再び、厄介ごとの予感です。
エルフリーデの表情は温和そのもの。
しかし彼女の側を通り過ぎて行った学友たちの表情は一様に強張っていました。
普段の彼女からは想像もできない、正直私もこれまで見たことのないエルフリーデの表情に、私も思わず言葉を失ってしまいました。
出会って日も浅いエリカさんも言わずもがな、エルフリーデの雰囲気に押され後退りしています。
「でもどうされたのですか?」
「それは……なんと言いますか」
「先日の一件からわたしの事は避けていらっしゃいましたのに」
皮肉を一言、クスクスと笑うエルフリーデ。言葉を紡いでいく度、喧々とした雰囲気が和らぎ始めていきます。
エリカさんは気持ちを切り替えようと深く息を吸い込んでエルフリーデを再度見据えます。表情はまだまだ若干強張ったままでした。
「私も大人げなかったわ。本当にごめんなさい」
やはりこう来ましたかと、諦めにも似た納得が私に中を占めていきます。
ここ数日のエリカさんを見ていれば、この言葉が真意ではないということくらいすぐに分かってしまいます。
本当ならば今すぐにその事実を伝えたいところ。ですが私の立場では何をすることも出来ません。
ただ出来ることといえば、不快感を顕にしてエリカさんを見据えることくらいでしょう。
低い唸り声に、面倒くさそうに苦虫を噛み潰したような顔を見せるエリカさん。
『貴女は黙っていなさい』
そう言わんばかりの態度に、次は私が苛立ちを抑えられなくなってしまいそうです。
そんな私に気が付いたのか、エルフリーデの手が私の頭にポンと置かれます。
これは、さすがにやってしまいましたね。エルフリーデに自分の行動を諭されてしまうなんて。
なんとも頼もしいものではないですか。少し嬉しさを感じながら、彼女の手の理由を考えます。
きっと様々な感情がこの手の温もりには込められているはずです。
しかし彼女の中にある一番の感情はおそらく……自分に任せなさいということでしょう。
ならここは我がご主人様に託そうじゃありませんか。少し頼もしくなった彼女に、私は甘えるような鳴き声を出して応えます。
「良いですよ。気にしていませんし。間違えることなんて誰しも起こり得ることですよ」
刹那、私に対して苦い表情を見せていたエリカさんの矛先がエルフリーデへと向かいます。この言葉もエリカさんにとっても、そして私にとっても予想外のものでした。
先日はじっと押し黙っていただけの彼女が、今日は意趣返しと言わんばかりの口撃を仕掛けてくるなど思いもよらないはずです。
これには困惑よりも、怒りの感情が先に立っているのしょう。しかしこの状況にエリカさんは反論をすることはできないのです。
『これくらいは許してくださいますよね?』
そう。エルフリーデが最初に皮肉を口にしたとき、こう言っていたことをエリカさんも覚えているのです。返答を言い淀んでいたにせよ、何も言葉を返さなかった時点で彼女はエルフリーデに言葉をぶつけられるままになってしまう。
我がご主人様ながら恐ろしい……いえ、もしかするとずっと前からこんな素養があることを私が気付けていなかっただけなのか。
「だから気にしないでください。ね? リヒトホーフェン様」
「だからそれは、本当に……」
何れにしても、タジログばかりのエリカさんにこれで最後だと言わんばかりに、会釈し笑顔を見せて歩き去ろうとしていくエルフリーデ。
相手に多くを語らせず、こちらも最低限の言葉で場を制す。
これはある意味かなり理性的な戦い方であったと言えるかもしれません。私もこの結果にはかなりの満足感を覚えながらエルフリーデに倣うように、エリカさんの横を通り過ぎていきます。
しかしこれはある意味、『エリカさんが理性的な人間だったから』という理由にもなるはずです。
であれば、逆は一体どうなるのか?
それは考えずとも分かることと言いましょうか……
―――姉さん、一体どうしたんだ!
廊下に響き渡った怒号に周囲の学友たちの視線が一気に声の主に集中していきます。ここでつい学友たちに吊られて、私たちも振り返ってしまったのがよくありませんでした。
振り返った瞬間おそらく目があってしまったのでしょう、ビクリと身体を震わせるエルフリーデを見れば、声の主がどのような表情を浮かべているか容易に想像がつきます。
声の主とは言わずもがなテオさん。なんとも出来すぎたタイミングではないかと心のどこかで考えながらも、それを持って余りあるほどに彼の表情はまさに鬼の形相と言っても差し支えのないものでした。
たった一言発しただけでこの空間を支配してしまうところを見ると、先日の喫茶室でのエリカさんと同じく、彼らの言葉には人を惹きつける何かがあるのかもしれません。
ですが、テオさんの存在感よりも私は別のものに目を囚われていたのです。
きっとその瞬間を捉えてしまったのは間違いなく、間違いなく私だけでした。
顔を伏せたエリカさんの口元がいやらしく歪んだのです。まるでこうなることを予見していたように、自分の筋書きどおりであると言わんばかりに。
何れにしても突然現れたテオさんを目の前にエルフリーデは言葉を詰まらせてしまいます。
先日のことがあって以来、どうにもテオさんには苦手意識があるらしい彼女は、彼と視線を合わせないようにしつつ、彼の方に向き直りました。
しかし彼女は何もする事も出来ず、そしてただテオさんのキツい視線だけがエルフリーデに注がれています。
歩き去っていくだけで終わりだったはずのこの状況に、まさかこんな延長戦があるだなんて思っていなかっただけに今の彼女にはきっと何も出来ないのかもしれません。
「……えっと」
事実、彼女の口から溢れたのはその一言だけ。
ここは私が動かなければ……エリカさんの表情に慄いておる場合ではない!
先日テオさんに感情に任せて飛びつこうとした事を省みつつ、エルフリーデを睨みつけるテオさんの前に立ち塞がります。
そうです、今日は私が暴走してしまった時に止めてくれる、『彼女』はいないのです。だからこそ自制の心を忘れてはいけません。
出来る限り自分の感情を表に出すことはなく、テオさんに視線だけを送ります。
案の定テオさんの視線が私に移り、怒りと怯えが内混ぜになりながら私を見据えています。
これは先日のハルカさんとの一件があったからでしょうか。
エルフリーデだけなら言葉や力でどうにか出来ようものですが、言葉が通じないと思われている私への対応方法を彼が分かっていないということも関係していると思います。
あとはここでエルフリーデがピシャリとこの場を占められれば、考えうる最悪の状況は回避することが出来る。
それが甘い考えだったのかもしれません。
自分で分かっていたはずなのです。
もしかしたらこの状況は、意図的に作り出されたものなのではないかと。だからこそ慎重に行動しなくてはいけないのだと。
ここまでの行動に間違いがあったとは思いません。
むしろ今日のエルフリーデとエリカさんの会話を、テオさんの表情を見ていれば当然のものであったと私は今でも思っています。
しかし私は大事なことを忘れていたのです。
「テオ、そんな風に女性を威嚇するものではなくてよ?」
私たちが今相手取っているのは、『言葉一つでその場の主導権を握ることが出来る』人であるということを。
テオさんがエルフリーデを睨みつける中、堂々と彼を止めたエリカさんを周囲の人間はどう思うでしょう。
エリカさんとテオさんの関係性を知っている人間であれば、弟を律することの出来るできた姉だと考えるでしょう。
そして喫茶室での出来事を知っている人ならば、自分を貶めたであろうエルフリーデに助け舟を出すなんて、あり得ないと考えるでしょう。
「姉さん、何を考えているんだい! あの女は姉さんを貶めたんだよ?」
事実、テオさん自身もこの言いよう。
余程エルフリーデと私は、彼から良い感情は向けられていないのでしょう。
こちらとしては濡れ衣以外の何物でもありませんが、思い込みの激しいテオさんにこちらが何を言っても無駄のはずです。
「そんなこと、言うものではないわよ」
「……」
しかしそんな中でもエリカさんの言葉であれば素直に聞くテオさん。
どうやら彼はエリカさんからこの状況について特に説明されないのではないかと思えてきます。
おそらくテオさんがどのような動きをするのか、そして私たちがどんな対応をするのかまで読んだ上で効果的な一言を放っている。
もしかするとテオさんが姿を見せるまでの状況すら、彼女は予測していたのかもしれません。
本当に……一体どこまで用意周到なんですか、エリカさん。
そこからは完全にエリカさんの独壇場となってしまったことは言うまでもありません。
何故ここまで関係が拗れてしまったのか言うことをから始まり、友人関係を円滑にするにはなんて、押し付けがましいアドバイスまでもらってしまった私たち。
まぁ言葉としては良いものではあるのでここは素直に受け入れてもいいのですが、何故
ここに立ち止まってこんな会話をしているのか。
早くここから立ち去らなくては、きっと厄介ごとに巻き込まれてしまうと理解はずのエルフリーデも、どうにもこの状況に流されてしまっていました。
そんな時に、不意にテオさんがこんなことを呟きます。
「それでカロリング嬢、例の件だが」
何の事、と言うのはあまりに無粋でしょう。
間違いなく彼の口にする『例の件』がハルカさんのことであると言うことは間違いありませんが……
「あぁ、そう言えば……」
どうにも気の無い声を返してしまうエルフリーデ。
そもそも彼が強引に押し付けてきた願いをどうにも叶える気になれなかった彼女は完全にそのことを頭の片隅に追いやっていたのです。
「そう言えば? 何をほおけているのだ!」
そんな返答に再び声を荒げ詰め寄ろうとするテオさんでしたが、横から響く制止の声に彼の動きが止まります。
その声に私とエルフリーデは思わず目を丸くしてしまいます。
まさかエリカさんがテオさんに厳しい言葉を言い放つとは想像もしていなかっただけに、私たちは困惑を隠せません。
しかしその困惑をさらに助長させる言葉を彼女は続けます。
「そんなこと言うもののではないわ。しかも自分の色恋沙汰に他人を巻き込むだなんて……」
「それは、確かにその通りだけど」
「ごめんなさいね、カロリングさん。我が弟ながら恥ずかしいものだわ」
そう言って深々と頭を下げるエリカさんからは、喫茶室での発言が嘘のように思えます。
私は彼女が事あるごとに中庭に来てエルフリーデに対する小言を呟いていたことを知っているだけに、全く信用することは出来ませんがエルフリーデはどう思うでしょうか。
「……別に、気にしていませんが」
彼女自身も違和感を拭きれずにいるようではありますが、この状況では素直に感謝を表すことしか出来ません。
しかしこれはテオさんに対しては別のことです。
「わたしの意見ですけど……」
ここはハッキリと言ってしまおうではありませんか。
一度深く息を吐き、エルフリーデはこう言葉を続けます。
自分の思い人に好意を伝えるのに、端から他力本願であることはいただくことはできない。そして貴方の思い人は、ハルカ・グライナーはそんなやり方を一番嫌う。自ら動くことを厭う人に、きっと彼女は心を動かさないと。
一気に言い切り、再び深く息を吸い込んでエルフリーデは彼に視線を送りました。
「……」
さすがにエルフリーデの語った言葉に、テオさんも何も言うことができない様子。しかし言葉に詰まっているのはテオさんだけでありました。
少し考え込みながら、次に言葉を発したのはエリカさんでした。
「まぁ少しくらいは助け舟を出してあげても良いんじゃなくって?」
そう口にしたエリカさんに私とエルフリーデはおろか、テオさんまで再び目を丸くしてしまいます。
この人、いったい何を考えているんですか?
こんなテオさんに手を貸したって、彼女には何も徳はないはずなのに、こんなことを言って……
ですが先ほどまで事あるごとに助け舟を出されただけに、何もしないと言うわけにはいきません。
「えっと、少しくらいならいいかもしれませんけど……」
エルフリーデもそう呟かずにはいられない……違う、これはこう言うように完全に誘導されている?
結局エリカさんの掌の上で遊ばれていたに過ぎないのでしょうか?
結局のところ厄介ごとから逃げ出せるはずもなく、その中心で今回も苦労してしまうのでしょうか。
それだけはハッキリとわかりますが、今の私とエルフリーデにはきっと何もできないでしょう。
そして、これまでにないほどの笑顔を浮かべ彼女は最後にこう呟きます。
「友人っていいわねぇ。やはり助け合いは重要だわ」




