いわゆる『恋の病』と言うやつでしょう?
どうにも集中力を欠いている。
エルフリーデを見ていて最初に思い浮かぶ第一印象はこれ。
お部屋で身支度をしていても、食事をしていても、授業を受けていても、どこか上の空の彼女の頭の中を占めているのは間違いなく先日のこと。
夕暮れの、人気のない教室棟の廊下でのハルカさんとのやりとり。
私はその場にいなかったし、その後直接的な言葉をエルフリーデから聞いていませんから確定的なことは言えませんが、私が思い至った結論に間違いはないはずです。
ここ数日、遠くにハルカさんがいるのを見かけても声をかけに行かない。それどころか顔を真っ赤にしてその場から足早に去っていく。
そしてハルカさんから声をかけられても、何かと理由をつけて逃げ出していく。
正直に申し上げましょう。これをリアルに目の前でされてしまうと非常に鬱陶しい。
なんで正面から向き合えないんですか! と喋ることが出来れば言ってやるんですけどねぇ。これも以前から頭を擡げていることではあるので、言っても今更です。
ですが今回エルフリーデを見直してしまったことが一つ。
それは安易に私を頼らなくなったこと。
これまでなら「どうしたらいい?」「ねぇ、教えてよ」だなんてずっと言い続けていた彼女が今回は必死に自分の中で解消しようとしているのです。
これは成長と喜んであげたいところですが、如何せん今の状況を見るとなぁ……
ヤキモキする状況はありますが、黙って見ておいてあげることにします。
そんなことを考えているとお腹の底から響いてくるような鐘の音に続いてリズミカルな音階が私の鼓膜を叩いていきます。
今日の講義の終了を告げるその音に、教室に縛り付けられた学生たちは予定をこなすために動き始めていきます。教室から出ていく者、グループを作って話を始める者、講義が終わっても明日のために予習をする者。様々な過ごし方があって良いものだなと彼らを見送りながらそんなことを考えて少しほっこりしてしまいます。
そうそう。ついに私、教室にいても良しとお達しをいただくことが出来たのです。元来穏やかな性格をしていますし、この理知的な……うん、聞かなかったことにしてください。
まぁ、本当の理由はそろそろ寒い季節になってくるし、外にいたままじゃ可哀想だろうと言う声が上がったからだそう。
不特定多数の皆さんに感謝し、そして久しぶりの講義に新鮮さを感じながら少し楽しさを感じています。
ですが少しウキウキしているような私とは裏腹に、終わりの鐘を聞いてもぼんやりとしているエルフリーデ。
もう今日の予定は全て消化されているんですけどねぇ。ここでそんな風にしているくらいならさっさとお部屋に帰りましょうよ。のそりと身体を起こして彼女に声をかけようとした瞬間、私の声より早くエルフリーデに投げかけられるものが一つ。
「なにやら、また騒動があったようですわね?」
呆れと嘲りが混じったような声。これが彼女のデフォルトではありますが、やはりすごく苛立ってしまいます。
「……あぁ、ご機嫌よう、エリカさん」
「ご機嫌よう。隣よろしくって?」
「えぇ。どうぞ」
エルフリーデに促されて彼女の隣に腰掛けるエリカさん。そしてそれを目の当たりにしてざわつき始める周囲の学友たち。廊下での一件の時もそうでしたが、やはりまだまだ周囲の人たちはエルフリーデとエリカさんが二人だけで話をしているのに違和感を覚えるのでしょう。もちろん私もそれは同じなのですが、表面上はエルフリーデに敵意を向けないエリカさんに何もすることは出来ません。
更にモヤモヤしてしまっていることは言うまでもないですが。
すると突然エリカさんがエルフリーデに対し、頭を下げます。
「またテオがご迷惑をおかけしたようですわね」
そう言いつつ、更に深く頭を下げた。
最初は驚いていたエルフリーデも、「謝らないでください」と声を上げます。
「その事なら、別に気にしていただかなくても良いですよ。結局私は何も協力できませんでしたし」
「そうですの。元を正せばテオの他力本願が原因ですしね」
先ほどの殊勝な態度は何処へやら、ケロリとした表情を見せ自分の弟とは思えないほどにアッサリと言い捨てていました。
あまりの変わりように身体の力が抜けてしまいそうになる私。
同じようにエリフリーでも「はぁ。そうですか」と呟くことくらいしか出来までした。
「そう言えば噂になっているようですね」
「へ?」
「貴女とグライナーさん」
変に力の抜けた私たちに、追撃と言わんばかりにエリカさんはニヤリと嫌らしく笑みを浮かべます。
「えっと……」
その名前を出され口籠ってしまう。
彼女の頭には先日のハルカさんとのやりとりが浮かんでいることでしょう。
何故エリカさんがそのことを知っているのか、一体誰にあの場面を見られていたのか、疑心暗鬼になっていることでしょう。
その噂が学園中に既に広まってしまい、ハルカさんに不快な思いをさせているかもしれないと言う不安とで心の中がドロドロと濁らせて始めているかもしれません。
「えっと……」
しかし彼女の口を吐いたのは繰り返しのその言葉でした。
正直心の中でこうなるのではないかと予想はしていたのです。エリカさんの最初の嫌らしい笑みに覚えていた違和感はこれだったのだと、やはりあの時に無理やりに割って入っておけば良かったと、エルフリーデ同様に私の心の中も黒い感情が煮え繰り返る思いがしました。
「まぁ気にすることでもないでしょう?」
そんなことは知らないとでも言うように、エリカさんはため息をつく。
エルフリーデはエリカさんのその仕草を見て更にみを固くし、伏し目がちになる。
そして私は思わず厳しい視線でエリカさんを睨みつけますが、それが交わされることはありません。
エリカさんはあえて私と目を合わせないようにしていました。
これはあまりに卑怯すぎる。
喫茶室の時と違い、今回の話は色恋沙汰のもの。
ここでエルフリーデが声を荒げようものなら、彼女がハルカさんに特別な感情を持っていることを周囲に暴露してしまうことになる。
それはきっとハルカさんが望んでいるものではない。それをあえて質問してくるエリカさんに嫌気が差してきますが、会話の主導権を握っているのはエリカさんであることは否定することも出来ない事実。ここで黙ってしまおうものなら決め付けだけで会話が進行していくはずです。
そして私と目を合わせないことも、自分のペースを保つためでしょう。いくら私がこの人のペースを崩すからと言ってこれは頂けません。このまま私を無視し続け、そして勝手な決め付けでエルフリーデを傷つけるつもりだ。
私が最悪の結論を導き出し、鼻息を荒くしていた時でした。
ニヤニヤとエルフリーデを見ていたエリカさんが、追撃の一言を言い放ったのです。
「貴女は彼女の事など、別に気にも留めていないでしょう?」
何を言っているのだ、この人は。私の頭を駆け巡ったのはその言葉。
一瞬思考が澱んでしまったのと同じタイミングで、机を強く叩く音と悲鳴にも似た声で周囲の視線が一気に私たちに集中しました。
「―――わたしは! わたしはハルカさんのこと!」
こんな彼女を見るのは喫茶室以来でしょうか。憤り立ち上がりながらエリカさんを睨みつけるエルフリーデは身体を小刻みに震わせています。
しかし怒りで行動をしてしまってはいけない。これも完全に彼女の術中に嵌っているのですから。
「そんなに声を荒げてどうしましたの?」
返ってきたのは淡々とした言葉。毒気も抜かれるようなそれに身体を振るわせていたエリフリーでもそそくさと椅子に腰掛けます。
「いや、えっと……」
三度口をつくこの言葉。そのまま顔を伏せてしまいます。最早エリカさんに言いたい放題にされる未来しか見えません。
愕然と視線を逸らした瞬間でした。きっと私と同じタイミングでエリカさんのそれに気付いたことでしょう。
「……」
グッと息を飲み、思わずそれを見つめる私たち。唯一それに気付いていないのはエルフリーデくらいでしょうか。
悠然とリズムを奏でているようにさえ感じるヒールの音。
騒ついていた周囲の学生たちも、彼女を目にしては言葉を奪われている。
それほどまでにその人物の存在は周囲を惹きつけるものなのでしょう。
床を叩くリズムがちょうど私たちの真横で止まり、視線をこちらに向けています。エリカさんも声を出せず、そして私は心のどこかで安心していました。
静かになった周囲の状況に違和感を覚えたのか、ようやく顔を伏せていたエルフリーデが視線を上に上げました。
「レオノーラ、様……」
噛み締めるような言葉。心の底からの安堵が伝わってきます。
「ご機嫌よう、少しよろしくて?」
突然姿を見せたレオノーラ様に少し困惑していた私たちですが、彼女は端的に用件を告げます。
淀みのない笑顔で微笑むレオノーラ様はそう言いつつ手を伸ばした先にいるのはもちろんエルフリーデ。
周囲からは「当然だな」と言う声がチラホラと聞こえてきます。
まぁ喫茶室の事件があって以来、『レオノーラ様のお気に入りのエルフリーデ』と言うのが周知になっています。
しかしそんな誰もが分かっている所作に割り込むのは言わずもがな、
「えぇ、お供いたしますわ!」
「いえ、用があるのはエルフリーデさんだけです」
エリカさんがあっさりとそう言い捨てられ、しゅんと小さくなっていました。さすがに今日はやりすぎです。いいきみだとは言いませんが、少しは反省してください。
「さぁ。エルフリーデさん?」と優しく声をかけ再び手を伸ばすレオノーラ様に言い淀みながらもその手を取るエルフリーデ。
「良いですわね?」
「は、はい……わかりました」
そのまま彼女の手を引き、教室を後にしていくレオノーラ様。
さながら姫をさらう王子様? いやいや、そんな冗談を言っている場合ではありません!
とにかく今は彼女たりを追いかけなくてはいけません!
気持ちが逸る私は視界の隅に映る違和感に気づくことが出来ていませんでした。
そう、周囲の目がある中で恥をかかされたはずのエリカさん。
彼女が浮かべていたのが悔しそうな表情ではなく、満面の笑みだったのです。
今になって思えば、その違和感を突き詰めておけば良かったと、後悔してしまうことになる。
なんて私は、馬鹿者なのでしょうか。




