#12 覚悟
◼︎永禄三年十月 尾張国 清洲城 城門
あの戦から半月。
正直に言えば、領内の現状を把握するだけで精一杯であった。
日々上がってくる領内状況の報告は山のようにある。
薔薇色の城主生活などないだろうとは思っていたが――やはり甘くはなかった。
領内状況を総括すれば、現状維持は可能だが、防衛も拡張も覚束ない。決定的に、領民――すなわち人の数が足りない。
経済を重んじれば、吉良のように貨幣で領外より兵を集めねばならず、忠義の低い雇われ兵が主となる。
逆に兵力を重視すれば、農と商が疲弊し、いずれ支払う扶持が立ち行かなくなる。
どちらを取っても中途半端では立ち行かない。
加えて、経済そのものにも先行きの不安があった。
西尾は海上輸送と関連産業の集積地として栄えてはいる。だが、西三河においてはいずれも覇を競いながら、一歩及ばぬ立場にある。
海上輸送では大浜に、産業の集まりでは岡崎に後塵を拝している。いずれも松平の力が強い。
経済とは――商とは、集まるものだ。
19世紀にマーシャルが理論化した“集積の経済”だ。
戦国の世も令和の世もそれは変わらない。東京一極集中が止まらぬのも、同じ理屈である。
人も物も金も、一番手の町へと雪崩れ込む。二番手は、よほどの策がなければ追いつけない。
木下家は、この構造のままでは松平に勝てぬ。
だが――今は好機でもあった。
動乱により、三河全体が不安定だ。
前世でコンサルタントとして机上で描いたなら、間違いなくこう結論づけるだろう。
――今こそ資を投じ、主導権を奪うべきだ。
今は、その最後の機会である。
打つべき手は多く、考えるべきことは尽きない。
そんな猫の手も借りたい折に、信長からの呼び出しである。
こうして弥右衛門は、清洲城へと足を運んでいた。
◼︎永禄三年十月 尾張国 清洲城 広間
広間には、弥右衛門を中心に、此度の戦で表だって功を挙げた者たちが顔を揃えていた。
西尾城を制圧した、河尻与四郎秀隆。
敵将の首を挙げた、前田又左衛門利家。
そして、その機会を作り出した、木下藤吉郎。
誰もが背を正し、声を潜めている。
やがて――
静まり返った広間に、重々しい一人分の足音と、控えめな複数の足音が近づいてきた。
来たな、と弥右衛門は悟る。
織田信長である。
一同が深く頭を垂れ、迎え入れる。
小姓の声が響き、合図とともに顔を上げた。
「此度の吉良攻め、見事であった。
西尾のみならず、吉良を丸ごと喰らうとはな。
桶狭間前に吐いた大言――
どうやら、口先だけではなかったようだ」
言葉だけを聞けば、賞賛に違いない。
だが、その口調には熱がなく、
浮かべた笑みも、どこか冷ややかであった。
織田信長という男は、常に現実のみならず、その先の未来までを見据えている。目の前の勝敗や死を、感情で測る人物ではないのだろう。
弥右衛門は、短い会話の積み重ねの中で、すでにそれを察し始めていた。
「さて、領地の話だ。
織田が西へ向いたなどという疑い――
その芽は、初めから摘んでおく。
東には武田・北条という大国がおる。
奴らに“織田が東、すなわち三河へ手を伸ばした”と思わせた時点で、面倒は倍になる。
ゆえに、織田は三河には関わらぬ。
少なくとも――関わっているようには見せぬ。
此度の戦で得た西尾、ならびに東条。
これらはすべて、木下家の名において治めよ。
盾となるのは織田ではない。
表に立つのは、そなただ。
織田は名も、旗も、決して出さぬ。」
――つまりは、
独立した戦国大名として旗を挙げ、その身をもって東からの敵を受け止めよ、ということだ。
予想の範囲ではあった。
それに備え、準備もすでに進めている。
「かしこまりました。
木下家として独立いたしまする。」
ここで信長の目が一層冷たく、厳しくなる。
背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「して、弥右衛門よ。
そなたほどの男であれば――
三河が“織田の盾”であること、理解しておろうな」
「……はっ。無論にございます」
「盾に、ひびが入ってはならぬ。
それは分かっておるはずだ」
一拍、間が落とされた。
「――なぜ、吉良の妻子を斬らなかった」
問いであった。
将来、火種となり得る――吉良の血を、なぜ残したのか。
だが、理屈などない。
斬れなかった。それだけだ。
此度の城攻めにおいても、弥右衛門は可能な限り流血を避けた。それが戦として正しかったのかは、分からぬ。
令和の世に生きた身として、
戦国大名としての覚悟が、決定的に欠けていたのだろう。
――そう思えば、胸の奥がひりついた。
冷たい空気が場を支配する。
背後から、誰かの息が詰まる気配が伝わってきた。
「今後の支配を円滑におこ……」
必死に絞り出した言葉は、信長に遮られた。
「甘いな。そなたは甘い。
勝報を聞いた時、三河を任せられると思ったのだがな」
信長は、顎で示した。
「――おい、持ってこい」
言葉とともに二人の小姓が下がり、ほどなくして戻ってきた。
それぞれの手に抱えられていたのは、大きめの木樽。
「――見てみよ」
弥右衛門はにじり寄り、二つの樽を開けた。
蓋を開けた瞬間、鼻を突く匂いがあった。
白く、乾いた粉。
塩だった。
「その中にあるのは、首よ。
吉良の妻と、嫡男のな」
目が、勝手に見開かれた。
何も――言葉が、出なかった。
弥右衛門だけでなく、広間の空気が音を失った。
「これはな、命じたわけではない。
竹千代――松平元康が送ってきたのよ」
声には、感情がなかった。
「やつは、戦国が何かを分かっておる。
三河に覇を唱えた家に生まれ、没落し、人質として育ち、そして此度、独り立ちを果たした
松平は甘くない。
自分こそが三河を治めるのだと、覚悟がある」
視線が、弥右衛門を射抜く。
「――そなたは、どうだ」
何も言い返せなかった。
それが――答えになった。
沈黙に、信長は小さく息を吐き、席を立った。
刀を手に取り、そのまま弥右衛門の前へと歩を進める。
その間に、誰かが飛び込んできた。
「信長さま!」
弥右衛門と信長の間に立ったのは、藤吉郎だった。
「おっ父は、これからの織田に必要だと思います。
此度のおいらの恩賞と命に免じ、
どうか、お許しくだされ。」
足が、がくがくと震えている。
「俺の、吉良の首一つ分の働きも、
弥右衛門殿の命に使ってくれ」
「では、私の恩賞も」
又左衛門と与四郎が、続いた。
信長は三人を見渡し、低く言った。
「……お主たち、それで良いのだな」
藤吉郎は迷いなく大きく頷いた。
その背後でも、二人が同じように首肯したのだろう。
信長は一度だけ鼻を鳴らすと、刀を小姓へ渡した。
「猿。
そなた、命を賭けたな。
明日より前線だ。美濃の国境へ出よ。
手柄を立てて戻ってこい。」
「はっ……承知いたしました。」
次いで、信長の視線が又左衛門へと向く。
「犬。
此度、恩賞を与えるには至らぬ。
ゆえに、そなたを織田の家臣としては戻さぬ。
木下家にでも身を寄せ、励め。」
ガタッと音がした。
振り向けば、又左衛門が今さら思い出したかのような顔をして立ち上がっている。
「……ご再考を。どうか、ご再考を」
信長は一顧だにせず、与四郎へと顔を向けた。
「与四郎よ。
引き続き、弥右衛門の下で役目を果たせ。」
「はっ、かしこまりました。
引き続き、定期の報せも怠りませぬ。」
立場も性格も異なるが、頼もしい二人が残った――そう思えた。
そして、信長の視線が再びこちらへ向く。
「――弥右衛門よ。
首と引き換えに、松平にも機会を与えた。
本来、織田が攻め取るはずであった挙母城。
その攻めを、あやつに任せた。
三年だ。
三年後、再びそなたに同じ問いを投げかける。
その答え次第で――
松平か、木下か。
どちらを取るか、決めさせてもらおう。」
それだけを告げると、信長は踵を返した。
重々しい足音が遠ざかり、やがて消える。
部屋に残ったのは、張りつめた空気だけだった。
弥右衛門は、ゆっくりと身を翻し、三人に向かって頭を下げた。
「……恩に着る」
又左衛門と与四郎が、慌てて近寄り、その頭を上げさせた。
「問題ありません。
私は引き続き、弥右衛門殿をお支えするのが役目です。どうか、お任せください」
「俺の殿様が、そう簡単に頭を下げるんじゃねぇ。
信長様に許されるまで、世話になる」
少し後ろで、藤吉郎が満足そうに笑っていた。
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