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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#26 停戦の利

◼︎永禄四年四月 三河国 上ノ郷城


 日が天高く昇る頃、弥右衛門は降伏した上ノ郷城を、馬の蹄の音を響かせながら本丸へと登っていた。


 落城させたとはいえ、正面から攻略できたのは第三曲輪まで。第四曲輪は大金を投じた種子島の数でねじ伏せ、第三曲輪は容赦ない火矢によって焼き尽くしたに過ぎない。

 降伏した兵たちはすでに城外へ連れ出され、今朝駆けつけた松平軍五百と、本陣に残した木下兵三百の監視下に置かれている。


 もぬけの殻となった今ですら、上ノ郷が三河随一の難攻不落を誇った理由が肌で感じられた。複雑に折れ曲がった動線に、待ち構える虎口、敵を迷い込ませる袋小路、そして頭上の至る所に穿たれた狭間――。

 特に、木下兵が踏み入らなかった第一・第二曲輪の守備の執拗さを見るにつけ、弥右衛門は自らの判断が正しかったことを確信した。兵の命を正面突破で浪費しなくて済んだのだ。


 第一曲輪を抜け、ようやく視界が開けた本丸の門前。

 そこには、仕事を終え、静かに頭を下げる勘十郎たちの姿があった。


「勘十郎、よくぞ務めを果たした。大義であった」


「殿の夜襲があればこそ。崖を登る際も、城内の目はすべて西へ向いておりましたゆえ。

 ……先にお送りした鵜殿の若君方は、無事に届いておりますでしょうか。」


 勘十郎は、混乱を避けるため、捕縛した新七郎と藤三郎をいち早く本陣へと護送させていた。


「うむ。すでに松平軍へ引き渡し、厳重に保護しておる。……左様であろう?」


 弥右衛門は、共に本丸まで登ってきた松平の重臣――石川与七郎数正へ視線を向けた。


「はっ、しかと受け取り申した。今は半蔵が隙なく守護しております。……そして、勘十郎殿。お初にお目にかかりまする。石川与七郎数正と申す。此度は元康様の無茶な願いを鮮やかに成し遂げてくださり、心より感謝いたす。それと、昨夜は半蔵が多大なる非礼を働いたとのこと、(それがし)からも深くお詫び申し上げる」


 馬上の身ではあるが、石川与七郎は手綱を離し、深々と頭を下げた。当惑し、言葉に詰まる勘十郎に代わり、弥右衛門が朗らかに口を開いた。

 

「石川殿、顔をお上げくだされ。此度は同盟の約を交わした仲、その務めを果たしたまでにございます。それに、半蔵殿が下した決断……長照殿の首についても、戦の理を考えれば一理あるもの。貴殿が頭を下げる必要などございませぬよ」


 石川与七郎はようやく顔を上げた。まだ三十に満たぬ若さながら、その瞳には律儀さと、この動乱の世を憂うような思慮深さが宿っていた。

 

「……木下殿の寛大なるお言葉、恐悦至極に存ずる。松平としても、鵜殿の首級は木下殿の手柄として元康様へ報告いたそう。当然、この上ノ郷城も木下家の領土。我らは約通り、牛久保城を頂戴いたしまする」


「異存はございませぬ。互いに手に入れた城を楔とし、対今川の備えを盤石にしてまいりましょうぞ。」


 石川与七郎は深く頷くと、手綱を捌いて馬の向きを変えた。


「もちろんでございます。某はこれより、人質交換の折衝に向かいますゆえ、この辺りで失礼いたしまする。」


「……このまま向かわれるのですな。よろしく頼みます。して、人質の件は成るかと思いますが、停戦は叶うのですか? 一万八千の今川勢……。我らとはあまりに兵の数が違いすぎる。今川に停戦の利などございますまい。」


 弥右衛門の危惧に、微かに苦笑を浮かべ、首を横に振った。


「成りませぬな。今川は必ずや、怒りに任せて押し寄せましょう。……ですが、案ずるには及びませぬ。前面に立つのは、我らが奪い取った牛久保。今頃は城を固め、籠城の準備を整えておる頃合いにございます。」


 石川与七郎の瞳には、一切の迷いがなかった。

 力強い声色のまま、言葉を続ける。

 

「心配なさるな。それを見越して兵糧は事前に十分すぎるほど運び込んでおりまする。何より、調略による無血開城ゆえ、我が兵は一人の欠けもなく無傷。……稲刈りの時期まで耐え抜けば、今川とて引き揚げざるを得ますまい。我らは、ただ時を稼ぐのみにございます。」


 弥右衛門も手綱を捌き、愛馬の向きを並ぶように変えた。


「石川殿、年寄りの戯言として聞き流してくだされば良いが……。もし、今川領内の大井川と天竜川が氾濫し、さらに武田が同盟を反故にして攻め込むとなれば、停戦の利は今川側に生まれると思わんか?」


 石川与七郎は困惑を隠しきれぬ顔で弥右衛門を凝視した。


「はぁ……。確かに、そうなれば今川とて三河に構っている余裕はなくなりますが。ですが、それはあくまで仮定の話。天災と他国の動向に、我らの命運を預けるわけには参りませぬ。」


「であろうな。だが、なればこそ……その仮定を現実のものとして交渉の席に持ち込むべきだ。」


「何をおっしゃりたいのです。空想を並べたところで、今川の怒りは鎮まりませぬぞ。」


 口元を硬く結び、真意を測りかねていた。その真っ直ぐな瞳を、弥右衛門は不敵に細めた。


「……石川殿。我らが元々は、松平殿の指揮下にあった透破であったことはご存知かな?」


「……もちろんにございます。極秘の情報として、しかと。」


「此度の城攻め。私が直接動かしたのは、勘十郎と金で雇った甲賀衆のみ。……では、他の者たちは、一体どこで何をしていると思う?」


 石川与七郎の表情が、一瞬で凍りついた。青天の霹靂とは、まさにこのことであった。


「まさか……。すでに今川領、駿河と遠江に潜り込ませているのか……!」


「左様。大軍が通るための渡河を支える、上流の堤。朝比奈備中守が百姓を動員して急ぎ作らせたという、あの堤に細工を施した。……雨を待つ必要はない。特定の時が来れば、堤は自重で崩れる。大井と天竜の流域は、未曾有の混乱に陥るだろう。」


 朝比奈備中守の動きを元康から聞いたその瞬間に、弥右衛門は遁尾衆を百姓として送り込んでいたのだ。守るための堤が、今川の補給を断つ武器へと変わる。


「そして武田だ。あやつらは実際に、北へ向けて凄まじい軍備を進めている。……だが、今川館の周辺では、その軍勢が『駿河侵攻の牙を研いでいる』という噂にすり替わっているのだ。……誰が、その噂の種を蒔いたと思う?」


 弥右衛門自身すら、今年が「第四次川中島の戦い」という未曾有の激戦の年であることを、知識として知っていたわけではない。だが、武田の動きが尋常でないという噂を敏感に感じ取り、それを情報戦へと転用した。弥右衛門の運の強さが、戦国という時代の歯車と噛み合った瞬間であった。


 石川与七郎は口を開け、冷や汗を流しながら、少しの間絶句していた。


「……木下殿。貴殿は、我が殿と同じ高みから物を見られている。目の前の戦を終わらせるために、この国全体を俯瞰し、揺さぶっておられるのか。」


「松平殿には及びませんよ。私は単に昔から、仮定を事実にするのが得意なだけです。」


 戦国の透破の頭領として流言を操り、令和のコンサルタントとして戦略という名の仮説を立て、企業を導いてきた。弥右衛門に宿る二つの記憶は、時代を跨いでも本質的には同じ生業なのだ。


「ふふっ……。謙遜として受け取っておきます。」


 石川与七郎はわずかに頬を緩めたが、その眼差しには弥右衛門への拭い去れぬ畏怖が混じっていた。


「松平殿にもお伝えくだされ。人質交換による停戦が成ったとしても、それは一時的な平穏に過ぎぬと。今川との真の決戦に向けて、木下は牙を研いでおきます。」


「心得ました。松平も、頂いた時間を有意義に使いまする。……引き続き、頼みますぞ、木下殿。」


 馬上から深々と一礼すると、春の陽光を浴びて輝く城下へと、静かに馬を進めていった。



 


◼︎永禄四年四月 三河国 牛久保城 屋敷


「殿の妻子と鵜殿の子息の交換、

 そして……今川との停戦、成立いたしました。」


 石川与七郎は深く平伏し、主君・松平蔵人佐元康へその快報を告げた。


「お疲れ様。……想像以上の成果だね。やはり、これは木下殿のおかげなのかな?」


 松平蔵人佐の問いは、どこか確信めいていた。

 元より、人質交換こそ成っても、一度火のついた今川の怒りは止まらぬと踏んでいたのだ。だからこそ、この牛久保城を死守すべく、防衛準備を進めていたのである。


「はい。一度目の交渉では、聞く耳さえ持たれぬ有様でした。ですが……、実際に天竜川と大井川が氾濫し、さらに駿河の今川館が武田侵攻の噂で大混乱に陥っているとの報が入るや、風向きが劇的に変わりました。……今川は、こちらに構っている余裕を失ったのです」


 松平蔵人佐はゆっくりと天井を仰ぎ見た。

 堤を切り、噂を流す。弥右衛門が語っていた仮定が、見事に駿河の事実としてみせた。


「信長殿が、私と木下殿を競わせる訳が……ようやく分かった気がするよ。」


 その口元に、自嘲とも敬意ともつかぬ笑みが浮かぶ。


「かつて、私の下で透破の頭領をしていた頃の彼になら、負ける気はしなかった。だが……信長殿に出会ってからの彼は、何かが決定的に変わってしまったようだ。認めざるを得ないね。彼はもはや、私に劣らぬ器だ。」


 ――ドンッ!

 

 傍らに控えていた小姓が、激昂のままに拳を床へ叩きつけた。 


「殿! 弱気なことを仰ってはなりませぬ! 三河は松平家のもの。木下という素性の知れぬ男に、その座を脅かされるなどあってはなりませぬ!」


「平八郎、場をわきまえぬか。殿の御前であるぞ!」


 石川与七郎が、元服したばかりの若武者――本多平八郎忠勝を烈火のごとく叱り飛ばした。平八郎は悔しげに唇を噛み、それでも鋭い眼光を緩めることはなかった。


「……平八郎。そして数正も、落ち着きなさい。」


 穏やかに制したが、その瞳の奥には青白い炎が揺らめいていた。


「私は少しも弱気などになっていない。むしろ……高揚しているのよ。木下弥右衛門吉成という好敵手と共に、今川という巨人を三河から追い出し、そして――競い合う。これほど心躍ることはない」


 その言葉に嘘はない。その口元には、かつて人質として耐え忍んでいた頃には決して見せなかった、不敵な笑みが漏れていた。


「さあ……三河を真に我らの手に取り戻す日まで、一刻の猶予もないぞ。数正、人質交換の差配と岡崎の内政はすべて任せる。平八郎、お前は私と共にこの牛久保で軍備を整えよ。我らに余裕などない。ここからは、泥を啜ってでもがむしゃらに働こうではないか」


 石川与七郎は困り顔を浮かべつつも、どこか誇らしげに。

 平八郎は、その若き血を沸き立たせるような満面の笑みで。

 

「「ははっ!!」」


 二人の忠臣の声が、松平の葵紋が棚引く牛久保城に力強く響き渡った。



 

ご拝読いただきありがとうございます。


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