①
お時間いただけましたら、是非、お読みくださいませ。
「…………また、やられた」
ロッカーを開けながら隣で加奈子がつぶやいた。
見ると、加奈子のロッカーは水浸しで、食べ物が腐ったような、なんだか変な臭いもした。
「あら、大変ねー、岡崎さん」
松本愛華が取り巻きを引き連れ、さも、たまたま通りすがったように声をかけてきた。
「あらー、何、この臭い! 岡崎さん、ロッカーに何か腐ったものでもいれてるの? ってか、これ岡崎さんの体臭?」
げらげらと笑いながら去っていく集団がまるで目に入らないかのように、加奈子はロッカーの中身を点検し始めた。
「体育着に残飯突っ込まれてるよ…………。今日、体育なくてよかった。バレー部の洗濯機借りて昼休みにでも洗おうかな」
のんびりとそんなことを言っている。
「加奈子、いいの? このままエスカレートしたら…………」
心配で、そういいかけた私を遮るように加奈子は、
「大丈夫だよ」と笑顔を見せた。
私たちは高校二年生。一応大学進学希望だが…………まだ、やりたいことは、と問われても返答に困るくらい漠とした未来しか思い描くことはできず、将来何になりたいとか、どんな仕事に就きたいとか、そういったはっきりした目標もない。
しいて言えば、何にもなりたくないし、どこへも行きたくもない。このままここにずっと留まっていたい。ぬるま湯にどっぷりつかり、何も考えず、揺蕩っていたい。
そんな日常に突然、松本愛華から、加奈子への嫌がらせが始まったのだ。
私たち…………私、高田こずえと岡崎加奈子、そのほか数名の地味目グループと違って、松本愛華の派閥はいつもキャッキャと騒いでいる、派手で、女子力アピールの激しいグループだった。今までだって、決して仲がいいわけではなかったが、接点がないので、争うことも全くなかった。
だから、今回の一連の加奈子に対するいじめともいえる行動は全く寝耳に水のことで、私たち地味目グループはおろおろするばかりだったが、当の加奈子は泰然自若というか、あまり気にする風でもなかった。
こちらのグループのメンバーの山田奈々がひそかに仕入れた情報によると、なんでも松本愛華の付き合っている武田豪が、加奈子をかわいいと言ってしまったことによる嫉妬ではないか、ということが推測された。
けれど私はその時、愛華のしている心配は、まったくの杞憂だと思っていた。
確かに加奈子は、私たち地味目グループと行動をともにしてはいるが、その容姿は可愛いというよりむしろ、とてもきれいだと思う。すらりとした長身に輪郭のきれいな小顔、肌は抜けるような色白で、鼻の先がつんととがった鼻筋の通った顔に、切れ長の瞳。やや茶色がかった髪にゆるい天然パーマがかかっている。髪は校則で三つ編みにしているし、派手さはないけれど、よく見ると、その整った顔立ちは、松本愛華のアイプチメイクの顔などと比べ物にならない美しさだった。
だけど加奈子は、少し変わったところがあって、たぶん男子に興味がない。かといってレズ気があるというわけでもない。女子同士の付き合い方はごく普通だ。きっと異性に対する関心をつかさどる機能が欠落しているのではないか、そんな感じのする興味のなさだった。
加奈子はひまさえあれば、窓の外をぼんやりと見て空想に耽っていた。
以前一度昼休みに、あまりにも快晴で雲一つない青空を、飽きずに見上げていた加奈子に、何を考えているのか、と訊いてみたことがある。すると、
「人魚になるにはどうしたらいいと思う?」
と、宇宙語のような問いが返って来た。
「人魚? …………なりたいの?」
戸惑いながら訊いてみると、加奈子は
「うん」
そう答えて、また空を眺めた。
空はどこまでも青く、きっと加奈子の目には海の様に見えていたのだ。
窓から下を見下ろすと、わずかな昼休みの間にも校庭で練習をする運動部やダンス部の姿が見えた。
私がそれらに目をやると、加奈子も一緒にそれをしばらく見つめた。
「だってね、思わない? こずえちゃん。この世の中って、人間が作った意味のない決まりばかり。そして、その自分たちが作った決まりにがんじがらめになって、だれも幸せじゃないよ。やさしさや善意だって、今じゃボランティアって言葉で定義されて、自発的なものではなくなっている。自分たちの心の中の事まで、点数化されている」
そこで言葉を切ると加奈子はその瞳をまた青い空に向け、眩しそうに目を細め、見上げながら、
「海の中までは、そんな決まりってないんじゃない? 海は広いし、大きいし」
あまりに唐突な加奈子の夢に私は訊ねずにはいられなかった。
「…………それはそうかもしれないけど……。でも、なぜ人魚なの?」
加奈子は、私に振り返ると笑って、
「あ、言ってなかったっけ、こずえちゃん。私の家、人魚の骨があるんだよ。」
「え?」
そんなこと初耳だった。
「何、それ。家族の誰かの趣味?ユーマとか、珍しいものを集めてるとか?」
私は勢い込んで尋ねたが、加奈子は笑って、そのことについては何も答えず、また空を見上げた。気持ちのいい春風が、私たちの間をすり抜け、加奈子の後れ毛を揺らしていた。
私は、そんな加奈子の途方もない夢に付き合って、
「そうだね、人魚になるには…………まず、おぼれないように泳ぎを練習して…………」と言った。
「それはもう大丈夫。小さいころからスイミングに通ってたから。代表になったこともある」
加奈子は少し自慢げに言った。
「それじゃあ、次は、海に入らないと。でももう少し待たないと、寒い」
そのころはまだ春先だった。
「どこから入るかな…………。あの、赤松海岸の崖のてっぺんから飛び込もうかな」
加奈子は市内にある、絶景で有名な海岸の名前をあげた。
私はその時、その加奈子の言葉に、なぜだか背中がヒヤリと冷たくなって、思わず、慌てて答えたことを覚えている。
「そんなところから、飛び込んだら、身投げだよ……。それに打ち所が悪かったら死んじゃうし…………。もしそうなったら、間違いなく海岸の入り江に流れ着くよ。うちの親戚、釣りをしていて、見つけたことあるんだよ、水死体」
「え…………」
「あの海岸、潮の流れのせいで、結構、流れ着くんだって。……水死体…………結構…………ひどい……らしい」
「えー…………。そりゃ、ちょっと、人魚どころじゃない…………」
そういって最後は笑い合った。
私は、ほっとして加奈子を見た。加奈子の笑顔は眩しいくらい綺麗だった。
「ねえねえ、こずえちゃん。ちょっと変な噂聞いたんだけど」
加奈子のロッカーが荒らされてから数日たって私たちのグループの柳井詩織が声を潜め話しかけてきた。
②へつづきます。