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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#22 上ノ郷城の戦い 其の一

◼︎永禄四年四月 駿河国 今川館

 

 我が主、今川五郎氏真。

 義元公を継ぎ、駿河、遠江、三河を抑える大大名である。だが、松平蔵人佐率いる服部党ら透破集団――すなわち雪斎公が遺した今川の耳目を失った今の殿は、暗闇の中を彷徨っているに等しかった。

 

「……蔵人からの返答は、まだか! 今川への逆心が真であるなど、到底信じられぬ。あ奴は、父上が我が弟のように慈しんだ男ぞ!」


 朝比奈備中守泰朝(やすとも)

 三河方面への軍事司令官であり、桶狭間で重臣が悉く討死した後に今川の軍を統括してきた男は心中で苦い唾を飲み下した。

 

(何度目の問いか。殿、松平蔵人佐はすでに敵。……とうに申し上げたはずだ。私に軍を預けてさえくだされば、即座に岡崎へ踏み込み、奴の首を挙げて参りますものを)


 三河平定の最前線で槍を振るってきた朝比奈備中守には、その勝算があった。それ故に出来うる限りで兵の軍備も進めている。

 

「殿。表立って三河を騒がせているのは、我が傘下であった吉良を滅ぼした木下と名乗る賊のみ。なれど、松平が送ってきた『三河安定のため一時的に岡崎へ入る』との釈明、あれ以来、我らが送った幾通もの書状は、すべて梨の礫にございます。それが答えにございましょう。……松平蔵人佐討伐の命さえくだされば、この泰朝、即座に元康の首を御前に持参いたします」

 

「ならん! 蔵人は我が弟も同然。確たる証拠もなく、首を刎ねることなどできぬ」


 氏真様は、優しすぎるのだ。

 かつて義元公が尾張侵攻に専念された折、駿河・遠江の内政を任された氏真様は、その慈悲深さで良き為政者として民に愛された。だが、この濁流のごとき乱世において、その徳は時に致命的な欠陥となる。


「菅沼も中条も、正月の挨拶にすら現れませぬ。彼らがすでに松平に降った疑いは濃厚。もはや猶予はございませぬ。何卒、ご決断を!」


「うるさい! 貴公は疑いを並べるばかり。元康のように、仔細な情報を掴んで報告できぬのか!」


 朝比奈備中守は膝の上で拳を握りしめた。……松平蔵人佐は諜報と調略の天才であった。今川の「耳目」であった服部党さえも、今や奴の手中にある。対する自分は、戦場で槍を振るうことしか知らぬ凡才。情報を断たれ、かつての身内の「天才」と比べられては、もはや返す言葉もなかった。


 屋敷の奥から、静寂を切り裂くような足音が近づく。


「急報にございまする!」

 

 転がり込むように現れた伝者が、書状を差し出し膝をつく。氏真様が身を乗り出した。


「如何した。蔵人からようやく返答が来たか。」


 朝比奈備中守は伝者からの書状を受け取ると、氏真様の断りを入れて書状を読み始めた。


「……殿。返答は、届きました」


「本当か!では、逆心しておらんと書いてあるか。」


「いえ。言葉ではなく、行動にて『回答』したようですな。松平勢三千が、我らの牛久保城を包囲。その陣には中条と菅沼の旗も混じっているとのこと。さらに――」


「さらに……何だ。」


 射抜くように朝比奈備中守を見つめ、喉を鳴らした。


「これに呼応し、吉良領を奪った木下なる賊も、六百の兵で上ノ郷城を囲んだ由。三河の吉田城代小原鎮実からの悲鳴にも似た急報にございまする」

 

 氏真様の目が、カッと見開かれた。その瞳から弟への情愛が消え、冷徹な殺意が宿る。

 

「……蔵人は、今川を、私を、背後から刺したのだな」

 

その言葉は、今川館の冷え切った空気に、鉛のような重さで沈んでいった。

 

「間違いございませぬ。奴は諜報と調略の天才。その毒は既に三河の隅々にまで回っております。……もはや、小細工は無用。圧倒的な大軍をもって、その毒ごと三河を焼き払う以外に道はございませぬ」


「……わかった。私も出陣しよう」


 氏真様の言葉に、周囲の空気が凍りついた。

 

「裏切られたのであれば、もはや情は仇。今川の名の下に大軍を動かし、不浄の輩を根絶やしにしてくれる。……朝比奈備中守よ。軍の差配、お主にすべて預ける。異存はないな」


「――ははっ! この備中守泰朝、命に代えても御期待に応えてご覧に入れまする!」


 朝比奈備中守は深く、畳に額を擦りつけるように平伏した。内心に沸き立つ狂おしいほどの歓喜を、鋼の意志で押し殺す。ようやく、この手に軍の指揮権が巡ってきた。今川家再興のための一歩。これこそが彼が待ち望んだ、武人としての勝機だった。

 

「して、間に合うのか。三河を救うに足る数が。」


 朝比奈備中守は脳内の地図を指でなぞるように答えた。

 

「駿府の本軍に加え、道中の掛川、曳馬の兵を呑み込み、一万八千を集めまする。これほどの兵数ならば、三河の騒乱を鎮めるなど容易きこと。

 ……牛久保への到着は、通常ならば十日。なれど、勝手をしたことは申し訳ございませぬが、松平への疑念を抱いたその日から、大井川、天竜川の渡しの準備と兵站は万全に整えさせております。八日。……八日あれば、牛久保を救い、松平を討ち取れましょう」


 氏真様は満足そうに深く頷いた。


「一万八千の兵が、八日後に牛久保か。……十分だ。任せたぞ、朝比奈備中守」


 今川という戦国の巨人が、再度その重い腰を上げた瞬間だった。






◼︎永禄四年四月 三河国 上ノ郷城 


「一万八千の兵が、八日後……であったな。」


 弥右衛門は、二つの城門の前に展開する自軍を見つめながら、傍らの服部勘十郎に呟いた。

 

「松平殿の『予言』ですな。正確には、牛久保から今川館への急報に二日、そこから朝比奈備中守がこちらへ届くまでに八日……。その刻限を超えれば、我らは一万八千の兵に粉砕される。」


 遡ること一ヶ月前。軍議のために大浜の外れに集まった折、松平蔵人佐は確信に満ちた口ぶりで断言したのだ。

『城を囲めば、朝比奈備中守が必ず来る。奴は一万八千の兵を率い、八日で現れる。……そこが、城攻めの期限だ』と。


「朝比奈備中守という将は、我らの動きを事前に読み、兵站を整え、大井川や天竜川すら淀みなく渡る策を講じてくる……。松平蔵人佐は、敵の『有能さ』までも計算に入れておられたわけだ。」


 弥右衛門は、握りしめた軍配に知らず知らずのうちに力がこもるのを感じていた。

 

 八日間。

 これは「納期」だ。遅延は許されない。

 一万八千という圧倒的な兵に押し潰される前に、この城を落として人質を取り、今川の進軍を停止させねばならない。松平の妻子の命も、我らの未来も、この八日間に懸かっている。


「又左衛門殿と与四郎殿は五日後まで保ちましょうか……。」


 勘十郎が、二つの城門を封鎖する二陣を不安げに見る。

 上ノ郷城は北・東・南を川と断崖に守られた天然の要害。西側のみが複数の曲輪で強固に守られた「攻め口」であり、その北端と南端にある二つの門に、前田又左衛門と河尻与四郎がそれぞれ二百五十の兵を配していた。

 弥右衛門は、鉄砲隊百名を直率し、その中間地点から全体を俯瞰している。


「此度の作戦は、正面に意識を向けさせ続けることが肝要。城を守る兵は五百。鉄砲隊を除いた我らと同数ゆえ落城は難いが、奴らの注意を四六時中こちらに惹きつけることはできる。」


 その時、両門付近が騒がしくなった。敵が門を開けて、包囲を突破しようと兵を繰り出していた。包囲開始以来、昼の恒例となりつつある。

 だが、勘十郎の憂いを払拭するように、又左衛門は圧倒的な「武」で敵をなぎ倒し、与四郎は静かに兵を操って、気づけば敵を死地へと追い込んでいた。


 弥右衛門は勘十郎の肩を叩いた。


「案ずるな。あの二人は大丈夫だ。

 勝負は満潮の五日後――そなたと甲賀衆の隠密工作にかかっている。仲間と、そして私を信じて、準備を進めよ」


「はっ……。必ずや、本丸に火を上げてご覧に入れます。」


 勘十郎は深く頭を下げると、獲物を狙う獣のような鋭い目で、上ノ郷城の本丸を睨み据えた。



 

ご拝読いただきありがとうございます。


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