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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#27 塩と茶

2026/02/25

前田利家の通称を孫四郎から又左衛門に変更しました。

◼︎永禄四年五月 三河国 西尾城 曲輪 屋敷


 西尾城の曲輪の一角にある弥右衛門の執務室は、朝から人の熱気で溢れかえっていた。


 上ノ郷での戦が終わり、停戦が成ったのも束の間。休む間もなく織田信長からの呼び出しが届いたのだ。戦で長く留守にしていた主が、またすぐに旅立つと聞き、部下や領民たちが堰を切ったように弥右衛門の元へ詰めかけてきたのである。


 邪険に扱えば、わずかな不信の種が領内に落ちかねない。弥右衛門はそれを何よりも嫌い、一人ひとりの言葉に丁寧に応対し続けた。煩雑な帳簿の精査、領民が誇らしげに持ち寄った初物の作物へのお礼、果ては些細な境界争いの裁定……。

 目まぐるしい時の流れに身を任せ、ふと気づけば、外には茜色の夕闇が忍び寄り始めていた。

 だが、弥右衛門にとっての本番は、太陽が沈みきってからだ。

 

 この後は本丸の屋敷に移動して、座株楽座天王や実相寺との面会を行う。

 領内の今後を大きく左右するような重要議題は、夜の帳が下りてからに設定してあった。


 弥右衛門は固まった首を回して小さく凝りを解くと、重い腰を上げた。津島屋宗左衛門や小一郎、そして実相寺の宗円と円澄が待つ本丸へと、静かに足を向けた。


 


◼︎永禄四年五月 三河国 西尾城 本丸 屋敷


 弥右衛門が部屋へ足を踏み入れると、四人の男たちが一斉に畳へ額を擦りつけた。根っからの大名ではない自分には、この仰々しさは未だに馴染めない。

 弥右衛門は上座の座布団を無造作に掴み上げると、彼らのすぐ近くまで歩み寄り、そのままどさりと腰を下ろした。

 

「皆の者、久しいな。堅苦しいのは抜きだ。話しやすいよう、車座になってくれ」

 

 予想外の命に、実相寺の二人は目を白黒させて驚いたが、付き合いの長い津島宗左衛門と小一郎は苦笑いを浮かべつつ、手慣れた様子で座を組み替えた。僧侶たちも、戸惑いながらも弥右衛門を囲む円の一部へと加わった。

 

「木下様、お久しゅうございます。上ノ郷における隙のない快勝、まことにおめでとうございます。三河にその名が轟いておりますぞ」

 

 宗左衛門が口火を切って深く頭を下げると、他の三人もそれに続いた。だが、弥右衛門はそれを片手で制した。

 

「よい。その手の祝辞は、今日一日で耳にタコができるほど聞き飽きた。そなたたちとは、領土を実らせる今後の話がしたい」

 

 隠そうともしない弥右衛門の辟易した返答に、宗左衛門は思わず吹き出した。

 

「くくっ……まこと、木下様らしい。では、ご要望通りに。此度もご報告とご相談をさせていただきます」

 

 その言葉を受け、小一郎が懐から一枚の地図を広げた。そこには西尾、東条、そして新たに版図に加わった上ノ郷の周辺が精緻に描き込まれている。

 

「まず、進めておりました『棟貸し』は極めて順調にございます。伊勢、京、そして近江の商人たちが強い関心を示しており、一色湊に先行して建てた三十の店舗は、完成を待たずしてすべて埋まる勢いです」

 

 地図上の一色湊に押された「貸出済み」を示す墨印は、もはや余白がないほどに並んでいた。

 

「……この勢いなら、さらに増設が必要だな?」

 

「もちろんにございます。ですが、現状は大工の数が追いつきませぬ。三河、尾張はもとより、近江からも腕利きの職人を集めておりますが、それでもまだ手が足りぬほどでして……」

 

 宗左衛門の言葉には、かつてない活気と、それを捌ききろうとする心地よい焦燥が滲んでいた。


「近江大工が評判通り優秀でしたので、我らで数人の腕利きを完全に囲い込み、建築そのもので稼ぐことを考えております。四郎次郎の発案にございます。」


 小一郎が茶屋四郎次郎の提案を伝えると、弥右衛門は迷わず頷いた。


「それは良い。金をいくら積んでも、一級の職人をこちらへ引き込め。技術こそが、これからの領地を支える柱になる。」


 店舗を貸し出す不動産業に加え、建築請負までも座株楽座天王の手に握らせる。それは領内の発展を加速させると同時に、木下家の懐を潤す一石二鳥の一手となるはずだ。


「次に、湊の整備ですが第一段階が完了いたしました。護岸を強化し、三つの船着場に二つの大規模な蔵が完成。予定通り関銭を引き上げましたので、これを今後の継続的な増築と改修の原資に回します。」


「うむ、予定通りだな。商人たちからの反発はないか?」


「今のところ問題はございませぬ。対抗馬である吉田湊が松平と今川の最前線となりつつある今、戦火を避ける商船はこぞって一色湊へと流れ込んでおります」


 安定こそが最大の利だ。関銭が多少上がろうとも、積み荷を失うリスクに比べれば微々たるもの。一度この利便性と安全性を知れば、商人は容易に他へは移れない。


「そして、塩田の独占と拡大について。西尾と一色の塩田を生業とする者たちは、旧来以上の待遇を条件に、すべて我が方で抱え込みました。彼らの知見を注ぎ、大規模な塩田の開作(かいさく)を進めております。未だ初期段階ではありますが、塩に飢える美濃や信濃の商人からは、すでに熱烈な反応が届いております。引き続き、このまま推し進めまする。」


「そうだな。新たに木下領となった上ノ郷も、地形は似通っている。あちらでも同様に、塩田の拡張を進めてくれ。よろしく頼む。」


 弥右衛門が力強く頷くと、小一郎はすべての報告を終えた証として、車座の真ん中に広げていたの地図を懐へと収めた。


 ふと横を見ると、あまりに壮大な計画に空いた口が塞がらぬ様子の宗円と円澄がいた。その呆然とした姿に、弥右衛門は思わず口元を緩めた。


「そなた達も、これら数々の策と同様、この地を富ませるための重要な要なのだ。口を開けてばかりでは務まらんぞ。」


 ハッとした宗円が深く頭を下げ、隣の円澄に鋭く目配せを送った。円澄は急ぎ立ち上がると、しばらくして丁重に茶碗を運んできた。


「木下様、今年の一番摘みが出来上がりました。毒味も済ませてございます。……まずはご賞味くだされ。」


 円澄が淀みない所作で点てた茶碗が、弥右衛門の前に置かれた。芳醇な、だがどこか鋭い緑の香りが鼻腔を突く。弥右衛門はずずっと一口、それを口に含んだ。


 ――苦い。


 それが、現代の抹茶の甘い味を知る弥右衛門の率直な感想だった。だが彼は無表情のまま茶碗を置き、そのままおもむろに宗左衛門の前へと滑らせた。


「宗左衛門殿、如何かな。数多の銘茶を扱ってきた津島屋の目から見た、我が西尾の茶は」


 評価を丸投げしたのではない。弥右衛門は、現代の感覚を持つ自分にはこの時代の真価は測れないと、直感的に悟っていたのだ。

 宗左衛門は綺麗な所作で茶を口に運ぶと、しばし目を閉じ、喉を鳴らした。


「質が高うございますな。宇治のような甘みこそ薄いですが、力強い渋みと香りが残る。決して粗茶ではございませぬ。この三河の地でこのような茶があったとは……」


 及第点、どころではない。豪商の息子の瞳に宿った驚きの色が、その価値を何よりも証明していた。弥右衛門は確信を持って、静かに視線を僧侶たちへと戻した。


「宗円、円澄。そなた達がこの地に必要な存在であることは、この茶が証明した。……約束通り、寺を再建しよう。木下家がその普請を引き受ける。」


 二人の目に、一瞬、光が滲んだ。彼らは感極まったように、畳に額を擦りつけた。

 

「ありがとうございまする。この御恩、必ずやこの地を支える糧としてお返しいたします。」


 ようやく重圧から解放されたのか、円澄は安堵した様子で周囲を見回していた。だが、ふとその視線が柱の一点に止まる。


「木下様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「もちろん。何かな?」


「この屋敷は、吉良様が我らを招いてくださった時のまま、何も変わっておりませぬ。建具のあちこちにも、未だ吉良の五三の桐が残されたままです。……これは何故にございますか」


 円澄は、かつての主の面影を懐かしむように、愛おしげにその紋を見つめながら問うた。


「以前も伝えたが、私自身は吉良殿に私怨はない。むしろ、この地を長年治めてきた吉良の面影は、安易に消し去るべきではないと考えている」


 弥右衛門は、灯籠の淡い光に照らされた庭園を静かに見据えた。揺れる木影が、かつての主たちの面影を写しているようにも見えた。

 

「そうだ、伝え忘れていたな。実相寺を再建する際は、この屋敷や庭、そして吉良の紋が刻まれた部材を、そのまま寺へ移設しようと思っている。そなた達や領民が、今も吉良殿を慕っていることは承知の上だ。なればこそ、その想いは実相寺に刻み、永く残すべきだろう。」


 一瞬、部屋が静まり返った。

 宗円は言葉を失い、溢れ出した涙が畳を濡らすのを隠そうともせずに、ただ深く、深く頭を下げた。震えるその背中が、言葉以上の感謝を物語っていた。

 

 木下家は、吉良が愛したこの地の記憶を共に守り、次代へと繋ぐ「新たな守護者」になる――。その沈黙の表明が、僧侶たちの心を、真の意味で木下家へと繋ぎ止めた瞬間であった。


(せめてこれが、あの時救えなかった吉良殿の妻子への、ささやかな報いになれば良いのだが……)


 弥右衛門は静かに立ち上がり、夜の冷気を含んだ廊下へと踏み出した。灯籠の光に揺れる自分の影を見つめ、一つ、深く息を吐く。

 明日は清洲へと旅立たねばならない。勝利の報告を携えての凱旋だが、その先に待つ男のことを思うと、わずかに胃が重くなるのを感じた。


 (さて……。あの信長様のことだ。今度はどんな無理難題を押し付けてくることやら……)


 弥右衛門は自嘲気味に口元を歪ませ、月光に照らされた本丸を後にした。

 


 

ご拝読いただきありがとうございます。


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一週間足らずで読み終えてしまいました。 秀吉の父に転生は初めて読みます。 続きを楽しみにしてましす。
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