『理路整然としない、言葉の拝跪』・・・『詩の群れ』から
『理路整然としない、言葉の拝跪』・・・『詩の群れ』から
㈠
自己の、言葉の理路整然は、他者に、意見が通じるということで、必要だろうだ。
だろう、しかし、理路整然としていないのが、芸術じゃないか、え?
だな、其処が難しいところで、自己は何のために生きるか、ってことなんだ。
だろうだ、生きる意味、我々は再度、問い直さなければならないだろうだ。
㈡
同時に、理路整然としたものも、評論では必要だな、だろうだ。
だろうな、そう言う意味では、理路整然自体が、芸術と密接なんだよ。
成程な、そして、理路整然としない言葉に、我々は拝跪の形式を取るんだ。
そうか、それは、確かに、すごいことだよ、だろうだ。
㈢
つまりは、理路整然としない、言葉の拝跪ってことで、詩の群れ覚醒だろうだ。
だろうだろうだ、拝跪確定で、自己も超越だろうだろうだろうだ。