プロローグ
いつも不思議な感覚があった。
部屋の中から外をずっと眺めているような感覚。
ずっと自分だけが離れた場所にいるような感覚。
わたしだけがずっと、お芝居を見ているような感覚。
なぜだか分からないけれど、そう思えて仕方がなかったのだ。
そう考えてしまうと不思議なもので、容姿や声、自分の存在自体に実感が持てなくなってくる。
色んな人から褒められるこの金砂の髪だって、本当は自分のものではないように感じてしまう。
でもそんなことはない。わたしは間違いなくその場所にいて、周囲の人たちと話をしている。笑っているのだ。
そう。それは間違いないはずなのだ。
でもわたしが本当にいるべき場所はここではないような気がしていた。
ここにいることが分不相応だってずっと思っていたのだ。
いつもわたしを囲むものは、わたしにとっては煌びやかすぎる。
そう思っていた。
「お嬢様、そろそろお時間ですよ」
ドアの向こう側から侍女長の声がした。ほら、こうやってお嬢様だなんて言われることにも違和感を覚えているのだ。偉そうに振る舞うことなんて出来ないので丁寧にお礼を言って、とりあえずお部屋の外で待ってもらうことにする。
今日は月に一度のおじいさまとのお茶会の日。しかも私の12歳の誕生日を後に控えた日だった。
なにやらお屋敷の中が浮き足立っているようにも感じたけれど、わたしは違う意味でフワフワしていた。
実は私、おじいさまとお会いするのが気が引けてしまっているのだ。
だって自分の肉親とは思えないほどにダンディなんだもの!
わたしがもう少し年齢が上だったら・・・ほらね、自分の肉親にだってどこか穿った目で見てしまっている。
こんな自分にため息をつきながら、侍女長が準備をしてくれていた青のドレスに身を包んでいく。やはり自分にはこんな豪華な服は似合っていないよなとまたため息。
なんと言うか、わたしにはもっと質素でいいんだよね。こんなフリフリのレースがついたやつじゃない、もっとシンプルなやつ。
おっと、そろそろ行かなくては流石に侍女長から声をかけられてしまう。
わたしには少し重いドアを押し開けながら、外で待っていた侍女長にペコリと会釈をする。
少し不安そうな顔をして待っていた彼女も、わたしの姿を目にした途端にパッと咲いたような笑顔を見せてくれた。
「まぁ! 良くお似合いですわ、お嬢様!」
ドレスを身につけた私を四方から見とめながら、ウンウンとうなづく侍女長。
この言葉に裏がないから卑怯なんだよなと内心呟いていると、照れた顔も可愛いだなんて言葉も聞こえてきます。
この人一体なんなの! わたしを褒めたって何もいいことないはずなのに。
でもそんな侍女長が嫌いでないわたしがいるのも事実。
「あ、……ありがとうございます」
そう一言だけ返してわたしは一路おじいさまの待つお庭に向かうとこにしましょう。
あ、背後から侍女長の黄色い悲鳴が聞こえてきたのは気のせいということにしておこう。
自分のお部屋を出てから数分、長い廊下を歩いていく。できるだけ慎重に、急ぎ過ぎないように。せっかく侍女長が用意してくれたドレスを汚してくないもの。
それにせっかくおじいさまに見てもらうなら少しでも可愛いって言ってもらいたいし、あわよくば頭を撫でてほしいなーなんて……グヘヘ。
いやいや、だから相手はおじいさまなんだって! 大丈夫なのか、わたし! でもなんだかこの『グヘヘ』と言うワードがしっくりくるのは何故なのだろうか。
そんなことを考えていると、目に入ってきたのはお庭に出るための渡り廊下が目に入った。今日もいい陽気だな。暖かい日の下で口にするお茶はきっと格別だろう。
そう思えるとウキウキしてきた。
後ろからは侍女長のわたしを心配する声が聞こえてきたけど、そんな小言ではもうわたしは止まらないのです。
だって目の前にたたずむあの姿を目にしてしまったんでもの。
「ご機嫌よう、おじいさま」
「やぁ、気持ちの良い午後だね」
あぁ、聴き惚れてしまうほどのバリトンボイス。その響きはあまりに心地良くて、いつまでも浸っていたいと思ってしまうくらい。まさに老齢の紳士を絵に描いたようなそんな人物。
この人がわたしのおじいさま。今は隠居してしまわれているけれど、かつては侯爵としてこの国のために働かれていたそうだ。
今も忙しいはずなのに、必ず月に一度、こうやってわたしとお茶会をご一緒してくださるおじいさまにすごく感謝している。まぁ未だに素直にその感謝を伝えることが出来ていないんだけど。
きっとわたしのそんな気持ちにも気付いてくださっているのでしょう。おじいさまは笑顔を向けながらわたしを席へと促す。
さて、まずはこの陽気の下、お茶を楽しもうではありませんか。
それからどれくらい時間が経ったか、おじいさまのお話があまりに楽しくて忘れてしまうくらい。
不意におじいさまが咳払いをしながら家令に何かを伝えます。どうしたんだろう、いつもと少し違う、恥ずかしそうな表情だ。
「今日はね、少し早いけれどもプレゼントを持ってきたんだ」
確かに近々わたしの誕生日ではあるけれど、きっとパーティも開いてくださるでしょう。
それとはまた別となると……あぁ、侍女長たちが浮き足立っていたのはこのサプライズのためだったんでしょう。わたしにバレないようにするために頑張ってくれたのだ。これには感謝しなくてはいけない。
「……嬉しい! おじいさまからプレゼントをいただけるなんて!」
「この子なんだが……」
この子? 生き物なのだろうか。
そうして家令が連れてきたその仔にわたしは目を奪われました。
豊かで光沢のある、ウェーブがかった毛並み。
可愛らしいつぶらな瞳。
そしてこのキュートに垂れた耳。
「か、可愛い! 本当に可愛い!」
感情を隠しきれずに言葉に出しながら、思わず差し出された仔犬を抱き上げる。
モフモフで柔らかい。お日様の匂いがする。
「あれ……?」
あれ? なんだろう、目の前が真っ暗になる。
刹那、何か箱……違う、これは『画面』だ。画面に何かが映し出されている。
「どうしたんだい?」
聞こえる、わたしを心配そうに見つめるおじいさまの声は聞こえる。
でも力が入らない。
ただ、目の前の画面に流れる映像を懐かしく思えてしまう自分がいる。
「な……」
そうだ、これって……いや、「ここ」って!
「なんでこんなことになってるのよー!」
そう、わたしの名前はエルフリーデ・カロリング。
わたしには、前世があった。
そしてわたしは、アニメの世界に入り込んでしまったみたいなのだ。
子犬を抱きしめたまま、わたしは立ち尽くしてしまう。
ようやく分かった。
今まで違和感を覚え続けていた理由が。
わたしを取り囲む状況がわたしにとって不相応だと思い続けていた理由が。
だって、わたしド庶民だもの!こんなに広いお屋敷、こんな豪華な服、ビビっちゃうに決まってるじゃない。
きっと物語でよく見る状況なのかもしれないけれど、わたしは物語に出てくる彼ら彼女らみたいに剛胆ではない。いきなり『貴女は今日から貴族になりました!』なんて言われても、簡単に受け入れることが出来るほどわたしは物わかりが良くないのだ。
12年間エスフリーデとして過ごして来たってなれることはなかったのだ。きっと今後も……慣れないんだろうなぁ。
わたしはとりあえず抱き上げていた子犬をそっと地面に座らせ、膝を抱えるように蹲りました。
「これ、エルフリーデ! 淑女としてそのような行為は優雅ではないよ」
その声にわたしはハッとしておじいさまの方を見つめます。
そうだ、よく考えてみろ。大人しいと評されているエルフリーデ。そんな彼女が突然大声を上げたのだ。
大人たちは驚いてしまうのも無理はない。実際には顔を上げて周囲を見回した時、侍女長を始め側に控える家令のみんなは驚いた顔をしていた。
唯一、おじいさまだけが冷静に、わたしを見つめながら声を発して下さったのだ。
「でも、おじいさま! でもね!」
「少し落ち着きなさい。一体どうしたのかね?」
「それは……でもわたしは! ……っ」!
そうだ、なんて言ったらいいんだ。
「わたし前世があるんです! それを思い出してしまったんです、わたしはただの庶民なんです!」
こんなこと言ってしまったら最後、さすがに優しいおじいさまであってもお怒りになってしまうだろう。そう思ってしまうと言葉に詰まってしまう。それでも全く落ち着かないソワソワと体が震えてしまうのだ。
じっとわたしを見つめるおじいさまがため息一つ、カップに満たされていた紅茶に口をつけ、少し厳しい表情を浮かべます。
「エルフリーデ、少し疲れてしまったみたいだね。今日はもう部屋でお休みなさい」
向けられた表情に、わたしは言葉をなくしてしまう。ここまできてようやく、わたしは自分で考えている以上に混乱していると言うことを実感した。
周囲を見回すと侍女長や家令たちも心配した様子でわたしを見つめている。そうだ、わたしはなんだかんだと侯爵の娘。周囲の状況に気を配らないといけないのだ。
自責の念を抱えながら、わたしはおじいさまに深く頭を下げる。
「……はい、分かりました。取り乱して、申し訳ございません」
正直正気を取り戻したとは言い難いです。
それでも厳しい言葉ながらも助け舟を出してくださったおじいさまの気持ちを無駄にすることなんてできません。わたしはおじいさまや側に控えていた家令や侍女長に一礼し、その場を立ち去ることにします。
お庭を歩いていく際に、侍女長が心配そうな声を出していましたが、振り返るのはおじいさまがいらっしゃる手前バツが悪い。彼女に悪いなと思いながらも、無視するほかありません。
本当、ここにくるまではすごくウキウキしていたはずなのに、今はドンより曇り空。
少しの時間でわたしの心はまるで天国と地獄のよう。……うん、まだなんか余裕はあるみたいだ。
モタモタしているとさらに気落ちしてしまって、蹲ってしまいかねないんだもの。無理に足を動かしながら、自室へと足早に進んでいきます。
そうすると案の定と言っていいのか、考えたくもない前世のことが少しずつ目の前にありありと思い出されてくるではありませんか。
どこにでもいるよう大学生、それがわたしだった。
あぁ、念のために断っておきますが、物語の中に出てくる『なんの変哲もない』はとんでもなく特別ってことですからね。わたしはそんな人間ではなかったと言うことをこの場で断っておきましょう。
実はと言うと、前世だなんて言っていますが、わたしには自分が死んでしまった記憶がありません。寝て起きたらエルフリーデだったという感覚なのです。
だからずっと自分がエルフリーデであると言う実感が持てないままでいた理由がこれだったのかと、ようやく得心がいきました。
「でも……どうしようもないですよね」
言葉ではついつい諦めを口にしてしまいます。それと同時にわたしの中で、2つの感情が芽生え始めていたのです。
「わたし、こんなのでも侯爵令嬢? なんだよね……」
そう、前世はド庶民であったわたしも今は侯爵の一人娘。ある意味人生大逆転だ!
前世のお父さん、お母さん本当にごめんなさい。別に不満のある生活ではなかったけど、これまでエルフリーデとして過ごしてきた生活とはあまりに違いすぎるのです。
こうなったらエルフリーデとしての、侯爵令嬢としての生活を謳歌してやる!
目指すは、健全なるハッピーライフなのです。
なんてことを考えていると、あっという間に自室の前に戻ってきていました。
きっと今のわたしの表情は本当にいやらしいものになっているでしょう。
「あら」
ふと足下に視線を移すと、そこには先ほどおじいさまからいただいた子犬の姿。
そこかその表情は気怠そうに見えたけど気のせいだろうか。
それにしてもおじいさまからいただいたという贔屓目を抜きにしたとしてもすごく愛らしい容姿をしている。
部屋に入るのも後にして、足下にいる子犬を再び抱き上げる。
ぐへへ、ふわふわの毛並み、すごくいい。・・・・・・端から見るとすごく気持ちが悪いですね。
さっきまでとは違う意味でいやらしい顔をする私に、子犬はどこか辟易した様子でため息をついていました。
き、気のせいだよね?
うん、きっと気のせいだと気持ちを切り替えつつ、子犬を自分の目線まで持ち上げて視線を合わせます。
「心配してついてきてくれたのかしら?」
すると子犬はクンクンと鳴きながら体をわたしに預けてきます。なんだ、甘えてくれてるみたいですね。改めてフワフワの毛並みを撫でていると、お庭にいた時の焦りみたいなものがスッと消えていくような感覚を覚えました。
「なんだか、あなたのことすごく好きになっちゃったかもしれないわ」
あれ? なんだか少し慌てたように喉を鳴らしています。そこは可愛くクンクンと鳴いてくれればいいのに。なんだかこのことは噛み合わないなぁなんて考えながら、改めて子犬を正面から見つめます。
黒い吸い込まれそうな瞳の色。
なんだかさっきまでの、最初にこの子を抱き上げた時の感覚が呼び起こされてきそうな気分だ。
「なんだか……大事なこと、思い出せていないような」
刹那、再びのブラックアウト。
再び目の前に現れる画面。
子犬を抱き抱えている。でも視界だけが再びあの世界に囚われてしまって、抜け出すことができなくなってしまっている。自分に前世があるってだけでも驚いているのに、一体なんだって言うの!?
「これ……」
言葉が漏れた。すごく懐かしく思えるその光景に、再び前世で過ごしていた時の感情が蘇ってくる。
画面に映し出されたのは、前世のわたしが興奮しながらモニターに熱中している様子だった。
「これって……!」
モニターでは美しい黒髪をたたえた少女が拳を突き出しているシーン。その拳を誰かに打つけた後だろう。白磁のように白い肌が赤く腫れ上がっているように見える。
あぁ、覚えてる。人形のような容姿からはまるで想像もつかない、荒々しいけれど鮮烈なその拳のキレに、格闘技を知らないわたしも興奮を覚えたくらいだった。
でも違うのだ、わたしが……いや、その映像を見ていたであろう人全員が同じものに目を惹かれていたはずなのだ。
「これ、違う……『わたし』って!」
嘘だ、きっとわたしの考え違いだ。
わたしは自室の扉を乱暴に開け放ち、室内へと入っていきます。もうドレスがシワだらけになろうが関係ない。今は頭に過った事を確かめないと気が気でないのだ。
そうしてお部屋の奥までやってきたわたし。大きな鏡台に設えられた椅子に腰掛けます。
不思議なものです。お部屋に入るまでは確かめないと気が済まないと思っていたのに、いざ顔を上げるだけで真実を確認できるとなるとどうにも踏ん切りがつかない。
緊張で体が強張っていくのがわかった。すると知らず知らずの内に腕に力が入っていたのでしょう。自分の腕の中から苦しそうな鳴き声が聞こえます。自分のことにばかり気を取られて、抱えた子犬のことを忘れてしまっていた。
「っ!ごめんなさ……い」
一歩後ずさった瞬間、鏡台に映し出される自分が目に入ってきた。
本当に驚いてしまった時、人は言葉をなくすなんて聞いたことがあった。それって、本当なんだとこんな時に認識してしまうなんてすごくもったいなく思ってしまう。
そうだと認識した時は少し冷静になっていたような気でいたけど、その事実を前にブルブルと体が震え始めた。
きっとおじいさまの前で取り乱していた時とは比較にならない位に、茫然自失としてしまっている。何とか腕に抱いていた子犬だけはちゃんとカーペットの上に置くことは出来たけど、それ以外のことはままならなかった。
思わず鏡に手を触れながら、自分の輪郭に沿って指を動かす。まだ幼いその形と、画面に映し出されていたあの形を重ね合わせながら、確かめていく。
そうだ、あれはわたしが好きだったあのアニメの一幕。
ヒロインが悪役たちに対して拳を振るい撃ち倒していくシーン。
その中で一番最初に拳を見舞われたのは、悪役のお付きの少女だった。
そして、その拳を見舞われたのが、
「……わたし、だ」
このエルフリーデだったのだ。
そうだ。
「なんで、なんでわたしがアニメのモブになってんのよー!」
わたしは、ただ転生しただけじゃない。
アニメの、しかもワンシーンでしか目立たないモブになってしまったのだ。
なんでこんなことになってんのよぉ。