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ハグするだけのおともだち

作者: 藤崎珠里


『へるぷ』


 たった三文字の、変換すらしていないメッセージ。


 ロック画面に浮かんだ文字列に、僕はため息をついて立ち上がった。

 サンダルをつっかけ、玄関を出て隣の部屋のインターホンを鳴らす。……反応なし。

 ドアノブに手をかければ、予想どおりすんなりとドアが開いた。舌打ちが漏れる。鍵もチェーンも閉めろ、といくら言っても聞きやしない。

 マンションのエントランスがオートロックだからって、こっちのセキュリティがガバガバなら意味ないんだよ。


井坂(いさか)! 来たけど」

「……こっち~」


 ふにゃふにゃした声で呼ばれて、またため息。キッチンを越えて、その先の寝室をノックする。


「はーい。どうぞ~」


 いつものことながら、警戒心を微塵も感じない。ムカつく。

 遠慮なくドアを開けて入れば、ベッドに転がっていた井坂がむくりと体を起こした。「ん」と両手を広げて、笑顔で僕を待ち構えている。


「……今回、限界来るの早かったんじゃないの」

「へへ、ちょっと頑張りすぎたかも」

「馬鹿」


 端的に貶しながら、その体を抱きしめてやる。女の子の体というものはどこもかしこもやわらかくて、しかもなんだかいい匂いがする。

 せめて臭ければ、僕だってこんなことには付き合ってないのに。


「あ~~沁みる……」

「ほんとおっさんみたいな声出すよね」

「気持ちいいんだからしょうがないでしょ。女子大生にだっておっさんはいる」

「おっさんみたいな女子大生はいても、おっさんの女子大生はいない」

「細かいなあ天瀬(あませ)


 顔は見えないが、きっと唇を尖らせている。そういう声音だった。


 彼女は井坂あゆか。大学の同期生だ。

 同じ学部だからよく授業が被る。そのうえ、お隣さん。嫌でも関わりはできてしまって、そしてなぜだかこんなことになっている。


 僕と井坂は付き合っていない。友達ですらない。

 ……というのはちょっと違うかもしれないが、表現するならば『ハグするだけの友達』だ。

『天瀬くん、私とハグするだけのお友達になってくれない?』と言われて始まった関係性。


 井坂は本人曰く、ハグ依存症らしい。よくわからないけど。

 実家にいた頃は家族と毎日していたからよかったが、大学入学と共に一人暮らしを始めてからは相手がいなかった。友達には弱みを見せたくない。さあ困った。

 ――そこでどうして僕を選ぶ? とは思うものの、友達ではないけれど知り合いで、しかもお隣さん、おまけに恋人なしというのがちょうどよかったのだろう。


『天瀬くんなら危ないことにはならないだろうし』


 謎に信頼しきった顔で言われて意味がわからなかった。そんなに親しくもない男を簡単に信頼するな、とこんこんと説教したのに、井坂はおかしそうに笑っただけだった。



 井坂あゆかは、完璧な女の子だ。

 この関係性になる前は、そう思っていた。

 勉強も運動もなんでもできる、キラキラした陽キャ。彼女の周りにだってそういう人ばかり集まる。……だからこそ、そいつらには弱みを見せられないのだろうけど。



「……よし、満足! 今日もありがと! お礼に唐揚げ作ったげる。お腹空いてる?」


 ぱっと僕から離れた井坂は、満ち足りた表情で首を傾げた。

 こいつの発作に付き合う代わりに、一食ご馳走してもらう。学費を払うためにほぼ毎日バイトに勤しむ身としては、大変魅力的な取引だった。


「割と」

「じゃあ今から漬け込んじゃお。揚げ終わったらまた連絡する~。別にそれまでここいてもいいけど」

「いる。漫画貸して」

「あい。好きに読んでて」


 部屋を出ていく井坂。井坂の部屋には椅子がないので、ベッドに座っていいと以前言われている。

 付き合ってもいない男を自分のベッドに座らせるな、とそのときも注意したが、「天瀬くんなら平気でしょ?」とけろっと言われたので諦めた。


 一度襲うふりでもしたらさすがにわかってくれるのでは、とは思う。

 けれど残念ながら、『ふり』で済ませられそうな期間はとっくに過ぎ去っていた。

 今の僕は、非常に悔しいが井坂のことを好きになってしまったので。


 本当に悔しい。単純接触効果があるとしても、自分がチョロすぎて悔しい。

 いくら可愛い女の子と頻繁にハグをするからって、いくらその子の作る料理が美味しいからって、こんなことで好きになったらだめだろう。だめだと思う。


 とりあえずは『ハグするだけの友達』を維持するために、変な反応をしないように必死に耐えている。

 ベッドに座る女の子、しかも好きな女の子を抱きしめて微塵も反応させない僕は讃えられるべきだと思う。なんらかの賞を与えられていい。


「天瀬ってゴーヤ食べれる~?」


 キッチンからの声に、「食べれる!」と答えながら漫画を手に取る。少女漫画。意外と男でも楽しめるものなのだと、この部屋に来るようになってから知った。

 ――それが恋だよ、気づきなよ、と主人公とヒーローに謎目線で突っ込みを入れながら読み進める。二人とも自分の心に鈍すぎて焦れったかった。


 こんなにわからないものなんだろうか。

 僕は井坂のことを好きになってすぐに自覚したつもりだから、自分の気持ちに気づかずに右往左往する人たちのことがよくわからない。

『恋』の定義は人それぞれだけど、人それぞれだからこそ、最終的には自分で結論づけるしかないのだ。

 その結論づけは早ければ早いほどいい……と思うのは、間違っているんだろうか。


「天瀬ー、できたよー」


 しばらくしてキッチンからお呼びがかかった。漫画を閉じる。

 ベッド脇にしまわれていた折り畳みのローテーブルを出してから、僕は井坂のもとに向かった。

 盛り付けられた品々を、井坂は「じゃーん!」と見せびらかした。


「おいしそうでしょ~。運んで運んで」

「うん、今日もおいしそう。ありがとう」

「……うむ」


 僕の分の食事をトレイに載せて、また寝室へ。

 山盛りの唐揚げに、ゴーヤの……マヨネーズ和え? と、きゅうりの漬物、茄子の味噌汁、白米。

 和食のときは毎度一汁三菜なのがすごすぎる。ごめん今日は手抜き、と謝られるときだって、メインとサラダは絶対にあるのだ。


 後ろから自分の分を持ってきた井坂は、食事を置いてラグに座ってから、ぱたぱたと手で顔を仰いだ。


「はーあっつ……生き返る……クーラー最高……夏に揚げ物とか正気じゃないなあ」

「無理しないでよかったのに……というかやっぱり、夏場はドア開けて料理すれば?」

「人いると緊張しちゃうんだってば~。私見栄っ張りだから」

「そんなの知ってる。大変だよね、見栄っ張りも」

「……そうだよぉ」


 むうっという顔をした井坂は、気を取り直したように「いただきます」と手を合わせた。僕も同様に続けて、唐揚げに箸を伸ばす。


「どう? おいしい?」

「うん、すごいおいしい」

「えへ、でしょ。あ、こっち側はにんにくね。こっちは梅酢。今食べたのはポン酢」

「いつもながら手が込んでるよね」

「そりゃあ見栄っ張りですから。……んー、おいしい、さすが私」


 自分でも唐揚げを口にして、にこにこと目を細める井坂。


「……このゴーヤは、わさびマヨ?」

「せいかーい。おいしい?」

「うん、食べやすいしおいしい。全然苦味ないんだね」

「えっへん、下拵えもしっかりしたので~。あ、きゅうりはもうちょっと漬けたほうがよかったかも……ごめん」

「そう? これくらいでも好きだよ、さっぱりしてて」

「……味噌汁味薄くない?」

「今日は唐揚げに味しっかりついてるし、味噌汁はこれくらいがほっとしていいんじゃない?」

「……」


 にこにこ顔がどんどん仏頂面に変わっていく。井坂は難しい。


「もー、天瀬! 私を甘やかすなー!!」

「僕が心にもないこと言うと思う?」

「おも……わないけどぉ……っ」

「じゃあ別に甘やかしてるわけじゃないってわかるでしょ」

「わかるけどお!」


 何がそんなに納得いかないのか、ご機嫌は直らない。むすーっとしたまま、井坂はよく噛んでご飯を食べ進めた。


 甘やかされることが苦手なくせに、誰かとハグしなきゃ下手したら倒れるのだから、井坂は難儀だ。

 こんな関係が始まったのも、マンションの部屋の前でうずくまる彼女に声をかけたのがきっかけだった。「ごめん、ほんとにごめんなさい、ちょっとでいいからぎゅってしてください……」と死にかけの声音で返されて、何事かと思った。

 救急車を呼ぶような事態ではなくてよかったが、そんな限界が来る前に適当な女友達とハグしてしまえばよかったのに。


 ……それができないのが、井坂あゆかなのだけど。



「ごちそうさまでした」

「はーい、今日も綺麗に食べてくれてありがとう~」

「今日もおいしいご飯ありがとう」

「……お皿洗わなくていいからね!」

「洗うから」

「はあい……」


 なんとなくしょげて見える井坂に「ん?」と両手を広げてみせる。悔しそうな顔で抱きつかれた。

 ぎゅうう、と数秒力いっぱい抱きしめて、満足したのか井坂は離れていった。


 二人分の食器を流しに運ぶ。

 あっつい。この中で揚げ物をしていた井坂は本当に正気じゃない。見栄っ張りにも程がある。

 僕は井坂の情けないところをもう随分見ているんだし、もっと気を抜けばいいのに。


 洗い始める前に、井坂が寝室のドアを開けてくれた。涼しい空気がふわりと入ってきて、息がしやすくなる。


「天瀬、この後暇だったら一緒に映画観ない?」

「いいけど、一応僕たち、ハグするだけの友達でしょ」

「もうここまで来たら普通に友達じゃん!」

「井坂がそれでいいならいいけど……普通の友達には弱味見せたくないんじゃないの?」


 ――単純な疑問を口にしただけだった。

 だけど井坂は、「あ」と小さく声を漏らして固まってしまった。


 ……意識させないほうがよかったのか? でも井坂なら、僕が言わなくたっていずれ自分で気づいただろう。

 とりあえずは、洗い物に集中する。

 水切りカゴに全て入れ終わったとき、ようやく井坂は復活した。


「……ハグだけ、お願いします」

「うん、大丈夫だよ」

「甘やかすなよお、泣いちゃうじゃん……」


 本当に泣きそうな顔で、井坂は笑った。



     * * *



 井坂に呼び出されるのは、大体二週間に一回ほどだ。井坂が気を張りすぎたときには、三日と経たずへるぷが飛んでくることもある。

 ハグして、ご飯を一緒に食べて、必要であればまたハグをして、僕は自分の部屋に帰る。それだけの関係が、もう一年以上続いていた。


 大学三年の夏ともなれば、人によっては就活に勤しんでいる時期だ。

 僕はまだ、インターンをちらっと調べているくらいだけど、井坂はがっつりイベントに参加しているし、インターンだっていくつも申し込んでいる。そのせいもあって、『へるぷ』の回数が増えていた。

 僕としては、嬉しいような、苦しいような、というところである。



 そんなある日、井坂は神妙に話を切り出した。


「……今日サークルの友達に告られたんだけど」

「ハグするだけの友達はお役御免?」

「は、話が早すぎる、いやそうじゃなくて、早すぎて困る、違うんだよ」


 あたふたと慌てて、井坂は続ける。


「天瀬、彼女欲しくない!?」

「……別に」

「今の間怪しい! やっぱ欲しいの……!? 私に遠慮してた!?」

「遠慮はしてないよ」


 彼女になってほしい人なら目の前にいるが、それ以外の女の子は今のところ特に必要としていない。

 だというのに、井坂の耳には僕の言葉なんて入っていないようだった。


「いやっ、なんか久しぶりに恋愛って存在を思い出したっていうか! そういえばそういうのあるなって……。もしかしたら天瀬にも好きな人できてて、でも私とハグ友やってるから告白とかもできなくなっちゃってるのかな、告白されても付き合えなくなっちゃってるのかなぁって思ったら、もう居ても立っても居られなくて、返事するのも忘れて帰ってきちゃって!」

「……かわいそ」

「ほんとにね!? 明日謝ってくる!」

「追い討ちになりそうだからやめたほうがいいんじゃない?」

「天瀬、私に遠慮なんてしなくていいからね!」


 聞いちゃいない。

 普段は人の話を丁寧に聴いてくれるのだが、慌てているときにはすぐにこんなふうになるのだ。

 ひとしきりしゃべらせれば落ち着くので、今回もそうしようと思った――のだが。



「天瀬がいなくても私、大丈夫だよ。最悪マッチングアプリとか使えば、いい感じに後腐れない人にハグしてもらえるだろうし」



「……へええ」


 自分でも驚くくらいに低い声が出て、思わず目を瞬いてしまう。井坂も目を丸くして僕のことを見つめている。

 マッチングアプリ。詳しくはないが、それは、ハグ以上のこともするんじゃないだろうか。

 『いい感じ』の人に出会える可能性はどのくらいある? 君が気を許せる相手に出会える可能性は? それとも気を許せなくても、気軽にハグができるのなら誰でもいいのか。


 おかしな沈黙を、僕は咳払いで断ち切った。


「……井坂はそんなのでいいんだ、ふーん」


 あまりにも子供っぽい言葉だった。密かに冷や汗をかく。……僕らしくもない。

 だけど動揺している井坂は、僕のそんな様子を気にしてはいられないようだった。


「そ、そんなのって……だってそんな簡単に天瀬みたいな人見つからないし……」

「探さなくていい。別に彼女は欲しくないから。というか、僕と井坂が付き合うんじゃだめなの? 一番都合いいと思うんだけど」

「…………なるほど!?」


 はっ、という顔をする井坂。

 いや、なるほどじゃないでしょ。頭いいくせに本当馬鹿。


「でも私、天瀬とはハグ友でいたいなあ……」

「……そう」

「私の考えが甘かったな……よく考えたら、ハグって誰でもいいわけじゃなかった。安心できる人じゃないと!」


 少しだけ気分が浮上する。やっぱり誰でもいいわけじゃないのか。


「僕は安心できるの?」

「そりゃあもう! なのでこれからも、天瀬に好きな人ができるまではお願いしたいなあって……思うのですが」


 おそるおそる、だけど僕を信頼しきった目で、井坂は僕を見てくる。

 ……深いため息をつけば、井坂の顔がぱあっと輝いた。ため息を返事代わりにするような奴に、そんな顔向けるな。


「……一個訊きたいんだけど。もしかして僕を信頼してるのって、何か根拠ある?」

「えっ、あー、言うほどのことはないかな~」


 目を逸らされる。何かあると言っているも同然だった。

 普段だったら突っ込まないでいてあげるところだけど、今日はそんな気分にはなれなかった。


「気になるから言って」

「……そんな気になる?」

「うん。言いたくないなら言わなくてもいいけど」


 井坂はこういう言い方に弱い。案の定、「い、言いたくないってほどでも……」と視線をさまよわせ始めた。

 やがて観念したように、そうっと口を開く。


「……清水(しみず)あゆかって名前に、聞き覚えは?」


 清水あゆか。うっすらと記憶に残っている。

 だけど、ぴんとは来なかった。

 清水あゆかは中学の同級生で――暗くて、いつもおどおどしていて、人と目を合わせることなんてできなくて、勉強も運動もだめで、クラスでいじめを受けていた。


 目の前の、井坂あゆかという存在と、まったく結びつかない女の子だった。


「……あの清水? 同じ中学だった?」

「お、覚えててくれたんだ。そう、その清水。親が再婚したから名字は変わったんだけど」


 まじまじと井坂のことを見てしまう。確かに言われてみれば面影があるけど、言われてみれば、程度しかない。

 別に前の井坂のことだって嫌いではなかった。お礼を欠かさない子だったし、できないことにだってちゃんと向き合う子だったし、努力家という言葉が似合う子だった。

 だからまあ、変わっていないといえば変わっていないのだろうけど。


「すごい頑張ったんだね」


 素直な賞賛に、井坂の顔がじわりと赤くなる。耳まで真っ赤にして、「へへ……」と照れくさそうに笑って――


 それから、大げさな動作で両手で顔を覆った。


「ありがとう、ごめん、あの、そういうのめちゃくちゃ予想外でっ、でも天瀬ならそう言ってくれるだろうなって納得もあってね、ごめんありがとう」

「どういたしまして」

「……天瀬は本当に変わんないねえ」

「変わりたいと思うような出来事も起きなかったし」

「だから信頼してるんだよ」


 手を顔から外した井坂は、完璧な理由でしょ、と言わんばかりの表情を浮かべている。

 いや、全然わからない。


「同じ中学だったってだけでなんで信頼するの?」

()()じゃないんだけど~!?」


 井坂はむっと前のめりになった。


「クラスで一人だけ普通に接してくれてたし! 給食、他のみんなが机離してても、天瀬はくっつけてくれて……それどころか向かい合わせで食べてくれたし! ノート捨てられたときなんて、わざわざ私用のノート作ってくれたし! 水泳の後制服隠されてそのまま教室戻ったら、すぐ体操服貸してくれたし!!」


 そんなこともあった。

 正義感なんていう綺麗な感情で動いていたわけではなく、単純にそんな奴らと同類と思われたくなかっただけだ。今の僕だったらたぶんそんな面倒なことは……いや、やっぱりムカつくからするだろうな。

 いい思い出なんかじゃないだろうに、井坂は懐かしむような顔でふっと微笑んだ。


「天瀬にとっては大したことじゃないのかもしれないけど……私はずっと感謝してたし、大学でまた会えて、本当に嬉しかった」

「……清水だって気づけなくてごめん」

「気づかれないように意識してたから! あなたのおかげでこんなに変わりました~なんて、バレるの恥ずかしいじゃん」

「変わった原因僕なの?」

「そうだよぅ」


 もう一度、井坂のことをじっと見てしまう。

 真っ黒で、前髪なんか野暮ったいくらい長かったのに、今じゃ軽やかな茶色のショートボブ。ナチュラルに見えるメイクはたぶんすごく丁寧に施されていて、化粧っ気のかけらもなかった中学の頃からは想像できない。

 外見だけでも別人みたいに変わったのに、中身だって……根っこの部分は同じでも、相当変わった。


 それが、僕のおかげ?



「そんなの――」



 僕のこと好きみたいじゃん。


 そう言いたくなったのを呑み込む。井坂は単純なので、その言葉だけで影響を受けてしまうだろう。本当はそうじゃないかもしれないのに、僕のことを好きだと思い込んでしまう可能性がある。

 それは、駄目だ。

 井坂の恋を『恋』と定義していいのは、井坂だけなんだから。


「そんなの?」


 きょとんと、首をかしげる井坂。


「……そんなの、すごく嬉しいなって」

「えっ、嬉しい!? 嬉しいって思ってくれるの!? え~、そうなんだあ、なんだ、もっと早く言えばよかった!」


 井坂のほうがよっぽど嬉しそうだった。……僕ももっとにこにこしたほうがいいんだろうか。

 井坂の表情を真似するつもりでにこにこしてみたら、「ひえっ」と悲鳴を上げられた。


「ごめん、上手く笑えてなかった?」

「いや……むしろ逆……すごく上手だったと思う……」


 本気で言っているのか慰めなのか、いまいちよくわからない反応だ。

 まあ、どっちでもいい。にこにこする機会なんてそんなにないだろうし。


「とにかく井坂、納得はしたけど、やっぱりそんな信頼しないほうがいいよ。僕だって男なんだから。最低限でもいいから、危機感警戒心はしっかり持つこと。わかった?」

「はーい」

「絶対わかってないでしょ」

「わかってるよ~。万が一何か起きたときは危機感警戒心を持たなかった私が全部悪い!」

「駄目なわかり方だよ、それ……」


 一瞬、今ここで告白してしまおうか、という考えが頭をよぎった。そうすればさすがに、井坂だって無条件に信頼を預けてきたりしないだろう。

 だけどそれは、彼女から安心できる居場所を奪う行為でもある。

 ……うん、できないな。


 すべてを諦めて、僕は両手を広げた。


「それで? せっかく呼び出したのに、今日まだハグしてないけど。いいの?」

「よくない!」


 慌てて飛び込んでくる、と思いきや、井坂は中途半端な体勢で止まった。「どうした?」と訊いても、あいまいな唸り声のようなものが返ってくるだけ。

 ……本当にどうした?

 手を下ろしたところで、ようやく井坂がほんの少しだけ僕に近づいてきた。


「その、天瀬……天瀬のことはそりゃあもう信頼してるんだけど、あのね……」

「警戒心が生まれたならいい成長だよ」

「そういうのでもないの! 単純に! なんか恥ずかしいだけ!!」


 今更? と首をかしげてしまった。今まで何度もハグをしてきて、ただの一度もためらったことのない井坂が。恥ずかしい? ……なんで?

 うぅぅ、と今度ははっきりと唸る井坂の顔は、確かに羞恥心からか赤くなっていた。


「ひ、久しぶりに思い出したって、言ったじゃん……?」

「何を?」

「……恋愛の存在! を!」

「ああ、うん」


 ――なんだか僕の都合のいい方向に進んでいるような気がして、逆に怖くなる。別にそんなの求めてないんだけど。


「そしたらなんか、今、天瀬をぎゅってするのがめちゃくちゃ恥ずかしくなってて、なんだろ、なんでかな!?」


 それを僕に訊くのか。



「………………僕のこと好きだからじゃない?」



 結局耐え切れずそう言ってしまった僕は、『ハグするだけの友達』失格なのだろう。

 単純で馬鹿でかわいそうで可愛い井坂は、「そ、そうなのかも!」と世紀の大発見をしたかのような表情を浮かべた。


「いや、たぶん違うよ」

「違うの!?」

「僕は井坂のこと好きだけど」

「うええ!?」

「冗談」

「だ、だよね」

「――を、僕が言うと思う?」

「思わないぃ……」


 井坂の目がぐるぐるしてきた。明らかにキャパオーバーしている。

 ……これっていじめてることになる? だったら嫌だな。


「ごめん、井坂は僕のこと別に好きじゃないと思うけど、僕は井坂のこと好きだよ。不快だったらもうハグはしない」

「ふっ、不快なんかじゃ!」

「そういうのを判断できるほど、今冷静じゃないでしょ」


 ばっさりと言えば、井坂は「はい……」と勢いをなくした。


「とりあえず今日のところは帰るから、大丈夫そうだったらまた呼んで」

「……呼んだらすぐ来てくれる?」

「うん。バイトのシフトもいつもどおり送っとくから、確認だけしといてくれれば」

「ごはんも一緒に食べてくれる?」

「うん。井坂が平気なら」


「今ハグしてもいい?」

「うん――は?」

「いやっ、今する勇気はないんだけど……!!」


 本当に、は? だ。それは。

 思った以上に、井坂の精神状態をめちゃくちゃにしてしまったらしい。悪いことをした。

 とはいえ勇気がないだけで、したい気持ちはあるのだろう。おそらく。

 それなら僕のほうからすればいいだけの話なので、下心もなく、本当に軽く、井坂の体を抱きしめた。小さく悲鳴が上がった。


「それじゃあ、また」

「天瀬のそういうとこほんと変わんないぃぃ……!!」

「どういうところ? いや、いいけど。またね」

「またね……」


 力なく見送られて、井坂の部屋を後にする。

 井坂の僕に対する感情が、果たして恋なのか、ただの友情なのか、はたまた全然違うものなのか。……実際のところ、なんだっていいのだけど。

 極端な話をしてしまえば、井坂の人生に僕は不要だと、はっきり言われたっていい。


 ただ、井坂の心が平穏であればいいな、と願う。

 その平穏を今さっきかき乱してしまった僕が願えることではないけど。



 僕の部屋のドアを開ける。鍵をしめて、チェーンもかける。――スマホの通知音が鳴った。

 ロック画面には、『ヘルプ』の三文字。……変換できているのは、冷静の証と見るべきか否か。否だな。絶対に冷静じゃない。

 指先で返信を打ちながら、かけたばかりのチェーンと鍵を開け直す。


『説教』


 また通知音が鳴ったが、画面は見ない。どうせ、『なんで!?』とかに決まってる。

 それは君が、今僕を呼び出す意味をちゃんと理解してないからだよ。この馬鹿。

 こういうのは口で言ったほうが早いし、井坂にも効く。


 ドアを開ける。同時に、隣のドアも勢いよく開いた。飛び出てきた井坂は――僕を見て、くしゃりと顔をゆがめた。


「説教はいらない! ちゃんとわかってる!」

「いや、わかってないと思う」

「わかってるもん!」

「そんな焦って結論出さなくていいんだよ」


 結論づけるのは早ければ早いほどいい。そう思っていたはずなのに、井坂に対しては真逆のことを言えてしまう。

 井坂は小さな、本当に小さな声で、「だって」と訴えた。


「だって、好きだといいなって、思ったんだよ。これが好きってことならいいなって、思ったの。だめなの? 違うの? ――だめだって言われるのも違うって言われるのもやだよ」


 泣きそうな声音なのに、表情は違った。意志の固さが伝わってくる、何もかもすべて決めたような顔。

 またため息をついてしまった。井坂のせいで、ため息が癖になってしまった気がする。どうしてくれるんだ。


 こんな顔でこんなことを言われたら、僕にできることなんて、いつもみたいに両手を広げることだけだった。


 ぶつかるように飛び込んできた井坂の体を受け止めて、彼女が満足するまでされるがままになる。


「……だめも違うも、言わないでくれてありがとう」

「言えるわけないでしょ。それはそれとして、後で説教はさせて」

「なんで!?」

「めちゃくちゃにされた八つ当たり」

「めちゃくちゃにされたのはこっちだよ~!!」


 非常に不満そうに、それでいて楽しそうに、笑って言い返してくる井坂。抱きしめているせいで、その顔が見られないのが少しだけ残念だった。

 ……でもまあ、今の僕がどれだけ情けない顔をしているか見れないのは、井坂にしても同じ話だし。

 ここはお互い様だということにしておくのが、一番平穏だろう。


 だから僕はただ、井坂を抱きしめる力を強めた。





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