4章 ➀
「……違う場所だ」
目を覚まして天井を視認した彩那は、前に目が覚めた時の病室とは違う場所にいることに気がついた。
身体を起こそうとして力が入らないことに気づく。まるで水の中にいる時のようだ。腕を上げようと力を込めるが、とても重く感じる。頭もぼんやりとしていて、思考がまとまらない。
ゆっくりと首を動かした彩那は、周りの状況を確認する。病院とは違う。普通の部屋のようだった。タンスや本棚がある。タイトルは読めないが、難しそうな本だ。時計が目に止まる。見ると針は九時を指している。カーテンの隙間から漏れる光が見えるから、朝の九時だろう。随分と長い時間眠っていたらしい。
動くことに意識を集中して、目を閉じて反対側へ首を向ける。目を開けると、誰かが机の傍にある椅子に座って項垂れていた。机のライトはつけっぱなしで、手にしているスマホか何かの端末がずり落ちそうになっている。眠っているようだ。
「……空奏、さん?」
「ん? ……ああ、良かった。目を覚ましたんだね。おはよう」
「おはよう」
「ここは異能事案管理局東北支部の第六号棟。まあ俺らが普段いる場所だよ。安心していい」
彩那の声に目を瞬かせた空奏は、彩那が目を覚ましているのを見とめて柔らかく笑った。
反射的に挨拶を返してから、彩那はぼんやりと空奏のことを眺める。すると、次第にあの時何が起こったのか、記憶が蘇ってきた。
生きていてはいけない。近づいてきた空奏に対してそう呟いたあと、彩那は身体が動かなくなった。
しかし何が起きたのかを誰かの目で見ていた気がする。
彩那から分離した何かは上空へと駆け、彩那は気を失ってしまったのだった。
自分でもわかる。彩那の意志ではないとしても、あの力は彩那のモノだ。
空奏がカーテンを開けて伸びをする。彩那は差し込んだ陽光の眩しさに目を細めた。
「身体の調子は? どこか痛むところないかな?」
「……ううん。大丈夫。でも、お話はできるけど、手とか力入らなくて動きにくい」
「そうか。まあそれもすぐに動けるようになるから、心配しなくていいよ」
端末を置き、彩那の近くに椅子を寄せて座りなおした空奏が、彩那の身に起きたことを改めて説明してくれる。
彩那がアニマに覚醒したこと。しかし幻獣は暴走状態であったこと。彩那自身と幻獣の力を使って大雨を降らせたこと。そして幻獣を眠らせたことで暴走が止まったこと。いま彩那の身体に力が入らないのは消耗しすぎたせいであるということだった。
「喋るのも疲れるでしょ。まだ眠ってた方がいい」
「……もう少しお話したい」
「そう? じゃあ眠くなるまでね」
何の話をしようかと首を捻っている空奏の姿は、あの戦闘の傷が残っていた。
頬にガーゼを張り、足にも包帯が巻かれている。後ろに置いてあるのは歩くための補助杖。見えないが、服の下にもあちこち包帯が巻かれているのかもしれない。
「空奏さん」
「んー?」
「ごめんなさい。わたしのせいで」
空奏は真面目な顔で彩那を見やり、次いで笑った。
河原で見たときと同じ、なぜか悲しそうな顔で笑っている。
「彩那ちゃんが謝るようなことは、何もないよ」
「でも、怪我してるのはわたしのせいで」
「これは俺が弱かったからついた傷だ。彩那ちゃんのせいじゃない」
「痛くないの?」
「うーん、足はまだ痛むかな」
「やっぱり……」
「痛みはするけどね、今は安心してるのが大きいかな」
「安心? なんで?」
空奏は言った。あの大男の目的は彩那の心を傷つけることだったと。本当の狙いは人の死を間近で見せつけることで絶望させ、強制的に異能を覚醒させることだったのだと聞いて、彩那は寒気がした。
「でも、わたし。アニマになって」
「そうだね。それを止められなかったのは俺のミスだ。ごめん。もっと早く気づいて、彩那ちゃんを病院から遠ざけるべきだった」
「わたしが、生きてちゃダメなんだって思ったからアニマになったの。空奏さんが謝ることない」
「……。まず、二つ覚えておいてほしいことがある。一つは、心を傷つけて強制的に異能を覚醒させるというのは普通ありえないということ。そして、異能が覚醒する人は特別なきっかけが無くても覚醒するものなんだ。だから彩那ちゃんも、いつかアニマとして覚醒してたんだと思う」
「そうなんだ?」
「うん。そして、二つ目。自分の力を怖がらないでほしい。幻獣が暴走したのは、彩那ちゃんを守ろうとした結果のことだ。あの子も今日中には回復するだろうから、怖がらずに話してみてほしい」
「……わかった」
空奏の言っていることは、とりあえずわかった気がする。
いつかは来たであろう覚醒を無理やり早められたことで、彩那の幻獣はその危機から守ろうとしてくれたということ。彩那を守ろうとしてくれた幻獣は、彩那が生きていてはいけないとは思っていない。
そういうことでいいのだろうか。
「……彩那ちゃんは、どうして生きてちゃダメだって思った?」
「それは……」
口ごもる。こういうことは言わない方が良い。それを子ども心にわかってはいる。
同時に聞いてほしいという想いもあった。言えば困らせることになるだろう。
不思議と、空奏はそれを承知で訊いているのだろうというのがわかった。
いや、彩那がそう思いたいだけなのかもしれない。普段なら押し込めてしまうであろう自分の気持ちを、今は空奏に聞いてもらいたいと思った。
空奏を直視するのが憚られて、天井に目を向けながら話し始める。
「生きたいって思うのが、我が儘だと思ったの」
「我が儘?」
「うん。怖くて、死にたいって思うこともあって。でも空奏さんに助けてもらって、大丈夫だって言ってもらえて。空奏さんの手、温かくて。今度は生きたいって思った」
「……」
「でも、目を覚ましたら空奏さんは戦ってて。あの人が空奏さんのことを殺すって言ってて。それを見て思ったの。わたしのために誰かが傷ついたりする必要は無いんじゃないかって。わたしはそこまでして守ってもらえる子じゃない。だってわたしには、何もできないから。何もできないわたしが生きたいと思うのは、我が儘だって思った。こんなわたしのせいで、空奏さんが傷ついてしまうのは嫌だって、思ったの。だったら、わたしが死んでしまえばいいって思って。人に迷惑しかかけられないわたしは、生きてちゃダメなんだって、思った」
気づいたら喋りつづけていた。
身体が熱に浮かされたように変な感じがする。だんだんと力が戻って来たのか、腕も動かせるようになる。これならと思い上半身を起こしてみると、空奏の様子がおかしいことに気づいた。
「空奏、さん……泣いてるの?」
「え? ああ、ごめん。ちょっと、待ってね」
空奏は泣いていた。彩那を見つめたまま拭うこともせずに涙を流していた。
彩那の言葉に我に返り、ティッシュ箱からティッシュを取り出して目に当てる。
彩那は、何故空奏が泣いているのかわからなかった。だから、泣きながら笑って見せたその表情も、どう受け止めればいいのかわからなかった。
「あー、情けない。俺の方から全部引き出そうとしたのにな」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。……こんな小さな子が、自分が生きるのが我が儘だと、思うなんて」
「だって……」
空奏は手を挙げて彩那を止める。そして再び目元を拭って言った。
「いいんだ、迷惑かけて。我が儘言っていいんだ。俺の傷と彩那ちゃんの命を同じ重さで考えちゃいけない。傷は治る。でも命が無くなればそれっきりだ」
「……」
「俺はな、彩那ちゃんにこれからも生きていてほしい。まだあんまり話という話すらできてないけど、彩那ちゃんが優しい子なのはわかるんだ。でもな、誰かの為に優しく在るんじゃなくて、自分のために優しい子であってほしい」
「うーん、ちょっと難しくてわかったかどうかわからない」
「そのうちわかるようになるさ」
「……うん」
「不安に思う必要はない。生きてちゃダメなんて思う必要もない。今は確かにできることが無いのかもしれない。でもそれは当たり前だ。そういう時は大人に頼っていいんだ。頼ってくれたら、応えられるから。言ってくれないとわからないからさ」
優しく諭すように空奏は言う。まだ難しいこともあった。空奏が言ったことの全てが理解できているかどうかは怪しい。
それでも、空奏は彩那に生きていて欲しいと思っていることは痛烈に伝わってきた。自分で抱え込む必要は無いのだと。優しい笑みで言ってくれている。
心から言っているのだということがその表情や話し方からもわかる。空奏が涙を流した後から、話し方が少し変化していた。どちらも優しいことに変わりはないのだが、変化したあとは大人としてではなく、空奏個人として話をしてくれているような気がした。
彩那の思い込みかもしれない。それでも、少し近づいてくれた気がするその変化が嬉しかった。
彩那はそんな空奏を見つめて、恐る恐る口を開いた。
受け入れてくれる。そうわかっていても、身体は強張った。
「……生きたいって思ってても、いい?」
「もちろん」
「また、変な人たちが来て迷惑かけるかもしれないけど、いい?」
「もちろん。また追い返すことにするよ」
「何もできないまま、空奏さんたちに頼ることになるかもしれないけど、いい?」
「もちろん。困ってることがわかったら、すぐに行くから」
「もう、一人で頑張らなくても、いい?」
「もちろん。大丈夫、俺たちがいるから」
彩那は長い息を吐いた。身体の余計な力が抜けていくのを感じる。熱を持った身体が徐々に元に戻っていくのがわかる。再びベッドに横たわり、彩那は空奏を見上げて言った。
「……空奏さん。我が儘言っても、いい?」
「ん、言ってみ?」
「眠るまで、頭撫でててほしい」
いいよ、と言って空奏は笑った。空奏の笑みには不思議な安心感がある。
施設でも人に甘えようとしたことは無かった。一人で立てるようにならないといけないと、思っていたから。
しかし今、彩那は甘えてみることにした。心を受け止めてくれた人に我が儘を言ってみた。
最近は、眠るのが怖かった。眠ってしまえば朝が来る。学校から帰る途中でやつらが来る。
でも、今日は怖くない。
気恥ずかしい思いがしたが、優しく撫でてくれる温もりが恐怖と羞恥心を打ち消してくれる。
ずっと、誰かに守ってもらいたかった。
自分を受け入れ、助けてもらいたかった。
言葉にならない思いを呑み込み、彩那は大きな掌が導いてくれる心地よい眠りに身を任せた。




