでな。
ここは、そなたを頼りにしたい。何が起きておる。
噂ではなく、正確な話を聞かせよ」
津島屋は一度だけうなずくと、言葉少なに、店の奥へ入るよう目配せをした。
義昭は馬を降り、手綱を供に渡す。
そして、何事も知らぬ顔で歩みを進める津島屋の背を追い、店内へと足を踏み入れた。
面会用の座敷に入るや否や、津島屋は腰を落ち着ける間もなく、口を開いた。
「内々に入手した話によりますと――
織田と松平、双方とも三河の獲り合いに、いよいよ本腰を入れるようでございます。
清洲の町では兵が集まり、岡崎でもまた、一気呵成にどこかの城を奪い取ろうとする動きが見られ、町が騒がしくなっております」
義昭は黙って聞きながら、内心でうなずいた。
今の三河の有様を思えば、決して不自然な動きではない。主なき国に、刃を伸ばさぬ者はおらぬ。
だが――。
ひとつだけ、引っかかる点があった。
「……なぜ、西尾なのだ」
低く問い返す。
「それとも、他の町でも同じような騒ぎが起きておるのか」
義昭の視線が、津島屋を射抜いた。
この男が掴んでいるのは、単なる噂ではない。
“選ばれた場所”に意味があるとすれば――それは、吉良にとって看過できぬ話であった。
「……西尾のみ、ですな」
そのひと言を聞いた瞬間、柄にもなく、自分の喉が鳴るのを感じた。
三河の雄となるべく動いてきたはずが、いつの間にか足元が揺らいでいる。
「申し訳ありませぬが、正確な理由までは掴めておりませぬ。
ただ――津島や熱田の商人を中心に、皆がこの噂を真に受け、西尾から手を引こうとしております」
津島屋は一拍置き、慎重に言葉を選んだ。
「これが何を意味するか……ここから先は、あくまで私の予想にございます。
それでも、よろしいでしょうか。
もちろん、予想ゆえ、お代は頂きませぬ。当たりましたら、今後よしなにということで」
――確かなことは知らぬか、あるいは、知っていても言わぬか。
だが、今は些細な糸口でも欲しい。
義昭は、無言のまま、ゆっくりとうなずいた。
「では……。
情報の広まり方が、あまりにも異様で、しかも正確すぎます。これは、ただの噂ではございませぬ。
“本物”が、意図して流したものと見ております」
「……本物、とな」
「はい。透破の仕業かと」
義昭は、なるほど、と内心で息を吐いた。
織田か、松平か――それはまだ分からぬ。
だが、富み、人の集まる西尾を狙い、まず町を混乱させる。
そう考えれば、すべての辻褄が合う。
「よく言うてくれた。
透破だとすれば……やはり、松平と思うか」
松平は伊賀者を使うことで知られている。
服部を名乗る者たちが、影のように動き回っているという話も、耳にしたことがあった。
「ご明察にございます。織田には、名の知れた透破の話は聞き及びませぬ。その点から見ても、松平の可能性が高いのは、まず間違いないかと」
津島屋の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
「織田は清洲に兵を集めておると言っておったな。織田の可能性はないのか。」
「織田の目は常に西に向いております。私と会う折も、京を押さえるといつも息巻いておりますゆえ、間違いないかと。もっとも、兵を集めているのは事実にございますが。」
「そうだ。そこが気になるのよ。」
「このようには考えられませぬか。織田は背中――すなわち三河を固める勢力を求めている。それに誰かを選んだ。今の動きを見れば、申し上げるまでもありますまい。」
――松平元康か。
幼い頃、尾張におったと聞いている。
その折の縁で繋がっていても、不思議ではない。
待てよ。
ふと、桶狭間以降、松平がもぬけの殻となった城を前に、大人しくしていたことを思い出す。
その時間は――織田との交渉、そして此度の扇動の仕込みの時間と考えれば、違和感はない。
「その通りだな。此度も助かったぞ。そなたが居なければ、松平から無防備に攻め込まれるところであった。」
十分な収穫だ。ここに来た甲斐があった。
そう思ったところで、津島屋の使用人が荷を積んでいた光景を思い出した。
「して、津島屋よ。そなたも荷を積んでおったな。
それを止めさせることはできるか。城下の混乱を収めたいのだ。」
「いくら懇意にさせていただいている吉良様と言えども、それはご勘弁を。
私は商人。今お伝えした通り、ここが戦火に晒される可能性があれば、損をせぬ判断をいたします。」
目の前の男は首を横に振りながら、試すような目を向けた。
分かっておる……銭であろう。そなたらは銭でしか動かぬ。
「――いくらだ。」
素直に聞いた。これが一番、話が早い。
「さすが吉良様。私どもの扱いを、よく分かっておられる。
そうですな……我らが商品の保証をいただければ。全品の損失分を、本日に前金でお願いしたく存じます。
さすれば、他の店の若造どもにも一喝入れてやりましょう。」
……悪くない話だ。
津島屋がどうなっても損をせぬ形にされたのは気に食わぬが、ここは目を瞑ろう。
「分かった。後で使いの者を送る。そこで金額を伝えよ。」
そう告げると、奥から使いの者が誓書を手に現れた。
筆を取り、自らの名をその紙に記す。背を向け、そのまま部屋を出た。
一刻も早く城へ戻り、北――岡崎からの敵に備えねばならぬ。
店の外で預けていた馬の手綱を受け取ると、勢いよく城へと駆け戻った。
◼︎永禄三年九月 三河国・西尾 津島屋
吉良義昭の背中を見送る津島屋は、勝ち取った誓書を懐に収め、おもむろに、吉良氏がもう一つ有する城――東条城のある山を眺めた。
「木下とやら……高く付くぞ。」
もっとも、どちらが勝とうと自分が損をすることはない。
あとは武士たちが決めることよ。
吉良の背中が完全に見えなくなると、津島屋は店先へ戻り、使用人たちに命じた。
中身を入れ替えた荷だけを残し、高価な品は引き続き津島へ送れ、と。
そうして尾張行きの船へと乗り込んだ。
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