間違った正しさを押しつけんな
えーと。
私、他人の作品について他人が書いた感想を某巨大掲示板とかで傍観していたりして、たまによく思うことがあります。
「自由に書かせてあげりゃよくね?」
わかりにくい部分の的確な指摘とか日本語の間違いに対する訂正とか、もっとこうすれば面白くなるかも的な提案とかだったらまだしも、
『こういう世界観は需要がない』
『なろうテンプレを理解してない』
『誰も傷つけないような作品じゃないとダメ』
『ハッピーエンドじゃないものをどうして書くのか』
『主人公や登場人物に共感できない』
……いや、ね。
『この登場人物嫌い』とか『こういうストーリーは嫌い』だったら何も問題はないと思うんですよ。
個人の感想は自由ですからね。
無理矢理「好き嫌い言ってんじゃねぇ! 好きになれや!」とか押しつける気はまったくないです。
でも、逆に『こういうのはダメ!』『こういうのを書けや!』と押しつける人に対しては、物申したくなるんですよね。
上に挙げた中でも私が最も「ハァ!?」と思ってしまうのがこれ↓です。
『主人公や登場人物に共感できない』
『こんな特殊な主人公には自分を重ねられない』
『もっと入り込みやすい空っぽな主人公にしてほしい』
うーん……。
もしかして、こういうのって、ゲームのやりすぎなのでは? と思ってしまいます。
アドベンチャーゲームやRPG、サウンドノベルの話ならこれ、確かに言うことわかると思えるんで。
個人的な考えですが、小説って他人の目で世界を見ることを楽しむものだと思っています。
中には主人公に自分を重ねて楽しむような小説もあるんでしょうけど、少なくとも私はそういうものはゲームブックぐらいしか読んで来ませんでした。
昔読んで夢中になった小説にレフ・トルストイさんの「アンナ・カレーニナ(堅苦しい古典文学みたいに認識されてると思うけど、これが実に面白いんですよ! 超オススメ!)」があるんですが、これの主人公のリョーヴィンさんは、はっきり言って私によく似ています。
不器用で、社会常識に疎くて、頭のいい人達からバカにされ、親類には迷惑をかけてばっかりで、何かに夢中になると他がまったく見えなくなるような、それでいて自分は正しい道を生きているのだと固く思っているようなオタク。
作品は現代で言ったらまるで「ナード」みたいなこのリョーヴィンさんを肯定し、青年将校との恋に燃え上がって波瀾万丈を生きる現代で言ったら「リア充」みたいなアンナ・カレーニナさんを否定します。
まぁ、リョーヴィンさんもエカチェリーナたんという可愛い恋人と結ばれ、結果的にはリア充になるんで、正直自分が可愛い恋人と結ばれたみたいな充足感を得て、「リア充ざまあ」みたいな読後感はあったので、主人公に自分を重ねる読み方を否定する気は、実はないんです。
ただ、リョーヴィンさんには自分とは決定的に違うところもありました。
彼はもちろんですがロシア人で、敬虔なキリスト教徒で、神にいたる道を生きることを信条としている人物です。
ストイックに己の欲望を抑え、作中にそういう記述はなかったようには思いますが、間違いなく「エロ=悪である」と考えているような人物です。
当時、神とは胡散臭いもので、「エロ=天国」としか考えていなかった私(あ、今もか?)にとって、「エロ=悪」という考え方は、「そんな考え方もあるのかよ!」と青天霹靂のごとき、思いもかけなかった衝撃でした。
しかもネットの情報とかなら「朴念仁かよw」「それじゃ女は喜ばねぇぜww」とツッコんで終わりなところ、小説ですからその考え方をリョーヴィンさんの目を通して「体験してしまった」からさぁ大変。
リョーヴィンさんは、自分ではなかった。
それどころかこの作品を読んでからしばらく、自分が自分ではなくリョーヴィンさんになってしまったように、すべてのエロいものを「神の道を遠ざける悪しきもの」だと見るようになっていたような気がしますね。
自分をリョーヴィンさんに重ねていたんじゃなかったんです。
リョーヴィンさんの目を通して世界を見ることで、自分がリョーヴィンさんになってしまっていたんです。自分が自分じゃなくなり、未知のロシア人の中に入り込んで、未知のロシア人の考え方で物を考えていたんです。
自分の殻を破ったというか、まったく自分の中になかったものを他人の視点で体験してそれを自分の糧とできたというか。あるいは自分の中にあるけど気づいていなかったものを気づかされたというか。
まぁ、今では十分普通にエロい人に戻れましたけど。
とにかく「他人になる」という体験を、強烈なまでに小説は、私に与えてくれました。
うーん。
何が言いたいのかわからなくなったけど。
別に主人公に読者の視点を重ねて読者が世界を冒険するみたいな小説があってもいいと思います。
それはゲームでは当たり前のことだし、ホラーやサスペンス小説みたいに事件を体験する小説ならよくあるかもしれないので、新しい小説の形だとは思わないし、何よりそういうののほうが需要があるのなら私が否定したってどうにもならないし。
ただ私が言いたいのは、主人公に読者を重ねることが出来ないような小説を否定するなということ。
むしろ私にとっては他人の視点(未知の視点)で世界を体験することこそ小説の楽しみなんです。
そして「なろう」でもそういう作品を探し出して読むのが好きなんで、ゲーム的小説を書け!みたいな押しつけがもしあるのなら、それは害でしかないと思っています。