1章 ➀
今から一カ月ほど前、1つのビルで火災があった。出火元は十階建てビルの八階。給湯室に置いてあった電子機器類付近が最も焼け焦げている形跡が確認された。これにより、出火の原因は給湯室であると結論付けられることとなった。
幸いにも火の手は大きく広がらなかったため、被害の少なかった階に入っている会社や営業所は既に通常営業を開始している。
「よし、手筈通りいくぞ」
青みがかった瞳を開けた空奏は通信端末をポケットに入れ、腕に乗っていた鷲にそう声をかける。すると鷲は空奏の顔を見て、廊下の窓から空へ飛び立っていった。
時刻は午後八時を回ったところ。ビルの中で仕事中だった方々の退避が完了したのを確認後、空奏は八階へと向かっていた。
猛る炎が人々を脅かした跡が生々しく残る廊下を通り抜け、一つの部屋の前へと辿り着く。火事の際に壊されたのか、はたまた先客が扉を壊したのか。オフィスに続くはずの扉は見る影もなく、そこから見えるオフィスの中はガラスの無くなった窓から遠くの景色までよく見える。四月も中旬となった今でも夜風はまだ冷たい。
吹き込んだ風に首をすくめ、空奏はドアの代わりに壁をノックする。
「こんばんは。高橋さん」
空奏はこちらに背を向けて窓際に立つ男に向かって声をかけた。
高橋と呼ばれた男は振り返り、警戒と緊張を伴いながら持っていた小銃を横にいる少女に向けた。空奏は両手を上げて武器等を持っていないことを示しながら中に入る。
まじまじと空奏と見た後、高橋は問いかける。
「お前が交渉人か?」
「そうですよ。私は異能事案管理局の科戸空奏。そしてこちらがルウ。私の相棒です」
「狼……ということは、お前アニマか」
空奏の足元には艶やかな灰色の毛を持つ狼がいた。一見悠然とたたずんでいるように見えるが、高橋が空奏のことを知らなかったことに少し安堵しているのがわかる。心の中で思わず苦笑しながら、空奏は自分の仕事に専念することにする。
この世界には三種類の人間がいる。一つは何らかの異能に目覚めた人間。三百年ほど前からその存在が明るみになり、人の域を超えたものとして「イクシス」と呼ばれている。
二つ目は「アニマ」。イクシスの存在と共に確認され、幻獣と呼ばれる異能を使う動物のような姿をした存在を従えている。また自身も幻獣と同じ異能を発揮する人間のことを指す。アニマは幻獣と異能を分け合っているため、同じような異能でもイクシスよりも最大出力が弱いとされている。
そして三つ目に異能などは持ち合わせない人々であり、一般人と呼称されることが多い。
世界はこの三種類の分類で成り立っている。
アニマである空奏は「異能事案管理局」という国の機関に所属している。イクシス、そしてアニマをまとめて「異能者」と呼び、異能者による事件・事故の類を調査解決するのがこの機関の仕事である。
今回の空奏の仕事は、人質を取って立て籠もっている人物から人質を無事に救い出すこと。
犯人は身代金と逃走用の車、自らが所属していた会社の社長の自害を求めているため、空奏は交渉人として出てきていたのだった。
「通常の異能持ちが来てしまっては戦闘ありき、敵意があることを示すようなものなので。こちらの目的はあくまでも交渉。人質を無事返してもらえればいいわけです。なので幻獣がいなければ何もできない自分が適任なのですよ」
「ふん。まあ武器の類は持っていないようだし、交渉の意志があるのはわかった。わざわざそういうことを言うってことは、当然その幻獣はしまってくれるんだろうな?」
「もちろん」
空奏の呼びかけに答えてルウが虚空へ消える。異能は魂の具現化とされている。異能の一つの形であり、人間の魂より生まれた幻獣はその人間の魂に出入りすることができるため、実体化を解くことでその姿を消すことができる。しかし、自身のみで異能を発揮するイクシスと違い、アニマは幻獣が実体化している状態でなければその異能を使うことができない。
ルウが消えたのを見て脅威が消えたことに安堵する高橋。空奏から視線を外さないようにしながら少し下がり、座らせて手足を拘束していた人質の少女の口を解放した。
「理奈さん、怪我はありませんか?」
人質が喋れるようになったのを確認して空奏が尋ねる。
理奈と呼ばれた少女は突きつけられた小銃の銃口に恐怖に怯えながらも空奏に向かって大丈夫ですと小さく返す。
その様子を見て空奏は胸をなでおろした。人質として少女を攫っている以上はその扱いは酷いものにはならないと思ってはいても、こうして無事を確認できたのは重要なことである。
「何よりです。あなたを無事にご両親の元に届けられるようにしますので、安心してください。私も高橋さんも、あなたを傷つけるつもりはありませんから、もう少しだけ辛抱してくださいね。ただ、集中したいので何があっても声を出さないようにお願いします」
人差し指を口に当ててニコリと笑う空奏に向かってコクコクと頷く少女。
高橋が再び少女の口をテープで塞ぎ、空奏に銃口を向け直す。
「さて、じゃあそろそろ始めようか。俺の要求はわかってんだろ。それを覆すつもりはねえ。今すぐあのゴミ社長をここに連れてくるんだな」
「まあ落ち着いて。一応改めて確認させてもらってもいいですかね。人質解放に必要なのはあなたの勤めていた会社のゴミ…じゃなかった。社長の謝罪と自害。そして身代金と逃走用の車、と。これで合ってますね?」
「そうだ。そしたらこの社長の娘は返してやるよ。俺はあいつとは違う。約束は必ず守る」
「その社長の件なんですけど。何があったか教えてくれませんか? あなたがここまでの行動を取るからには相当な事情があるはず。その詳細がわかれば何か力になれることがあるかもしれません」
「はは。恩赦ってやつかい? 悪いが、俺はもう引き返せないことわかってんだ。情を引くつもりはない」
「そういうつもりはありませんよ。ただ、私はアニマとして時に人から差別や迫害を受けることもある身です。特にこういう仕事に就いていますから、そういう機会もまあ、あるんですよ。だから高橋さんがそういう経験の上で今回のことに至ったのであれば気持ちはわかるところですし、そもそも社長さん側に法を犯している部分があるのならば私たちはそれを把握するべきです。異能事案管理局は、その能力を持って罪を犯した人を制裁するための組織ではない。人でありながら人ならざる力を持ったことによる弊害を取り除く。その環境作りもまた私たちの仕事ですから」
俺は管轄外だけど、ボソリと呟く空奏に対してルウが真面目にやれと釘を刺す声が脳内に響く。
高橋の視線が泳いだのを見た空奏はもう少しだなと感じて一歩前に踏み出す。
「私は、高橋さんは義理堅く真面目な人ではないかと思うんです。あなたは最初の要求以降この場所に立て籠っていますが、理奈さんを誘拐したときから持っているその小銃は一度も使っていませんね。威嚇用に銃口は向けているようですが、発砲は今のところ確認されていません。銃や異能を使う人間を相手に逃げ回りながら、理奈さんには傷1つない状態。自分だけでなく理奈さんのことも守っていたという証です。あなたの跳ね返すという能力の特性上、警察や管理局の人間に死傷者は出ていますが、それも意図的にやったとは言い難い。できるだけ被害がでないようにしていたのではないかと思うのですが、違いますか?」
「……少ない情報で随分買ってくれるじゃねえの」
高橋は呆れたように溜め息をつく。銃口は空奏に向けたまま、けれどその雰囲気には少しだけ変化があった。改めて空奏を見る高橋の目には警戒を灯しながらも、好奇の光が宿っていた。
高橋は空奏の姿をよく見るために数歩前に出る。交渉役として出てきながら交渉する気が無さそうなこの男がどんな人間なのかに興味を持ったのだ。
長々と相手に対する情報分析を垂れ流して何がしたいのか。少なくとも高橋という人物を知ろうとしていることは確かだ。今現在罪を犯している男のことを知りたいとするその姿勢に心が動かされた。この件が終わる頃には必ず死ぬことになると覚悟していたからこそだろうか、最後に少しだけ自分語りを聞いてくれる人がいるのなら、それも悪くないと思った。
「あんたも俺のこと多少調べてから来てはいるんだろうけど、さ。こんな時だがまあ、ちょっと聞いてくれるか?」
「ええ。聞かせてください」
空奏はふわりと笑んだ。暗がりの中でも空奏が笑ったのが見えたのだろう。高橋はとんでもないやつが来たものだと小さく笑った。そして高橋は話し始める。
「俺の妻は、あいつに殺されたんだよ」
入った。沈痛な面持ちで語り始めた高橋を見て空奏は心の中で合図を出す。
「殺された? 社長にですか?」
「ああ。あれはもう一か月前のことだ」
高橋夫人は飲酒運転をしていた車に撥ねられて病院に搬送された。飲酒運転をしていたのは高橋の勤める会社のの社長であり、社長はすぐに隠蔽工作を始めた。関係各所の人間を買収し、自らの減刑に努めるとともに、高橋夫人がイクシスであるという情報を捏造。夫の待遇に不満を抱いていた高橋夫人が恐喝を行うために移動中の社長を狙い、事故を起こさせたという筋書きに置き換えることにした。イクシスの異能による一般人への攻撃は厳禁とされており、その罪は重い。夫人は事故の怪我の影響で亡くなってしまったため、社長は更に多くの人脈を使うことで自らは被害者であるという立場を確立。本来は冤罪である夫人の罪を夫である高橋にも向け、解雇するとともに裁判に持ち込まない条件で厳しい損害賠償を請求してきたという。
言葉に熱を帯びてきた高橋の話が続く中、先ほど空奏の腕から離れた大きな鷲が音もなく窓辺に降り立つ。
鷲は少女の姿を認めると、後ろ手に縛られた少女の縄を足で掴み、重さなど感じさせないような軽やかさで少女の身体を持ち上げた。
斜め後ろで行われている静かな犯行に高橋はまだ気づかない。自らの憎しみを奮い立たせるようにして、思いの丈を空奏にぶつける。
「何も悪くない妻が殺され、あまつさえ悪者に仕立て上げられる。そんなことがまかり通っていいわけがないんだ! 俺と違って何の異能も持っていない一般人である妻が、近所の人たちからも『異能に頼って人を殺そうとした傲った人間』として噂されている。穏やかで気遣いのできる、よくできた人だと評判だった妻が今や、裏では酷かったと評される悪女だ。あいつは、妻を殺すだけじゃ飽き足らず、その名誉も尊厳も貶めたゴミ野郎だ! だから、だから俺は…」
驚いて空奏を見る少女に一瞥やり、高橋に視線を戻す。鷲が少女を連れ飛び去ったのを確認して空奏は溜め息にも似た安堵の息を零した。
空奏の纏う張りつめた空気が変わったのを感じたのか、高橋は怪訝そうな顔をする。
そしてハッとして後ろを振り向く。そこにいるはずの少女は見る影もなく、高橋は動揺を隠しきれないまま空奏を見やる。
「……どうやって」
「透明人間とかじゃないですかね?」
「戯言を。……人間が音も出さずに連れ去るのは無理だ。幻獣だとしても、異能もなく高校生一人持ったままビルの外に移動できるほどの力は無いはず」
「決めつけは良くないと思うね。そういう能力を持ってるやつがいてもおかしくはない」
「仮にそうだとして、何の通信機器も装備していないお前とタイミングを計ることなどできない。レコーダーか何か隠し持っているとしても、都合よく俺の気が逸れているところを狙うことは不可能だ」
「……計画が狂ったところだってのに随分冷静じゃないか」
「そういうお前は猫かぶりは終わりか? 年上を敬う姿勢ぐらい崩さないで見せておいてもらいたかったものだけどな」
「ただ年上ってだけで人を敬えるほど素直な性格はしてないんでね。取り乱したりしないところはすごいと思うけど」
言い終わるか終わらないかのところで小銃が火を噴く。
空奏はとっさに横に飛び、打ち捨てられたロッカーの残骸に身を隠す。しばらく鳴り続けた銃声は止まり、やがて沈黙が訪れた。
「さすがに撃ってくるよな」
「呑気に会話なんてしているからだ。人質は無事救出したのだからさっさと終わらせるぞ。だいたい空奏、今のはギリギリ間に合ったから良かったもののもう少しで」
「説教はあとで聞くから」
いつの間にか実体化していたルウが苦言を呈するも、空奏ははいはいと受け流す。
ルウの異能は身体の強化。常人のそれとは一線を隔すレベルに引き上げることにより空奏は蜂の巣になる前に回避行動に移ることができたのだった。
「なあ高橋さん。大人しく投降する気ないかな」
「俺はまだ終われない。あのゴミを片付けるまでは止まるわけにはいかないんだ! 俺が全て跳ね返すことは知ってるだろ。お前こそ自分の力で死にたくなかったら、とっとと逃げ出すことだな!」
ロッカーの陰から飛び出した空奏を狙って高橋が銃弾を放つ。反対側から走り出たルウに腰に挿していた拳銃で牽制しつつ、正面にある机の陰に入った空奏から距離を取るようにして高橋は部屋の角へ移動する。退路は遠ざかるが、二方向を相手取っていては分が悪すぎる。
壁を背にしながら、高橋は憎しみに駆られた自分を恥じていた。妻の仇を取ろうとして社長を狙うも失敗したが、代わりに人質を取って立て籠もるところまでは上手くいっていた。それが空奏に理解を示されて感情に流され、結果自ら機会を手放すことになるとは。
「何でもとは大きく出たもんだな。あんたのそれは飛び道具の類しか跳ね返せないだろ」
「なっ……!?」
「図星か。鎌かけてみるもんだな」
高橋は歯噛みした。立て続けに手玉に取られていることが焦りを生んでいるのだ。
その様子を見ながら空奏は思案していた。全てを跳ね返す異能でありながらなぜ銃を持つ必要があるのかと考えていたが、遠距離戦に持ち込むための物だったらしい。近接戦に対する問題が無くなったことは大きいが、角に陣取られていてはこちらも迂闊に近づくことができない。拳銃の射撃速度ならともかく、あの小銃が厄介だった。
「(バルドが戻って来る。合わせるぞ)」
「(わかっている)」
バサリ。羽音を立てて鷲が窓の外に姿を現し、大きな声で鳴いた。
音に気を取られて高橋が外を見る。空奏とルウが同時に走り出した。
鷲は空中で宙返りして足で掴んでいた何かを部屋の中に投げ入れると、そのまま高橋の顔に向かって突撃した。思わず振り払おうとして上げた右腕に横からルウが牙を突き立てる。
鷲によって空中に投げ出されたそれは、一振りの刀。空奏は自らに向かって飛んできたそれを手に取り、鞘から抜き取りながら体を回転させ一閃、左肩から袈裟懸けに切り降した。