風景としての抽象画
多摩美術大学の学祭に行き、ひとつの抽象画を見た。
大学院生の展示であり、油絵科の学部生のそれとは違う大きな二枚のキャンバスにそれは描かれていた。黄色の渦巻きのようなもの。秋の森を思わせるがそうというわけじゃない。タイトルは忘れてしまったが、街中の風景、あるいは銀杏並木の真ん中を歩いているようであった。しかし、銀杏の葉が散っているわけでもない。木が描いてあるわけでも、歩いている人がいるわけでもない。ただ、渦巻き状にある黄色い色彩が 2 メートルを超える大きなキャンバス 2 枚に描かれているのである。
特に抽象画が好きなわけではない。むしろ、苦手ではある。リズムを持ったテキスタイルや幾何学模様ならばいざ知らず、典型的な抽象画のような黄色の渦は、どうも苦手である。解釈がきかない。
宗教画のようにリアルな絵や、アニメーションのように漫画チックな絵も学祭には飾ってある。それぞれの絵の技を叩き込んだり、あるいは叩き込まなかったりする学生たちだが、将来的に何を目指すのか分かりやすいとも言える。しかしだ、目の前の抽象画は何を目指しているのかよくわからなかった。
時に、公共物の壁画が飾られることがある。土地に根差した画家が土地に根差したものを描くことがある。それは祭りの絵だったり歴史の絵だったりする。人物画もあれば風景画もある。NHK の日曜美術館を見れば、いかにたくさんの画家が溢れているかがわかる。私の見知らぬ作家が、私の見知らぬままにその土地に住み、なにかの絵画を描く。ときに、絵を描くだけでは難しいので、別の仕事をしながら絵画を描くこともある。あるいは彫刻や陶芸をも同じだ。
いまの現代、絵だけでは生活してはいけない。何かと税金やら食費やらが掛かってくる。それこそ、親の資産を喰いつぶしながら絵を描く人もいるかもしれない。実際、人生のはじめにおいて不均衡に渡された資金は、潤沢なものもあれば乏しいものもある。それが、才能の価値を左右するわけではないけれど、開花するか否かを左右することは多い。つまりは、生活が貧困になって筆を折ることになるのだ。
それらの分岐点はどこにあるのだろうか。美術大学に通えるだけの資金を得られているから、ここにあるかもしれない抽象画(実は、それは奨学金によって賄われたものかもしれないが)を目の前にすると、絵そのものよりも、その労力に想いを馳せてしまう。日常的である。
しかし、目の前の抽象画を眺めると、それは室内にいるにも関わらず屋外にいるような感じがする。よく見れば廻りは油絵具が散る美大のそれなのだけど、ひとたび目の前を覆い尽くすような黄色味を帯びたキャンバスの前に立つと、つまりは視界を覆う位まで近づいてみると、それは一瞬にして風景となる。おそらく、大きさではないのかもしれない。しかし、実際に目の前にある抽象画そのものが私の目の前にある現実であり、同時にどこにもない風景が目の前にあり、そっから思い浮かべるのはどこかの風景であると私は感じるのである。
【了】
紀行文っぽいもの




