#17 松の木
◼︎永禄三年十二月 三河 西尾城
大浜からの帰り道、勘十郎は頑ななまでに口を閉ざしていた。
半蔵との再会。
同じ血を引く兄でありながら、劣等感を感じたのだろう。勘十郎の背中をいつになく小さく見せていた。
「勘十郎、少し話せるか。」
城門を潜ってすぐ、私はあえて短く声をかけた。勘十郎は足を止め、私と視線を合わせぬまま頭を下げる。
「……かしこまりました。上ノ郷の情報を精査し、まとめてからすぐに伺います」
早口だった。仕事を盾にして、今の自分を直視されるのを避けようとする――現代の若手社員にもよく見られる、精一杯の拒絶だ。
「よい。報告など後で構わぬ。そのまますぐに着いて参れ。」
弥右衛門はあえて厳しさを混ぜて命じた。今は情報の精度よりも、彼の心の「折れ」を修復するのが先決だ。
曲輪に作った政を執るための部屋がある屋敷には行かず、本丸を目指して二人で歩き出した。
そこにはかつての主、名門・吉良氏が築いた見事な庭園がある。冬の冷気に晒された池の水面は鏡のように静まり返り、枯れた枝が寒空を刺していた。
「一族の長となった若き弟を見て、何を思った。」
私の問いに、勘十郎は足元を凝視したまま、絞り出すような声で応じた。
「……差を、思い知らされました。
今の服部党は松平の懐刀です。木下でその役目を果たすのは、この私です。
……不甲斐なさと、申し訳なさが止まりませぬ」
「何を言う。お主が半蔵に劣っているなど、私は思わぬ。」
「慰めは無用です!」
その声が静かな庭園に鋭く響き渡る。
「私は……人を殺せぬのですよ。
お頭に出会ったあの日から、何一つ変わっていない。
敵を前にすれば、今も手が、指先が、
無様に震えだすのです。」
凍りついた池の縁。
水面に映る、乱れた己の影を睨みつけるその背に、
弥右衛門は静かに声をかけた。
「勘十郎。
あそこに立つ、松の木を見よ」
庭の隅。
寒空の下でも、堂々と枝を広げる一本の松を指す。
「この庭は、吉良のご先祖が差配したという。知っておるか」
勘十郎は、戸惑いながらも声を絞り出した。
「……左様でございましょうな」
「だが、その方が自ら土を掘り、肥を撒き、
害虫を一つ一つ潰したわけではあるまい。
この庭を、どのような姿にするかを描き、
腕利きの庭師を集め、
彼らに相応しい場を与えただけだ。
……いかに木を削る技に長けておろうと、
図面なき庭師は、ただの薪割りに過ぎぬ」
弥右衛門は勘十郎へ向き直り、
その震える右手を、真っ直ぐに見据えた。
「半蔵は、研ぎ澄まされた一振りの銘刀だ。
敵を斬り、血を吸うことで、その輝きを増す。
一族を支える、強大な力であろう。
……だがな、勘十郎。
刀は、自らを振るえぬ」
一拍、置く。
「どこで、いつ、誰を斬るか。
それを決めるのは、刀の役目ではない。
お主の手が震えるのは、
命を奪う重さを、その指先が知っているからだ。
それは弱さではない。
盤上で駒を動かす者が、持つべき畏れよ。
一滴の畏れすらなければ――
組織は、必ず瓦解する」
弥右衛門は、自分の右手を勘十郎の目の前に掲げた。
「実はな、震えておるのだ。……私の手も」
勘十郎が目を見開く。
「己の手を汚さぬ代わりに、数多の配下を死地へ送り、勝利を掴み取らねばならぬ。
先の戦もそうだ。藤吉郎の部隊の同胞たちは、ほぼ全滅した。……その悔恨が、今も消えぬのだ。
信長様も松平も、おそらくは藤吉郎も、そんなことは気にせず突き進むだろう。それが『戦国大名』というばけものなのだと思う」
弥右衛門は自嘲気味に笑い、震える手で勘十郎の肩を掴んだ。
「私には、奴らのような非情さが足りぬ。
……だからこそ、そなたが必要なのだ。
一人で足りぬなら、二人で盤面を動かそう。
木下弥右衛門の影として、わしを支えてくれぬか」
弥右衛門の言葉は、焚き火のように温かく、勘十郎の胸を深く打ったようだった。
「殿……そのお役目。
生涯を賭して、お勤めいたします」
勘十郎は冷たい地面に両膝をつき、深く、深く頭を垂れた。
「わが名などは、露ほども残る必要はございませぬ。ただ、木下弥右衛門の名が、天下に響くよう。地の底より、お支えいたします」
心の「折れ」は、ひとまず繋ぎ止めた。これが太く、強固な骨となって治っていくかは、これからの勘十郎次第だ。
「勘十郎。
そなたを又左衛門・与四郎と同格の奉行に任ずる」
静かな声だったが、その一言の重みは明白だった。
「名は、目付奉行。
私の“目”となり、家中の動向、そして敵地の情勢を監視し、報告せよ。
これまでも重臣会議には列していたが、
これからは名実ともに、我が重臣として席を占めよ」
「はっ……かしこまりました」
弥右衛門は、震えの止まったその肩を力強く叩き、深く頷いた。
――木下家目付奉行。
のちに戦国全土へと張り巡らされる、木下諜報網。
その総帥が、この日、産声を上げたのであった。
◼︎永禄三年十二月 三河 西尾城
一夜明け、年内最後の重臣会議が始まった。
弥右衛門、兵奉行として軍を預かる前田又左衛門、普請奉行として守りを固める河尻与四郎、そして目付奉行となった服部勘十郎が集まっている。
議題は、松平との密約。
そして、その条件である「上ノ郷城」攻略についてだ。
口を切ったのは、与四郎であった。
「仔細は伺っております。
なれど、半年で上ノ郷を落とすとは……。
あそこは三河でも一、二を争う難攻不落の要害。
勘十郎殿はどう思う。」
視線を向けられた勘十郎は、いつもの冷静な顔に戻っていた。
彼が懐から取り出したのは、弥右衛門も初めて目にする精緻な「上ノ郷城・縄張り図」であった。
「昨夜から今朝にかけ、わが手勢の情報を集約し、図面に落とし込みました。
……ご覧の通り、西尾側にあたる正面は多重の曲輪に阻まれ、本丸は深い水堀が守っております。では背後の東側はどうかといえば、こちらは天然の川が断崖絶壁を形作っております。」
又左衛門が、太い腕を組んで唸った。
「断崖が無理なら、西の曲輪を一つずつ力攻めで剥がしていくしかない。だが、兵が足りん。俺が鍛え上げた常備の歩兵が三百、そこに領内の百姓を駆り集めても、せいぜい五百……。上ノ郷の堅陣を相手にするには、あまりに心許ないぞ」
「同感だ。しかも今回は、城主・鵜殿長照かその子息を、『生け取り』にせねばならん。それが松平殿との同盟の条件だ」
又左衛門が天を仰いだ。
「そりゃ、無茶だ。鵜殿は今川の縁者。周りを固める家臣も、骨の髄まで今川に忠節を誓う猛者ばかり。さきの合戦のような調略は通じるとは思えん。」
誰もが地図を睨み、誰もが決定打を持たない――そんな空気が、座に澱む。
その中で、弥右衛門はふと沈黙し、期待を滲ませながら、勘十郎へと視線を移した。
「殿……。一つ、提案してもよろしいでしょうか。
縄張り図だけでは、どうしても掴めぬ点がございまして、今朝、現地へ赴き、城をこの目で見てまいりました。
その折に、気になることを見つけましてございます」
「申してみよ。」
主君の影になろうと、必死に背を追い続ける勘十郎。
その歩みが、確かに前へ進み始めていることを、弥右衛門は頼もしく感じていた。
勘十郎は縄張り図の上に身を乗り出し、
断崖絶壁と記されている上ノ郷城・東側を、はっきりと指差した。
「この東側は、断崖でございます。
ゆえに、城内から見張る者とて、崖下の様子を確かめるには、身を乗り出さねばなりませぬ
――夜陰に紛れ、火も掲げずに川を遡り、
崖下まで静かに運んでいただきます。
西の正面で大きく動いていただき、
敵の目を、すべてそちらへ引き寄せていただきたい。
……その隙に、私が登ります」
皆の視線が、一斉に険しさを帯びた。
とりわけ又左衛門の眼には、露骨な疑念が宿っている。
腕を組んだまま、低く口を開いた。
「勘十郎、功を焦っておらんか。
昨日、お主と半蔵との会話を見ていたが……、
だからと言って、無謀を弥右衛門殿も喜ばんと思うぞ。」
「否――無謀ではありませぬ。
縄張り図の上ではなく、
実際に現地をこの目で見て参りました。
これは、殿の目付奉行としての進言でございます。
前田殿に、寡兵のまま正面から力攻めをさせる。
……それこそが、真に無謀と判断いたしました。」
「……それは、そうかもしれぬが……」
又左衛門は言葉を濁し、
ちらりと弥右衛門へ視線を投げた。
――本当に、任せてよいのか。
そう問う眼だった。
「……勘十郎」
弥右衛門が、静かに名を呼ぶ。
「できるのか。
私には、まだお前が必要だぞ」
一瞬の沈黙。
勘十郎は、背を正し、深く息を吸った。
「作戦の成功を、さらに高めるため、
甲賀へ赴こうと存じます
甲賀の者どもは、
伊賀者に劣らぬ諜報と調略の技を持ち、
何より――戦慣れしております
先の戦で失った遁尾衆は、
いずれも戦働きができる、腕の立つ者ばかりでした。
その穴を埋める補充として、甲賀は最適と考えまする」
それは、策の提示であり、
同時に――己が生き残るための算段でもあり、
そして、人を斬れぬ勘十郎の脇を固める人選としても、これ以上ない一手であった。
「……よく、そこまで考え抜いておるな。
わかった。その策を取ろう。
良いか、又左衛門、与四郎」
二人は顔を見合わせ、力強く頷く。
勘十郎は、畳に額が触れるほど、深々と頭を下げた。
「ありがとうございまする。
――あとは、前田殿への依頼となりますが、
お取り計らいいただくことは、叶いましょうか」
夜陰に紛れ崖下まで運ぶことと、
朝方からは正面で敵の目引き寄せること
それが兵奉行への依頼だった。
「崖下まで運ぶ件については、案がある。
常備兵の募集でな、三河湾の舟乗りどもの倅が、何人も名乗りを上げておる。
まずは十人ほど集め、海上部隊として鍛え上げよう。
半年で使える駒にする。
その者たちに、崖下までの運搬を任せる。」
「……ありがたき幸せにございます。」
与四郎は縄張り図の上に指を伸ばした。
川筋をなぞりながら、慎重に言葉を選ぶ。
「上ノ郷の川は、西尾と同様、川底が浅い可能性がございます。夜陰に紛れて進むには、水位が肝要。
ゆえに――、大潮の夜を狙うのが、最もよろしいかと存じます」
弥右衛門も、大きく頷いた。
「うむ。その方向で進めよ」
又左衛門は顔を顰める。
「問題は――正面だな。
敵の目を引き付ける、と言うは易し。
だが実際となれば……
激しく攻め立てる以外、思いつかぬ。」
それはつまり、
誰かに、確実に血を流させるということだった。
「……妙なことを言うかも知れぬが、
鉄砲というものは買い集められるものか?」
これまでは、弥右衛門の記憶に従い、突拍子もないことは口にせぬよう努めてきた。
だが今回は、血を流させぬための策だ。
多少の異端は、覚悟の上だった。
与四郎が顎に手を当て、首を傾げる。
「……種子島、でございますな。
音が大きく、矢の代わりに鉛玉を飛ばす代物。」
「音を響かせ、注目を集めるために使いたい。
百丁ほど揃えられれば、否が応でも目は集まろう」
「ひゃ、百丁……」
又左衛門が思わず声を上げる。
一方で与四郎は沈黙したまま、目を伏せている。
頭の中で算盤を弾いているのだろう。
「津島の商人であれば、硝石も鉛も、国内外から手配でき、弥右衛門殿との関係であれば引き受けはしてくださるとは思いますが……。
途方もなく銭がかかりますぞ。
百丁揃っている場など、見たこともありませぬ。」
しばし、弥右衛門は黙した。
そして――、悪知恵を思いついた童のような、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
顔を上げ、与四郎を見る。
「ならば、信長様のもとへ行ってくれぬか」
「……は?」
「木下家は、百丁の種子島を買う、と伝えるのだ。
そして、こう添えよ。
――戦の後、そのうち八十丁を、割安で織田家にお譲りしてもよい、と。
美濃攻めにも、大いに役に立ちましょうとな」
血を流させぬための策は、
同時に、信長の天下取りを後押しする一手でもあった。
一石二鳥――
織田の美濃攻めと木下の三河攻略。
双方の利を量った、一計であった。
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