#15 盤上の三河
◼︎永禄三年十二月 三河国 西尾城
三河湾から吹き付ける冬の風は、尾張の中村で浴びるそれよりも、どこか鋭く、塩の香りを孕んでいた。
西尾城の城門に立つ弥右衛門は、自身の肩に積もる薄雪を払いながら、遠く西の空を眺めていた。
「おっ父、見えました! 旗が見えます!」
物見櫓から駆け下りてきた小一郎が、興奮で頬を赤くして叫ぶ。
一色湊の方角から、数艘の小舟がこちらへ向かってくる。
津島の商船に護衛された、木下家の家族を乗せた船だ。
――最後に会った時、俺はまだ、ようやく武士の端くれになったばかりだった。
それが、わずか数か月で二つの城を預かる身である。
戦国大名の妻子――。
否応なく、吉良の奥方と嫡男の姿が脳裏をよぎる。
本来であれば、農村で静かに歳を重ねるはずだった人生を、刃に怯える日々へと引きずり出してしまったのだ。
胸の奥が、ひどく冷えた。
消えゆく意識の中で交わした、あの約束。
――この世で一番、幸せにしてくれないか。
この修羅の道は、
はたして、その言葉へと繋がっているのだろうか。
「あんた、何をしおった……」
城門をくぐり、輿から降りてきた妻――仲の第一声は、再会の喜びよりも、呆れと戸惑いが勝ったものだった。
その背後で、長女の智は険しい顔で城を見回し、末の旭は、これから住む屋敷を前に、口を開けたまま立ち尽くしている。
「仲、智、旭、まずは中へ。
風が冷たい」
そう言って、俺は新たに設けた屋敷へと案内した。
西尾城は、本丸とそれを囲む曲輪だけの、質実な城だ。
本丸には吉良の屋敷が残されている。
潰さなかったのは、吉良が領民に慕われていたからだ。
いつか城下へ移し、皆の憩いの場として開くつもりでいる。
家族のために設けた屋敷は、曲輪の一角に置いた。
屋敷と呼ぶには、最低限の広さしかない。
家族が暮らし、俺が政を執るための場所――それだけだ。
それでも、かつての農村の家よりは、はるかに大きい。
旭の口が、いまだ閉じないのも無理はなかった。
「死んだと思って墓参りしとった夫が、生きて帰ってきたと思ったら、今度は『城主になったで引っ越せ』だなんて。中村の衆に、何て説明したと思っとるんだわ」
仲は毒づきながらも、弥右衛門の手を取り、その掌の厚さを確かめるように強く握った。透破として、そして城主として、筆と刀を握り続けた手のひらには、中村で鍬を振るっていた頃にはなかった固いタコができていた。
「……苦労、させたねぇ」
一瞬だけ、仲の瞳に涙が潤んだ。だが、彼女はすぐにそれを隠すように鼻を鳴らし、広間へと歩き出す。
◼︎永禄三年十二月 三河国 西尾城 屋敷
温められた広間で、木下家が一つに集まった。
上座に弥右衛門。その隣には、若座主として日々苦労している小一郎。
だが、藤吉郎の席だけが、ぽっかりと空いている。
「藤吉郎は、戦か……」
智が寂しげに呟いた。
「あいつは今、信長様のすぐ近くで働いておる、大事な役目だ」
弥右衛門の言葉に、仲が鋭く食いつく。
「弥右衛門。あんた、信長様から吉成なんて名前を貰ったんだってね。成り上がったから吉成。……嫌な名前だわ。あんたを使い潰して、捨てるんじゃないかい。」
弥右衛門は苦笑した。信長が突きつけた三年の猶予。それは、この家族の幸せが、わずか三年の薄氷の上に立っていることを意味する。
この城も、一色湊の座株楽座も、すべては家族を浄土へ安らかに送るための防波堤なのだ。
「そんなことはない。
藤吉郎も私も、信長様に顔を覚えられておる。
武家にもしていただいた。木下は、織田の下で確かに認められておるよ。」
本当のことは言えない。せめて、安らかに家族に過ごしてもらうためにも……
「おっ母、あれは渡さなくていいの?」
旭が、何の含みもない声で言った。
仲が答える前に、智が静かに立ち上がり、部屋の隅に置かれていた包みを抱えてくる。そして、それを弥右衛門の前に置いた。
包みを解くと、現れたのは、
土と錆にまみれた、一本の鍬だった。
「ずっと昔に、あんたが使っとった鍬だわ。
いつかね。
もう疲れた、百姓に戻る――って言い出した時に、すぐ渡せるようにと思ってさ」
弥右衛門は、鍬を見つめたまま、低く言った。
「俺は、もうあの頃には戻れない」
「分かっとるよ。あんたの目は、もう百姓の目じゃない。
……でもね、一つだけ約束しておくれ。
私は武家である必要も、城も要らん。
藤吉郎が、小一郎が、智が、旭が、
そして――、あなたが。
笑って過ごせるなら、それでいい。」
藤吉郎と血が繋がっていることが確かに分かる、
くしゃっとした笑顔がそこにあった。
◼︎永禄三年十二月 三河国 西尾城 屋敷
冬の夜明け前、凍てつく空気が寝所にまで忍び込んでいた。
弥右衛門は、隣で穏やかな寝息を立てる仲を起こさぬよう、静かに布団を抜け出した。板張りの廊下を踏むと、骨まで凍るような冷気が足裏から突き上げてくる。
庭には一人の影が立っている。
影の正体を確かめるまでもない。
服部勘十郎だった。
「如何した……、この刻限に。」
「朝より申し訳ございませぬ。
……松平が動きました。」
その一言で、弥右衛門の脳裏から眠気が完全に消し飛んだ。
独立から数ヶ月。沈黙を守り、牙を研ぎ続けていた松平が、ついにその牙を剥いたのだ。
「信長様より松平に命があったという挙母城を落としたか……?」
そう口にしながらも、違和感があった。
兵を動かしたという報せは、まだ入っていない。
それでも――。
勘十郎が、夜明けを待たず駆け込んできた。
その事実だけで、事が軽くないことは分かる。
「攻め込み、落とした訳ではありませぬ。
今川方だった挙母城の中条氏、野田城の菅沼氏。
両家が勢力ごと松平への帰属を宣言しました。
――調略でございます。」
衝撃だった。
信長に認められた戦国の寵児、松平蔵人佐元康。
刃を振るうことなく、一夜にして三河の勢力図を塗り替えたのだ。
「……広間に、三河の地図があったな。
そこで話そう」
広間に広げられた地図の前で、弥右衛門は腕を組んだ。
状況を、一つずつ噛み砕くしかない。
三河国は、四角い胴に渥美半島がぶら下がったような形をしている。
主要な城は九つ。
四角の上段――西から挙母城、岡崎城、野田城。
下段は三分され、西に西尾城と東条城、中央に上ノ郷城、東に吉田城と牛久保城。
そして渥美半島に田原城。
つい昨日まで。
松平の手にあったのは岡崎城のみ。
木下が押さえているのが、西尾と東条。
――それ以外は、すべて今川方だった。
だが。
挙母城の中条、野田城の菅沼が松平に帰属したことで、三河の四角形、その上半分が丸ごと松平の色に塗り替えられた。
「……一日、か」
弥右衛門の喉から、乾いた声が漏れた。
戦もなく、血も流さず、
松平蔵人佐は、たった一日で三河の半分を手中に収めたのだ。
「それだけではござらん。
牛久保城では、すでに調略が進んでおります。
重臣の何名かは、松平に内通しているとのこと。」
弥右衛門は三河の胴の下段の東にある牛久保城を指さした。そして、勘十郎は西尾のすぐ西の湊を指した。
「西尾の目と鼻の先、
大浜の商人たちも松平に恭順する見込みです。」
大浜。
西尾と尾張の国境の間に位置する港町だ。
元より松平の匂いが濃い土地。驚きはない。
――問題は、牛久保だった。
そこが落ちれば、孤立した上ノ郷城は干上がる。
上ノ郷が松平に転べば、もはや逃げ場はない。
地図の上で、指が円を描く。
西に大浜。
東に上ノ郷。
北は――岡崎。
「……囲まれるな」
思わず、呟いていた。
木下家は、三河湾を背に、四方を松平に塞がれる。
「殿。これは――同業者が、松平の背後におるやもしれませぬ」
勘十郎の低い声に、弥右衛門は眉を上げた。
「ほう……。透破か」
勘十郎は、小さく頷く。
「それに、この手際の良さ。
一朝一夕で成せるものではございませぬ。
おそらくは、我らと同じ……今川の透破にございます」
弥右衛門は、静かに息を吐いた。
――すべてが、繋がった。
裏で根を張り、糸を張り巡らせ、
蓋を開けた時には、すでに勝負が終わっている。
太原雪斎が育て上げた、今川の透破たち。
彼らにとって、身内であった今川を内側から裂くことなど、造作もない。
そして――
自分もまた、その中の一人であった。
「……そうだな。それしか考えられぬ」
地図の上から、ゆっくりと指を離す。
「松平蔵人佐…
思っていた以上に、手強い相手かもしれぬな」
織田信長や豊臣秀吉といった後世に名が残る英雄ではないのだろうが、松平蔵人佐は只者ならぬことを会わずとも察していた。
屋敷の外で馬の駆け音が鳴っている。
「弥右衛門殿はおるか!
又左衛門だ。急ぎ話したいことがある。」
弥右衛門は迷わず襖を開け、呼びかけに応じた。
「如何した。ここにおるぞ。」
又左衛門は手綱を引くと、騎乗のまま弥右衛門に声をかけた。
「大浜側の国境を守らせている連中から報告があった。松平蔵人佐が――弥右衛門殿に会いたいと国境で待っているようだ。」
あまりの畳み掛けに頭が混乱する。
だが、圧倒される訳には行かない。
「分かった。すぐ行こう。
又左衛門、勘十郎、兵を率い付いて参れ。
東条の与四郎には、万が一に備えて戦の準備をするように命じよ。」
松平が作り出した三河の混沌の渦に、
弥右衛門は大きく巻き込まれていた。
主人公は松平元康=徳川家康をまだ知りません。
世界史選択なら、あり得ますよね?
ご拝読いただきありがとうございます。
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