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異類婚姻譚 青蛙神

作者: ふみよ

 昔むかし──今よりずっと昔の話。

 山奥の村に、ひとりの男が住んでいました。年は四十をこえていましたが、たったひとりで畑を耕して暮らしていたといいます。がっしりとした体躯に、立派な顎髭を蓄えた熊のような外見の大男。

 だけど、全然怖くありません。優しくて、正直な性格の大五郎(だいごろう)。それが男の名前でした。


 ある昼の日、大五郎がいつものように池で水浴びをしようとすると、一匹のカエルが干からびて死んでいるのに気が付きました。そのカエルは、両手両足合わせて三本しかありません。


「可哀想に。水に入れず力尽きたか」


 大五郎は、せめて何かしてやろうとカエルの死骸に水をかけてやったのです。

 すると、奇妙なことに──カエルの肌はみるみるうちに水分を含んで艶めき始め、生気を取り戻したではありませんか。死んだと思っていたカエルは、元気よくケロケロと鳴き始めたのです。


「ケロ!」


 カエルは、まるで大五郎に感謝をするようにひと鳴きして池に飛び込みます。

 すいすいと気持ちよさそうに泳ぐその体が見えなくなるまで、大五郎はぼんやりとカエルの飛び込んだ水面を見つめておりました。


 季節は春の終わり。ちょうど、梅雨の近づく季節でした。


「それって青蛙神(せいあじん)じゃないですか?」


 ある日、いつものように畑仕事を終わらせて、お気に入りの茶屋で一息ついていた大五郎に声をかけたのは、看板娘の女の子。長い黒髪をひとつに結い上げ、馬のしっぽのように揺らしているかわいらしいお嬢さんでした。


青蛙神(せいあじん)っていうのは、東の海の彼方に住む神様の名前なんですよ」


 彼女曰く──青蛙神(せいあじん)と出会った人間は、莫大な富を得ると言われています。


 もし、あの時助けたカエルが青蛙神だったら……?

 いやいや、そんなことあるはずがない。

 だって大五郎は、信心深くもなければ、神様だって信じてはいないのですから……。


 その晩は、激しい春の嵐でした。びゅうびゅう、ごうごうと風の吹き荒れる夜、大五郎の家を誰かが尋ねてきたのです。

 近所の悪餓鬼だろうか? それとも、裏の家に住む気の強い娘さんだろうか?


「どなたかね」

「……」


 返事はありませんでした。けれど、人影はいつまで経ってもそこにあるのです。

 何だか不気味に思った大五郎は、焦れったくなって戸を開けました。

 するとそこには、大きな酒壺を抱えた女の子がひとり。白く細い足をかたかたと震わせて立っているではありませんか。


 激しい嵐で長い髪は乱れていましたが、何ともかわいらしい顔立ちをしている女の子。

 そのみすぼらしい身なりからして、宿を探しているのかもしれません。


「俺の家は雨風くらい凌げるが、裏の家なら女が住んでいる。そっちのほうが安全──」


 女の子を気遣って別の家を案内しようとした大五郎の袖を、白い手がそっと掴みました。女の子は足元に水たまりを作りながら、寒そうに震えています。


不行吗(だめですか)……?」


 それは日本語とは違う、大五郎の知らない言葉でした。言葉が分からなければ、女の子の言いたいこともわかりません。

 だけど、ここで突き放してしまっては、あまりにも不憫でしょう。彼女が何者なのか、問いただすのは止めようと大五郎は思いました。

 ただ哀れに思って、女の子を家に招くことにしたのです。


 嵐は次の日も、その次の日も続き……長い長い雨季に入りました。

 やがて空に晴れ間が見えた頃、彼らは誰もが羨むおしどり夫婦になったのです。


 女の子の名前は、ハルといいました。それ以外のことはわかりません。

 けれど、大五郎(だいごろう)にはどうでもよかったのです。彼女が異国の人間でも、言葉が通じなくても、こんな醜い自分と夫婦になってくれたのだ。まさに、青蛙神(せいあじん)が授けてくれた福に違いないと思いました。

 お世辞にも色男とは言えない大五郎に奥さんが見つかったのですから、近所の人たちは大喜び。村中で大五郎を冷やかしたといいます。


 そんなこんなで、ハルと夫婦になった日を境に、大五郎の仕事は驚くほど好調になりました。


 面白いくらいに金持ちになっていく自分に、大五郎は恐怖を感じ始めます。まさかまさか、本当にハルは青蛙神(せいあじん)なのだろうか? 自分を幸せにするために妻になったのだろうか?

 怖くなってハルに聞いてみようと思いましたが、すぐにそんなことはどうでも良くなってしまいました。今よりもっとお金が欲しくなったのです。


 金遣いの荒くなる大五郎の傍には、やがて悪い友人がたくさん集まるようになり、大五郎は毎日のように賭け事を楽しむようになるのでした。

 だけど、そんな生活も長くは続きません。大五郎は友人に騙されて、多額の借金を背負うことになってしまったのです。

 金が欲しい……金さえあれば、また以前の生活に戻れるのに。


 少しでも金になりそうな家財は全部売ってしまい、いよいよ売る物がなくなった頃、いつしか季節は春になっていました。

 外は激しい風雨が屋根を激しく叩きつけ、みしみしと家を揺らします。何だか寝付けなかった大五郎は、ふと、部屋の隅に置かれていた壺に気づきました。


「あの酒壺は……」


 それは、ハルが大五郎の家に来た時に抱いていた物。中身は空でしたが、よっぽど大切な物らしく、ハルは片時も壺を離そうとしないのです。

 よくよく見ると、壺には綺麗な装飾が施されていました。


「金になる」


 大五郎の中に、ふと悪い感情が浮かびます。酒壺を抱えてこっそり家を出ようとする大五郎の足に、ハルがしがみつきました。


「は、離せ!」

「それ、大事。壺は……だめ、だめ!」


 ハルは、たどたどしい日本語で訴えながらすがりつきます。

 それを見て、大五郎の決意はますます固くなりました。高価な酒壺だって、金に換えてもらったほうが喜ぶはずです。

 そもそも夫婦になった以上、妻の物は自分の物。自分の物を金にして何が悪いのでしょう?


 壺は絶対に売ると、頑として譲らない大五郎に、ハルは諦めたように項垂れました。


「……嵐、止まない。ここに、いて」


 外は激しい嵐。ハルは大五郎の身を案じて、家の中に留まらせようとします。


「そうやって足止めさせて、壺を売らせない気か!」


 大五郎は思わずカッとなって、酒壺の中に入った水をハルの頭から掛けてしまいました。

 すると、みるみるうちにハルの体が変色し始めました。皮膚は醜く膨らみ、てらてらと濡れ光っているではありませんか。


「ば、化け物!」


 大五郎は酒壺を抱えて家を飛び出しました。嵐の中で、大五郎を呼ぶハルの声が聞こえます。


「大五郎さま──まって──」


 それは耳元から聞こえてくるようでもあり、大五郎のすぐ後ろから聞こえてくるようでもありました。


「ぐおッ!」


 強い風で足がふらつきます。これほどの嵐は、まるでハルと初めて出会った時のようでした。

 いつも見慣れた道は雨のせいで川のように変貌し、大五郎の行く手を阻んでいます。

 その時、ずるりと手から酒壺が滑り落ちました。酒壺はコロコロと道をころがって、近くの池にドボン、と沈んだのです。


「俺の壺がッ!」


 慌てて酒壺を取ろうとした大五郎は、勢いよく水の中に落ちてしまいました。

 この池は、こんなに深かったろうか?

 沈んでいく足元を絡め取るように、泥は大五郎の体にへばりつき、冷たい水が自由を奪います。

 もがきながら目を開けると、闇の中でふたつの赤い目玉が大五郎を見つめていました。それはゆっくりと口を開けて、大五郎を深い闇の中へと引きずり込んでいきます。


 水面が、遠ざかっていく──。


 けれど、大五郎にはもう考えることはできません。闇に沈む大五郎が最後に見たのは、池のふちで彼を悲しげに見つめる蛙の姿。


 やがて雨が上がり、季節が巡りました。

 彼が沈んだその池からは、足の三本生えた蛙が住み着くようになったといいます。


「……どうでした?」

「よくある御伽噺(おとぎばなし)じゃん」


 パンクロックな出で立ちの少女は、そう言って公園のベンチに深く腰掛けた。強い日差しを遮りながら、眩しげに目を細める少女の隣で、書生風の服を着た時代錯誤な優男が少し不服そうに唇を尖らせる。


「だけど──」


 少女はそう言って体を起こした。

 公園の片隅にある小さな池に目が留まる。昔話の逸話がそのまま池の名前になったと伝えられている場所だが、今では静かに水生生物を育てているという。

 池の文字すら古ぼけてよく読めないその看板を通り越して池に近づいた少女は、ぷかぷかと浮かんでいるペットボトルを拾い上げた。


「自然は大切にしないとね」


 汚れたペットボトルを傾けながら少女が言うと、中に入っていた水と共に、一匹の小さな蛙が落ちてくる。


「あっ」


 まるでオタマジャクシのように尾の長い足を見た瞬間、思わず声が出た。

 水面に落ちた蛙は、ぴょこっと頭を水面から出して少女を見ると『ケロ』とお礼のようにひと鳴きして、すぐに見えなくなってしまう。


「ちょ──今の見た!?」

「はい?」


 ペットボトルを持ったまま少女が声を上げるが、男は不思議そうに首を傾げている。どうやら、蛙を見たのは少女だけらしい。


「今さ、そこに……」


 少女は、おずおずと池を覗き込んだ。

 水面に自分の顔が映る──その奥で、赤いものが揺れたような気がした。


 気のせいだったのだろうか。


 そう思った矢先、池の奥底で無数の赤い目が一斉に少女を捉える。数十とも数百ともいえない、おびただしい数の赤い目が。

 その赤い目をした何かの背後に、暗く大きな影が見えた時──少女は弾かれたように顔を逸らした。


「どうかしました?」


 池から逃れるように身を翻す少女の後ろから、男がのんきに声をかけてくる。

 少女は汚れたペットボトルをゴミ箱に放り投げると、すぐに手洗い場で念入りに手を洗った。


「なんでもない。たぶん、気のせい」


 自分自身に言い聞かせるように答えて、ハンカチで手を拭う。そんな少女を見て首を傾げていた男は、ふと空を見上げた。

 すん、と男の鼻が鳴る。


「雨の匂い」


 ぽつりと独り言のように呟く男の声とほぼ同時に、遠くで雷の音が聞こえた。

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