真に恐れるべきもの
たい焼きにはロマンがある。何せこいつらはここを抜け出して、海まで行かないといけないのだ。
だがそれは歌の中だけの話ではない。こいつらがここを逃げ出したくなる気分はよく分かる。アルバイトを始めて三日目だが、私もこいつらと同様に、いつここを逃げ出すかばかりを考えていた。
「でき上がったよ」
焼き場の前にいる大淀氏が私に声をかけた。この灼熱の物体を薄いビニールだけをつけた手で、パットへと並べていかないといけない。本当にこれはビニール如きで大丈夫なものなのだろうか?本当は軍手が必要なのではないかと思う。それも厚手の奴だ。
初日にこれを不用意に触った私は、明らかに指の先を火傷した。これは思ったより重症で、何を触っても指の先がピリピリと痛む。この傷は私の日常生活に多大な影響を与えてくれた。
私がたい焼きをまるで危険物(実際にそうだ)を取り扱うように慎重にパットに放り投げているのを見た大淀氏は、腰が引けている私を尻目に、新しい生地を型の上に流し込みながら、片手でそれをパットへとひょいひょいと並べていく。
私は本当に必要なのだろうか?
大淀氏は採用の面接の時に、私と同じような女子大生の娘がいてと話していたが、そうでなかったらとっくの昔に首になっているのかもしれない。個人的にはもう首にして欲しいと切実に思っている。僅かばかりの自尊心が、自分から辞めるのを留めているだけだ。
そもそも大淀氏の手は私と同じ手なのだろうか?熱伝導率が違うか、指の皮の厚さが違うかのどちらかだと思うが、熱伝導率に違いがあるとは思えないので、きっと指の皮の厚さが私とは相当に違うのだろう。
でもここから私が逃げ出したいと思うのは指の皮の厚さだけの問題ではない。ともかく暑い。いや灼熱地獄だ。厚いアクリルに仕切られたこの狭い空間で盛大にガスが焚かれて、それで熱せられた鉄板から放熱されている。さらに厚手の生地の、白い料理服もどきも着させられているのだ。
これははっきり言って拷問としか言えない。つまりここに居るたい焼きも私も、日々拷問を受けているのだ。逃げ出したいと思うのは当たり前の話である。
私の横で大淀氏がまるで機械のように繰り返したい焼きを作っている姿を見ると、中身はアメリカの大きな州の元州知事が演じた、一見すると人でも、実は人とは別の存在と同じなのではないかとすら思えてくる。
「でき上がったよ」
再び私の目の前に、私同様に哀れな存在が現れた。私は既に火傷している指でそれを必死につまんだ。だが一匹のたい焼きが指先のよれたビニールに滑って、隣の洗い場のシンクの中へと落ちた。
「あ、まだ新人だからね。気にしないで、ともかく残りをパッドに並べて頂戴。これが本当の油断たい焼き、な〜んてね」
大淀氏がそう私に告げると、再び型に生地を流し込んでいく。私は熱さと痛みに悲鳴をあげそうになりながら、それをパッドの中へと並べていった。
その途中でも注文を受けたたい焼きを、レジ前にいる私の母親ぐらいの年齢のパートのおばさんが、まだ熱いはずなのに無造作に袋へと詰めていく。本当に彼ら彼女らは自分と同じ存在なのだろうか?
しばらくしてから、私はシンクの中に落ちた一匹のたい焼きを取り上げた。それは何とかまだたい焼きの形は保っていたが、焼き上がった時のパリッとした感触とは違って、水を吸って膨らみ、まるで使い古しのスポンジのような感触だった。持ち上げた私の手の中で、尻尾の端が流しへと落ちていく。
わずかの時間ですらこれだけ変わる。海の底に沈んで何日も経ったそれを食べ物として認識できたのだ。やはり世のおじさんと言う存在は私達女子大生には理解不能な、謎の生命体に違いない。
Cinq_en_sionさんの「たい焼き」というお題にのかって書いた短編です。