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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄三年(1560)

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17/30

#16 元康という男

◼︎永禄三年十二月 三河 大浜の外れ


 弥右衛門は、前田又左衛門利家、そして服部勘十郎を伴い、馬を進めていた。背後には、西尾城から急ぎ編成した二十名の精鋭が、音を殺して控えている。


 霧の向こうから、規則正しい蹄の音が近づいてきた。

 現れたのは、わずか五騎。

 中心に座すのは、小柄ながらも岩のように揺るぎない、若き武将。


「――お待たせいたしましたな、木下殿。」

 

 松平蔵人佐元康の声は、意外なほどに穏やかで、深く響いた。

 能面のような笑顔が、顔の造作に固定されている。

 

 弥右衛門は馬を降り、又左衛門と勘十郎もそれに続く。元康もまた、淀みない動作で地を踏んだ。二人の距離が三間まで縮まった時、弥右衛門の隣で、勘十郎の身体が微かに震えた。

 

 元康の背後に立つ、黒装束の男――。

 顔の半分を覆っているが、その鋭い眼光は、勘十郎のものと酷似していた。

 


「……久しぶりだな、兄者。服部の一族から逃げ出した腑抜けの顔を、再び拝めるとは思わなかったぞ」

 

 黒装束の男が口を開く。それは、感情の起伏を一切削ぎ落とした、冬の氷雨のような声だった。勘十郎が、喉の奥を低く鳴らして答える。


「弥太郎……。やはり、松平の下におったのだな」


「服部党は、清康公の代から松平の影よ。今川に膝を屈していたのは、すべては殿がこの三河に覇を唱える日のため。……それに、今の名は弥太郎ではない。……半蔵だ」

 

 代々の頭領のみが名乗ることを許される、半蔵という名前。勘十郎の背が、ぴりりと強張るのを弥右衛門は感じた。

 

「頭領を継いだのか。……出来のいい弟だとは思っていたが、その若さで」


「兄者たちが皆、出来損ないばかりだったゆえな。……お鉢が回ってきただけのことよ」


 二人の間に、火花が散る。それは血を分けた兄弟ゆえの愛憎と、互いの主君を背負った忍びとしての殺気が混ざり合った、濃密な沈黙だった。


 その殺気の渦を、松平蔵人佐の柔和な声が、まるで水彩画を塗りつぶすように遮った。


「半蔵、そこまで。

 今日は喧嘩を売りにきた訳ではないでしょう。

 そこはまだ若さが抜けませんね。」


 松平蔵人佐自身、二十に満たぬ若者のはずだ。だが、その佇まいには年齢を感じさせぬ底知れぬ厚みがある。


「さて、木下殿。

 ()()()()()です。駿河の今川館以来ですね。」


「な、何を……」


 弥右衛門の心臓が跳ねた。

 今川の本拠――駿河で会った。

 それは、透破としての自分の過去を、この男が完全に握っていることを意味していた。


「失礼。当時は幕越しでしたから、弥右衛門殿にはわからなかったのでしょうな。

 雪斎公の死後、散り散りになっていた者たちを、少しばかり整え、指示を出していたのです。

 ……今川の耳目は、必要でしたから。

 それもこれも、すべては松平家再興のためですが」

 

「……私の上官、だったわけですね」

 

 弥右衛門の背を、冷たい汗が伝った。

 今川という巨大な組織の中で、遁尾衆は末端に過ぎない。だが、その末端から集まる断片的な情報を束ね、盤面として描いていた“誰か”が、確かに存在していた。


 雪斎公の死後、一度は乱れた指令が、ある時期を境に、嘘のように整い始めたことを思い出す。時に先を読んでいるとしか思えぬ的確さ。

 あの「声」の主が、目の前の若者だった――。


 弥右衛門は、わずかな眩暈を覚えた。


 松平蔵人佐は、春風のような笑みを浮かべたままだった。その瞳の奥だけが、感情の温度を持たない。


「はい。その通りです。

 積み上げた情報を義元公に示し、織田を追い詰めました。その功で岡崎に戻れる予定が、あと一歩、届かなかった。」


 松平蔵人佐は弥右衛門に目を向ける。

 そして、一歩、歩み寄る。

 その所作に、迷いも隙もなかった。


「木下殿を恨んではおりませんよ。


 弥右衛門殿の働きは、常に的確でした。

 織田にとっても、見事な働きをなさったのでしょう。


 だからこそ、気になった。

 そして、私は岡崎に戻り、木下殿は西尾に根を張った。

 自らの足で立とうとする者同士……いわば、同じ境遇になったわけだ。それで、一度ゆっくりお話をしたく、お呼び立てしてしまいました」


 言葉はどこまでも丁寧だった。

 それは断ることを許さぬ、絶対的な威圧を含んでいた。

 

 背後では、勘十郎と服部半蔵が互いの呼吸を読み合い、一触即発の沈黙が続いている。弥右衛門は乾いた喉を鳴らし、覚悟を決めるように元康を見据えた。


「……過分なお言葉、恐縮に存じます。して、一体どのようなご用件でしょうか。」


「分かりやすく言うと――助けてほしい。

 木下殿と我らで今川を三河から追い出しませぬか? それまではお互いに手を出さず、同盟という形にさせてもらいたい」

 

 あまりに唐突な言葉に、弥右衛門の思考が一瞬停止した。

 

「……松平殿が、私のような素性の知れぬ者を頼ると? それこそ、配下の服部党を使えば済む話ではございませんか」

 

 弥右衛門が視線で示した先には、微動だにせず勘十郎を睨みつける半蔵がいる。松平蔵人佐は困ったように笑い、首を振った。

 

「……私は、駿河に残された妻と嫡男を何としても取り戻したい。そのためには、服部党だけでは足らぬのです。そして、今川に対して、私がもはや言いなりではないことを突きつける必要がある」

 

 その瞳から、ふわりとした柔らかさが消えた。そこにあるのは、家族を想う一人の男の執念と、国を背負う当主の冷徹な計算だ。

 

「半年後、私は岡崎の先にある牛久保を、そして木下殿には東条城の先にある上ノ郷を同時に叩いていただきたい」

 

「……同時、ですか。」

 

「左様。今川への反旗をこの三河全土に、鮮明にするのです。牛久保の牧野、そして上ノ郷の鵜殿。この二つを落とし、今川に近い重要な人質を確保する。それを駿河にいる私の家族と交換する……これが私の描いた算段です」

 

 弥右衛門は、頭の中の地図を高速で展開した。

 牛久保は松平の勢力拡大に不可欠な東の要衝。そして上ノ郷城は、今川義元の妹を母に持つ鵜殿長照が守る難攻不落の要塞だ。そこを、自分に獲れと言う。

 

「牛久保は松平、上ノ郷は木下……。我らがその城を落とした暁には、どのような見返りがございますかな」

 

「同盟の期限は、今川をこの三河から完全に追い出すまで。その間、私はあなたの領地に表も()も一切干渉せず、窮地の際は兵も出しましょう。松平が敵対しない――足元を固めたいあなたに、これ以上の見返りはないと思いますが?」


 松平蔵人佐は再び、あの無邪気な笑みを浮かべた。

 弥右衛門は確信した。この男は、一色の湊で自分が何かをしていることを知っている。だが、今はあえてそこに触れず、自分を「今川を排除するための戦力」として組み込もうとしている。

 

 沈黙を破ったのは、弥右衛門の不敵な笑いだった。

 

「……承知いたしました。その賭け、乗りましょう。半年後、上ノ郷の空に、木下の旗を掲げてみせますよ」

 

 松平蔵人佐が満足げに頷くと、背後の半蔵に手を挙げた。殺気の渦が、霧が晴れるように霧散する。


「期待していますよ、弥右衛門殿。……あ、それと。三年後、どちらが信長殿に選ばれようと恨みつらみは無しにしましょう。」


 そう言い残し、軽やかな足取りで馬に飛び乗った。



 信長の背後を守るに相応しい者は誰か。

 弥右衛門は、あの若き怪物に競り勝たねばならぬ現実を、いまさらのように思い知らされていた。



ご拝読いただきありがとうございます。


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