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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#25 上ノ郷城の戦い 其の四

◼︎永禄四年四月 三河国 上ノ郷城 本丸屋敷

 

 屋敷の中は、外の喧騒とは裏腹に、冷え切った恐怖に包まれていた。

 

「敵が夜襲を仕掛けてきたとのこと!」

「火が、火の手がこちらへ回ってきます!」

 

 鼓膜を揺らす重低音の銃声と、空を焦がす紅蓮の炎。西側からもたらされる絶望的な情報に、屋敷に残された侍女や小姓たちは半狂乱となっていた。ある者は錯乱して右往左往し、ある者は廊下の隅で震えながら念仏を唱えている。

 彼らの意識は、すべて「西」の窓、「西」の廊下に向いていた。


 ――ゆえに、東側の回廊を滑る集団に気づく者は、誰一人としていなかった。


 彼らは走らない。床板の一枚すら軋ませることなく、闇に溶けた黒い影が氷上を滑るように移動していく。

 先頭を行く服部勘十郎の歩みに迷いはない。目指すは、鵜殿の息子たちが眠る奥の小部屋だ。そこは座株楽座天王の商人として塩を売りにきた小一郎が突き止めた場所であった。


「……………………。」


 曲がり角を曲がる直前、人の気配を感じ三十の影が動きを止めた。三雲新左衛門尉が反射的に小刀を抜きかけるより早く、勘十郎は音もなく角の先へ踏み出した。


「ひっ――」


 鉢合わせた小姓が、目の前の影を人間と認識するよりも早く、勘十郎はその懐へ飛び込んでいた。


 悲鳴は、形にならなかった。

 影から伸びた腕が小姓の口を力強く塞ぎ、もう一振りの手が、首筋の急所を迷いなく突いた。小姓の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。勘十郎はその身体を音もなく抱きとめ、廊下の隅へと静かに横たえた。


「……殺さなくて良いので?」


 闇の中から現れた新左衛門尉が、冷徹な小声で問う。勘十郎は、わずかに震えそうになる指先を掌の中に隠し、無機質な声で答えた。


「よい。まだ、騒ぎを大きくする時ではない。平穏を装ったまま本懐を遂げる。」


 本当は、人を斬れないだけだ。だが、その弱さを晒すわけにはいかない。新左衛門尉は無言のまま、抜きかけていた小刀を静かに懐へと収め、再び目的の場所へと滑り出した。


 たどり着いた襖の前で、勘十郎は足を止める。

 向こう側から聞こえるのは、恐怖に喘ぐ幼い命の、激しく、しかし押し殺した呼吸音。

 

 音もなく襖をわずかに引く。

 行灯の微かな光の輪の中に、鵜殿の嫡男・新七郎と弟の藤三郎がいた。父から預かったのであろう短刀を抜き、震える膝を必死に支えながら、二人の少年は入り口を凝視している。


「……来い。来るなら、来い……!」


 掠れた少年の声には、名門今川の端くれとしての意地と、死を待つ者の絶望が混ざり合っていた。勘十郎は応えず、隣の新左衛門尉に目配せを送る。


 次の瞬間、二人の透破は室内へ()()()

 

「なっ――」

 

 新七郎が短刀を突き出そうとした刹那、彼の視界から影が失せ、次の瞬間には勘十郎の手刀が少年の首筋へと吸い込まれていた。同時に新左衛門尉も藤三郎の背後を奪い、その顎を的確に跳ね上げる。

 

 カラン、と短刀が畳に落ちる乾いた音。二人の少年は悲鳴を上げる暇もなく、糸が切れたように勘十郎たちの腕の中へと崩れ落ちた。


「仕留めた。……急ぎ、運び出すぞ」


 冷たく告げ、新左衛門尉が藤三郎を担ぎ上げた。勘十郎が新七郎を背負おうと屈んだ、その時だった。


 廊下の奥から、地を這うような重い足音が迫る。鎧が触れ合う金属音。それは、動揺に震える小姓のものではない。


 ――ドシュッ!


 外の見張りについていた甲賀衆が斬り伏せられたのか、襖に鮮血が飛び散る。


「新七郎! 藤三郎! 無事か!」


 荒々しく襖が開かれ、一人の武者が姿を現した。城主・鵜殿藤太郎長照。西の曲輪で指揮を執っているはずの男が、血刀を下げて立っていた。


「……増援を呼ぶために戻ってみれば、貴様ら、何奴だ!」


 鵜殿藤太郎の目が、床に倒れた息子たちと、それを抱える勘十郎と新左衛門尉の()()をとらえた。長照が咆哮と共に太刀を振り上げ、部屋の中へ一歩踏み入れた、その瞬間。


 天井の闇から、そして部屋の隅の影から、無数の鎖と鉤縄が「蛇」のように飛び出した。


「なっ……!?」


 潜んでいた甲賀衆たちが、音もなく鵜殿藤太郎を包囲していた。一人が抜こうとした太刀の柄を上から押さえつけ、別の二人が左右からその腕を封じる。三十人の透破による、密室内での完全なる不意打ち。物理的な数のの拘束には抗う術がない。

 膝を叩き折られるようにして床に突かされた鵜殿藤太郎の背後から、甲賀衆の一人が音もなく回った。太い腕が頸動脈を的確に締め上げ、激しい抵抗は数秒で脱力へと変わる。呻き声を上げる間もなく、深い意識の闇へと沈んでいった。


 甲賀衆の動きは冷酷、かつ無駄がなかった。

 敵の接近を察知した瞬間、外の仲間一人の犠牲すら計算に入れ、子供を抱え無防備な勘十郎と新左衛門尉のみを囮として晒し、長照を死地へと誘い込んだのだ。


 新左衛門尉が、冷え切った瞳で意識を失った鵜殿藤太郎を見下ろし、低く問いかけた。

 

「……勘十郎殿。この男は息の根を止めても良いか?」

 

 その言葉が終わるか終わらぬかの時だった。

 雲を割って射し込んだ青白い月光が、開け放たれた襖の影を長く伸ばす。その光の縁に、いつからそこに潜んでいたのか、一人の男が死神のごとく立ち塞がっていた。

 

「殺せ。……情けは無用だ」

 

 氷を噛み砕くような冷徹な声。そこにいたのは、勘十郎の弟であり、元康の懐刀――服部半蔵正成であった。


「半蔵……、なぜここにいる。」


 同業者でありながら、その気配を寸分も感じさせなかった――透破としての格の違い。勘十郎は背筋を走る戦慄を隠せなかった。背後の甲賀衆たちも、音もなく現れた死神に息を呑んでいる。


「そんな事はどうでも良い。……鵜殿藤太郎を生かしておけば、必ずや再起し、我らの脅威となる。人質ならば、二人の子供で十分。鵜殿の首だけを持ち帰り、今川に絶望を叩きつけてやるべきだ。」


 半蔵は無造作に腰の刀を抜き放つと、逆手に持ち替え、その柄を勘十郎へと突き出した。

 

「服部の血を引く者として、貴様が仕留めろ。未だに『人を斬れぬ』などと、甘えた戯言は言わせん。……これが、貴様の服部としての初陣だ」

 

 鈍く光る刀身が、勘十郎の瞳を射抜く。

 勘十郎は喉を鳴らし、震える手でその重みを受け取った。喉元を無防備に晒した鵜殿藤太郎。ただ一突き。それだけで、服部として一人前の男になれる。

 

「……っ」

 

 刀を構え、切っ先を喉へと向ける。だが、あと数寸のところで、腕が鉄を流し込まれたように固まった。

 脳裏に、西尾城の松の木の側で、自分を真っ直ぐに見据えた弥右衛門の言葉が蘇る。


「……断る」

 

 勘十郎は静かに、だが鋼のような拒絶と共に、刀を半蔵へと返した。

 

「人を斬るだけが忍びの道だというのなら、私はその道を歩まぬ。……殿は、この私を、そのままの姿で良いと仰ってくださったのだ」

 

 半蔵の瞳に、深い、底の見えぬ失望の色が走った。

 

「……愚か者が」

 

 半蔵は吐き捨てると、勘十郎から奪い取るように刀を掴み、電光石火の勢いで振り下ろした。

 ――ドシュッ、という重い音。

 一太刀で首が畳に転がり、鮮血が月光を汚した。半蔵は返り血を拭おうともせず、兄を冷たく射抜いた。

 

「もはや貴様を兄と思うことはない。家を捨て、忍びの理さえ捨てた貴様を、服部家より破門する。二度と、その名を名乗るな。……末代までの恥晒しめ」

 

 破門。

 それは、この戦国という時代における社会的な死を意味する。だが、勘十郎の心に後悔は微塵もなかった。

 

「……承知した。それで、構わぬ」

 

 自分には、この弱ささえも価値だと言ってくれる主君がいる。自分を「服部勘十郎」ではなく、ただ一人の男として必要としてくれる場所がある。

 半蔵は無言で長照の首を拾い上げると、闇の中へと消えていった。


 半刻後――。

 夜明けの光の中、本丸に高々と棚引く木下の沢瀉紋を見た鵜殿の兵たちは、次々と刀を地に落とした。

 

 

ご拝読いただきありがとうございます。

上ノ郷城は史実でも忍がメインの戦いになりました。本作でもそれを踏襲して執筆しました。

いかがだったでしょうか?


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