右肘
右肘を掻いた。最初は、と言って思い出したのは、他になかった。
居間の棚の前に立つと、右肘を刷毛で撫でられているような感覚だった。その実、痒みではなかったのだ。どうしてそれを掻いたのか、理由は思い出せなかったが、肘にそんな感じを催したことがなかったから、以外に思いつきようがない。
それで、その右肘をなでる感覚はしょっちゅう起こるわけではなかった。
それが二日も三日も続けば、あれおかしいぞと懸念とは言わないまでも、きっかけはなんだろうとか、見えない肘を抱えて見ようともする。
虫刺されでも、できものでも、内出血もなかった。
二度あることは三度あるくらいの、単なる偶然と片づけられるのは回数が指で数えられる範囲だけで、数日経っても同じ場所で同じ感覚がすると言うのは、回数を重ねるほど気味悪くなる。しかも何気なく目に入ってしまった時計。そういえばと思い出して見れば、ほぼ同じ時間だった。同じ時間、同じ場所、同じ身体の部位。因縁とかいう言葉が何の根拠もなく頭に浮かんだ。信心の深浅はここに出る幕はない。あるのはどうやったらこの感覚を取りされるのかの方法であり、どうしてこうなったのかという明晰な原因だったからだ。
翌日実家に電話を掛けた。仏壇をきれいにしているかとか、神棚の榊を取り換えているかとかを確かめるためではない。
仕事帰りに寄ったデパートで新製品のお菓子を見つけたので、それを送ったと伝えるためだった。また半年近く実家に連絡していなかったというのもどこか引け目みたいに感じたからでもあった。
「それは気を使わせたね」
「いや、別にいんだけど、なんか他人行儀だね」
「いえね、加藤先生が亡くなったからね」
「え? 誰だって?」
「加藤先生、覚えてない? 小学校の頃通ってた書道教室の先生」
「覚えてるけど、亡くなったの?」
「ええ、一週間くらい前に。お父さんが通夜に出てくれたから。あなた、帰省した時にでもお線香上げに行きなさい」
「そん時教えてくれればいいのに」
「だってあなた連絡ないじゃない、忙しいと思うわよ。それに先生とはいっても2年通って辞めちゃったから」
それは連絡をよこさないはっきりとした理由ではない。けれど母親を責めるのも筋が違う気がした。
「でも、それにしてはトーンが低いね」
「ああ、それね。それは明日がシロの命日だからよ」
「ああ……」
シロとは、以前飼っていた犬である。
「だから、あなたのお菓子を供えるわ。忘れていたのでしょうけれど、シロもきっと喜ぶわ」
犬の喜びを、しかもすでに亡くなって7年経つ犬の喜びを推測するのは無粋だ。人間の憶測はかえって自己満足でしかない。母親が確かにかわいがっていたことを思い出す。それは彼も同じだった。小学校の頃、中学校の入るくらいはよく散歩に連れて行った。それをしなくなったのが何年の何月何日だったかは思い出せない。部活や勉強でてんてこ舞いになり始めたころとは、漠然に思い出せた。いや違う、それを言い訳にしてシロを散歩に連れて行くのを拒否していたのだ。働き出してわかる、母親や父親の方が忙しかったはずだ。
大学の三年。ふらと帰省した時に父親からシロが亡くなったことを聞いた。あれだけ面倒くさがっていた散歩を、もっと一緒にしてやればよかったなどと思った。身勝手だ。
それから二言三言交わして電話を切った。
亡くなった書道の先生。
飼い犬の命日。
「あ」
彼は右肘をなでた。
あれは撫でられている感触。筆で。
シロは事故にあったことがある。けがをしたのだ。右の前足を。
「……」
彼は無言で何度か右肘をさすった。
その日から何日経っても、何週間経っても、あの時間、あの場所にいても右肘が撫でられる感触はなかった。