渋丹村
よろしくお願いします。
終章
https://ncode.syosetu.com/n2407kq/
薄暗い部屋に、キーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが響いている。
「レポートの題材が見つからないなあ……自由って言われても、範囲が広すぎて困るよ」
そうつぶやきながら、青年はパソコンのモニターをじっと見つめた。
M大学人文学部民族学科に通う彼は、幼い頃から歴史とオカルトに強い関心を抱いていた。
田舎の村々でひっそりと続く奇祭や風習、そして言い伝え――そうしたものをオカルトと結びつけて考えるのが、子どもの頃からの趣味だった。
だから大学進学も迷わず、民俗学科があるM大学を選んだのだ。
一年次に面倒な選択必修単位を済ませた彼は、本格的に民俗学を学ぶべく村田教授のゼミに参加した。
村田教授は大学内で「変人」として知られている。優秀な民俗学者でありながら、熱烈なオカルト好きでもあった。
自身のゼミでは、通常の民俗学研究に加え、超自然現象の研究にも取り組んでいる。
かつて村田教授は超自然的な事件に巻き込まれた経験がある。その出来事をきっかけにオカルトに魅せられ、日本各地の超自然現象を研究し続けてきた。
気づけば民俗学の教授となり、学問的な実力も確かなものとなっていた。だから大学では、彼のオカルト研究は黙認されているのだ。
新ゼミ生として村田教授のもとに入った彼は、長期休暇中のレポート課題に頭を抱えていた。
「何でもいいから、実際にあった風習のようなものをレポートにまとめて提出しろ」という、ざっくりとした課題だったのだ。
「はあ、雑すぎるよな……とりあえずネットで何か適当なネタを探すか」
そうつぶやいてブラウザを開いた彼は、そのまま徹夜をしてしまった。
「おはようございます」
翌日、ゼミに顔を出した青年は、研究室にいる女性に声をかけた。彼女は先輩で、村田教授の姪であり、自分の一つ上の学年だった。
大学が休みの日でも、彼女はほぼ毎日この研究室にいる。本人いわく、「こっちにいるほうが楽しい」かららしい。そう答える姿は飄々としていて、どこか掴みどころがなかった。
友達がいないのだろうか――結構美人なのに。そんなことを思いながら、青年は机に荷物を置いた。
「おはよう。なんか眠そうだね。夜更かしでもした?」
「いやぁ、レポート課題の題材を探してて、つい朝まで調べちゃって……」
「ああ、毎年新入生に出されるやつね。どう、見つかった?」
「それが全然で。なんか全部創作っぽくて。『実際にありそうな話』って条件、案外ハードル高いですね」
「その中から“本物”を探すのも課題のうちさ。頑張りたまえよ、後輩くん」
ニヤニヤしながらそう言うと、先輩は「ちょっと出てくる」と言って研究室を後にした。
村田ゼミは教授を含めて5人だけの小さなゼミだった。うち二人は就職活動中で、めったに顔を出さない。村田教授は長期休暇になると「フィールドワークに行ってくる」と言って日本中を回っているらしい。今回は九州に出かけているようで、昨日「お土産何がいいか」と連絡があった。
青年は先輩に助言をもらおうと研究室に来たが、さっきの様子ではあまり期待できそうにない。教授がいない間、研究室の鍵は先輩が管理しているため、すぐに帰ることもできない。先輩はしばらくすれば戻ってくるだろう。
青年は暇を持て余し、資料棚を何気なく眺めていた。上の段に、埃をかぶった本の背表紙が目に留まる。
踏み台を借りて引っ張り出したその一冊には、『渋丹村風俗記』と表紙に書かれていた。
そこには、渋丹村と呼ばれる村の特異な風習について記されている。
その村では年に一度、御神木に生贄を捧げることで、神の荒ぶりを鎮め、豊作を祈願すると言われていた。
そこまではよくある昔話だが、この話には続きがあった。
渋丹村では、生贄を捧げたあと、村人は生贄をむさぼる御神木とともに踊ったという。
読み間違いでもなく、『村人が御神木の前で踊った』のではなく、『村人が御神木とともに踊った』のだという。
木が踊るのか――疑問符を頭に浮かべながら、青年は続きを読み進めた。
事の始まりは、渋丹村ができてしばらく経った頃だった。
何もなかったはずの村のはずれに、一晩のうちに大きな木が生えていた。
その木は村人にこう告げた。
『生贄を捧げよ。さもなくば村は滅ぶ。
生贄を捧げよ。さもなくば作物は育たぬ。
生贄を捧げよ。そして祝うのだ。我が身とともに。』
村人はその木を御神木と恐れ崇め、その周りを神域と定め、年に一度、生贄を捧げた。
生贄は一晩、大木のそばにある池で身を清め、翌朝、御神木にその身を吊るされる。
御神木はその身をむさぼりながら踊るのだ。村人とともに。
御神木が現れてから、渋丹村では豊作が続いた。
近隣の村が飢饉に襲われても、渋丹村だけは豊作であった。
やがて噂が広まり、神隠しが相次ぎ、村の存在は忘れられ、御神木の噂だけが残った。
「何を読んでいるんだい?」
背後から先輩の声が聞こえ、青年は驚いて本を落としてしまった。
先輩はそれをさっと拾い上げ、
「見たことのない本だね。どこにあったんだい?」と尋ねた。
「書棚の上に置いてありましたよ。埃をかぶっていて、ずっとここにあったんじゃないですか?」と青年は答えた。
先輩はふぅん、と言いながらパラパラとページをめくり、
「これはレポートの題材にちょうどいいんじゃないかい?」とつぶやいた。
「ここの本は全部読んだと思ってたけど、こんなのあったんだねぇ。なかなか面白そうじゃないか。調べに行くなら、私も付き合おうじゃないか」
さっきまでは手伝う気もなさそうだった先輩が、そう言った。
先輩がそう言うときは、もう行くことが彼女の中で決まっている。出会って数か月の仲ではあるが、彼女がそういう人間であることは、私は十分に理解していた。
ほうっておけば先輩は一人でも行ってしまう。私は、「行きます」と言うしかなかった。
先輩とともに渋丹村の場所を調べ始めて数日。なかなか村は見つからない。あの本には渋丹村、としか書かれておらず、何県なのかも不明だった。
手がかりといえば、「大きな木があり、そのそばに池がある」ということだけ。
本当に実在した村なのか、怪しく感じてきた。
初っ端から行き詰まり、どうしたものかと考えていると、先輩から連絡があった。
「見つけた」と。
先輩に呼び出され、訪れたのは古い平屋。離れに蔵まである大きな家だった。
「遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
そう言って現れたのは、全身埃だらけの先輩だった。
この家は村田教授の実家で、珍しい品がたまに出てくるため、先輩は定期的に蔵をあさりに来ているという。
「偶然ってのはあるもんだねぇ」
そう言って差し出されたのは、古い本だった。紐で綴じられており、先輩によれば村田教授の先祖の日記帳らしい。
そこには、日記の持ち主が渋丹村を訪れた際に遭遇した出来事が記されていた――
――――――――――――――――――――――――――――――――――
『渋丹村には近づくな。
そこでは大木が人を喰い、その血を村人が浴びながら踊っている。
私の目がおかしくなったのか。
大木までもが一緒に踊っているように見える。
様子を見ていると村人に見つかり、襲われた。
なんとか逃げ切った。
あの光景が頭から離れない。忘れられない。
木が迫ってくる。恐ろしい。渋丹村に近づくな。
どれほど歩いただろうか。地蔵様の横。獣道、森を抜けた先。
そこには地獄があった。
地獄の鬼が住んでいるのか、村人が鬼になったのか。どちらでもいい。
渋丹村には近づくな。あの光景が忘れられない。
大木が踊っている。月明かりの下、踊っている。
血にまみれた鬼が踊っている。
渋丹村に近づくな。忘れられない。
瞼を閉じるたびあの大木が見える。近づいてくる。
私が大木に近づいているのか、大木が私に近づいているのか。
どっちかもうわからない。
人を喰いながら踊るあの大木がそばにいる。
渋丹村に近づくな。ああ、私はそこにいる。』
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「こっわ。何これ、ホンモノですか?」
「もちろんだよ。家系図にも名前がちゃんと残っている。実在した人物が書いた日記さ。」
「で、この人、どうなったんです?」
「さすがにそこまでは分からない。日記はここで途切れているからね。だからこそ、調べに行こうってわけだ。このご先祖様は○○県○○町に住んでいたらしいよ。」
「結構遠いですね……」
「せっかくだし、叔父さんも連れて行こう。ああいうの大好きだからね。置いていったら絶対拗ねるよ。」
「戻ってくるんですか?今、九州でしょ?」
「なに言ってるの。今行ってる場所より、こっちのほうが絶対面白い。すぐ戻るってさ。」
そう言って、先輩は研究室にあった本と日記帳の写真を教授にメールで送った。
「ほら、来たよ。すぐ戻るって。」
もう返信が届いたらしい。
翌日、教授が戻ってきた。思ったよりもずいぶん早い。
「ずいぶん面白そうなものを見つけたじゃないか。よくやったな」
教授は楽しそうに笑った。
「これ、研究室にあった本なんですけど、教授は知らなかったんですか?」
「研究室に?いや、知らなかったよ。知っていたら、とっくに調べに行ってるさ」
「ほらね」と先輩がにやりと笑う。
「僕もこれ、読んでみたいな。明後日に研究室で待ち合わせしよう。泊まりがけになるだろうから、しっかり準備しておいてくれよ」
そう言うと、教授はさっさと研究室を後にした。そのマイペースな様子には、先輩との血のつながりを感じさせた。
そして、待ち合わせ当日の朝。早い時間にも関わらず、研究室には教授と先輩がすでに揃っていた。
「遅いじゃないか」と先輩が言う。
「いや、先輩と教授が早すぎるんですよ」と僕は苦笑いしながら返す。遠足前の子供じゃないんだから。
「ああ、楽しみでなかなか寝付けなかったよ。さあ、早く行こう」と教授はテンション高く、目がバチバチに冴えている。
日記を書いた教授のご先祖が住んでいたという○○県○○町。教授の運転する車で到着したその場所は、かつて養蚕業が盛んで、上質な絹の産地として栄えたらしい。しかし今はすっかり衰退し、見る影もない。
時代に取り残されたようなその町は、もはや村に近い。若者はさっさと都会へ出て行き、年寄りばかりが残っている。人口的には村なのだが、かつて「村」から「町」に昇格して以来、人口が減っても「村」には戻らないらしい。仕組みはよくわからないが、そんな話を聞いた。
「なんだか懐かしい感じがする」
「そうっすね。じいちゃんのところに遊びに来たみたいな、そんな雰囲気がありますよね、ここ」
「そうじゃないんだ。何かこう、帰ってきたって感じがするんだよね」
来たことなんてないはずなのにね、と先輩は続ける。
「僕もだよ。既視感があるというか、ここにいるのが当然のような気がする」
僕も来たことはないはずなんだけどなぁ、と教授もつぶやいた。
先輩だけじゃなく教授も同じらしい。確かに懐かしさはあるが、それはよくある田舎町のノスタルジーを思い起こさせるだけで、僕はそこまで強くは感じなかった。
今どき珍しい、24時間営業ではないコンビニで休憩を取った。ほっと一息ついたところで、教授が口を開いた。
「さて、せっかくだ。君のレポート課題でもあるし、これからどう進めるか、君に考えてもらおうか。さあ、何から始める?」
「そうですね……役場や図書館あたりが無難でしょうか」
「うん、そうだね。役場なら村の統廃合の記録が残っているかもしれないし、図書館には地元の郷土史なんかもあるだろう。人づてに一軒一軒回るのは、最後の手段だ」
教授は遠い目をしていた。何か過去に辛い経験でもあったのだろうか。
それを見て先輩はくすくすと笑い、何かあったのは間違いなさそうだと察した。
信号が青に変わり、車はゆっくりと動き出したが、視線の違和感は消えなかった。
「なんだろう、さっきからずっと見られている気がするんだ」
そう呟くと、先輩がちらりと窓の外を見て、薄く笑った。
「こういう場所には、何かがいることが多いからね。気をつけなよ」
教授も顔をしかめ、ハンドルを握る手に力が入った。
「昔、ここで……なにか、あったんだ」
車内の空気が急に重くなった。
「大丈夫かい?すごい顔をしているよ。」
先輩が私の顔を覗き込むと、あの視線の感覚はふっと消えた。声をかけられると安心するのか、気のせいだったのかもしれないと思い始め、役場に着く頃にはすっかり忘れてしまっていた。
ところどころ年季の入った役場に到着し、担当の職員に渋丹村について尋ねるも、「聞いたことがない」とのことだった。どうやら相当暇だったらしく、古い台帳を出してきて「じっくり調べてみますわ。明日また来てください」と言われた。
少し早いが、我々は宿へ向かうことにした。宿は旅館ではなく、穏やかな老夫婦が営む民宿で、空き部屋を貸してもらった。
教授曰く、「ここのおじいさんの家系は昔からこの土地に住んでいるらしい。渋丹村の情報も得られるかもしれない。それに料金も安いしね」と。
部屋は二部屋借りており、教授と私は一室、先輩は一人で一室だった。まあ当然だろう。
荷物を置いて先輩と合流し、早速おばあさんに尋ねてみた。
「渋丹村という村をご存知ですか?」
おばあさんは穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「私は知らんですねぇ。昔の話なら、うちのじいさんなら何か知っているかもしれませんよ。先祖代々筆まめで、今でも時々日記を書いておりますから。」
そう言っておばあさんは、少し誇らしげに話した。
おじいさんは書斎にいるということで、私たちは書斎のドアをノックして中に入った。
「ようこそお客さん。何か御用ですかな?」
そう言って、おじいさんが迎えてくれた。
私が渋丹村という村を探していることと、おばあさんから「おじいさんなら知っているかもしれない」と聞いたことを伝えると、おじいさんは少し考え込むように目を細めた。
「渋丹村……渋丹村……どこかで見た記憶がありますな。どこだったか……ちょっと待ってくださいな。」
そう言うと、書斎の本棚に向かい、ぎっしり詰まった本の中から一冊を取り出してめくり始めた。
「ああ、あった。これですよ、これ。」
おじいさんは机の上にその本を開き、私たちに見せてくれた。
それはかなり昔の記録で、人の足以外に移動手段がなかった時代のものだった。おじいさんの先祖や渋丹村の住民たちが行っていた取引の記録で、農具や衣服を持ち寄り、作物と交換していたという内容だ。定期的に行われていたその取引は、ある日を境に突然途絶えてしまったらしい。
「村があったのは間違いなさそうだね。やったじゃないか、一歩前進だ、後輩君。」
「場所はわかりませんか?」と私が尋ねると、
「いやぁ、そこまでは書かれていないんですな。探せばどこかにあるかもしれませんが、なにぶんこの量ですからね。これも先日見つけたばかりで、場所がわかったのは偶然ですよ。」
そう言いながらおじいさんは、再び書棚を見上げた。
書斎の両側には天井まで届く大きな書棚があり、隙間なく古いものから新しいものまで様々な本がぎっしり詰まっていた。まるで資料の宝庫のようだ。
教授が「書棚を見せていただけませんか」とお願いすると、おじいさんはやんわりと断りながら、
「私の日記なんかもありますので…」と答えた。身内でもない者に日記を見せるのは、ためらいがあるのだろう。
教授は粘っていたが、やはり見せてもらえそうにないと悟り、諦めた様子だった。
書斎から撤退し、夕食の時間となった。おばあさんの手作りと思われる料理は、「これぞ家庭の味」と言いたくなるような、懐かしさを感じる美味しいものだった。
食事を終え、教授と私は自分たちの部屋に集まり、翌日の計画を詰めていく。
「役場にはあまり早く行っても迷惑だろうから、午後に行くとしよう。午前中はどうする?」
「役場の隣に図書館がありましたし、午前中はそこで調べ物をするのが良さそうです。」
「このあたりの歴史や資料なら、何かしら残っているだろう。いい案だと思うよ。」
「じゃあ、明日は朝から図書館で調査を始めて、昼食後に役場に行き、話を聞く。そのあとまた図書館に戻る感じでどうでしょう?午前中だけじゃ情報も十分に集まらないでしょうし。」
「そうだね、それでいこう。」
こうして大まかな計画が決まり、翌日に備えて私たちは早めに床についた。
翌朝、図書館へ向かった。
町の規模からすると大きめの図書館で、聞いてみると一部が歴史資料館になっているらしい。
そちらは町の主産業だった養蚕業の道具や歴史が中心で、我々の求めているものはなさそうだった。
司書に「あたりの古い史料はありますか?」と尋ねると、古い地図を出してくれた。
そこにはここや近隣の村のことが書かれていたが、「渋丹村」という名前は見当たらなかった。
司書にも渋丹村のことを聞いてみたが、「知らないですね」との返事だった。
手がかりなしか、と落ち込みかけたが、ふと地図の端にある森に目が止まった。
「この森はなんですか?」
「この森は自然保護区、正確には自然環境保全地域と言われるところです。端的に言えば、土地開発を禁止して、残しておくべき自然を保護している場所ですね。そうでなくても、誰もあの森には近づかないんですけどね。」
そう言う司書さんの顔はどこか浮かない様子だった。
「何かあるんですか?」
「まぁ、なんていうか、あの辺りでは昔から行方不明者がよく出ていたらしいんですよ。神隠しにあうとか、鬼に攫われるとか、そういう話でね。ここの子どもたちは親に口を酸っぱくして『森には近づくな』と教えられているんです。その親たちもまたそう教わってきたみたいで。」
「そうなんですか。ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「どういたしまして。ここは人があまり来ないので、基本暇なんですよ。みんな新しい方の図書館に行っちゃいますから。」
「この町って図書館が二つあるんですか?」
「ええ。町の再開発の際に新しく作られまして、こっちは資料館として残っていて、古い本なんかを保管するのが主なんですよ。役場も向こうに新しいのがあります。隣の役場は、このあたりに住んでいる人用の出張所になっています。」
「新しいのができるまではこっちが本館だったんですけどね。」と少し寂しそうに続けた。
「また来てくださいね。」と微笑む司書さんに別れを告げ、私たちは役場へ向かった。まあ、すぐ隣なんだけれども。
役場に到着すると、すぐに職員さんが出迎えてくれた。
「やあやあ、皆さん。お待ちしておりました。あれからいろいろ調べてみたら、ありましたよ、渋丹村。記録が残っていました。」
「本当ですか⁈」
「こんな村があったんですねぇ。かなり前に廃村になったみたいですが、確かにありました。」
「どれくらい前になくなったんですか?」
「んー、私が生まれるよりもっと前、としかわからなかったですね。申し訳ないです。」
「いえ、調べていただいてありがとうございます。ちなみに、村があった場所ってわかりますか?」
「ああ、場所ですか。実はその…森の中なんですよ。町の北東にある、あの森のことを知っていますか?」
「さっき隣の図書館で聞きました。あまり良くない話でしたけど。」
「そうなんですよ。あの森は昔から人が消えたり、攫われたりすると言われていて、ほとんど誰も近づきません。」
「最近はそういうことはないんですか?」
「ないですね。高祖父の世代までは、そこそこあったみたいですよ。森の近くで人が消えたという話が。」
「この森って、入っても大丈夫なんですか?」
「一応立ち入りは禁止されています。熊や猪なんかも出ますからね。熊が出た時だけ、猟師さんにお願いして森の奥へ追い払ってもらっています。」
「それに入るといっても、浅いところだけですね。彼らも森の外が見える範囲までしか入りません。なんでも、森の奥に入るとどこにいるのかわからなくなるそうで、コンパスはぐるぐる回りだすし、太陽も見えづらくなるんです。奥に入ると帰れなくなる、と言われています。」
「町の子供たちには危ないから近づくなと教えています。学校でもそう教えられるし、親もそう教える。もう何十年も前からそうなんですよ。」
「そういう場所って、子供に行くなって言うと、逆に行っちゃったりしませんか?」
「それがですね、以前町の再開発があって、学校や繁華街は全部、町の南西に固まって作られたんです。子持ちの家庭もほとんどそっちに移ってしまいまして。あそこからだと、子供の足では森までは行ける距離じゃないんですよ。」
職員さんはそう言って、ざっくりと地図を描いてくれた。
「まず町の真ん中がこの役場です。で、北東に森があります。森から役場までは住宅地ですが、古い建物ばかりで、住んでいるのはほとんどが高齢者です。空き家も多いですよ。この役場から西に行くほど町は栄えていて、建物も新しくなります。新しい役場もそちら側にあります。この役場は町の東側に住んでいる人のために残っているんです。距離が結構ありますからね。」
「役場の東側には、遊ぶところがほとんどありません。不自然なくらいに。小さな公園があるくらいで、そこも高齢者の集会場所みたいになっていて、若い人はあまり来ません。何もないので。」
「森から遠ざけるために、そうしているんじゃないか、なんて年寄りたちの間では言われていますよ。」
職員さんはそう言って、少し苦笑した。
「自然保護区になっていると聞いたのですが、手つかずなら村の跡とか残っていないんですか?」
「それが、何もないんですよ。航空写真を見ても森しか写っていません。十数軒の家があったみたいですし、畑もあったようなので、何かしら痕跡が残っていてもおかしくないんですが…」
スマホで航空写真を見てみると、確かに森だけが映っている。ズームしても村の痕跡は見当たらなかった。しかし、どこか違和感というか、不自然な感じがする。まるで森がこちらを見上げているような、そんな気さえした。
「まあ、こんなところです。森に入るのはおすすめできません。というか、立ち入り禁止なので、入らないでくださいね。行方不明者が出たらたまったものではないので。」と職員さんは話した。確かに写真を見ても、地面は見えず鬱蒼としていて危険そうだ。
「ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「いえいえ、見ての通り暇なので。こちらこそいい暇つぶしになりましたよ。」そう言って職員さんはまた何かあれば、と去っていった。
「それじゃあ図書館に戻ろうか。」そう言って教授は席を立った。
それに続いて私たちも図書館へと移動を始める。
図書館に戻ると、今朝の司書さんが本や地図を広げて、うんうんと唸っていた。私たちの気配にはまだ気づいていないようだ。
「こんにちは。また来ました。」先輩が声をかけると、司書さんは驚いたようにびくっと身を震わせた。
「ああ、今朝の方ですね。何かお探しですか?」
「ええ、渋丹村について、まだ何か手がかりがないかと思って。」
「それでしたら、あのあと倉庫を少し探ってみたんですが、こんなものが見つかりました。」そう言って見せてくれたのは、巻物のような古い資料だった。
「あの地図よりも古いものみたいです。中身は…」巻物を開くと、そこには絵が描かれていた。
大木に括り付けられた人の姿が描かれていた。大木を囲み、村人たちが祈りを捧げている。さらに巻物を開くと、括り付けられた人は血まみれになっていた。再び大木を中心に祈る村人の姿。次に開くと、大木がまるで踊っているかのように描かれ、村人たちも共に踊っている。そして、最後のページだった。
そこには、大木に後光が差し、村人たちが大木を中心に祈りを捧げる光景が描かれていた。
「これは…?」と私が尋ねると、
「渋丹村で行われていた儀式の絵だと聞いています。描いた人物は不明ですが、村を訪れた者が目にした光景を描いたものらしいです。」
絵を見つめていると、胸の奥がざわついた。自分があの大木に括られている姿がふと幻のように浮かんだ。周囲で人々が踊っている。しかし恐怖はなく、むしろ喜びの感情に包まれているような気すらした。
その時、大木が大きく口を開ける幻覚が見えた。口が近づいてきて、食べられる瞬間、はっと我に返った。
気分が悪く、鏡を見ればおそらくひどい顔をしているだろう。教授も先輩も、顔色が悪く、私と同じように動揺しているのが分かった。
「皆さん、大丈夫ですか?顔色がすぐれないようですが。」
「ああ、大丈夫です。ちょっと絵の内容に驚いただけで。」
「確かに不気味な絵ですよね。さっきはこれを見ているときに声をかけられて、少し驚いてしまいました。」
再び絵に目を戻すが、先ほど感じた胸のざわつきはもうなかった。いったい何だったのだろうか。
他にも色々と見せてもらったが、渋丹村に関する資料はもうなさそうだった。気がつけば、もうかなりいい時間になっていたので、私たちは民宿に戻ることにした。
「結構あっさり渋丹村のことが分かりましたね。明日にはもう帰れそうじゃないですか?」
「いやいや、まだ調べるべき場所が残っている。しかも、とびきり重要なところがね。」
「どこですか?」
「決まってるだろう。僕のご先祖様の家さ!あの日記の主の家だ。ここを調べなくてどうするんだ。」
「場所、わかるんですか?そもそも、残ってるんですか?その家。」
「ぬかりはないよ、後輩君。役場を出る前に聞いてきたからね。旧村田家の所在を。幸い、家は残っているらしい。長いこと空き家のままだそうだけど。勝手に入っちゃいけませんよ、とも言われたけど、まぁ大丈夫だろう。」先輩はまだまだ帰れそうにないよ、と楽しそうに笑みを浮かべている。
もう帰ってレポートを仕上げてしまいたいと、僕は、内心そう思っていた。
教授のご先祖が住んでいたという家は森にほど近いところにあるという。それだけで行く気がなくなっていくのだが、どうしようもない。教授も先輩も行く気満々だし、ちょっとだけ、ちょっとだけだけれど、興味もある。明日に備えてもう寝てしまおうか。
夢を見た。これは村だろうか。大きな木が生えていて、それの横には池がある。よく見ると池は黒く、見ていると引きずりこまれそうになる気がする。
私はゆっくりと池に向かい、その身を池に沈めた。なぜだろう。凄く気分がいい。ずっと浸かっていたくなる。誰かが私を池から引っ張り出す。やめてくれ。私はまだ浸かっていたい。首に縄をかけられ、木に吊るされる。呼吸ができないはずなのに、ちっとも苦しくない。自然と笑みがこぼれる。幸福感があふれる。至上の幸福、というのはこのことなのだろうか。人が私の括られている木に集まってくる。皆祈っている。私も祈っている。だんだんと気が遠くなる。木が動いているのを感じる。足の感覚がなくなった。腰の感覚もなくなった。もう何も見えない。笑い声が聞こえる。私は微笑みながら、意識を手放した。
私ははっと飛び起きる。足はある。ひどい寝汗だ。悪い夢を見たような気がするが、思い出せない。体がべとついて気持ち悪い。シャワーを浴びたい。
幸いにおばあさんはもう起きていたので、風呂を借りた。シャワーを浴びてすっきりすると、寝起きの不快感はきれいに無くなっていた。
おばあさんにお茶を出してもらった。世間話なんかをしていると、先輩が2階から降りてくる。寝巻のままだ。どことなく顔色が悪い。
「なんか調子悪そうですけど、大丈夫ですか?」
「少し夢見が悪くてね。シャワーを浴びたいのだが、お借りしてもいいだろうか?」どうぞ、とおばあさんに言われ、先輩は風呂場に向かった。
先輩を見送り、お茶を啜る。まだぼんやりとしているが、体はだいぶ軽くなった。夢の内容は思い出せないのに、胸の奥にしこりのような不安が残っているのが気にかかる。
ほどなくして教授も部屋から降りてきた。彼も寝巻姿で、どこか浮かない顔をしている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うーん、あまり。変な夢を見た気がするんだが、内容はまるで思い出せなくてね……起きたとき、なぜか息が苦しかったんだ。」
私と視線が合う。お互い、同じような感覚を共有しているのを感じる。
「実は私も、です。夢は覚えていないんですが、すごく嫌な汗をかいていて。」
「先輩も同じようなことを言っていましたよ。夢見が悪かったって。」
教授は腕を組んで何かを考え込むように視線を落とした。
「……偶然かもしれないが、全員が同じように"嫌な夢を見て、内容を覚えていない"というのは、ちょっと気になるね。」
その時、風呂場のほうからシャワーの音が止まり、ほどなくして先輩が戻ってきた。服を着替え、髪はまだ少し濡れている。
「いや、すっきりしたよ……が、なんというか、嫌な寝覚めだった。夢の内容はあまり覚えていないんだが、大きな木が……いや、やめておこう。まだ混乱してる。」
「なんかおかしくないですか?3人そろって悪い夢、なんて。やっぱ帰りましょうよ。」
「気にしすぎじゃないかい?昨日の巻物のせいさ。かなり恐怖を掻き立てる絵だったからね。皆似たような夢を見たのもそのせいだろう。単なる偶然さ。」といって先輩は気にしていないようだ。教授も頷いている。私の気にしすぎなのだろうか。そうだ、と言われればそのような気もする。
皆で朝食をとり、教授のご先祖の家に向かう。入ってはいけないと言われているので、ばれるとまずいのは理解しているらしく、車ではなく徒歩での移動だ。
しばらく歩き、教授のご先祖の家に着いた。町北東の森にほど近く、外観は想像以上に古い。草も伸び放題で、長いこと人が住んでいないことがわかる。かなり大きい家だ。平屋造りで、庭も広い。敷地内には小さな池と蔵もある。
家の周りはほとんどが空き家で、人の気配もない。そこはかとなく不気味だ。
「これはまた……想像以上に立派な家ですね」と、教授が感慨深げに呟いた。
「立派っていうか、不気味っていうか……」私は周囲を見渡しながら答える。草が生い茂った庭の奥には、ぽっかりと黒く開いた池が見える。夢の中で見たような気がする──が、思い出せない。ただ、嫌な胸騒ぎがする。
「さて、入ってみようか」先輩が門の取っ手に手をかけた。「鍵はかかってないみたいだね。まぁ、空き家だしね。」
ギィィ──という鈍く長い音を立てて門が開く。蔦が絡まり、長年人が通らなかったことを物語っている。
「……やっぱり、やめたほうがよくないですか?」
「後輩君、いざとなったらすぐ出てくればいいのさ。大丈夫、幽霊でも出たら僕が叩き伏せてあげよう」と軽口を叩く先輩。教授も苦笑いして頷くが、その表情には一抹の不安も見える。
私たちは足を踏み入れる。
庭を抜け、縁側に回り込む。縁側の硝子戸も、意外なほど簡単に開いた。
中は薄暗く、黴と木の香りが混じって鼻を突いた。天井の梁は重々しく、古い欄間や襖絵が、かつてのこの家の格式を物語っている。
「……すごいな。こんな大きな家に、教授のご先祖が住んでたなんて。」
「まぁ、村の地主だったそうだからね。代々、相当な土地を持っていたらしいよ。今ではこの辺り全部、町に没収されてるみたいだけど。」
奥へ進むたび、畳の軋む音が重く響く。空気はどこか濃く、息が詰まりそうだ。蔵へ通じる裏口も見えるが、まずは母屋を調べることにした。
すると、先輩が一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここ……日記のあった部屋だと思うよ。」
引き戸を開けると、そこは他の部屋に比べて、妙に何もない。畳も焼けておらず、埃も薄い。まるで、つい最近まで誰かが使っていたような──そんな錯覚すら覚える。
「……誰か、来てませんでした?最近。」
「来るような場所じゃないよな……」先輩も低く呟く。
部屋の隅に、古い箪笥が置かれていた。教授がゆっくりとその引き出しを開ける。中から出てきたのは、黄ばんだ和紙の束。
「……これは……手紙?」
封筒ではない。束ねられた紙には、細かい文字がびっしりと記されている。書き出しには──
「この身を捧げし夜、我らが主は目覚めたり。森は歌い、大樹は口を開く。喜びと恐れと、渇きと満たし。我らは忘れ、また思い出す……」
言葉にできない寒気が、背筋を走った。
「これ……やばくないですか……?」
私の声が震える。
そのとき、風もないのに、どこかの襖が音を立てて揺れた──。
私たちは思わず顔を見合わせた。
「……今の、風ですか?」
「窓、閉まってたよな……」と、先輩が警戒するように低く言った。
「気のせいかもしれん」教授が言うが、声にはわずかに緊張が混じっている。
私は足元の畳を見下ろした。震えているのは自分の足だと気づき、無理に力を入れる。
先輩が意を決したように襖に近づき、静かに手をかける。
「行くぞ……」
ゆっくりと、襖を開ける。
その向こうには、何もいなかった。空っぽの座敷。家具すらない。だが――
「……匂い、しませんか?」私は鼻をひくつかせた。
甘ったるい、そしてどこか生臭いような匂い。昨日、巻物を見たときに感じた気配と、どこか似ている。
「奥、行こうか」先輩の表情はこわばっているが、どこか抑えきれない興奮も混じっている。
教授は何も言わずに頷き、私もついていくしかなかった。
襖の先、座敷を抜けると廊下があり、その先に小さな扉が見える。土間に降りる勝手口のようだ。
扉を開けると、土のにおいが強くなる。先に見えるのは、あの蔵だ。
「……行くんですか?」思わず問いかける。
「行かないと来た意味がない」と先輩。教授も無言で前へ進む。
蔵の扉は、重たく錆びついていた。
が、先輩が力を込めて押すと、ぎい、と鈍い音を立てて、少しずつ開いていく。
中は暗い。埃の匂いと、かすかな湿気。そして……あの匂いだ。甘く、腐ったような。
先輩が懐中電灯を取り出し、灯りをつける。
蔵の中には、棚がいくつもあり、壊れた道具や古びた箱が並んでいる。
その一番奥、壁際に――大きな木箱があった。
「なんだこれ……棺みたいな……」私は思わずつぶやいた。
「開けるぞ」先輩が手をかける。
「ちょ、ちょっと待っ――」
止める間もなく、蓋が開かれた。
中にあったのは、乾ききった何かの遺体だった。いや、人間……だろうか?
皮膚は干からび、骨と皮だけになっている。だが、それは普通の遺体には見えなかった。
「……角、ですか?」教授がぽつりと言う。
頭蓋から、何かが生えていた。角のような、枝のような、歪んだ突起。
「これって、人間じゃ……」
私が言いかけたとき、不意に、蔵の天井から「トン……トン……」と、何かが落ちてくるような音がした。
見上げた天井の隙間。
そこには、何かがこちらを見下ろしていた。
白い目。
ぬめりのある、木のような皮膚。
人ではない“何か”。
私は声を上げようとしたが、喉が動かない。
次の瞬間、その“目”が消えた。
「……今の、見たか?」先輩の声は震えている。
「見た……と思う。幻覚、か?」教授の声もかすれている。
「出よう……もう、出ましょう」私はやっとの思いで声を出した。
その言葉に、三人とも無言で頷き、蔵を飛び出した。
森の木々がざわめいていた。
まるで私たちの訪問を歓迎していたかのように――。
家を離れ、町の方へと足を速める。だが、どれほど歩いても、なぜか風景が変わらない。草むら、空き家、錆びたフェンス。いつの間にか同じ角を二度、三度と曲がっているような感覚に陥る。
「……ねぇ、これ、帰り道、ですよね?」私が口にすると、先輩も立ち止まった。
「おかしい……こんな道、通ったか?」振り返ると、道は途切れていた。いつの間にか生い茂る木々が背後を覆い尽くしている。さっきまでの住宅地のはずが、いつのまにか森の縁に呑まれていた。
教授がコンパスを取り出す。だが、針はぐるぐると回転して、方向を示さない。
「……やっぱり、ここ、あの森の“中”なんじゃ……」私は息を呑む。
「ありえない、だって森には入ってな――」先輩が否定しかけて言葉を切る。誰もが“何かがおかしい”と、すでに感じていたのだ。
その時、不意に風が吹いた。木々がざわめく――否、“囁く”。
「戻れない」
「もっと近くへ」
そんな言葉が風に乗って耳をかすめた気がした。
「……あれ」教授が指差す。
古びた鳥居があった。朽ちかけており、蔦が絡まっているが、確かにそこに立っている。鳥居の先には細い獣道が延びていた。
「こんなの、来るときは……」私が言いかけた時、先輩が呟いた。
「行こう。行くしかない」
「えっ?」
「戻れないなら進むしかない。行けば、なにか分かるかもしれない」
教授も黙って頷いた。私は抗いたかったが、怖くて、一人ではいられなかった。
鳥居をくぐる。足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。重い。湿って、鈍く響く音のない空間。
進むにつれ、木々はますます高く、太くなっていく。まるで見下ろされているような気分になる。
やがて、視界が開けた。
そこには――夢で見たのとまったく同じ景色が広がっていた。
大木が立っている。その傍らには、黒く沈んだ池。空は見えない。木々が空を塞ぎ、昼だというのにまるで夜のような薄暗さ。
私は立ち尽くした。先輩も、教授も、言葉を失っている。
夢じゃなかったのか。
「……あれ、見て。」教授が指さす。
池の傍、大木の根元に――縄が掛かっている。明らかに人の首にかけるように。
そしてそのすぐ近くに、ぬらり、と光る何かがいる。ぬめるような表皮、歪な形。明確な輪郭を持たず、木のようでいて、何かが蠢いている。
それが、こちらを見ている。
「――逃げろ」
先輩の叫びが、森の中に響き渡った。
しかし、私はその場から一歩も動けなかった。身体が動かない。いや、違う。
動きたくない。あの木の傍へ――帰りたい。
胸が熱くなる。喉が乾く。口角が自然と上がる。涙が溢れる。ああ、また会えた。私の居場所だ――。
「後輩君!!」先輩の叫びとともに、肩を強く引かれた。
視界が揺れ、木と池が遠ざかる。私は崩れるように倒れた。
息が荒い。心臓が痛いほど打っている。
先輩の顔が、涙で濡れている。
「……どうして、泣いてるんですか?」
「君、笑ってたんだ……。あんな……化け物を見ながら、笑ってたんだよ……!」
私は震える手で顔に触れる。自分でも気づかぬうちに、口元が微笑の形を取っていた。
森が、呼んでいる。
このままでは、帰れない。
――もう、森の“外”へ戻れないのではないか。
私はそう思った。心のどこかで。
それでも、まだ、まだ私は……。
先輩に引きずられるようにしてその場を離れ、私はようやく自分の足で歩けるようになった。教授も後ろからついてきているが、無言だった。誰もが言葉を発せられなかった。あの大木、あの池、あの「何か」。
見たものが現実とは信じたくないのに、脳裏にははっきりと焼き付いて離れない。
「……今の、なんだったんでしょうね……」私は自分でも震える声で口にした。
「……知らない方が、いいのかもしれないな」教授がぽつりとつぶやいた。
森を出ると、不思議なほどあっさりと見知った道に戻っていた。空は澄んでおり、鳥の声すら聞こえる。さっきまでの湿った空気も、まとわりつくような木々の視線もない。
さっきの出来事が幻だったかのように、世界はあまりに普通すぎた。
「ねえ、後輩君……」先輩が、私の腕を握りながら小さく囁いた。「君、覚えてるか? 昨日の夢」
「……え?」
「君も見たんだ。夢でさ、お前が……あの木に括られてるの、見た。笑ってた。……今の、君と同じ顔だった」
息が詰まる。
「僕も見たよ」教授がうつむいたまま言った。「君が吊られてて、あの池の前で……人が集まって、祈ってた」
言葉が出なかった。
夢は――夢じゃなかった?
「帰りましょう。もう、帰ったほうがいいです」私は言う。今度は、はっきりと。
先輩も教授も、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
その足で宿に戻り、荷物をまとめ、早々に町を離れることにした。
宿のおばあさんには、都合が変わったとだけ伝えた。彼女は何も聞かず、にこにこしながら「気をつけて帰りなさいね」と言った。
笑顔の奥に、何か含みがあったような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
電車に揺られ、町の風景が遠ざかっていく。線路の向こうに、一瞬だけ森の影が見えた。
あの木が――見送っている気がした。
大学に戻ってから、私たちは教授の提案で調査レポートの内容を大幅に変更した。渋丹村の歴史的遺構や地理的特性について簡単に触れるにとどめ、実地調査については「特に目立った遺構は確認できなかった」とだけ記した。
巻物や古地図、図書館で見た資料についても、公的記録と矛盾するため採用しなかった。
夢の話や、大木のこと、池、そして「それ」については――誰も何も書かなかった。
だが、あれから時々、あの夢を見る。
あの黒い池。あの大木。祈る人々。そして――吊られる自分。
目覚めるたびに、喉が渇いている。あの池の水を、もう一度浴びたいとすら思ってしまう。
私は自分の内側が少しずつ変わっている気がする。
あの日、私たちは帰ってきた。だが――“全部”は戻ってきていないのではないか。
時折、耳の奥で風のような囁きが聞こえる。
「また来て」
「もっと深くへ」
私はそれに、いつまで抗い続けられるのだろうか。