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愛人を持つことを推奨します。

作者: 夏月 海桜

「もう少し私を優先してくれませんか? 私、婚約者でしょう? 他の女の子と遊ばないで、とは言えません。でも休日のたびに他の女の子達を優先して私は後回しなんて、寂しいし苦しいです。リグリス殿下、あなたの婚約者って私ですよね?」


「もちろんだよ、イオリ。だけど彼女達との交流も大切だって分かるだろう? 何しろ私は第三王子だからね。王族は貴族との交流を蔑ろには出来ないんだよ」


「それは、そう、ですが」


 何度も何度もこの国の侯爵令嬢であるイオリは、婚約者である第三王子のリグリスに、もっと自分を優先して欲しい、とお願いしていた。

 彼らの婚約は王命であり政略だ。

 それも命じた国王陛下自身でも覆すとなれば容易ではないくらい重大な。

 同い年の二人は現在十八歳。あと半年も経たずに学園を卒業し、その後半年……つまり今からおよそ一年後に婚姻する予定、というかどちらかが病に罹る或いは死なない限りは確定の関係。

 彼らが生まれて直ぐに結ばれたこの婚約の根幹は、隣国とこの国を繋ぐ魔法列車という乗り物のため。世界には魔力があり、その根源は自然にある。

 自然から魔力を取り込んだ動物や人間にも作用していて、現在主流な移動手段は魔法車。魔力が動力で人の魔力を使用して動く。

 但し、一人一人の得手不得手が違うように人間の魔力も多い少ないがある。つまり遠くに行きたいならば魔力の多い者を連れて行くか大人数で出かけるしか無い。

 対して隣国で開発された魔法列車というのは、自然の魔力を動力にすることと共に、車が連なるために大勢の人が乗って移動出来る新たな手段。更には魔法車では中々他国に行くどころか自国内でも移動が大変な人達も居たからこそ、魔法列車に対する隣国やこの国の民達の期待度は大きい。

 その魔法列車を隣国の王都からこの国の王都まで通すことが二十年前に決まった。

 魔法列車のための土地整備を考えた時、隣国の国境と接する領地にイオリの侯爵家があった。それから伯爵領が二つ。イオリの侯爵領と二つの伯爵領程ではないが、子爵領と男爵領も僅かに土地整備の土地として必要だった。

 位置関係で言えば、イオリの侯爵家がある侯爵領は、隣国から王都まで必要な土地で縦断する。侯爵領の半分程が必要なため、そこで暮らす領民達を残りの半分に移動させなくてはならないし、家や畑等の確保も必要だったが、事はそう上手くいかない。

 そこで魔法列車とは直接関係ないが、侯爵領の隣にある小さな王領を侯爵領に下賜する事にした。

 ただ何の理由もなく下賜するわけにもいかないため、侯爵家に産まれた令嬢と国王の元に産まれた第三王子を婚約させ、第三王子の婿入りの支度金の一部として与えた。

 この王領に、侯爵領の領民達が移り住んだ。

 既に半数が移り住んでいるのだ。これだけでも、もう覆すことは出来ない。

 それから侯爵領に接する子爵領と男爵領があり、侯爵領の半分の更に十分割したうちの一部だが、それぞれの領地に使用する。

 ということで、イオリとリグリスより五歳年上の男爵令息に二人より二歳年下の子爵令嬢が嫁入りする政略婚約が整った。

 更にこの二領に接する伯爵領が二つ。

 イオリとリグリスと同い年の伯爵令嬢が居る伯爵領と、三人より一歳年下の伯爵令息が居る伯爵領。この二領地はそれぞれ四分割したうちの一部を魔法列車用に使用される。

 ということでこの二家も政略婚約が整った。

 この三組が国王陛下直々の声がけによる婚約。

 けれど、この三組に連なる親戚や付き合いのある家などが更に自発的に婚約を整えているので、この三組のうちの一つでも婚約が壊れたら、国の大半の貴族家の婚約に罅が入る可能性まである。

 そのことを侯爵令嬢のイオリは、嫌というほど理解していたので、恋情を抱けなくても歩み寄り信頼を築きたい、と学園生活で何度もリグリスにお願いしていた。

 イオリは恋をする前からリグリスと婚約し、王都と侯爵領という離れた場所で育った二人は、あまり会うことはなかったものの手紙のやり取りをこまめに交わしていたからか、幼馴染の友人くらいには感情が芽生えていた。

 そして婚約者として信頼を築き後には伴侶として互いを支え合って生きていくことが決まっていることが分かっているからこそ、リグリスの中の順番を明確にして貰いたかった。

 この婚約が壊れる事はない。

 そうであるからには、リグリスが最優先し一番であるのはイオリでなくてはならない。

 婚約の性質上、リグリスとイオリの血を引いた子が後々侯爵家の当主になって、その子がリグリスが貰い受けた王領の管理も行うことにならなくてはいけない。

 侯爵領と王領と二つの領地の領主。

 それがリグリスとイオリの血を引いた子の役割の一つ。

 その上リグリスは第三王子……つまり王族。下手にイオリ以外の女性との間に子を作られては、政争にもなりかねない。

 リグリス自体は既に王位継承権は放棄している。

 第一王子が王太子の地位に着き、既に王太子妃を迎えてその間に男児が二人居る。王太子はリグリスの八歳年上で第二王子は六歳年上。

 王太子妃はリグリスの十歳年上で子は四歳と一歳なので王太子も王太子妃も地位が盤石。

 王太子妃が現在四歳の男児を産んだ時に第二王子と第三王子のリグリスは王位継承権を放棄した。

 第二王子は第一王子のスペアとしてそれなりに王太子教育も施されていた。同時に第一王子に何かあった時は第一王子の婚約者を娶って第二王子が立太子することになってもいたので婚約者は居らず、その点では生まれた時からイオリとの婚約が決まっていたリグリスは恵まれていた、と言えるだろうか。

 とはいえ、優秀な第二王子なので第一王子が王太子の座に着いた時から婚約者を探し、一年後に王太子妃と結婚する前にはとある侯爵家の令嬢と婚約していたが。

 王太子の二人目の子が生まれる前に、第二王子は結婚し、新たに公爵位を賜っている。領地は無く、夫妻揃って王太子夫妻のサポートをするための地位に着いた。

 第二王子のお相手は元々、王太子妃の侍女をしていた令嬢で第二王子と結婚しても侍女の仕事を続けられることが決め手で第二王子と婚約したので、結婚後も二人は王太子夫妻を揃って手伝っている。

 そんな国王陛下の子である三人の王子殿下の関係だが、いくら第二王子とリグリスが王位継承権を放棄していても、その子は王家の血を引くので胤をばら撒くような事態になっては厄介だ。

 政争の種にも成りかねない。

 今は、子が居ない。

 だがこの先は分からない。

 リグリスは現在そんな不安定な行動を起こしているという自覚が乏しい。

 リグリスと令嬢達の間に何かの間違いが起きているとはイオリも思いたくないが、だからと言って放置しておくわけにもいかないので、リグリスに婚約者である自分を他の令嬢達より優先して欲しい、と精一杯のお願いを口にしている。

 結果は、結び付いたことがない。

 現在リグリスが婚約者同士の月に一度の交流会をキャンセルし続けて二十回は超えた。

 婚約してから学園に入るまでは月に一度どころか王都と侯爵領の距離の問題もあって年に一度だけ会えたが、それまではキャンセルされたことなど一度も無かった。

 でも、学園に入学してからのリグリスは、交流会をキャンセルし続けている。

 イオリが学園に入学するため王都に来たのは十五歳を迎えてから。それまでは一年に一度しか会えなかったが、イオリが王都に出てきたのだから……と月に一度に交流会を設けることになった。

 王家と侯爵家での話し合いで、決まったことだ。

 学園には十二歳から十八歳までの全ての貴族家の令息と令嬢が通うことになっている。この年齢の間ならいつ入学し卒業しても問題ない、とされているのには理由がある。

 各貴族家の都合だ。

 学費を支払うのが一年で精一杯の貴族家もあれば子が何人も居るので、子ども一人一人が通う期間を短く設定する貴族家もある。

 或いは婚約者との年齢が離れているから早々に嫁入り若しくは婿入りするため、十二歳から二年で去って行く貴族家もある。

 学園に通わせるのは同年代の知り合いをなるべく多く作らせる目的があるので全貴族家の令息令嬢は必ず通わせるよう、王家から通達されている。

 イオリも十二歳の時には学園に入学する予定だったが、その頃、侯爵領内で流行り病が起こり平民に侯爵家の使用人に侯爵とイオリも罹患した。

 幸いなことに領地の平民達は軽い症状だったが、侯爵が罹患した時は平民に薬を手配した後で使用人や自分とイオリのことが後回しになってしまった。

 故に完治するのも遅くなったことで十二歳での入学を断念した。

 それから二年。

 病弱でイオリが三歳の時に他界した母に似たようで、イオリも若干身体が弱い。そのため体力を戻すことに二年を費やした。

 それから一年様子を見て、十五歳を迎えてようやく学園に入学することが出来た。それから四年。十八歳でイオリはリグリスと共に卒業し、結婚することになる。

 併し、十五歳でイオリが学園に入学した時には、十二歳から入学していたリグリスの周囲には令嬢達が常に侍っていた。

 婚約の事情が特殊なイオリとリグリスだが、そのイオリ達と同じ事情から婚約した伯爵令嬢のレンリとは学園に入学して直ぐから親しく友人付き合いをしている。

 レンリの方からイオリに声をかけて結束力を固めたい、と言ってきたことにイオリも同意を示して今では一番仲が良い。

 そのレンリから忠告されたのがリグリスの女性問題だった。

 当初話を聞いた時はまさか、と思ったものだが、程なくして何人かの令嬢を代わる代わる側に侍らせているリグリスを見かけて、忠告が真実だと知る。ショックを受け、リグリスにも注意をしたが、交流は大切と言われてしまえば否定も出来ない。

 それも一ヶ月もしないうちに諦めに変わった。

 兎に角特定の懇意にしている令嬢は居ないものの常に令嬢方を侍らせているし、注意をしても交流だと言われてしまえばそれ以上は言えない。

 彼女達にも婚約者は居るだろうに、と思うがどうやらその婚約者達とも上手く交流している様子。

 令嬢達との交流の方が多いけれど、令息方と全く交流をしていないわけではないので引き退るしかない。

 だからといって、自分との交流会はキャンセルしていいわけではない、と言えば嫉妬は見苦しいから止めなさい、とリグリスや令嬢達から言われてしまう。

 嫉妬ではなく、当たり前のことを言っているに過ぎない、と何故分かってくれないのか。


「イオリ」


「レンリ……」


 イオリのお願いを軽く遇らって去って行くリグリスの後ろ姿に溜め息を吐いたところで、イオリの背後から呼びかけられて振り返る。

 レンリとその婚約者である伯爵令息のアビラス。この二人はイオリとリグリスと同じ理由の政略で結ばれた婚約者だが、元々幼馴染で付き合いがあったらしく、とても仲が良い。


「またイオリのことを放置して他の令嬢の元に行ったのか」


 レンリの少々令嬢らしくない物言いは、凛とした雰囲気の彼女には似合っている。

 その隣でニコニコと柔らかく笑っているアビラスだが、その見た目に反して毒舌持ちだ。


「いい加減、自分が王家にとっての駒であることを理解してもらいたいものですね、甘やかされ王子」


「アビラス、私とレンリの前だからいいけど、他の人に聞かれたら不敬に問われると厄介よ」


「構いませんよ。私とレンリの婚約も国王陛下の命です。下手に不敬に問うて婚約が無くなれば困るのは彼方です」


 領地の使用は領主権限に入るので、アビラスの父が拒否してしまえばそれで魔法列車の話は頓挫してしまう。国王だからと言って、いやだからこそ、何でもかんでも王命を出すわけにはいかない。


「まぁ魔法列車の件は此方にも利はありますが、要がアレではね」


 ニコニコニコニコしながらのアレ発言をイオリはもう止めなかった。……アビラスの言う通り、魔法列車に関するこの国の一大事業とも言える政略的な結びつきの要は、イオリとリグリスの婚姻、なのだから。


「でも、もういいわ」


「イオリ?」


 諦めたような口調の“もういい”に、さすがに何かの意思を感じて不審そうな顔をしてレンリはイオリを見遣る。


「もう、いいのよ。この婚約は破棄も解消も出来ない。国の一大事業だしね。でも私と父も黙っていたわけではないのよ? 特に母を亡くした父は再婚もせずに私を大切にしてくれた」


「……そういう話だったね」


 イオリがこんな風に話し出すのは学園の入学の時だけで、後は亡き母のことを口にしたことが無かったのでレンリもアビラスも何かを感じ取り黙って続きを聞く。


「だから、父は私から報告を聞き、王都内にあるレンリの家とアビラスの家にも内々に私とリグリスの関係を尋ねて裏取りもしてくれたの」


 レンリとアビラスもイオリの父が直々に尋ねて来たことを知っており、イオリの報告に嘘が無いことを証言している。だからそのことはイオリから聞くまでもなく知っているが、これはそういうことではない、と二人は気付く。


「その裏取りを含めて父は国王陛下に奏上され、国王陛下も父の報告を鵜呑みにせずに臣下を通じてお調べ下さった」


 既に国王が動いたと知り、レンリとアビラスはこの話の先を察する。


「陛下は詳しく調べるまでもなく、あっという間にリグリス様の行状が判明した事から、一つ提案して下さったの」


「提案?」


「私とリグリス様の間に子が一人生まれれば、男女問わずその子が跡取り。後はリグリス様のことは放置して構わない、と」


 つまり国王陛下が第三王子の我が子に見切りをつけた瞬間だ。


「でも、陛下も人の子で人の父だから、とお続けになられて、私の十八歳の誕生日に、他のご令嬢を優先せずに私を優先したのなら、予定通りリグリス様が婿入りして私とリグリス様の子が成長するまでの間は、侯爵代理として欲しい、と。それが叶わなかった場合は、侯爵代理は私で二人の子が成長するまで私が代理を勤めることを認めて下さる、と」


「……そう、か。今日は」


 レンリは痛ましげな表情を一瞬だけ浮かべてイオリを見た。


「ええ、私の誕生日よ。十八歳の、ね」


「だから私とアビラスはイオリを探していたんだ。プレゼントを渡したかったからね」


 すかさず差し出されたプレゼントを笑顔で受け取ったイオリ。


「優先どころか私と会っているのにプレゼントも無い婚約者などもう要らないわ」


 イオリの溜め息と冷たい切り捨てに、二人は何も言わない。これでもうイオリとリグリスの未来は決まったのだから。



***



 それから学園卒業後に予定通り盛大な結婚式を挙げたイオリとリグリス。レンリとアビラスも参列していたが、二人のリグリスを見る目は冷たい。

 それにリグリスに侍っていた令嬢達も自身の家族と婚約者の家族とで結婚式に参列している。厳かな結婚式が終わると直ぐに令嬢達は婚約者同伴でリグリスを取り囲んだ。

 婚約者達とも良好な関係を築いていたことは褒められる点かもしれないが、それを差し引いても結婚式ですらコレか、とイオリとレンリとアビラスは冷めた目で見ていた。

 というか、令嬢達も婚約者達もその家族も何も考えてないのだろうか。……いや、家族達はさすがに我が子に注意をしているようだが、まぁ結婚式にアレコレと言いたくないのは分かる。

 そこは大目に見るが、問題は令嬢達自身の方だろう。一体誰と誰の結婚式だと思っているのか。

 全くイオリに挨拶に来ない。

 それに。

 この政略結婚の最後の一組である男爵令息と子爵令嬢も参列していたが、その子爵令嬢が一番リグリスと親しそうでもあった。実際、学園時代も入学して直ぐから二歳下の子爵令嬢は、リグリスの周りに侍っていたが……現在、他のご令嬢方は婚約者と共に居るのに、彼女だけは婚約者を放置している。

 さすがにこれは拙い、とイオリが口を開ける前に男爵令息の方がやって来た。

 身分としてはイオリの方が上だが、年齢は彼の方が上なのでイオリは軽く頭を下げる。


「初めまして、イオリ殿」


「こちらこそ初めまして、フォンデウス様」


「私の婚約者がこのような素敵な日に申し訳ない」


「いえ、こちらこそ。……学園時代の彼女のことはご存知でしたか」


 イオリはフォンデウス様の謝罪に、何やら含むものを感じたので尋ねる。


「……ええ。その件で両家の話し合いで終わらず、王家に介入頂きました」


 フォンデウス様がそのように伝えて来たので、余程のことがあったのだ、と目を見開いた。


「ご存知なかったのですね、イオリ殿は」


 イオリの動揺に気付いたのか、フォンデウス様が済まなそうに見やって詳細を語る。

 あの子爵令嬢……マツリ嬢は何を思ったのか、リグリスと自分が結婚する方が幸せになれると言い出したらしい。

 それに便乗したのが子爵夫人とのことで、この政略結婚の理由が全く理解出来ていない夫人と子爵は即刻離婚したとか。……ああそれであの家は夫人が追い出されたわけね。

 子爵に窘められてもどうにもならないマツリ嬢だったので、子爵が恐れながらと男爵……フォンデウスの父と共に城に掛け合い、陛下が直々にこの婚約が覆る事はない、とマツリ嬢に告げた、と。

 ーーまさか王命を理解出来ない貴族令嬢が居るとは思わなかった……。


「それで陛下がリグリス殿のことを私と父に非公式で詫びる、と仰いまして。何か一つ願いを叶えると仰って頂いたので、マツリと私が結婚して、マツリとの間に子が居ても居なくても、リグリス殿が望むならマツリを愛人にしてください、と伝えました」


 ……えっ。

 さすがにその展開は予想もしていなかったので、イオリも、側で聞いていたレンリとアビラスも絶句した。


「イオリ殿には非常に申し訳ないとは思います。ですが、率直に申し上げますと私は結婚を考えていた女性がおりました。男爵位なので平民でも問題ないだろう、と父も認めてくれており、プロポーズする直前で王命が降ったのです。……貴族の端くれですから王命は仕方ない。年齢も七歳も下ということで妹のように思うのも仕方ない。それでも私なりに歩み寄っていたつもりが、リグリス殿とマツリの醜聞です。尤もリグリス殿はマツリだけではなかったようですが。そんなわけで、歩み寄る気持ちがバカバカしく思えた私は、マツリをリグリス殿の愛人にしてくれ、と申し上げました。私は恋人と別れたのにというやさぐれた気持ちも有りますが。彼女……恋人だった娘も、別の男と恋仲になったらしくて、そのこともどうでもいい、と思う気持ちに拍車をかけているのかもしれません」


 率直だがそれだけに納得出来る言葉にイオリはやや呆気に取られた後で、少し考えて強く頷いた。


「それに陛下はなんと?」


 陛下の了承が無ければイオリも答えようがない。


「承諾頂き、念書もありますよ。あくまでもマツリがリグリス殿の愛人を望むのであれば、という但し書きですが」


 抜け目ないフォンデウスの言葉に、イオリは安堵した。


「それならば良かった。……私ももう、見切りをつけました。政略結婚で離婚も出来ないですが、私とリグリスの子が生まれたら男女問わずに跡取りだ、と陛下からお言葉を頂いております。その後はリグリスのことを放置して構わない、と。つまり婿には迎えますが子を作ればお役御免という事ですから、その後は愛人を作ってもらってご自由に、と伝えるつもりでしたの。フォンデウス様がそのようにお考えでしたら、お互い公認の愛人関係ということで宜しいでしょうか」


 陛下がそこまで決断したのなら、とイオリは率直にフォンデウスに気持ちを打ち明けた。


「ええ、良いことにしましょう」


「子どもだけは作らないように言い含めておきますが、万が一子が出来たら我が侯爵家の別邸にて二人で生活して頂きますか」


「そうですね。離婚は出来ないですが別居生活なら構わないでしょう」


 阿吽の呼吸が如くリグリスとマツリの今後についてが決まり、イオリもフォンデウスも双方納得をしてお互い満足の笑みを浮かべる。

 さすがにレンリとアビラスは口を挟めないまま、そこまで決まってしまい、一瞬、リグリスとマツリに同情を抱いたが……抑々自分達の行状の悪さが原因だ、と即座に同情は二人から消え失せた。


「もし、二人の間に子が出来た場合は、どちらの家の子でもないため、認知はしないということで宜しいですか」


 更に続けるイオリに頷くフォンデウス。


「後は結婚だけしてもらえば良いだけのフォンデウス様と男女問わず跡取りさえ作って貰えれば良い私ですので、フォンデウス様はもしもマツリ様に子が出来なければ後継ぎはどうなさいます?」


「弟の子を引き取るつもりでおります。私自身は妻が居るのに愛人を作るというのは、どうにも嫌でしてね。マツリに女性としての恋愛の情を抱かなくても妻は妻ですから。信用も尊敬も出来ないですが、それでも、王命による妻ですからね」


 イオリはフォンデウスの気持ちが理解出来てしまった。

 イオリも、リグリスのことを好きでも愛してもいない。ようやく幼馴染か友人程度の気持ちが芽生えたくらいだったところで、その情を削り取られ消し去られた状態にされた。だから信頼は消え、尊敬は抱くこともない。

 そういう相手でも王命だから、結婚した。

 結婚生活に暗雲が立ち込めていると結婚式で分かってしまっても、命を下した国王陛下でさえ、容易に離婚を告げられない。


「そのお気持ちとてもよく分かります。私も恋も愛も無いですし、尊敬の気持ちも信頼の気持ちも失せました」


 イオリとフォンデウスはお互い、同じ立場なのだと理解する。

 この時、二人の間には、長い人生を共に励まし合う友人のような感情が流れた。


「もし、マツリ嬢とリグリスが愛人関係になりましたら、夜会などのパートナーにフォンデウス様を指名してもよろしくて?」


「私も同じことを思っていました。イオリ殿とは長い友人付き合いが出来ればいいと思っております」


 本来なら婚約者か伴侶若しくは家族以外での夜会の同伴は表向きには否定される。

 だが、実際には愛人を同伴している殿方や夫人も結構多い。妻若しくは夫が病だから、という理由を付けて。

 王家主催の夜会だけは必ず婚約者か伴侶若しくは家族のみ、というのがこの国の貴族達の暗黙の了解で、逆を言えばそれ以外の夜会は愛人を伴っても、なんだかんだと因縁を付けられることはない。

 そんなわけで、リグリスが令嬢とその婚約者達とマツリに囲われている間に、本人達だけが知らないまま、その今後が決定した。



***



「イオリ。やっと二人きりになれたね。今日から君の夫だ。ああ愛してるよ。君も私を愛してくれているのは分かっている。さぁ今夜は寝かさないから、思う存分愛し合おう」


 初夜を迎えるため寝室に下がったイオリ。そしてリグリスは湯浴みを終えてイオリの待つ寝室を訪れる。美しく優しく賢いイオリを思う存分愛するつもりで話しかけながら抱きしめようとして……イオリから遮られた。


「イオリ?」


「何を血迷ったことを仰っているのか分かりませんが、あなたは私に子を授けることだけが役目です」


 冷たい新妻に、リグリスは恥ずかしがっているのか、とニヤつく。


「もちろん、子は作らねばならないが、今夜は愛し合う二人の新たな夜なのだから子どものことなど考えずに思う存分、私に愛されてイオリも私を愛してくれればいいのだ」


「はぁ⁉︎ 誰が誰を愛しているですって⁉︎」


「何を照れているんだ、イオリ。愛する私に愛される夜を迎えるだけだ、照れなくてよい」


 イオリは此処でようやく、本気でイオリがリグリスを愛している、と思い込んでいることを知ってゾッとする。

 身体中に鳥肌が立ち怖気が走るが、それでも子を作らねばならないことを思えば、その気持ち悪さに耐えようと歯を食いしばり息を殺す。

 それから深呼吸をして冷静に言葉を紡ぐ。


「私は、あなたのことなど愛していません。ああもちろん好きでもありません。信頼も尊敬も無いですし、友人や家族のような情すらありません。ただの政略結婚の相手です」


 リグリスは目を丸くして「なに、を」と掠れた声を出す。


「ですから、愛していませんし、好きでもないですわ。王命による解消も破棄も出来ない政略結婚ですから結婚しただけの相手です」


「いや、違うだろう⁉︎ イオリは私を愛してくれているだろう? 生まれた時から婚約し、交流を深めて学園生の頃は令嬢達に嫉妬していたではないか。私を優先して欲しい、と願っていただろう?」


 イオリは頭痛がしてきた。

 この男は、イオリが嫉妬から令嬢達より自分を優先してくれと願っていた、と思っていたのか。


「そんなわけないでしょう。入学前は年に一度会えましたが、それも本当に僅かな時間。手紙の遣り取りをしていても頻繁には交わせなかったでしょう。入学してから交流を深めようと努力して声を掛けている私よりも令嬢達を優先し、交流会をキャンセルすることもよくあったのに、どうやってあなたに愛情など持てると言うのですか! おまけに私の誕生日すら令嬢達を優先して侍従が翌日にプレゼントを渡して来るとか、蔑ろにされていましたよね」


「い、いや、併しそれは、イオリの誕生日は結婚すれば毎年祝えるから別にいいか、と」


「つまり後回しにしても構わない程度の存在という事でしょう。私があなたの誕生日に、最初にプレゼントを渡さないだけでプレゼントを催促してくるような器の狭い人間ですのに」


 リグリスはウッと黙る。

 愛するイオリからの誕生日プレゼントを最初に貰いたいので、令嬢達の方が先に持って来ると断ってイオリに催促していた学園生時代を思い出す。

 それなのに自分はイオリの誕生日にプレゼントすら渡していない。……確かに後回しにしても構わない存在と言っているようなものだと気付いた。


「こ、これからはイオリの誕生日を後回しになどしないから!」


「自分が悪いと思っても謝れないところは嫌悪しますが、不要です。あなたの存在は私に子を授けること。一人だけ子を授けてくれれば、後はどうぞご自由になさって下さい」


 リグリスは冷たい目と表情のイオリに怯みつつ、謝るタイミングを失い、誕生日を後回しにしないと言えば不要と言われ、一人だけ子を授けるように、と言われ、混乱する。

 挙げ句、ご自由になさって下さいとは、どういうことだ、と。


「一人だけ子を授ける? 自由に?」


「陛下と確約しましたの。あなたの行状を報告し、陛下も調査員を派遣して行状を確認。私の十八歳の誕生日に私ではなく他の令嬢を優先した時点で、あなたと私の子を一人だけ生まれればその子が跡取りで、あなたではなく私が侯爵代理を務めることを認める、と。あなたは子を授けてくれれば後は放置して構わない、と陛下は仰いました。ですので、あなたが望むなら愛人を作って下さって構いません。その場合、愛人との間に子は作らないよう願います。万が一にも子が出来たら侯爵家の別邸で愛人と子と共に暮らして下さいね」


 リグリスは、突き付けられた現実にハクハクと口を動かし、息が上手く出来ない。

 あ、愛人? イオリが居るのに? 侯爵代理は私ではなくイオリ? 私とイオリの子が成長するまでは私が侯爵代理では? 別邸で暮らせ?


「い、いやだ。あ、愛人など作らない」


「あら、あんなに私よりも他の令嬢達を優先していたので愛人を作りたいのかと思っていましたわ。私は全然構いません。寧ろ愛人を持つことを推奨しますわ」


 にこりと笑顔を浮かべてイオリに愛人を持つことを勧められてリグリスは混乱する。


「いや、だが、彼女達は別に愛人志望ではなく、婚約者と結婚するわけだし、こ、交流をしていただけだ、と説明したではないか」


 リグリスは愛するイオリに愛人を勧められて、否定する。


「ええ、私よりも令嬢達を優先する交流でしたね。王族の務めだ、と。他の令嬢方は知りませんが、幸いにも子爵令嬢のマツリさんはあなたとご自分が結婚する方がいい、と仰っていたようですし、マツリさんを愛人になさったらどうですか」


 リグリスは何故そのことをイオリが知っているのか、と焦る。マツリが自分と結婚したい、などと言い出したことはさすがにリグリスも有り得ない、と拒否したが、イオリには知られないようにしていたというのに。マツリが話したのだろうか。

 というか、確かにイオリより令嬢達を優先していたが、節度は保っていて婚約者の居る令嬢達は、婚約者と共に観劇に行ったり王都の貴族街を散策したり、とそれ以上のことはしていない。

 それなのに何故愛人の話になるのだろうか。


「れ、令嬢達は婚約者と共に観劇に行ったり貴族街を散策したりしていて、手を繋ぐとかそういった事すら無いのに、何故愛人の話に……」


「あら随分と楽しんでいらしたようですわね。私は観劇も散策も有りませんでしたが」


「じ、じゃあこれから一緒に」


 リグリスはイオリの可愛い嫉妬だと思って誘ったが冷ややかに「要りません」と切り捨てられた。


「今更あなたと何かしたいなんて思っていません。子を授けてくれればそれでいいだけ。事を終えたらあなたは自分の部屋に戻って下さい」


 イオリが更にバッサリと切り捨てる。

 リグリスは此処でようやく、イオリが自分の名前も呼ばないことに気付いた。

 いつから自分はイオリに名を呼ばれていないのだろう。

 いつから自分はイオリに冷たい目で見られていたのだろう。

 ……もしや、もう取り返しがつかないのだろうか。


「い、イオリ……」


「なんでしょう」


「ど、どうしたら許してくれる? あ、謝るから」


「私に言われてようやく謝るような人など信用しません。自分は悪くないと思っているから私に言われるまで謝る気持ちなんてなかったのでしょう? そんな形だけの謝罪は不要です。あなたが楽になるだけでしょう。要りません」


 リグリスはイオリにここまで言われ、ようやく自分が見捨てられていることに気付く。いつから、いつから自分は見捨てられていたのか。

 本当にイオリは自分を愛していなかったのか。

 イオリが嫉妬してくれているのが嬉しくて愛されている実感が出来て、だから調子に乗ってイオリを後回しにしていた。

 イオリが悲しむとか苦しむとか嫌がるとか、全く考えてなかった。

 愛されていると思い込んでいた。

 でも、違った。

 自分は取り返しのつかない状況に立っている。

 謝罪は不要と言われ、イオリを優先すると言えば不要と言われ。結婚したらイオリと仲睦まじく過ごそうと思っていたのに、婿として子を作るだけが自分の価値だと突き付けられ、名前すら呼ばれない。

 その全てが自分の行いの結果だと突き付けられ、結婚したその日の夜に幸せの絶頂から不幸へと叩き落とされる。

 今夜は愛し合う二人の幸せな夜のはずだったのに自分の愚かな言動の所為で愛を交わし合う、確かめ合う行為にすらならない夜を過ごすのだ。

 イオリも自分も幸せな夜に、と思い寝室を訪れた時が何年も前のような心持ちになる。


「ご、ごめん、ごめん、イオリ。イオリ、済まない。愛して、愛してるんだ。だから愛人は作らないし、い、一生をイオリの隣で生きていきたい。子は一人のみならそれでもいい。たくさん欲しいとも思ったけど、子どもは一人でも、愛するイオリとの子だから可愛がるから、ど、どうか、私と一緒にいて下さい」


「嫌です。子どもにも関わらせる気はありません」


 泣きながら謝り、精一杯言葉を紡いだリグリスだが、それすら取り付く島もなく切り捨てられる。

 それどころか子どもにも関わらせるつもりはないとまで言われてしまう。


「こ、子どもに父親は必要だ、と思う」


「それなら乳母と共に父代わりの誰かを雇います」


「だ、だが、子が成長して私のことを尋ねたらどうする」


「その頃にはあなたは、あなたのためにと下賜された王領の管理をしていて侯爵家には居ませんから問題ないですわ」


 折角の提案も却下され、それどころか実質追い出される状況だと知ってリグリスは息を呑む。

 一緒に暮らす事すら望まれていないことを知ってリグリスは自分の浅はかな言動を悔やむ。今更悔やんでもどうにもならないのに。

 イオリに再三に渡り忠告され、願われていた時にイオリに嫉妬されて愛されている自分に酔わず、まともに頭を働かせて言動を改めていれば、このようなことにはなっていなかった。

 ……どれだけ悔やんでも後の祭り。後悔先に立たずとはよく言ったものである。


「い、イオリ、側に居たい。共に居させて下さい。愛人は作らない。イオリと子どもの側に居たい。愛してるんだ」


「愛していれば何でも許されると? 何をしてもいいと? 私を蔑ろにして後回しにしても構わないとでも? 随分と都合の良い愛ですこと。私はそんな都合の良い女でも無いですし、そんな都合の良い愛に振り回されたくもないですわ」


 言葉を紡ぐ度に突き刺さる己の愚かさ。

 リグリスは今夜何度目の後悔をしている事だろうか。それでも、イオリにこのように言われることをやらかしたのは自分だ、とリグリスは落ち込む。

 そんなリグリスの気持ちを無視してイオリは溜め息と共に続ける。


「兎に角初夜を行います。あなたに出来る唯一のことです」


 こんな後悔渦巻く気持ちのまま、初夜を迎えるとは思わなかった。もっと甘く優しく力強く愛を交わす夜だったはずなのに。

 リグリスは唯一出来ることだ、とイオリに冷たく諭され初夜を促される。

 他の夫婦の事情は知らないが、こんなに冷たい空気で初夜を迎えることになる者達が他に居たとしたのなら、どのようにコトに及んだのか知りたい、とリグリスは思いながらイオリと共にベッドに沈む。

 イオリの身体を労りながらイオリと自分を高めながら愛し合おうとした。


「余計なことはしなくていいです」


 と、またバッサリ切り捨てられ愛を交わすのではなくただの作業のように何の盛り上がりもないまま初夜を終えた。

 イオリの身体を労わろうとした気持ちや行動が余計なこと。

 最後まで視線は逸らされ名前も呼ばれないで本当に子どもを作るだけの作業のようだった。

 リグリスは、あまりの空気の冷たさと盛り上がりのなさと後悔とで、無事にコトを済ませられなかったらどうしようか、とは思ったが、若いことと愛するイオリを抱けることで気持ちを維持して、何とか無事にコトを済ませられた。

 ……そして終わったことに気付いたイオリがベルを鳴らして侍女を呼び、自分を身綺麗にするよう頼むとリグリスに淡々と告げる。


「では、お疲れ様でした。これで子が出来れば良いですが出来なかったら出来易い日を選んでまたお願いします。それでは部屋にお戻り下さい」


 余韻も何もない事務的な物言いに、どれだけ自分がやらかしたのかリグリスはまた思い知る。

 追い出されて結婚式を挙げた今日まで侯爵家を訪れたことが無かったリグリスは自分に与えられた部屋を知らず案内される。

 案内された場所を見てようやく気付く。

 通常夫婦の私室は夫婦の寝室を挟んで両隣であるのに、自分が案内された部屋はイオリの部屋から離れた場所。

 それも、客室だ。

 貴族の屋敷は大体似たような作りで当主や家族の部屋と客室は離れて作られるのが通常。

 そこでハッと気付く。

 結婚したら婿入りするのだから、そのための部屋を結婚前から整えなくてはならない。

 元王子であることは関係ない。……自分が王族だったことを鼻にかけてふんぞり返る性格だったなら余計にイオリとも侯爵家の使用人とも溝が出来ていただろうが、生憎自分はそんな性格ではない。

 さておき。

 結婚後直ぐは王都内にある侯爵邸で暮らすがゆくゆくは侯爵領の本邸にて暮らす。

 そちらの私室もこの王都の侯爵邸の私室も、自分が改装に関わらなくてはいけなかった。

 だから学園生の頃に何度かイオリが我が家にいらしてくれませんか、と打診してくれていたのに。

 それをも蔑ろにしていたのだから夫婦になるつもりはない、と判断されても当然だった。だから寝室を挟んで両隣になる夫婦の部屋ではなく、客室を与えられているのだ。

 侯爵領の本邸だって長い学園の休暇の時に訪れていれば整えてもらえただろう。でも訪れたことなど無いからあちらも客室を与えられるはず。

 そんな事すら今頃気付く。

 自分の愚かな行状が全て自分に返って来ている、と分かれば何も言えない。

 侍女が冷たくこちらです、と案内を終えて中に入れば王城の自室から婿入りするために持って来た必要な物が所狭しと置かれている。

 これを綺麗に片付ける事すら挙式前に訪れていればその際に使用人が行ってくれていただろう。

 ドアからベッドまで何とか辿り着き、後悔の重さに潰れかけながら、リグリスは何も考えたくない、とばかりにデューヴェィに包まる。

 今夜は眠れないだろう、と思うがそれもまた自分のやらかしの所為だ、と項垂れた。

 もう、謝れば許してくれる、という段階でもないことは何となくリグリスにも理解出来ていた。



***



 初夜を済ませてからおよそ三ヶ月が経過した。

 まだ王都内にある侯爵邸に二人は暮らしており、イオリの父である侯爵は領地にずっと居る。

 リグリスの睡眠は一応取れている。相変わらず与えられた客室で。

 食事の時間はきちんと食堂に呼ばれるが会話は殆ど無い。何かリグリスとイオリとの間で必要なことがあれば事務的な物言いで伝達はされる。

 王家に関する手紙や自分が王子だった頃に行っていた公務に関する書類などがあれば、イオリが淡々と告げる。今はまだそんな仕事があるが、そのうちその仕事も無くなるだろう。

 そうなればイオリとの会話は益々減る。

 事務的でも何でも会話が出来るだけ有り難いと思っていたのに。

 目が合わなくても食事中が無言でも共に過ごせる時間があるのなら、リグリスは最優先した。

 どうにかして会話の糸口から少しでも関係が修復できないか、と手を拱いているところ。三ヶ月経っても客室のままでは、一生客室のままで過ごすことになるのでは、とヤキモキしているリグリスは知らない。

 初夜の翌日、イオリがフォンデウスとレンリとアビラス宛に手紙を出していたことを。

 それには、リグリスが私を愛しているとか気持ち悪いことを言っている、という事や私を蔑ろにしても結婚するのだから構わない、という身勝手な思考で学園生時代を過ごしていたこと。そんな身勝手なことを言いながら愛していると口にして身勝手な愛を振り翳すこと。その上、マツリを含めて誰も愛人にしない、愛人を作らないと言っているということなど全てを書いた。

 その上でフォンデウスには申し訳ないがマツリは愛人として迎えることは無さそうだ、とも書いた。正直なところ、益々幻滅した、とはフォンデウスの手紙にしか書いてないが。

 幻滅しているのだ。

 あれほどイオリのことを後回しにして他の令嬢達を優先していたというのに、愛してるだの、これからはイオリを優先するだの、愛人は持たないだの、と御託を並べているのだから。

 嫉妬だ、と思い込んでいたことから勘違いしているとも知らずに嫉妬するイオリを見て優越感に浸っていた、ということだろう。それは結局イオリのことをぞんざいに扱っても構わない、と判断したということではないのか。

 嫉妬されるほど愛されている自分に酔っていたということだろう。

 イオリを馬鹿にしているとしか思えない。

 そんな相手を仮にイオリが好きになったとして、どうしてその愛情が持続すると思っていたのか、それも不思議だ。

 誰かに世話をされて美しく咲く花もあれば逞しく自分の力で咲く花もある。

 だが、恋や愛は自分の気持ちだけが肥料として育つだけでなくやはり相手からの気持ちも育てるものではないのだろうか。

 少なくても信頼を築けない相手にイオリは愛情は持てない。信頼が無くても愛情を持てる人もいるかもしれないがイオリは信頼出来る相手でなくては愛情を持てないと自分で思う。

 家族だから、血の繋がりがあるから、それだけで何をしても愛情を持てる人もいるだろうがイオリはそうではない、と自分で思う。家族でも血の繋がりがあっても互いに話し合い信頼し合って家族の愛情が持てるのではないか、とイオリは考えている。

 実際、母を亡くした後で、仕事が忙しい父と会話どころか会うことすら叶わなかった一時期は、父は自分のことが嫌いなのか、自分は不要なのか、と塞ぎ込んで考え込んでいた日々を送った。その後、父と話し合う機会を経て中々会えなくても大切にされていることを知った今は、その信頼で父のことを愛している。

 リグリスと夫婦に、家族になるのなら、そうして信頼を築き合っていくものだと思っていた。だからこそ交流を深めて行こうと何度も提案したのに、それを拒否しておいて、今更愛しているなどと言われても何を言っているのか、と思う。信頼出来るわけがない。そんな人が父親として子に接することが出来るのか、疑問だ。

 子どもまで後回しにされてはたまったものではない。だからイオリは、リグリスに父親として子と接する機会を与える機会は持たせるつもりは無い。

 そんなことを考えながら三人からの手紙の返信に目を通す。

 レンリとアビラスからは、チャンスは何度も有ったのにそれを不意にしたのはリグリスだし、そのことに気付かないでイオリの信頼すら得られていないことにも気付かないで愛を語るなんて気持ち悪い、と書かれていることに、自分と同じ価値観の友人がいることに安心する。

 アビラスはイオリとレンリとは違う視点から物を言うこともあるので、おそらく感性か思考がイオリとレンリとは違い、穏和なのだろうけれど、そのアビラスでも同じ価値観を示してくれたので嬉しかった。

 フォンデウスからは、マツリが未だに結婚に不服で王命という事をきちんと理解していない様子であることが書かれている。このまま結婚しても王命を理解も出来ない者を妻にすることに対する不安があるため、恐れながらと陛下に報告をした所、結婚したら閉じ込めるか別居することを許可された、とも書かれていたことで、やはりこの政略結婚は陛下であっても容易に覆せないのだな、とイオリは改めて思った。

 また、マツリには話していないものの、マツリはどうもリグリスの愛人の座を狙っているようなのでリグリスが愛人にしたい、と言えばスムーズに物事がいったのだが、まさかリグリスにその気がないとは思ってもみなかった、とも書かれている。

 イオリも同意見だ。

 あんなに浮名を流しておいてイオリ殿に愛を告げる神経が自分には理解出来ないとも書かれていて、ここにも自分と同じ価値観の持ち主が居た事に、イオリは心が慰められた。

 そんな初夜から間もない手紙の返信を読み返しているのは、昨日、医師から子を身籠っている、と診察されて告げられたからだ。

 初夜の一度で妊娠出来たことにイオリは安心する。正直なところ、初夜は苦痛でしかなかったから。子が出来ていなければ再び閨を共にしなくてはならない、と思えば憂鬱でしかなかった。その憂鬱が一気に吹き飛んだのだから、安心しかない。

 一応、妊娠したことはリグリスに告げなくてはならないだろう。

 子の父親だから、というよりはもう、一生夜を共にしなくていい、という意味で。

 もちろん、初夜以降、イオリはリグリスを寝室に招いたことはない。

 侯爵家に忠誠を誓う使用人達から、必ず自分の部屋と寝室の両方に鍵をかけて寝ることも毎晩口酸っぱく言われている。

 イオリの味方ばかりで嬉しい限りだが、一応元王子でイオリの婿ではあるので、きちんと世話をして欲しいとは頼んである。食事を共にしているのは別々に食事を摂ることによる使用人の手を煩わせることを減らすために過ぎない。

 その夕食前にイオリはもう一度友人達からの手紙を読み返してから食堂へ足を運んだ。

 いつものように無言で夕食を終えた後。


「子を授かりました」


 そっと落とした言葉だが静かな食堂には思いの外よく響き渡った。告げられたリグリスは何を言われたのか分からないような顔をしている。

 イオリはそんなリグリスを気にも止めずに言葉を紡ぐ。


「つきましては、あなたの役割は終わりましたのであなたに下賜された元王領の領地に移り住んでお好きなように日々をお過ごしください。但し、侯爵領から移り住んだ領民達のことをよろしくお願いします。今はお父様が心を砕いていますが、これを機にあなたが気にかけてくださるよう願います。直ぐに移り住むのも難しいでしょうから三十日の猶予期間の間には移り住んでくださいね」


 話は以上、とでも言うようにイオリは食堂から自室へ戻ろうとする。


「あ、あの、イオリ、待ってくれ。その、子が出来たのか? 私の子が?」


「ええ。政略結婚の要であるあなたと私の子です。これであなたの役割は終わりました。この子が成人して私のお父様から侯爵位を継ぐまでは私が代理を務めます。そしてこの子が爵位を継ぐことによって政略結婚の条件である元々の侯爵領とあなたに下賜された元の王領を一つに、という話が実現します。隣国からの魔法列車のこともお父様のお話では着々と進んでいるようですし、この子が産まれて十年後を目処に魔法列車がこの国にも開通するとのことで政略結婚が実を結びそうで良かったですわ。あなたも気兼ねなくお好きに過ごしてください。もちろん愛人を作って呼び寄せて頂いて構いませんわ。三十日以内にはこの侯爵家から出て行くことになりますもの。私は体調を見て侯爵領のお父様の元に戻る予定ですし。お父様と陛下もあなたが元の王領をきちんと治めてくれるのであれば、私を後回しにして蔑ろにしたことは不問として更に愛人のことも許して下さるそうですのでご安心を」


 淡々としたイオリの説明に、改めてリグリスは背筋が凍る思いをする。ーーイオリどころか父である国王も義父である侯爵も愛人を推奨している、という現実を知らされて。


「い、いや、愛人は迎えない」


「左様ですか。でも何年か経って寂しくなったらいつでもどうぞ。ただ愛人を養うお金は侯爵家から出せませんからご自分で賄って下さいね」


 どれだけ愛人を作る気はない、と否定しても愛人を推奨される。リグリスは自分が信用されていない現実を改めて思い知る。

 だがへこたれている場合ではない。


「あ、あの、子どもに本当に関わってはダメなのだろうか。名前を付けるのも? 子を抱くのも?」


「そうですね。今のところナシです。もしもこの子が産まれて成長し、どうしても父親に会いたいと言った時は会わせる可能性もありますけれど、今は無いです」


 リグリスの提案はバッサリと切られたが、子ども自身がリグリスに会いたいと言ったら、その気持ちは尊重する、とイオリは言う。リグリスはまだ見ぬ子が会いたいと思ってくれることに賭けるしか無さそうだ、と引き下がった。

 そして三十日以内に出て行くように再度促されて渋々受け入れた。……修復も何もない。イオリにその気が無いことを思い知る。

 リグリスが歩み寄ろうと思っても、抑々自分が歩み寄ってきていたイオリを後回しにして蔑ろにしていたのだから、イオリに拒否されても文句も言えない。

 そして再構築も修復も無い。

 何しろそれまでの築きかけていたものを捨てたのがリグリスで、きちんと関係を築き上げていたわけでもないのだから、再構築も修復もする土台がないので出来るわけがなかった。


 その後、リグリスは粛々と身支度を整え、イオリの厚意によって侯爵家の使用人達が荷物をまとめ上げてイオリからの通達から二十日後に、リグリスは自分に下賜された元王領へ旅立った。

 向こうには元々の王家が派遣している管理人や使用人達が居るから直ぐに生活の基盤は整うだろう。

 表向きは王領の領民に心配りをしたい、というリグリスの想いが汲まれての別居ということになっている。

 イオリも安定期に入って直ぐに侯爵領へ旅立つ。この後はイオリの父である侯爵がそれまでと同じく王都の屋敷と侯爵領の屋敷を行き来することになるだろう。

 イオリ自身は大好きで大切な父の庇護下でのんびりとお腹の子を育てつつ、侯爵代理に立つための勉強もしながら、時折友人であるレンリとアビラスとフォンデウスを侯爵領へ招いて交流を深めて行く。

 王命による政略結婚の三件は次代の繋がりに一応問題は無さそうである。

 マツリは夫のフォンデウスから別居生活を告げられて一人寂しく……ではなく、リグリスに呼ばれるまでの繋ぎに平民の愛人を作って楽しく別棟で別居生活を送っている。……その平民の愛人とも、マツリが何歳まで続くのか、それは神のみぞ知ることではあるが、若さと可愛さだけで関係が何十年も続くことは無いだろうという事だけは、断言出来るだろう。

 フォンデウスは養子を迎えて、王命による政略結婚で結び付いたイオリとレンリとアビラスとの友人関係を生涯大切にしたし、それはイオリにも言えるものだった。

 イオリとフォンデウスはレンリとアビラスと共に付かず離れずの友人関係を生涯に渡り続けるが、それが二人の幸せに繋がったのは確かだ。

 イオリは男児を産み、父である侯爵と育てながら侯爵代理として奮闘する。成長して喋ることが出来るようになった息子が父親であるリグリスと会いたいと言うので年に一度、息子の誕生日の前後でリグリスと交流をしていく事になる。

 レンリとアビラスは変わらず仲睦まじい夫婦になって、男児一人と女児二人の三人の子に恵まれる。この女児二人のうち長女がイオリの息子の妻に、次女がフォンデウスの養子である男児の妻になる未来が来るのは、十数年後のこと。

 リグリスは後悔ばかりの人生を送るが、きちんと自分に下賜された元王領を治め、愛人も作らず、年に一度、息子の誕生日前後にて息子と愛する妻に会える事だけを縁に一生を終える。

 その時だけは後悔から解き放たれ、息子と妻に愛を告げて精一杯自分が出来ることを行う。

 それを見たイオリが何を思っていたのか、それはリグリスも息子も誰一人として分からない。ただ息子が父親に会いたいと言い続け、自分の身体が動く限りは息子と共に年に一度、リグリスに会いに行くことは、イオリが孫を持っても続いていたことではあった。



(了)

お読み頂きまして、ありがとうございました。


果たしてイオリはリグリスを許していたのか、それは分からないでしょうが、イオリなりにハッピーエンドを迎えているとは思います。

まぁ簡単に許して一緒に暮らして行く、という気持ちにもなれなかった、とも言えますが、離れている事が良かった、とも言える……かもしれません。

では、また。何かの作品で。

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