公爵家の犬として過ごせと?…悪くないわね。
「リリアンヌ、お前はこれから公爵家の犬として過ごせ」
公爵家女当主だった母が亡くなり一年も経たないうちに父が後妻と義妹を連れてきた。父は私が成人するまでの代行当主なのに私を虐げるとはいい度胸だ。後妻も義妹も意地悪な笑みを浮かべ私を見ている。優秀な使用人も全て入れ替えられてしまった。公爵家の犬とは優秀な私に忠実な下僕として働けという意味らしい。犬として過ごす…悪くないわね。
次期当主として勉強漬けの毎日だった私は既に課程を全て終えているし時間もある。婚約者として第二王子が婿入りする予定だけれど彼は私をよく思っていないみたいだし定例のお茶会以外で会うこともない。よろしいでしょう。成りましょう!公爵家の犬に!
「分かりましたお父様、いえご主人様とお呼びしたほうがよろしいでしょうか」
服従の姿勢を見せた私に父は高笑いが止まらない。
「ハハハ!いつも偉そうにしていたアイツに瓜二つのお前が服従する様はなんて愉快なんだろう!」
アイツとは父の元妻、私の母のことだ。二人はとても仲が悪かった。
「お父様、私ずっとワンちゃんが欲しかったのです。私が飼い主になりたいですわ!」
目を輝かせて言ったのは五つ年下の義妹マリアである。フリッフリのドレスを着ている。
「そうかそうか。わしは可愛いマリアのお強請りには弱いのだ。よい、リリアンヌの飼い主はマリアとしよう。よく躾けるように」
「ふふふ、良かったわねマリア。ちゃんとお世話するのよ?」
三人はとても楽しそうに笑い合う。なるほど私の主人は義妹のマリアね。
「では私は明後日から犬となりますのでよろしくお願いいたします。マリアさん、お世話になります」
そう言って未だに高笑いしている三人を置いて自室に戻った。
次の日、私はこれからしばらく犬となるために各方面に暫く顔を出さない旨を伝える手紙を書いた。使用人たちにも私を犬として扱わなければクビにされるだろうと伝え犬の正しい扱い方も教えたし、仕事も滞らないよう引継書を作成した。
『それから…犬グッズも欲しいわね』
商人を家に呼んで買い物をしたり一日家族にも合わず忙しく過ごした。
そして次の日、リリアンヌが犬として屈服する様子を想像してニヤニヤと朝食を取っていた三人の前にリリアンヌが現れた。
「リリアンヌ、お前の席はないぞ。なんせ犬だから…」
父はそう言いかけてリリアンヌの姿を見たまま固まった。母に似たリリアンヌは品のある美しさがあり淑女の中の淑女と呼ばれた彼女はいつも隙のない格好をしていた。それがどうだろう。今朝のリリアンヌは髪もボサボサ、化粧もせず、上下緑色の労働者のような格好をしている。スカートではなくズボンで裸足。
義母もマリアもリリアンヌを見て固まっている。しかし彼らの視線は服装ではなくてリリアンヌの頭上にあった。リリアンヌの頭上に耳が生えていたのだ。犬の耳のカチューシャである。リリアンヌは形から入るタイプだった。
「ワン」
「ななな何がワンだ!お前!犬にでもなったつもりか!」
「ワン?」
(ええそうです。犬ですが何か?)
リリアンヌは犬なので話すことはしない。犬になれと言った父はもう忘れてしまったのだろうか。それにしても使用人を入れ替えてくれたおかげで身だしなみに煩く言う人も居ないし快適である。そういえば喉が乾いたしお腹も空いてきた。さっそくリリアンヌはテーブルに向かう。まずは水が入った瓶を手にすると直接口をつけごくごく飲む。あ〜!美味しい!
次にマリアの前にあったフルーツを手で掴んで食べる。
「キャー!何なのお姉様!」
マリアはリリアンヌの奇行に驚き椅子に座ったまま後ろにズレた。それを目ざとく認めたリリアンヌはマリアの膝の上に乗りそのままテーブルの上に乗る。そうして両手を使って好きな物を好きなだけ食べた。
「何をしとるか!お前らリリアンヌを引きずり降ろせ!」
怒りを露わにした父が使用人たちに指示する。使用人はポケットから飴玉をひとつ出すと手のひらに乗せた。
「チーチチチ、飴ちゃんだよリリちゃん、ほぅら、チーチチチ」
私は飴玉をチラリと見てプイッと顔を背けた。
「ダメかぁ…」
使用人は残念そうに引き下がる。その様子を見て父はさらに怒った。
「何をしとるか!犬じゃあるまいし!力尽くで引きずり降ろせ!」
しかし誰も動こうとはしない。それどころか
「これは?」
「いやいやきっとリリちゃんはこっちの方が好きだ」
などと皆ポケットから何か出してリリアンヌの気を引こうとしている。
飴玉、ビスケット、マフィン、リリアンヌは全て一度見るもののプイッとしては使用人たちが「違ったかぁ」と残念がった。
それを見て怒りが頂点に達した父は立ち上がり自らリリアンヌを引きずり降ろそうとするがリリアンヌはヒョイッと避ける。その拍子に手に持っていたグラスの水を父にバシャッとかけてしまった。父のことが嫌いなのでわざとである。
「このっ…!!!」
父がリリアンヌに掴み掛かろうとしたその時、控えていた屈強な護衛が父を制した。
「お待ちください。ここは私にお任せください」
屈強な護衛の言葉を聞いて冷静さを取り戻した父は椅子に座り直す。すぐに使用人が持ってきたハンカチで濡れた顔を拭く。
「頼んだぞ。この躾のなっていない女を引きずり降ろせ!」
護衛がリリアンヌに躙り寄る。護衛が腰に差した警棒に手をかけ素早く出した!と思いきや手のひらに小さい包みがのっていた。
「キャウっ!」
(あれは…!高級ショコラティエの包装!)
リリアンヌはさっとテーブルから降りると護衛の手から包みを受け取り幸せそうにチョコレートを頬張る。屈強な護衛はそんなリリアンヌにデレデレしながら父にドヤ顔を決めた。
「なっ…!」
父は怒りを通り越して力が抜けたのか椅子からズルズルと落ちて尻もちをついてしまった。屈強な護衛はマリアに近付く。怯えたマリアが護衛を見上げると護衛は優しい声でマリアに語りかける。
「マリアさま、リリちゃんの主人はマリア様ですよ。リリちゃんに犬としてのマナーを教えるのは貴女です。さあこれをリリちゃんにあげてみてください。キチンと座って食べられたら褒めてあげるのです」
「あっ、えっ?」
マリアの手のひらの上にチョコレートの包みが置かれた。マリアは動揺しながらも、期待に目を輝かせているリリアンヌに向き直ると震える声で
「お座りになってお姉様…」と言う。使用人がサッと用意した椅子にリリアンヌが優雅に座ると
「よくできました…?」とマリアがリリアンヌに包みを渡した。
リリアンヌはパァァっと顔を綻ばせチョコレートをもぐもぐ、それはそれは美味しそうに食べる。
『か、可愛いですわっ』
元々美しいリリアンヌには犬の耳カチューシャも相まって、えも言われぬ破壊的な可愛さがあった。
「よしよしと撫でてあげるのです」
護衛に言われマリアが恐る恐るリリアンヌの頭を撫でるとリリアンヌはコテンと首を傾げて上目遣いでマリアをジッと見た。
「クン?」
(もっと寄越しなさいね?)
「か、可愛すぎるわ、リリちゃんー!!!」
この日、義妹のマリアがリリちゃんに堕ちたのだった。
その日の夜からリリアンヌはマリアの部屋を占領した。自室は父と義母によって日の当たらないジメジメした部屋に追いやられていたので元々リリアンヌの部屋であったマリアの部屋に移動したのである。
「リリちゃんったら私のベッドで寝て…困ったわ」
マリアのベッドの中心で大の字になって寝ているリリアンヌを見てマリアはため息をつく。とはいえマリアは本当に嫌なわけではなかった。もぞもぞとマリアにくっついて寝るリリアンヌ(抱き枕としてマリアを締め付けて使うリリアンヌ)が可愛くて仕方なかったし、リリアンヌに押し出されてベッドから落ちても怒りより可愛さが勝った。
マリアはリリちゃんのために沢山の服と宝飾品を与えた。リリアンヌは美しく何を着せても似合うのだ。
「あ〜ん!リリちゃん可愛い〜!」
毎日気の合う使用人とキャアキャア言いながらリリアンヌを着飾らせた。
元々リリアンヌが持っていた物は全て父に奪われマリアに与えられたが、それを知らないマリアはその全てをリリアンヌに渡していた。似合って当たり前なのである。手持ちのドレスや装飾品に飽きたマリアは商人を呼び寄せてリリアンヌのために多くの物を買い与えた。マリアはリリアンヌに自分の好みの物を身につけさせたがったが、リリアンヌは気に入らない物は遠慮なく投げ捨ててしまうので結局リリアンヌが本当に欲しい物が与えられた。
「私はこの大ぶりのネックレスがいいと思うのだけれどリリちゃんはどれがいいかしら?」
今日も商人を招いている。彼らはリリアンヌが犬耳を付けていても驚く様子はない。事前にリリアンヌが父の趣味だと通達しておいたからだ。もちろん彼らは守秘を重んじる立派な商人であるから大っぴらに言いふらしたりはしないだろう。でも決して人の口に戸は立てられないことをリリアンヌは知っている。じわじわと噂は広がるだろう。
マリアがリリアンヌにド派手なピンクのネックレスを渡そうとするがリリアンヌはその手を叩いてプイッとする。
「あっ、ごめんねリリちゃん!嫌だったよね」
すぐにマリアは謝りリリアンヌが好きな物を選ぶよう言う。じっくりと商品を見たリリアンヌは品のある美しい真珠のネックレスを指差した。
「これ?地味じゃないかしら」
「何を仰いますかマリア様、こちらは最高級の真珠を使っておりましてこの商品の中では最も高価なものにございます」
商人が恭しく言うとマリアはリリアンヌを褒めて購入を決断した。
「さすがリリちゃんね!可愛い上に見る目もある!」
さっそくマリアは手ずからリリアンヌに真珠のネックレスを着ける。その凛とした佇まいに誰もが惚れ惚れした。
「ああ、なんて美しいのかしら!リリちゃん、いいえ、リリ様!!」
この日、マリアはリリアンヌの忠実な下僕となった。
「マリア、最近買い物をしすぎだぞ」
ある日、父がマリアに注意をするとマリアはヒステリックに怒った。
「何を言っているのお父様!リリ様のためよ!そんなにお金お金というならお父様が節約してよ!」
そう言うとマリアは近くにいた執事に父が持っている売れそうな物を売るように指示した。以前の執事であればマリアの指示は聞かずに父に判断を仰いだだろう。しかし父が入れ替えた執事は家の中で一番偉いのはリリアンヌだと考えていた(リリアンヌが事前に洗脳した)ので執事の中での優先順位は
人間のリリアンヌ
> 犬のリリちゃん
>>>(中略)>>>
マリア > 父 > 義母
だった。マリアは犬のリリちゃんが懐いている(実際は従えている)ので父よりも上と判断されている。よって執事はマリアの指示を聞き父の私物を売り捌いた。そうして得られたお金はマリアからリリちゃんへ、つまりリリアンヌの懐へ全て吸収された。
またある日のこと。皆で食事をとっていると義母が怒り出した。
「もう我慢できないっ!なぜリリアンヌが一番豪華な物を食べているのです!あなたも何か言ってちょうだい!」
最近では上座に豪華な椅子が設置されてリリアンヌはそこに座って一番豪華な食事を食べていた。これに反論したのはマリアである。
「お母様!リリ様にそんなことを言わないでちょうだい!リリ様の美容と健康のため一番良い料理を食べていただくのは当然のことだわ!リリ様の飼い主は私よ!指図しないで!」
いつの間にかみすぼらしくなった父はこれまでマリアに何を言っても無駄だったため諦めの境地にある。リリアンヌはというと蝿が煩いわねぇと思いながら淡々と食事をとっていた。マリアの言い草に怒った義母はマリアを引っ叩く。
「何がリリ様よ!目を覚ましなさいマリア!もうこうなったらリリアンヌを捨ててしまいなさい!」
引っ叩かれたマリアは泣きながらその可愛い顔を真っ赤にして義母を睨みつける。
「殴るなんて酷いわっ!お母様なんて大嫌いっ!」
そう言って食事を放ったまま走って出て行ってしまった。愛する娘を初めて叩いてしまった義母はしばらく呆然としている。その間に食事を終えたリリアンヌは犬の耳を揺らし立ち去っていった。
「ぐすっ、ぐすん、酷いわ…」
ベッドに体を預け泣くマリアの部屋にリリアンヌが入ってきた。
「ぐすっ、リリ様ぁ。心配してきてくれたのね」
リリアンヌとしては食事を食べ終え自室に戻ってきただけなのだが、マリアを労わるように肩を抱く。
「ふふ、これまで私の下僕としてよく働いてくれたわね」
そう言ってリリアンヌは犬耳のカチューシャを外した。それはリリちゃんからリリアンヌに戻ったことを意味していた。
(そろそろ犬語にも飽きましたし)
「リリ様…いえリリアンヌ様」
マリアがリリアンヌに縋る。
「父と母はリリアンヌ様をこの家から追い出そうとするかもしれません。そんなこと、途中でお世話を放棄するなんて絶対してはいけないのに…!」
「大丈夫よマリア。そろそろ潮時だから。ああ存分に犬ができて楽しかったわ」
好きなだけ寝て好きな物を食べてゴロゴロして欲しい物を買って最高の犬生活だった。これから私には公爵家当主として忙しい日々が待っている。こんな自由な生活は二度とできないだろう。束の間の楽しいお遊びだったとリリアンヌは心から微笑んだ。
その後、人間リリアンヌと下僕マリアは父と義母が正当な後継者であるリリアンヌを虐げ公爵家を掌握しようとしたと噂を流した。実際にリリアンヌが犬として扱われているのを見たと言う証言もあがりついに父と義母は捕らえられた。実は父と義母は再婚しておらず(リリアンヌが前執事を使って手続きの邪魔をしておいた)マリアは公爵家から出ていかなくてはならない立場となったが、まだ使えそうだと判断しリリアンヌの忠実な侍女として側に仕えさせた。
その後、リリアンヌとの交流が一時的に途絶えても何の疑問も持たなかった婚約者の第二王子が結婚の直前に公爵家へやってきた。なんと恋人を連れている。マリアは顔を顰めているがリリアンヌは静かに笑みを浮かべている。
「久しぶりだなリリアンヌ。公爵家とはいえ曰く付きの家に俺が婿入りしてやるというのに挨拶もなしとは薄情な女だ。お前とは結婚するが俺の心は彼女にある。せいぜい公爵家の犬として俺に尽くすがいい」
彼はリリアンヌが犬として虐げられていたという事件を知っていながらそれを引き合いに出し今度は夫に尽くすよう命じることでリリアンヌの上に立ったと思っている。
それを聞いたリリアンヌとマリアはクスリと笑った。
「また犬として過ごせと?…悪くないわね。マリア、貴女も一緒にどう?」
「それはいいですね、リリアンヌ様。今度は私も犬になりますわ」
つい、チーチチチと言ってしまう。
子犬の時はよく机に乗っていたなぁ。
そしてコップを倒す(お決まり)