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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#24 上ノ郷城の戦い 其の三

◼︎永禄四年四月 三河国 牛久保城 松平軍本陣


「木下殿は上手く進んでいるのかな。」


 松平蔵人佐の飄々とした問いに、服部半蔵は静かに首を横に振った。


「第四曲輪を落としたとの報告以来、目立った変化はございませぬ。槍の又左すら本陣へ下げている始末。……あの男、本当に城を落とす気があるのか疑わしゅうございます。」


 松平蔵人佐はニヤリと口元を緩ませ、扇子で膝を叩いた。


「……彼は僕らと同じ『同業者』なんだよ、半蔵。正面から馬鹿正直にぶつかる時期はもう終わったのさ。今頃はどこかに忍び込んでいるはずだよ。」


「……そうであれば、よろしいのですが。」


 半蔵のどこか不満げな声に笑いをあげた。


「兄上――勘十郎殿のことが気になるなら、石川与七郎と一緒に上ノ郷へ向かうかい?」


 独立前に想定していた「障壁」であった吉良が、木下弥右衛門という異分子によって排除されたことで、元康は牛久保城の調略に全集中させることができた。すでに城内は切り崩しが済んでいる。……今川館に最大の衝撃を与えるための「二城同時攻略」。そのための包囲網は、今やただの仮初(かりそめ)に過ぎない。


 余裕が生じた分、重臣・石川与七郎数正に五百の兵を預け、上ノ郷に向かわせる。それが元康の次なる一手だった。


「……気になりませぬ。行きませぬ。」


 ぶっきらぼうな拒絶。だが、松平蔵人佐はその瞳の奥にある揺らぎを見逃さなかった。


「命令だよ。数正についていきなさい。」


「…………、かしこまりました。この目で木下弥右衛門吉成の戦を見極め、報告いたします。」


 あくまで任務として、私情を挟まぬふりをして半蔵が席を立つ。松平蔵人佐はその肩を軽く叩き、本陣を出た。

 大きなあくびを一つ。春の陽光の下、ただ城を囲んでいるだけの動かない自軍を眺めながら、まだ見ぬ弥右衛門の「奇策」に思いを馳せていた。


 


◼︎永禄四年四月 三河国 上ノ郷城 木下軍本陣


 太陽が溶け出す夕暮れの三河湾と、赤々と燃え盛る第三の門。

 その対照的な赤を、弥右衛門は静かに眺めていた。


 城攻めを開始して六日目の夜――。

 松平蔵人佐が予言した「納期」まで、残り四日。

 そして、勘十郎たちが仕掛ける満潮の前日。


 日暮れを合図に、弥右衛門は全軍に命じて鉄砲や刀を火矢へと持ち替えさせた。目的は、門や木製の城壁を焼き尽くすことにある。夜が明ければ丸裸になった西側から大軍が雪崩れ込んでくる……そう錯覚させ、敵の意識を西へと完全に釘付けにするための「演出」であった。


 本陣には、第四曲輪に残した与四郎を除く部下達が仕事を終えて続々と集まってきていた。


 第四曲輪を落としてから本陣に下げ、新設の水兵部隊への最終調整を終えた前田又左衛門利家。

 明日のために雇い入れ、西尾城の本丸に秘匿していた甲賀三十人衆を率いる、三雲新左衛門尉(しんさえもんのじょう)賢持。

 そして、今回の作戦の責任者――服部勘十郎。


 炎を眺める弥右衛門の席を空けて、三人が席についた。


「殿、揃いました。」


 燃え盛る西門の炎を背に、弥右衛門はゆっくりと腰を下ろした。


「始めようか。……勘十郎。作戦に向けて、気になること、想定外のことは残っているか。」


 問いかけに対し、勘十郎は無言で兵を示す囲碁の玉を置いた。それは、城の東側に切り立つ絶壁を指していた。


「ございませぬ。又左衛門殿は、十名の漁師の倅たちを、我らを運ぶ屈強な水兵へと鍛え上げてくださった。新左衛門尉殿は、私の図面から崖登りの特注具を揃えてくださった。そして何より、殿が西側を火の海にし、敵の全神経をそちらへ釘付けにしてくださった。……三河湾から川を遡り、東の断崖より心臓部を突く。手立てはすべて整っております」


「応。水兵たちの手綱は託したぞ。これまで西尾の川で叩き込んできた彼らの操船を信じ、勘十郎殿の作戦を成就させてくれ。」


 又左衛門が頼もしく拳を握る。その横で、甲賀を率いる新左衛門尉が不敵に笑った。


「我らは、甲賀の刃が木下殿の役に立つと証明するためにここにいる。……礼などは不要。望み通りの成果を揃えてご覧に入れましょう。」


 二人の強い言葉を受け、勘十郎がわずかに肩を強張らせた。その背負いすぎた覚悟を見抜き、弥右衛門は柔らかく、だが力強くその肩に手を置いた。


「勘十郎。木下家の命運を預かったなどと、大仰に考える必要はない。お主に任せた仕事は一つ――混乱に乗じ、鵜殿の身内を『生け捕り』にすること。それだけだ。家の将来などは私が引き受ける。お主はただ任務のことだけを考えよ」


 弥右衛門は、かつてないほど信頼を込めた目を向けた。


「……我が右腕、服部勘十郎なら、お安い御用であろう? 頼んだぞ」


 勘十郎の瞳に、静かな覚悟の火が灯った。


 


◼︎永禄四年四月 三河国 上ノ郷 入り江

 

 第三の門から延焼し、第三曲輪全体を焼き尽くす。未だ止まらぬ炎の粉が、夜空に赤く舞い上がっている。

 その光景を背に、勘十郎は音もなく小舟へと乗り込んだ。


「火がやめば、我らも夜襲を仕掛ける。敵の目はこちらにあるはずだ、こちらは気にせず励んでまいれ。勘十郎。」


 全幅の信頼をし、出航を見届けず背を向けて陣へ戻る弥右衛門の背中に、勘十郎は言葉なき忠誠を捧げた。


 三河湾の入り江に揺れる五艘の小舟。そこには、又左衛門が三月の間、泥にまみれて鍛え上げた十名の水兵たちが、(かい)を握って待機していた。彼らは西尾の漁師の倅だ。戦の作法は知らぬが、この海域の潮の癖と風の囁きを、彼らの血は誰よりも深く理解している。

 新左衛門尉率いる三十名の甲賀衆も勘十郎に続き、音もなく乗り込んでいく。

 

「……出せ」

 

 勘十郎の低く短い命に応じ、水兵たちが一斉に櫂を動かした。波を切り裂く音すらさせぬ、驚くべき静かな漕ぎ出し。荒削りだった若者たちが、今や勘十郎の呼吸に合わせ、影となって海を滑っている。

 

 今宵は満潮。

 普段は鋭い岩礁が顔を出し、舟を寄せることすら叶わぬ東の断崖。その岩礁が今日は海の底に沈んでいる。運良く月は雲に隠れ、海と空の境界さえ定かではない濃密な暗闇が彼らを包んでいた。

 

 舟が三河湾から上ノ郷城に沿って流れる川へと滑り込む。逆流する潮の勢いを、水兵たちは力尽くで抑え込むのではなく、巧みに逃がしながら進めていく。

 やがて、眼前に巨大な黒い影が立ち塞がった。

 

 上ノ郷城、東の断崖。

 

 見上げるような高さの岩壁が、城壁として、不気味な圧を放っている。

 

「……ここだ。舟を止めろ」

 

 勘十郎の合図とともに、水兵たちは岩肌に舟を寄せた。波が岩に砕ける音に紛れ、甲賀衆たちが岩場に降り立つ。新左衛門尉が不敵に岩壁を仰ぎ見た。

 


「なるほど、見事な絶壁だ。凡百の透破なら、見上げただけで戦意を喪うだろうな。……だが、我らは甲賀」

 

 新左衛門尉は腰から鉤縄(かぎなわ)を取り出した。岩の僅かな隙間に食い込むよう研ぎ澄まされた、四爪の鋼の鉤。

 

 ヒュ、と風を裂く極めて微かな音。

 闇の中、吸い込まれるように放たれた鉤が、数丈上の岩の窪みに鈍い音を立てて噛み合った。

 新左衛門尉を先頭に、甲賀衆が次々と絶壁に取り付く。指先ひとつ、足先の僅かな引っ掛かりを頼りに、重力という理を無視するかのように高度を上げていく。

 

 勘十郎もまた、その後を追った。

 指先に触れる岩肌は、春の夜風に冷え切っている。だが、その冷たさが逆に頭を冴え渡らせた。

 

 ――お主に任せたのは人質を取ること、それだけだ。

 

 弥右衛門の言葉が、耳底に蘇る。

 重圧を削ぎ落とし、ただ一事に集中せよという主君の配慮。その信頼が、勘十郎の腕に力を、心に鋼の芯を与えていた。

 

 登るにつれ、西門の騒乱が遠くから風に乗って聞こえてくる。木下軍による夜襲が始まったのだ。城兵たちの怒号、そして時折混じる鉄砲の残響。城内の全神経が西へと向いているのが、肌で感じ取れた。

 

 突然、上空で小石が転がる音がした。

 全員が動きを止める。

 岩壁に張り付いたまま、一息の呼吸さえ殺す。

 数秒後、頭上の縁を篝火の光が掠めた。見張りの巡回だ。だが、見張りは西に目を奪われており、まさかこの断崖を敵が登ってきているなどとは夢にも思っていない。

 

 足音が遠のく。

 新左衛門尉が最後の一踏ん張りで頂へと這い上がった。勘十郎も続き、本丸裏手の薄暗い一角に降り立つ。


 眼下には、静まり返った本丸屋敷と、その向こうで騒然としている西側の戦場が見えた。

 

 城内の意識は自分たちに向いていない。

 その確信と共に、勘十郎たちは暗い口を開けた屋敷の中へと、音もなく吸い込まれていった。


ご拝読いただきありがとうございます。

次回で上ノ郷の戦いの完結です。お楽しみにお待ちください。


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