#28 出世の試練
◼︎永禄四年五月 尾張国 清洲城
種子島を持つ八十の兵を城下で休ませ、弥右衛門は清洲城の門をくぐった瞬間、肌を刺すような熱気を感じた。
城内は異様な騒然とした空気に包まれている。武具を運ぶ足音、飛び交う怒号。要件を顔馴染みの小姓に伝えると、いつも通りの広間ではなく、奥まった静寂の漂う一室へと案内された。
部屋へ足を踏み入れると、上座を空けた左側に、一人の男が端然と座していた。
四十代半ば。弥右衛門と同年代に見えるその男は、静かながらも容易には底の知れぬ威厳を纏っている。小姓に促されるまま右側に座すと、空席の上座を中央に挟み、弥右衛門と男は無言で向かい合う形となった。
「木下殿、よくぞ参られた。貴殿の噂は、この清洲の隅々にまで届いておりますぞ。……我が名は林佐渡守秀貞。信長様に仕える者の一人にございます。」
初めて見る顔であったが、その名を聞いた瞬間に背筋が伸びた。織田家の筆頭家老。幼少の信長を育て、家中を束ねる重臣中の重臣だ。
「お初にお目にかかります。木下弥右衛門吉成にございます。」
弥右衛門が深く額を畳に擦り付けると、林佐渡守は穏やかな声で制した。
「顔を上げられよ、木下殿。今の貴殿は、三河に三つの城を構える堂々たる主人。織田家に内々に臣従しているとはいえ、もはや平伏するのはこちらの方にございまする。」
その言葉には、皮肉とも称賛とも取れぬ奇妙な重みがあった。
「滅相もございませぬ。して、恐縮ながら殿は如何なされたのですか?お声がけ頂き参ったのですが…」
林佐渡守は信長のいない上座を見ながら、明らかに困り顔をした。
「それがですな……、戦に行ってしまいましてな。」
「……戦、にございますか。どちらへ」
「墨俣でございます。三日前に美濃の一色家の当主一色左京大夫が病で亡くなりまして……、殿は葬儀も終わらぬうちに攻め込まれました。」
一色左京大夫義龍――数年前まで斎藤義龍と名乗っていた男が死んだのか。弥右衛門の耳にも届いていない最新の凶報であった。宿敵の死を弔うどころか、その隙を最大効率で突く。まさに織田信長という男の真骨頂と言えた。
「して、戦況は。」
「既に勝報が今朝届きました。織田勢千五百に対し、六千の一色勢を粉砕。敵の大将と重臣共を悉く討ち取ったとのこと。……あの方は、戦においては真に鬼神の如し。なれど、斯様な非道な攻め方で美濃の民が付き従うものか。……某には、それが心配でなりませぬ」
林佐渡守は深く溜息を吐くと、懐から一通の書状を取り出し、弥右衛門の前に置いた。
「勝報と共に届いた、貴殿宛の密書にございます。中身は見ておりませぬ。」
弥右衛門は静かに書状を解いた。そこには、格式を廃し、ただ命令としての意志のみが鋭く刻まれていた。
――――――――――――――――
種子島八十丁、
鉄砲に慣れた兵を一月貸すならば、
高値にて買い取る。
急ぎ墨俣へ参れ。
織田上総介信長(花押)
――――――――――――――――
(……買い叩かれた種子島を、兵の『派遣』という形で取り返せる機会をくれたということか。だが、選択肢など、端から与えてはおらぬな)
弥右衛門は、心の中で苦笑した。だが、幸いにも八十の鉄砲兵は、値上げ交渉のために、すでに清洲に同行させている。対応は即座に可能だ。
書状を畳む弥右衛門の視線の端に、何事かと気もそぞろな林佐渡守の姿が映った。
「林殿。私も墨俣に呼ばれました。これより急ぎ、向かわせていただきます」
「……殿も人使いが荒い。いや、それほど貴殿を頼りにされているのでしょうな」
林佐渡守は、弥右衛門から返された書状を一読し、深く、重いため息をついた。
「倉にある具足に付け替えてから行きなされ。木下の甲冑や旗では、道中も、そして着いてからも不都合があろう。」
確かに、表向きに織田家と木下の関係を明らかにするにはまだ早い。
「心遣い、痛み入ります。……それでは、急ぎ仕度を整え、発たせていただきます。」
「ご武運を。次に清洲へ戻られた際は、ぜひ我が屋敷へ。歳の近い者同士、酒を酌み交わしながら、これからの織田家の進むべき路を語り合おうではありませぬか。」
「ありがたきお言葉。……必ずや」
弥右衛門は短く応じると、一礼してその場を立った。
清洲の倉で、兵たちに木下の沢瀉紋が入った旗を置かせ、代わりに織田の木瓜が刻まれた黒塗りの具足を身に纏う。
弥右衛門は、八十の鉄砲衆と共に夕闇が迫る清洲城の門をくぐった。
◼︎永禄四年五月 美濃国 墨俣城
美濃の最前線、墨俣。奪い取ったばかりの小城には、雨雲を払わんとする勢いで数多の「織田木瓜」が翻っていた。
西美濃・森部での衝突で一色軍を圧倒し、この湿地の要衝を占拠した織田勢。弥右衛門たちが足を踏み入れたのは、城と呼ぶにはあまりに心許ない、泥に塗れた砦であった。
城の規模には不釣り合いな数の将兵がひしめき、屋敷の中からは、鼓膜を震わせるほどの大きな声が響き渡る。
「猿! どこにおるか! 返事もできんのか!」
「すぐに! すぐに参りまする! しばし、しばしお待ちを!!」
信長様の容赦ない咆哮と、それに必死に応える聞き慣れた声。
視界の端から、薄汚れた着物の裾を翻し、文字通り猿のごとき俊敏さで泥を跳ね飛ばしながら駆け抜けてくる男――息子・藤吉郎の姿があった。
目の前を通り過ぎる際、現れるはずのない父の姿が目に入った藤吉郎の顔には、劇烈な驚愕が浮かんでいた。
「お……おっ父⁉︎なぜここにいるんじゃ⁉︎」
「殿に呼び出されてな。清洲に種子島を売りにきたのだがな……、戦に巻き込まれたわ。」
弥右衛門が背後の鉄砲兵たちに顎で示すと、藤吉郎は合点がいったように目を輝かせた。
「これが! 例の上ノ郷城を落としたという、あの種子島衆か!」
実際には勘十郎たちの功績によるものが大きいのだが、信長に高値で売りつけるため、弥右衛門は事前に「百丁の種子島が城を落とした」という流言を、遁尾衆を使って清洲中に広めておいたのだ。
藤吉郎が興味を抑えきれず鉄砲兵へ一歩踏み出した、その時。屋敷の障子が爆ぜるような音を立てて開け放たれた。
「猿!何をもたついておる!」
声の主、信長様は、獣のような鋭さを孕んだ顔つきのまま、弥右衛門と藤吉郎の前に現れた。
周囲の将兵と共に、弥右衛門は泥濘に膝をつき、深く頭を垂れる。藤吉郎に至っては土下座に近い平伏で、額が泥に汚れるのも厭わぬ様子であった。
「申し訳ございませぬ。父の姿を見かけ、つい足が止まりました。」
一切の言い訳を排した藤吉郎の答え。弥右衛門はそこに、息子なりに編み出した対信長の「最適解」を見た。機嫌を伺うのではなく、事実のみを差し出す。それがこの男の機嫌を損ねぬ唯一の路なのだ。
「……そうか。弥右衛門も参ったか、丁度良い。猿への『褒美』を決めた所だ。」
墨俣への道中で耳にしていた。藤吉郎は十人ばかりの小部隊を率い、「頸取り足立」との異名を持つ敵の勇将・足立六兵衛を討ち取るという大金星を挙げたのだ。
だが、信長が差し出した褒美は、領地でも金銭でもなかった。
「今朝、十四条の砦を任せていた我が一門、織田解由左衛門が討ち取られた。一色が懲りずに兵を返してきたのだ。……一門とはいえ、役に立たぬ奴はいらん。今から砦を奪い返す。そのうちの一隊、そなたに任せるぞ」
「おいらに、部隊を率いさせていただけるのですか! ありがたき幸せにございまする!」
藤吉郎の瞳が、歓喜で燃え上がった。
名門一門の失態を、成り上がりの藤吉郎が埋める。これがどれほどの妬みを買うか、藤吉郎も分かっているはずだ。だが、それ以上に出世を渇望する飢えた眼差しがそこにはあった。
「よきにはからえ。兵は、弥右衛門が連れてきた鉄砲兵八十に、我が足軽二十を添えてやる。此度の戦で功を挙げれば、引き続き兵を任せる。……失敗すれば、次は無いと思え」
(出世を与えたのではない。出世のための『試験』を与えたのだな)
弥右衛門は、信長という経営者の育成手法を冷徹に分析していた。かつて自分が西尾城を獲り、与えられた時と同じ。成果なき者に居場所はないが、成果を出す者には無限の「挑戦権」と「報酬」を与える。信長は今、藤吉郎をただの小者ではなく、一軍の将になれる器かどうか、戦場という極限の環境で確かめようとしているのだ。
「かしこまりました。必ずや大功を挙げ、砦を殿にお返しいたしまする!」
泥に塗れた藤吉郎の声が、湿った空気を切り裂く。
「ということだ。……弥右衛門。鉄砲兵は息子に預けろ。そなたは我と共に参れ。特等席で見せてやる。」
この直後、織田勢一千は墨俣を発ち、
待ち構える一色勢四千が布陣する軽海へと布陣した。
息子・藤吉郎の出世をかけた大一番が始まろうとしていた。
ご拝読いただきありがとうございます。
本章は、史実にある森部の戦い、十四条・軽海の戦いを舞台にしています。
また、後世の創作と言われる「秀吉の墨俣一夜城」は採用しませんでした。
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