3章 ⑥
彩那の元に向かわなくては。ゆっくりとだが彩那の方に歩いていた空奏は、思わず足を止めた。彩那が突然視線を落としたからだ。そして、空奏はその目から零れ落ちた涙が地面を濡らすのを見た。
琴絵も彩那の様子がおかしいことに気づいたようだ。屈みこみ、下から顔を覗き込んでいる。空奏はできるだけ急いで彩那の元へと向かった。
そして、声をかけようと思った時、彩那の呟きが聞こえた。
「わたしは、生きてちゃダメなんだ」
「……なに?」
空奏の戸惑った声に呼応するようにして雷鳴が轟いた。琴絵がびくりとして上を見上げる。すると、今まで晴れていたはずの空が雲に覆われてきていた。
急速に移り行く空を見上げ、通りの方からも異変に気付いた人々の戸惑う声が聞こえてくる。
「……彩那ちゃん? 彩那ちゃん!?」
空奏が膝をついて彩那の肩を揺する。だが、虚ろな目をした彩那は反応がなく、聞き取れないほどの声量で何かを呟いている。
ポツリ。空奏は鼻先に感じた冷気を拭う。それが雨粒であると理解する前に、降り出した雨は豪雨となって降り注ぎ始めた。
バケツをひっくり返した、という表現が当てはまる様な凄まじい水量。突然の雨によってできた雨靄によって作業を行っていた警備員たちの姿が見えなくなる。
「空奏くん。……これは? 彩那ちゃんどうしちゃったの!?」
「まさか、本当に覚醒したっていうのか?」
半信半疑だったそれがこのタイミングで現実化した。もし本当だとすれば早く彩那を安心させなければと思って歩いて来たのだが、間に合わなかったようだ。
「スターチスが言ってた噂ってこれのことだったのかな?」
「少なくとも、友魂同盟はこれのために動いていたことは確かだ。……ということは、どこかに彩那ちゃんの幻獣がいるはず」
彩那が正気ではない以上、幻獣を倒してしまわなければこの豪雨は収まらないだろう。
すぐ近くではなく、少し距離を置いて実体化されたか。周りを見渡してみてもそれらしき影は無い。遠くまで見渡せない今の状況では探すのにも支障がある。
雨を降らす異能であれば、事態が膠着するだけだ。風が強いわけではないため、台風のような異能ではない。雷も雨雲に付随したものと考えていい。
しかし、雨という要素が別なものに作用するのであれば急がなければいけない。もし雨の変質などで人体に有害な物質が振り撒かれるようなことになれば、空奏たちはもちろんこの一帯が地獄と化す。
「琴絵、今の状態で異能使えるか?」
「紙は外に出したら雨でふやけちゃって効果無くなると思う。何か描ける物があれば、地面使って異能自体は使えるよ」
「そうだよな。……どうするか」
琴絵の異能は「描く」という工程が必要になる。描くためのものと場所があれば異能自体は使えるのだ。この雨では描いたものを維持するのが難しい。今すぐに何か、というわけにはいかない。
空奏が思案していると、琴絵が何かを見つけたようで空奏の腕を引いた。
よろめいた空奏の横を通って行ったのは、人一人呑み込めるような大きな水の玉。動きはあまり速くないが、水の中は渦巻いており、呑み込まれるのはまずい気がする。壁にぶつかって弾けたところを見ると、耐久力は高くないのか。衝撃を与えれば何とか凌げるかもしれない。
「空奏くん、動ける!?」
「……ちょっと厳しい。これはまず」
「な、ななな何ですかこれぇ。ふえぇ、空奏さん琴絵さんどこにいるんですかぁ!!」
「いっで。も、モカ。脇腹をえぐるのはやめろ」
先ほどまでキビキビと動いていたはずだったモカの情けない声が聞こえた。声のした方に視線を向けようとすると、横から強い衝撃受けた。ただでさえ動くのが億劫な状態だ。靄の中から突然出てきた少女を受け止められる余裕は今の空奏には無い。為す術もなく倒れ込む。
晴れていた時の状況を思い浮かべて空奏たちのいた方向へ走って来たのだろう。空奏たちの前に現れたモカはバルドを胸に抱きながら雨と涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
弱っていたとはいえ獣化していた熊井を拘束し、一人で適切な事後処理に当たっていた人物とは思えない気弱な姿だった。
前線に出るようになってまだ間もないモカは精神的に脆い面がある。戦闘中は冷静でいられるものの、一区切りついて気持ちが切り替わっている状態で予想外のことが起きるとその反動からか子どもっぽくなってしまう。
モカは影を操る異能を持つ。しかし、影にある程度の濃さが無ければ操ることができない。
今のように陽も光も無い状態では影を使うことができないため、急な状況の変化に対する不安も強かったのだろう。
空奏は周囲に風を巻き起こした。飛んでくる水鉄砲の軌道を逸らすぐらいはできるかもしれない。気休めにしかならないかもしれないと思っていたが、効果はあった。威力を削られた水球はサッカーボール程度の大きさになって空奏たちに迫る。元々動きは速くないため、少し身体を動かせばある程度は避けられるようになった。
「うう、良かったぁ。急に見えなくなるからいなくなっちゃったのかと思って。何ですかこれぇ。何か水鉄砲みたいなの飛んでくるし、私が何をしたって言うんですかぁ。お家帰っていいですか……」
「モカちゃんのせいじゃないよ。落ち着いて。まずは落ち着こう?」
人間、自分よりも狼狽えている姿を見ると冷静になれるらしい。琴絵が涙目になりながらもモカを宥めている。琴絵も碌に紙が使えない状況のため、琴絵にも幾分覇気が見られない。
「あ、あと空奏さん。影が消えちゃって。たぶん、あの人」
「あっちも獣化が切れてる。この視界の中とはいえ、突っ込んでこないってことは逃げたと見ていい。元々仕留め損ねた俺が悪い。気にするな」
「……すみません」
項垂れるモカに笑いかけ、今の状況をどうすればいいか考える。
方法が一つあるにはあるが、この面子では手が足りない。
「科戸くん、取れますか?」
「真白さん?」
「病院を中心として付近一帯に雨雲が発生したのを確認しました。状況説明をお願いします」
「それが……」
真白からの連絡に空奏が報告をする。
友魂同盟の目的、熊井の拘束。そして彩那の暴走までを手短に話して伝えた。その間に琴絵は瓦礫を使って地面に四角い箱のようなものをいくつか描き、簡易的な壁を実体化させていた。
一先ず、あの水鉄砲をやり過ごすことはできそうだ。
「暴走しているのは彩那ちゃん自身ではなく、幻獣の方と考えていいでしょう」
「そうですね。彩那ちゃんの方はさっきから反応が無い」
「獣化の反対。幻獣にその力の大部分を持って行かれているのではないかと。自我の抑制によって本来アニマが持つべき部分の力を幻獣が使っている」
「そんなことが可能なんですか?」
「普通は無理でしょう。科戸くんも試したことはないでしょうから、断定はできませんが。しかし、この大雨と柊さんも受けた水鉄砲。こんなに大きな力を幻獣一体で賄うことができるとは思えません」
「バルド一体で局地的な台風巻き起こすようなものですからね。さすがに難しいかと」
「ええ。科戸くんの獣化が無ければ不可能でしょう。あの大雨を一瞬でも晴らすのは」
真白は言っているのだ。獣化して雨を晴らせと。
空奏の考えていたことと同じだが、こちらからも確認しておかなければならないことがある。
「持って二秒。悪くて本当に一瞬です。俺に追撃はできませんよ?」
「わかっています。すぐに河地くんと鳴海さんが配置に着きます」
「海さんたちが。……わかりました。バルドと話しさせてください。すぐ終わります」
一旦連絡を切る。河地海という男性は遠距離狙撃に長けている。幻獣の居所さえわかれば狙い違わず狙撃してくれるだろう。不意打ちであれば仕留めるのは容易いはずだ、
モカが連れてきてくれたバルドは羽が傷ついてしまっていた。熊井に叩き落された衝撃によるものか、頭のあたりにも傷がついている。気を失っていたようだが、今は何とか意識を取り戻している。
空奏は呻いているバルドを撫でてから自分の中に戻し、心の中で声をかける。
「(気分は?)」
「(……最悪だ。久々にあんなんもらったからな)」
「(さっきの話、聞いてたな):
「(ああ。空奏の状態を考えて獣化は二秒も持たねえだろう。……ルウも寝てんのか。お前ら無茶したな。そしてもう一回、無茶をする)」
「(前みたいにすんなりいかないのは俺のせいだ。無茶もするさ)」
「(……。全く、しょうがねえな。しっかり決めろよ)」
「(わかってるよ。結果見届けないうちに寝てもいいぞ)」
「(そうさせてもらうさ)」
バルドが笑う気配がする。どうやらルウとの獣化を行ったことも気づいたようだ。心配しながらも陽気な態度を崩さないいつものバルドに空奏は安心した。
後は、自分の仕事を果たさなくては。
「真白さん、いけます」
「二人も配置完了したそうです。科戸くんのタイミングで構いません」
「琴絵。悪いけど、この後はもう身体が動かなくなる。後は頼む」
「うん。任せて。モカちゃんもいるし、晴れれば何とでもなるよ」
笑いながらグッと拳を突き出してくる琴絵。
自らの拳を軽くコンと当て、空奏も笑みを返した。
「すぐに終わらせてくるから。もうちょっと待ってて」
屈み、彩那に目線を合わせて言う。しかし、空奏を見る瞳は空虚なままだ。
その表情からは何も読み取ることはできなかったが、空奏はニコリと笑ってふらつく足で外へ出た。
「いくぞ、バルド」
「(おうよ。たった数秒だが、かましてやれ!)」
自らの内からバルドが嗤う。
獣化で消耗するのは幻獣だけではない。アニマが負う負荷もまた、尋常なものではないのだ。そんな負荷など意に介さないとでも言うように、空奏は力の扉をこじ開けた。
通常の人間ではありえない、その日二回目の獣化を果たす。
空奏は獣化ができない、というわけではない。以前は熊井のように持続させることができていた。しかし、今は獣化するのがやっとだ。長くても一分は持たない。
特に空奏自身も、ルウとバルドも傷だらけの今回。数秒でも持たせられるのは幻獣たちの頑張りのおかげだ。
獣化した空奏はすぐさま周囲一帯に竜巻を巻き起こした。自身を目として巨大な竜巻が創り上げられる。
すぐさま病院の壁に透明な幕が張られ、風によって窓が割れるのを防ぐ。鳴海の異能だ。
この付近の建物に対して張られているであろうその幕は、一時的に衝撃を吸収してくれる。狙われた攻撃ならともかく、雨風の余波はあれが守ってくれるはずだ。
「っらぁ!!」
空奏が吼えた。危機感を感じたのかあちこちから水の玉が飛んできたが、竜巻に当たって霧散していく。竜巻は呼応するように広がり、そして伸びていく。それが向かう先は、空。しかし雲に届く必要はない。空奏の仕事はあくまで広範囲の雨の排除。
そして地上より遥か上空に、そいつはいた。
「きつ、ね……?」
力を使い果たし薄れゆく意識の中で空奏が見たのは、一体の狐の幻獣だった。
幻獣はアニマの傍を大きく離れることはできない。それでも彩那からギリギリの距離を取っていた狐は、その居場所を見破られたことにより空奏に向かって動き出す。
「ごめんな。一旦、眠ってくれ」
空奏の呟きが聞こえたわけではあるまい。しかし狐は空奏に向かう途中で河地によって撃ち抜かれた。
正確に頭を穿ったそれは、いかに幻獣と言えど一撃で屠る力を持つ。
淡い光とともに姿を消す狐の姿を見送り、限界を迎えた空奏もまた意識を手放した。




