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地球の記憶

作者: 水無月 潤

   プロローグ


 閑散とした部屋に、キーボードとマウスを叩く音が響いていた。

 都心近くの住宅街だというのに、外部からの音はほとんど届かない。部屋の防音環境が完璧だというわけではなく、電車の走る音も近所の犬の鳴き声も、もともとあまりない。つまりは、それほど街全体が閑散としているということだ。

 一樹は、この耳が変になるほどの無音空間を割と気に入っていた。

 学校から帰宅すると、まず部屋に籠もり、パソコンの電源を入れる。

 毎朝メシ食って登校し、つまらない授業を受け、休み時間は友達とダラダラ過ごす。そして放課後には真っ直ぐ帰宅する。これを平凡と言わずして何と言うだろう。

 パソコンに向かっている間だけ、一樹はそんな平凡から抜け出せる気がしていた。先生や友達の声、交通機関の音、あるいはテレビ。そんな音に囲まれた世界から、一気に無音世界に入ることで、自分は今、特別な非日常を体験していると感じられたのだ。

 一樹がちょいちょいとマウスをいじると、プログラムが起動し、そこからネットワークに接続する。

 開かれたページから、さらに別のリンク先をクリックする。ページのトップに『Memory Earth』の文字が掲げられ、そのすぐ下の枠にIDナンバーとパスワードを記入するスペースがあった。

 一樹がそこに、IDとパスワードを打ち込むと、サイトのトップページに移った。

 ページ内には、様々なタイトルのついたファイルが並んでおり、そのどれもが動画ファイルだった。

 ファイルを適当に選んで開く。するとモニターが現れ、保存されていたムービーが映し出された。

 こういった動画サイトはよくあるのだが、今、一樹が鑑賞しているのは、それらの類とは異なるものだ。

 二十二世紀を迎えても、アニメや漫画が夢見ていた、空飛ぶ車や人間のように動くロボットなどといったものは、やはり幻想科学のままだった。百年もの間、地味な進歩が二、三年に一度あるかないか。だから未だに車はアスファルトの道路を走るし、二足歩行ロボットがあっても、それはカクカクしながら不安定に動く。人間は百年前の生活と、たいして変化のない生活をしている。そんな世界だった。

 ただ、たった一つだけアニメや漫画の幻想科学が実現したことがあった。いや、実現しつつあることが。

 数年前、宇宙空間において、特殊な空間の歪みが観測された。それはブラックホールのように、ぽっかりと空いた穴だった。多くの研究者によって解析された結果、それは『地球の記憶』として発表された。

 コンピューターがプログラムデータを保存するみたいに、地球も歴史を保存しているというのが研究者たちの理論だった。地球上で起きた何億年の出来事すべてが宇宙をメモリーパックとして保存されていて、宇宙で観測された『歪み』から、その歴史の断片を取り出せるというのだ。

 歴史の断片と言っても、教科書で教わるような世界の動きだけではなく、日常のごくありふれた人の生活までも、そこから見つかっている。むしろそういった日常生活が見つかることのほうが大半だった。考えてみれば当然だろう。

 一樹が見ている動画サイトは、その断片を映像化したものを公開してるのだ。実現しつつある幻想科学。いわゆるタイムテレビというやつだろうか。

 一樹は、サイト内の更新を一通りチェックすると、ページをログアウトした。

「新しい更新はなし……か」

 そう呟いてパソコンの電源を落とした。

 携帯電話を取り出して、時刻を確認する。

 もうすぐ夕食の時間だ。

 そう考えてると、すぐに部屋の扉がノックされた。

「一樹くーん。ご飯ですよぉ」

 のんきな声が耳に届く。

「今行くよ」

 そう言って、椅子から立ち上がる。


     ☆


 階段を下りて部屋にはいると、テーブルの上には二人分の食事の用意が出来ていた。

「あー、また着替えてない」

 一樹の制服姿を見て、遥香がたしなめる。

「父さんたちは、今日も研究所?」

 遥香の言葉に返事をせずに、一樹は言った。

「仕方ないわよ。二人とも忙しいんだもの」

 彼女がそう返事すると、今度はにやりとイタズラっぽく笑った。

「寂しい?」

「全っ然」

 そう語調を強めて、一樹は席についた。

 一樹の両親は、揃って研究員をしている。

 『地球の記憶』プロジェクトチームが結成されて、一樹の両親もそこに加わっていた。二人ともほとんど研究室に籠もりきりで、滅多に家に帰ってこなかった。その間、家のことは家政婦の遥香が来てくれているのだ。

「そうよね。もう親に甘える歳じゃないものね。それとも、私がいるから寂しくないってことかな?」

「いやそれも違うし」

「あら残念。でも一樹くんわかってないなぁ。こういうとき、即否定は失礼よ」

 冗談のように笑いながら遥香が言う。

 まったく、つくづく家政婦って感じがしないなぁ。

 一樹は胸の内で呟く。実際、遥香は使用人というよりも、姉貴といった感じで一樹に接している。彼女なりに、両親が不在がちで兄弟もいない一樹を気遣っての言動なのかもしれないが、ただ単に付き合いの長さによるものなのかもしれなかった。

 遥香が家政婦としてやってきたのは、一樹がまだ中学生に上がる前だっただろうか。宇宙空間の歪みが観測され、研究に追われることになった両親が、彼女に家事手伝いと一樹の世話を頼んだ。

「よろしくね。一樹くん」

 そのときの彼女の挨拶が頭をよぎる。まもなく中学生になる一樹に対して、まるでもっと小さい子に話しかけるような口調だった。

 つまりは、もともとそんな性格なのだ。遥香は、高校生になった一樹に対しても、昔とあまり変わり映えのしない接し方をする。今では、本当に年の離れた姉のようだ。

 年齢のことを言うと怒られそうだから、そのことは心の中で思うだけにする。

「どうしたの。早く食べましょ」

「なんでもないよ」

 一樹が返事をすると、遥香は微笑んだ。

「じゃあ、いただきます」

「いただきます」

 二人の声が食卓に響いた。



 食事を終えて、リビングでぼんやりとテレビを見てるとケータイが鳴った。

 液晶画面に映し出された文字を見る。

 父親からだった。

 通話ボタンを押して電話を耳に当てる。

「もしもし」

『おー一樹。元気にしてるか? ちゃんと遥香ちゃんのいうこと聞いてるか?』

「何度も同じこと言わなくても大丈夫だって」

 たまにこうして親から電話が掛かってくる。父からの時もあれば、母からの時もある。でもたいてい言ってくることは決まってる。メシ食ったか。とか。元気にしてるか。といった感じだ。

『はは、ちゃんとやってるみたいだな。あ、そういえば、お前、またアクセスしただろ。あまり頻繁にするもんじゃないぞ』

「あ、うん」

 父が言ってるのは『Memory Earth』のサイトのことだ。父の所属する機関が試作的に開いたページで、インターネット上にあるとはいえ、あれは一般公開されてるサイトではない。まだ活用できる段階でなはいし、問題ある映像なんかも流れたりする。日常のあらゆる生活を覗けてしまうので、プライバシーの侵害にもなりうる。もっとも、そういった映像は解析されると同時にお蔵入りになり、更新されることはないのだが。

 このサイトを見れるのは、ごく一部の関係者だけであり、正式に登録されたコンピューターでしかアクセスできない。

「ごめんごめん。気をつけるよ」

『よし。まあ、たまになら問題はない。それに、そのうち一般化もされるだろうからな』

 父はプロジェクトが成功することにかなりの自信を持っている。そのためか、一樹が親のIDを使って『Memory Earth』にアクセスしていても寛容な態度でいてくれる。これが母だと、少々厳しく言われるのだが。

 そのあとは、父からの状況報告を聞かされた。新たな歪みが見つかったことだとか。『地球の記憶』を公表するイベントが催される予定だとか。

『おっと、そろそろ研究に戻らないと。じゃあな、たぶん近いうちに帰れると思うから』

 十分ほどの会話の後、父が電話口の向こうで告げた。

「わかった。あまり期待せずに待ってるよ」

『ははは、このやろう。あ、そうそう、たまにでいいんだが、病院にも顔を出しておいてくれないか。じゃあな』

 そう言い残して、電話が切れた。

 父の話してくれたことが耳に残っていた。新たな歪みが見つかったということは、また『記憶』が見つかったということだ。どんな映像が見れるのだろうか。それに『記憶』の一般公表もある。今からでも胸が踊る。すぐさまアクセスしてみたくなったが、さすがに控えるように言われたばかりなので止めておく。

「お父さんから?」

 一樹が思いを巡らせていると、食事の片付けを終えた遥香が入ってきた。

「うん」

 そう言うと、遥香はクスッと笑みを浮かべた。

「いいことでもあったの? すごく嬉しそう」

「まあ」

 一樹は自分でも顔が緩んでることに気づいた。表情を抑えても、胸の内から湧き上がる気持ちは抑えられなかった。

 遥香が一樹の隣に座る。

「一樹くん、お父さんと仲良いよね。会話がまるで友達と話してるみたい」

「そうかな」

 一樹は、父との会話を思い出す。たしかに仲が悪いわけではない。友達同士の会話と言われれば、そう言えないこともない気がした。父は、気さくな性格であり、どこか子供っぽさの抜けてないところがある。昔からそんな父に接してるためか、一樹にとってそれが一般的な父親像になってるのかもしれない。

「ちょっと、羨ましいな」

 遥香が、どこか物憂げな口調で呟いた。


     ☆


 一日の授業が終わり、放課後となった。

 一樹は自分の荷物をまとめ、教室を出る。一樹の友人である武も一緒だ。

「なぁ、今日お前ん家行ってもいいか。もうすぐテストなんだし、勉強会ってことで」

 武は期待する視線を送りながら言った。そう言って口元をにやつかせるときは決まって、ある目的がある。

「どうせ、うちのパソコンが目当てだろ」

「いやいや、本気で勉強しようって言ってんだ」

 武は否定の意を口にする。にやけたままだ。

 武の目的は、一樹の家にあるパソコン、正確にはそのパソコンでしか見れないものにある。『地球の記憶』が発見されて三年。中学からの付き合いである武は、一樹の両親がプロジェクトに関わってることも、一樹の家のパソコンで『地球の記憶』の映像が見れることも当然知っている。

 武から誘ってくることもあれば、一樹から家に招くこともある。一樹が武を家に招いて、初めて『地球の記憶』を視聴してからというもの、武はその魅力にはまってしまったのだ。

「まぁ、でも、ちょっとした息抜きとかに、ちょこっとだけ遊んでも問題ないかもなぁ」

 武は視線を泳がせて、独り言のように呟く。

「やっぱりそうじゃねーか」

 一樹がつっこむ。すると、武は満面の笑みを浮かべて肩を組んできた。

「何言ってんだ。勉強もするって。ほら、二人のほうが効率も良いだろ」

 一樹が、首の後ろに回ってる武の腕を振り払おうとしたとき、背中越しに声が届いた。

「私も行っていい? 三人のほうがもっと効率が良いでしょ」

 振り向くとクラスメイトの希美がいた。

 武と同じく、希美も中学からの友人だ。余程の縁があるらしく、高校一年で同じクラス。二年目の現在も同じクラスで授業を受けている。そのためか、連むときは、自然とこの三人で集まってしまう。

「どうせ二人じゃ息抜きばっかになっちゃいそうだし」

 希美は微笑みながら、覗き込むように二人を見つめた。

 その視線に口を開いたのは武だった。

「そんなことねぇって。てか立ち聞きとは趣味の悪いことで……」

 武の言葉が終わるか終わらないうちに、希美の持っていた鞄が武の脇腹に命中した。

「……ってぇ」

 うめき声を上げて、武がよろめく。その拍子に一樹の肩に回していた腕も解け、一樹の体に自由が戻った。

「ねぇ一樹、いいでしょ?」

 希美が一樹に問いかける。

「わるい。今日は病院に行くんだ。また今度な」

 一樹がそう告げると、希美の目に残念そうな色が宿った。

「あれ、お前のばあちゃんって退院したんじゃなかったっけ?」

 武が口にする。顔を歪めて、脇腹を手で押さえている。どうやらモロにはいっていたようだ。

「一時退院だよ。またすぐ病院に戻ったんだ」

「ふーん」

 武がつまらなさげに頷く。

「それじゃあ、仕方ないね。また今度ね」

「ああ、わるいな」

 希美の言葉に、一樹はもう一度、謝罪をする。

 校門を出て、駅に向かう。普段は三人とも同じ方向の電車に乗るが、病院に行く一樹は二人とは反対方向の電車に乗った。



 白い壁と床の廊下を歩いていると、まるで別世界に迷い込んだような心地がした。消毒液の臭いに満ちた病院独特の雰囲気は、少なからず普段の生活から逸脱していた。

 ナースステーションの中では、数人の看護師が忙しそうにしている。そんな光景を横目に感じながら、一樹はさらに廊下を進む。

 入院病棟の一番奥の個室。そこが一樹の祖母の病室だ。

 一樹は、軽くノックをしてから扉を開け、病室の中に入った。

 清潔感は漂っているが、どこか殺風景な病室だ。窓のカーテンは閉まっているし、テレビもラジオも置いていない。ベッドの側に置かれている小さな物置棚には、一輪挿しの花瓶が飾られているだけだった。

 ベッドで寝てるはずの病室の主はいなかった。

「またか」

 一樹が、うんざりしたように呟く。病室を出ようと踵を返したところで、一人の老婆が部屋に入ってきた。

「あら、来てくれていたの」

「ばあちゃん、寝てなくて平気なの」

「これくらい大丈夫、大丈夫」

 そう言って笑い声を上げる老婆が、一樹の祖母だ。見るからに年老いて、華奢なおばあちゃんだが、声に張りがあり、足腰もまだしっかりしている。とても九十を過ぎた老人とは思えない。

「そう言って、屋上ばっかり行ってると病気が悪化するよ」

 一樹が諭すと、祖母はニマリと口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと一樹の側を通り過ぎて、ベッドに歩み寄った。

「心配しなくても、あたしはまだ死なないよ」

 祖母はベッドに横になりながら、やはり笑いながら言った。


     ☆


 一樹の両親の研究室は、町はずれの丘の上に建っている。建物自体はそんなに大きな施設ではないが、一通りの最新設備とセキュリティは整っていた。もっとも、研究プロジェクトの関係上、そうでなくては困るのだが。

 一樹は冷たい空気が漂う廊下を、父親の後ろについて歩いていた。たまにだが、一樹は父親に呼ばれて、この研究施設に来ることがあった。身内とはいえ、基本は部外者は立入禁止となっているが、父はそれを平然と無視して一樹を立ち入らせている。これも父のどうしようもない、まるで子供のような性格のせいである。研究で何か新しい発見があると、誰かに知らせたくなる。いや、もっと正確に言うと、誰かに自慢したくてしかたがなくなるのだ。そしてその矛先は、いつも一樹に向く。

 父のそんな遡行が暗黙されているのは、父がそれなりの信頼を得ていることと、かなりの融通がきく立場にあるからなのか、もしくは、みんなから呆れられてるだけなのかもしれない。

 こんなんで大丈夫なのか。

 一樹はここに来るたびにそう思うが、一樹自身、施設内を見学できるのはありがたいので、余計なことは口にしないようにしていた。

「それですごいんだぞ。今まで『歪み』の解析は宇宙の研究施設で行ってたんだが、これからは『歪み』そのものを地上に転送して、こっちの研究所で解析が行えるんだ」

 父は一樹の前を歩きながら、研究成果をものすごい勢いで話している。そもそも、『歪み』なんてものは宇宙空間に発生するブラックホールのようなものだ。それを解析するなんて、宇宙での作業は当然だった。しかし、今回の研究では、特殊な装置でこちら側に宇宙空間と同じ状況を作ることにより、宇宙で発見した『歪み』を、正確にはコピーしたものだが、その転送ができるようになったらしい。

「つまりはフォルダ内のプログラムファイルを、別のフォルダに移し替えるのと同じだな」

「で、今日はその装置を見せてくれるの?」

 一樹がそう問いかけると、父はチラリと振り返って、にやりと笑みを浮かべた。

「ついてくればわかる」

 父はそれ以上のことは言わなかった。

 研究施設内は入り組んでいて、同じような扉をした部屋がいくつも並んでいた。父に連れられて何度か来ているが、いまだにどこがどうなっているのかわからなかった。

 そんな迷路のような施設内を一樹は父親について行った。ロックの掛かったゲートをいくつかくぐり抜け、やがて大きな扉の部屋まで辿り着いた。

「ここだ」

 父は扉のロックを解除し、一樹を中へ招き入れる。

 まず最初に見たのは巨大なガラス窓だった。その前に何台ものコンピューターが並んで、それぞれに研究員がついている。窓の向こうはドームのような広々とした空間になっていた。

 よく映画とかで観る科学実験室と、ほぼ変わらない景色がそこに広がっていた。

「あなた!」

 突然、部屋内に響く大声。振り向くと目をつり上げて近づいてくる母親の姿があった。

「また勝手なことをして。部外者は立入禁止なのよ」

 母は一樹に目を向けず、真っ直ぐに父親に向かって行った。

「まあ、いいじゃないか。家族なんだし」

 父はヘラヘラ笑って、母を宥めようとするが、焼け石に水もいいとこだ。

「家族でも部外者は部外者なのよ。あなたも簡単について来ちゃ駄目じゃない」

 母の目がようやく一樹に向く。その視線に目を合わせる。

「ゴメン」

 そう素直に謝って、一樹はすぐに視線を逸らした。怒られてることよりも、一樹にとっては施設内の見学が大事だった。

「まったく、なにもこんな日に……」

 母はそう言って、一樹たちから離れていった。こんなところで言い合いをしてるヒマなどない、とでも言いたげだった。

「ふう、とりあえず説教は先送りだな」

 父が安堵した様子で口にした。

「こんな日って言ってたけど、今日は何かあるの?」

 一樹はさっき母親がこぼしていた言葉の意味を尋ねた。

「ん、ああ。それはな、まぁちょっとその窓から覗いてみろ」

 父が指さしたのは、正面の巨大な窓だ。

 一樹は戸惑いながらも、窓に近づいて外を眺める。一樹たちのいるところは、ドームの床よりも高い位置にあるようで、窓からは見下ろす形でドーム内を観ることができた。

 ドームの中央には円柱型のポットのような装置が置かれていた。そのポットから何本ものパイプが伸びており、あちこちに設置されてた物々しい機械と繋がっている。

「あれが『NOVA』だ」

 父が口にしたのは、先ほど父が自慢していた、宇宙から転送された『歪み』を受信できる装置の名称だ。

「あの真ん中のやつ?」

「そうだ。今からあれを起動させて、初の地球上での『歪み』解析を行う」

 その発言に一樹の胸が弾む。

「マジで。そんな大事なところに俺がいちゃってもいいの?」

「嬉しそうな顔をしてよく言うぜ」

 父親はそう言うと、すでにスタンバイができている研究員たちに指示を出し始めた。

 部屋の空気が変化した。緊張が空気に混ざり、重く張りつめた雰囲気が漂う。その重圧に押されて、一樹は息苦しさを覚えた。

 キーボードを打つ音がものすごい速度で聞こえる。その音に連動して、機械の低く唸るような起動音が大きくなっていった。

「今『NOVA』の中を宇宙と同じ状態にしてるところだ。それがすんだら、いよいよ『歪み』の転送が始まる」

 父が一樹に説明する。そのすぐ後に、ピーッ、という単調な電子音が響いた。

「準備完了しました」

 研究員の一人がそう言った。

 その声に父はニヤリとして「いよいよだ」と小さく呟く。

 父が次に合図をすると、ドーム内の機械は、さらに大きく唸り始めた。

 転送が始まった。

 一樹は、頭ではなく、体でそう理解した。初めて見る装置がどのように作動してるのか、頭で理解なんてできない。それでも、自分の目、耳、肌で感じていた。このガラス一枚隔てた向こうに、『地球の記憶』が現れようとしていることを。

 父の、母の、そして周りにいる研究員全員の緊張と昂揚がわかる。その空気の躍動を感じ取れるほど、一樹の神経は研ぎ澄まされていた。

 そんな時だった。

 耳をつんざくサイレン音が部屋中に響いた。追い立てられるようなその音は、間違いなく「警告」を示すものだった。

 周りの緊張は一気に、その音にかき消され、ざわめきが広がる。

「どうした!」

 誰かが叫んだ。

「NOVA内に異常発生です。異物の混入が見受けられます」

 別の誰かが叫んだ。

「NOVAの停止を。中の空気が戻り次第、異物の撤去作業を行う」

 いろんな言葉が飛び交う。一樹はその中で、ただ戸惑っていた。急速に体の力が抜け、頭が真っ白になっていた。

 やがてサイレンが止み、ドーム内の機械も動きを止めた。

 数名の研究員がドームに降り、円柱型の装置に近寄っていく。一樹は事の成り行きをガラス越しに眺めた。

 NOVAが開かれ、一人の男性研究員が中を確認する。すると、その男は驚いたように中へと入っていった。何人かがその後に続き、しばらくして彼らは『異物』と見られるものを抱えて出てきた。

 一樹が遠目に見たのは、男に抱えられた少女の姿だった。


     ☆


 NOVAから現れた少女は、すぐに研究施設内の治療室に運ばれた。人工的なものとは言え、擬似宇宙を作り出す装置の中にいたのだ。最悪、命の喪失を懸念されたが、奇跡というか奇妙というか、気絶しているだけで生きているようだった。

 検査が終わると、少女は医務室で寝かされた。一樹は医務室のガラス越しに彼女を眺めていた。

 髪は真っ直ぐに長く、きれいな黒。比べて肌の色は驚くほど白かった。そのせいで顔にはまるで生気が感じられないのだが、その無表情な寝顔からでも、彼女は美少女と呼ぶのに相応しい顔立ちをしていた。

「今日はもう帰りなさい」

 隣に立っていた母親が言う。

「あの子は、一体……」

 一樹が尋ねると、母は小さな息をついた。

「わからない。あの中から人が現れるなんて。みんな混乱してるわ。今お父さんたちがNOVAを調べてる。それに、彼女が目覚めたら、何かわかるかもしれない。どちらにしろ、あなたが心配することじゃないわ」

 母はそう言って、一樹の質問を留めた。

 一樹が医務室を出て、施設の出口に向かおうとすると、後ろから母の声が追いかけてきた。

「一樹。今日起きたこと、誰にも話しちゃ駄目よ」



 一週間が過ぎた。

 一樹はいつも通りの毎日を過ごしていたが、どうしても頭の奥から湧き上がるものを抑えられないでいた。家でも学校でも、思い出してくるのは研究所での出来事ばかりだ。

 地球の記憶を転送するための装置から現れた少女。装置から出された時、彼女はどこのものか知らないが、学校の制服を身に纏っていた。一樹と同年代くらいだろう。その端正な容姿や艶のある髪が、脳裏をよぎる。

 どうしてあんなところから現れた?

 彼女は一体何者なんだ?

 疑問が堂々巡りを繰り返す。単なる好奇心から出るものだけではなかった。一樹はなぜかもっと別の感情が、胸の奥で引っ掛かっているような気持ちだった。

 父でも母でもいい。すぐにでも連絡を入れたい気分だったが、どうもそれは躊躇われた。自分は基本的に部外者だ。プロジェクトに関わる情報を教えてもらえるとは思わえない。父のことだから、すぐにでも連絡があると思っていたが、それもないので、やはり他に教えられないほどの事件だったのだろう。

 授業中もずっと考え込んでいたものだから、いつ授業が終わったのか気づかなかった。

「おい、どうしたんだ? おまえ最近変だぞ」

 そう言う声がして一樹はやっと我に返る。武がいた。

「え、そうかな」

「うん、なんか悩みでもあるの?」

 武の隣に立っていた希美が言う。心配そうに見つめる彼女の目が、しっかりと一樹を捉えていた。

「明日テストで緊張してんのか?」

「そんなんじゃねーよ。てかお前はもっと緊張感を持て」

「何言ってんだ。諦めの心も大事だと思うぞ」

「いや、ダメだろそれ」

 武の発言に軽いツッコミを入れると、すぐさま希美が割って入ってきた。

「もう、くだらないこと言ってないで帰るよ」

 希美の言葉で一樹も席から立ち上がる。

「でも、ホントに何かあるなら言ってね」

 希美がそう一樹に言う。

「ホントに何にもないから、大丈夫」

 一樹はぎこちなさげに笑って応えた。



 あなたが心配することじゃないわ。

 母がそう言っていた。

 だからといって、気にするなというのも無理だ。

 一樹は、武と希美の二人と別れて、自宅へと向かう途中で考えていた。確かに自分には関係のないことなのかもしれない。何かができるわけでものない。でも、知るくらいはいいじゃないか。

 研究所に行ってみよう。一樹の胸にそんな思いが宿る。しかし、その思いをすぐに打ち消す。

 普段、研究所に行くことは禁じられていた。父に呼ばれて行く分には問題ない。公認ではないが。それ以外は、さすがに研究内容が内容なだけに、勝手に立ち入らせてくれないのだ。

 行き場のない憤りが巡るうちに、家まで辿り着いた。

 玄関を抜けて、習慣に従い、そのまま二階の自分の部屋に向かおうとする。すると、リビングのほうから話し声が聞こえてきた。

 家政婦の遥香が来てるのだろうが、誰と話してるのだろうか。一樹は階段にかけた足を下ろし、リビングに向かった。

 リビングの扉を開けると、遥香がこちらに顔を向けた。

「あ、おかえり」

 相変わらずな笑顔でそう言う遥香。そして、彼女の向かいのソファーに座っていたのは、父だった。

「父さん」

「おう、元気か」

 父は軽く手を挙げて言う。

「帰ってたん……だ」

 一樹の口調がたじろぐ。原因は父の隣にもう一人、誰かが座っているのを見つけたからだった。

 黒い真っ直ぐな髪に白い肌。間違いなくあのとき、転送装置から現れた少女だった。

「父さん、あの、その子は?」

 一樹が尋ねると、父は表情を少し固めた。なぜか父の目には、こちらの発言を許さないほどの凄みがあった。

「うん、まあ今日は、そのことで来たんだ。一樹もそこに座ってくれないか」

 父に促されるままに、一樹は空いてる席に腰を下ろした。

「実は、しばらくこの子を預かることになってな。俺と母さんは、まだいろいろとすることがあって、それで遥香ちゃんに頼んでたところなんだ」

「え」

 父の目が一樹を真っ直ぐに見ている。一樹はその視線を避けるように、目を父の隣に移す。

 少女は伏し目がちに、まるで石像のように動かないでいた。長い前髪から彼女の顔が覗ける。目はじっと虚空を見つめ、無表情な口元に、どこか陰鬱とした感情が込められてる気がした。

「あー、紹介がまだだったな。名前は梨花ちゃんだ。同僚の娘さんなんだが、この子のお母さんが急遽入院されてな、父親は研究所に籠もりきり。一人にするのも心配だし、遠くにいる親戚に預かってもらうよりは、ってことで」

 父がそう話す。一樹には父が何を言ってるのか理解できなかった。

 目の前にいるのは、間違いなくあのとき研究所で、唐突に現れた少女だ。父が嘘を言っているのはあきらかだった。しかし、一樹は、そのことに口を出せなかった。まだ、この突然の出来事に、頭の整理がついていなかった。

「ということで、一樹も協力してくれ。お前は歳も近いから、すぐ打ち解けるだろうしな」

「おじさまぁ、それはどういう意味ですかぁ」

 遥香が妙に穏やかな口調で、父の言葉に反応する。

「いや、その、まあなんだ、遥香ちゃんは同じ女の子同士で上手くいくだろうしな。ははは」

 父は引きつった笑顔で、その場を誤魔化すように言った。全然、誤魔化せてはいないが。

「あー、そろそろ戻らないと。それじゃあ頼んだぞ」

 そう言って、父が腰を上げる。そのまま、リビングを出て行くのかと思えば、扉の前で振り返った。

「一樹、ちょっと来てくれないか」

 そう言って手招きをする。

 リビングを出て、玄関まで来たところで、父の足が止まり、一樹を見つめる。表情は強張り、真剣な眼差しだった。

 事の成り行きにやっと頭の整理がつき、父にいろいろと聞き出そうとしていた一樹だが、その眼差しに思わず言葉を飲んだ。

「さて、お前にはちゃんと話しておこうと思ってな。あの子のことは覚えてるだろ。NOVAから現れて、その後、丸一日ほどで目を覚ましたんだが、衰弱が激しくてな、しばらく療養ということで、うちに連れてきたんだ」

「父さん。あの子のこと、何かわかったの? どうしてあんな嘘を」

 一樹が父の言葉を遮って尋ねる。一樹の強い視線を受け取ると、少し困ったふうに顔を歪ませた。一樹の質問に困ったのではなく、どう説明すればいいのか悩んでいるようだった。

「俺自身、まだ信じられないことなんだが」

 父は肩で軽く息をつくと、ゆっくり話し始めた。

「あの子が現れたとき、そのときに解析するはずだった『地球の記憶』を、再び解析することに成功した。それを映像化した中に、彼女の姿が確認できた」

「どういうこと」

「解析した映像は、今から約八十年も前のものだった。つまり彼女は八十年前の時代に生きていたことになる。はっきりと断定できないが、彼女は過去から現代にタイムスリップしてきたのではないか。ということだ」

 一樹は再度、理解力が遠退いていく気がした。父の突拍子もない話を信じろというのだろうか。自分は父に担がれているのではないかと、一樹はただ困惑するしかなかった。

「タイムスリップって、そんなことあるわけが」

「俺たちも、まだはっきりしたことはわかっていない。だが現に、今の彼女の姿が過去にあって、現在ここに、確かに彼女は存在しているんだ」

 父の語調が強くなる。いつもは温厚で無邪気な父が、こんな声を上げるのは珍しい。

 父も困惑している。

 一樹はそんなふうに感じ取れた。

「信じろとまでは言わない。でも、あの子はしばらくこの家に住むことになる。できれば優しく接してやってくれ。一番困惑してるのは彼女自身なんだ」

 その言葉に、一樹は何も言えなくなってしまった。

 沈黙が流れる。長い時間、あるいは一瞬だったかもしれない。

 そんな気まずさを打ち消すように、父は話を続けた。

「すまないな。こんな説明しかできなくて。どうしてこんなことが起きているのか、原因は全く不明な状況なんだ。原因が掴めるまで、あの子のことは、遥香ちゃんに説明したように、同僚の娘を預かっているってことにしておいてくれ。誰にも話すな。俺たちもあの場にいた者以外に口外しないことになった。政府にも上部にも話していない」

 それで父の話は終わった。

 父は、ぼんやりと立ちつくす一樹の側を横切り、リビングの扉を開けると、中の遥香に一声かける。そしてすぐに引き返してきて、玄関に向かった。

 玄関の扉が開かれて、父はそのまま出て行こうとする。一樹は何も言えず、その様子を見送っていた。

「これからは……」

 出て行く寸前、父は背を向けたままで言った。

「こんなことになった原因の究明に追われることになる。もしかしたら、彼女をもとの時代に帰す方法が見つかるかもしれん」

 そう言い残して玄関の扉が完全に閉められた。

 リビングから漏れる声が、一樹の耳に届いた。声は一人分。遥香の声だけだった。少女に話しかけているのだろうが、会話になっていない。まるで遥香は壁と話しているかのようだ。

 一樹は、体のどこかしらを締め付けられてるような感覚を覚えた。

 先ほど父が出て行った玄関を見つめる。一樹は弾けるように走り出し、家を飛び出した。

 通路を見渡して、すぐに父を見つけた。その向こうに車が停まっている。待たせていたのだろう。

「父さん」

 一樹の声に父が振り向いた。それに合わせて一樹は言葉を繋げた。

「原因がわかったら、ちゃんと俺にも知らせてくれよ」

 できる限りの熱を込めて、一樹は叫んだ。

「ああ、できるだけ早く知らせられるようにする」

 夕闇の迫る暗さで、父の表情は窺えないが、そう応える声は、いつもの穏和で無邪気そうな声だった。



「じゃあ、私はそろそろ晩ご飯の支度をするから、一樹くん、梨花ちゃんをお願いね」

 遥香がリビングを出てキッチンへと入っていく。リビングには一樹と梨花が残された。

 父が帰ってから今まで、遥香が一人で喋って場を持たせてくれていた。梨花は遥香の話に、黙って頷いたり、小さな声でひとことふたこと口にするくらいだった。どんな話にも、ただただ無表情でいた。

 遥香がいなくなった途端に、リビングは恐ろしいほど静かになってしまった。

「えっと、そういえば自己紹介がまだだったね。俺は一樹、漢数字の一に樹木の樹でイツキっていうんだ」

 静けさに耐えかねて、一樹が口を開く。

「君は梨花、でよかったよね」

 そう聞くと、梨花は一樹のほうに顔を向けて小さく頷く。相変わらずの無表情だが、きれいに見開かれた瞳は、少なくとも無感情ではなかった。

「ほんとに自分の家だと思ってくつろいでいいから。父さんと母さんは滅多に家にいないけど、遥香さんもいてくれるし。たぶん困るようなことはないと思うから」

 そう一樹が説明すると、梨花は同じようにただ頷くだけだった。

 上手く会話にならない。当然と言えば当然だろう。彼女にしてみれば、いきなり今までと違う環境で暮らすことになったのだ。戸惑いもある。だからといって、このまま黙って時間が過ぎるのを待つのは、間違っている気がした。

「あの、父さんが、君が八十年前から来たって。それ、ホントのこと?」

 過去から来た少女。父の言ったことが気にかかっていた。一応は信じたつもりだが、それでも心のどこかで信じられない気持ちもある。

「あなたのお父さんたちにも、同じことを聞かれたわ」

 梨花は一樹から目を逸らし俯いた。そして彼女の口がゆっくりと、そう告げた。

「わたし、わからないの。何がどうなっているのか。でも確かに、ここじゃないところにいたの。そこで……」

 梨花の言葉が途切れた。

 彼女の小さくて細い体が、わずかに震えている。

 一樹はこれ以上何も聞けなくなってしまった。


     ☆


 梨花が一緒に住むことになって、遥香も住み込の家政婦となった。まあ、男女二人が一つ屋根の下というわけにもいかないから当然だろう。

 余ってる部屋はいくつかあったが、梨花の部屋は、しばらくは遥香と共同部屋ということになった。

「なんか妹ができたみたいで嬉しいわ」

 遥香が梨花に抱きついてはしゃいでいた。

「遥香さん、お客さんで遊ばないでよ」

 一樹が呆れたふうに言う。

「ねぇ梨花ちゃん。今度一緒に買い物行こうか。服とかアクセサリーとか、いっぱいオシャレしようね」

「聞いてねぇし」

 抱きつかれたままの梨花は、少々気圧され気味だったが、相変わらず感情を表さずに、されるがままになっていた。

 そんな梨花を見つめながら、一樹も彼女の制服姿以外の服装を想像した。

 そんな初日から、数日が過ぎた。

 一樹が学校から帰ると、遥香が出迎えてくれた。

「お帰り」

「ただいま」

 そう交わした後、一樹はいつものように自室へ向かう。

 部屋に入ると、鞄をベッドに投げ出した。いつもはすぐにパソコンの電源を入れるのだが、そうはせずに部屋を出て一階のリビングに向かった。

 階段を降りたところで家全体が静まりかえっていることに気づいた。

 リビングに入ると、遥香が一人でソファーに座っていた。

「あー、また着替えてない」

「あ、ごめん。後で着替えるよ」

 お決まりのやりとりを交わして一樹もソファーに腰を下ろす。

「梨花ちゃんね、お母様の看病で病院に行っていて留守なの」

「ああ、そうなんだ」

 一樹は、納得した感じで応える。

 本当は梨花が病院に行ってるのではないと、一樹は知っていた。

 たまにではあるが、梨花は研究所に行くことになっている。彼女がこちらに来てしまったときの状況の詳しい事情聴取だったり、身体に異常が出ていないかなどの検査を行うのだと、父から連絡を受けていた。

「ねぇ、一樹くんは梨花ちゃんのこと、どう思う?」

「はい?」

 遥香の言葉の意図が掴めずに、一樹はすっとんきょう声を上げた。

「あの子、あまり笑ってくれないと思わない? 話しかければちゃんと応えてくれるし、家のお手伝いもしてくれるから、人見知りしてるんじゃないと思うんだけど、あの子が笑ってるところとか見たことないのよ」

 一樹は、この数日の梨花のことを思い起こした。確かに遥香の言うとおり、彼女は笑ったり、怒ったりとかいう感情表現を出すことはなかった。

 梨花は過去からタイムスリップして、この時代に来てしまった。八十年も前の地球の記憶がそれを証明している。

 少し前に、父が、解析したその映像を見せてくれた。映し出されていたのは、夕焼けの綺麗な空を背景にした、梨花の姿だった。彼女は建物の屋上らしき場所に立っていた。風が吹いて、彼女の長い髪が揺れた。空を見上げる梨花の顔が窺えて、その顔はどこか寂しげに、それでいて何か強い意志を帯びているようだった。彼女は見上げていた視線を落とし、足下を確かめるように、ゆっくりと足を動かした。

 そこで映像は途切れた。

 父が言うには、そのあとの彼女の姿は『地球の記憶』から抜け落ちているらしい。つまり、その瞬間、梨花はこちらに来てしまい、あの時代から消えてしまったのだと考えられる。

 梨花が感情を表に出さない理由が、一樹にはわかる気がした。ここは彼女の世界ではない。彼女の世界は、ここから遠い時間を戻ったところにあるのだ。同じ地球上で、同じ国であるとしても、それは彼女にとって異世界そのものなのだろう。悲しいことだけど、もしかしたら、すべてが敵だと感じ取っているのかもしれない。

「うーん、もともと感情を表さない娘なのかしら。でもそれはそれで、笑った顔も見てみたいわねぇ」

 遥香はニヤリとして目を怪しげに光らせるが、一樹はそれを無視した。

「入院してるお母さんが心配で、ちょっと沈み込んでるだけだじゃないかな」

 一樹は、自分の考えてることとは別のセリフを吐いた。遥香に本当のことを話すわけにもいかない。父たちが吐いてる嘘で話を合わせるしかない。

「そうかな? それだけならいいんだけど、なんだか無理に抑え込んでる感じだから」

 一樹は遥香の言葉に、何かが引っ掛かったような気がした。

「そのうち元気になるよ」

 不意に感じた違和感は、あまりに微弱で小さな感覚だったせいで、一樹は気にもとめずに、そんな言葉を発していた。



 夕飯は梨花が帰ってからということで、一樹はそれまで自室でパソコンのモニターに向かっていた。

 習慣で『地球の記憶』のサイトにアクセスしたが、ログインはせずに、ID認証のカーソルをずっと見つめていた。

 一樹が考えていたのは、梨花のことだった。

 自分の生きていた時間から外れて、いきなり未来の時代に来てしまった心境は、当の本人しかわからない。父たちが必死でもとの時代に帰す方法を見つけ出そうとしているが、それが見つかるかどうかもわからない。戸惑い、不安、寂しさ。そんなものが体の中で渦巻いて、頭の整理がつかずに、沈み込んでしまうのも仕方がないのかもしれない。

 それでも、無感情に日々を過ごしている梨花を見ているのは辛かった。

 自分が元気づけてあげられれば。

 そう考えて、一樹はしばらく迷い、そしてある決心をして、携帯電話に手を伸ばした。



 夕食が終わり、遥香が片づけのためにキッチンへと向かったのを見計らって、一樹は梨花に声をかけた。

「少しは慣れた? えーと、この時代に……」

 当たり障りない言葉をかけると、梨花は相変わらずの様子で小さく頷いた。

 一樹は、自分の心臓が唸っているのを感じた。

 ここから、どう切り出そうか。

 頭の中で何度もシミュレーションをしたが、いざとなると、どうも上手くいかない。でも計画は動き出しているので、立ち止まるわけにもいかなかった。

「あのさ」

 うわずった声が出る。その不自然な気配に気づいて、梨花は大きな目を見開いて、一樹を見つめた。

 真っ直ぐ見つめる彼女の黒い瞳に、一樹の鼓動がさらに早まった。気持ちを落ち着けようと、一樹は軽く息を吸い、気づかれないくらい小さく吐いた。

「今度の日曜なんだけど、あいてるかな?」

「え」

 消え入りそうな声が梨花の口から漏れた。


     ☆


 日曜日。

 一樹は駅へと向かっていた。隣に並んで梨花がいた。遥香コーディネイトの可愛らしい感じの服を着ている。

 梨花を元気づけようと、一樹が出した答えは、彼女に自分たちの世界を見せてあげることだった。彼女の暮らしていた時代とは、そんなに大きく変わっていないかもしれない。車はアスファルトの道路を走ってるし、人間のように動いたりするロボットなんて、どこを探しても見つからない。

 でも、きっと梨花のいた時代よりは発展した世界のはずだから、そんなところを案内するつもりだった。

 駅に着き、改札の前まで行くと、こちらに手を振ってる人影を見つけた。

「おう、来たな」

 武がニヤニヤしながら言う。好奇心にまみれた視線が一樹を刺す。

「おはよう。その子が梨花ちゃん」

 武と一緒に待っていた希美が、梨花を見つめる。

 一樹が梨花を連れ出そうと決心したとき、この二人に協力を頼んでいた。その方がいいと思ってのことだった。一樹ひとりで連れ出すよりも、人数の多い方が盛り上がるだろうし、梨花の警戒も薄まるだろう。

 当の梨花は困ったように、武、希美を見つめ、そして一樹のほうを向いた。

「あの、やっぱり私帰ります」

 彼女の口がそう告げる。

「え」

 一樹の落胆の声。ただその声に被せる形で、希美も口を開いていた。

「あれ、もしかして迷惑だった?」

「いえ、そういうわけじゃあ……」

 慌てて否定する梨花。その仕草からは、本当に迷惑じゃないという意志が表れていた。ただやはり、まだ警戒する気持ちがあるのだろう。この時代に、自分の置かれた状況に対して。

「じゃあいいじゃない。今日はいっぱい遊びましょうよ」

 その口調は、初対面であることを感じさせないほど、明るくて親しみがあった。それで、心が緩んだのか、それとも押し切られた形なのか、梨花は頷いた。

「よし、じゃあ行こうぜ」

 そして四人揃って改札を抜け、プラットホームに向かう。

「悪かったな、付き合わせて」

 一樹が、隣を歩く武に言う。少し後ろで希美と梨花が並んでついてきていた。

「かまわねえって」

 ひと言、そう言って武は続けて、今度は少し声の音量を下げて言った。

「最後にはちゃんと二人きりにさせてやるから」

 ひやかしと好奇心の混じった笑みを浮かべる武に、一樹はかなり本気で、こいつに話すじゃなかったと後悔した。


 珍しいな。お前から誘ってくるなんて。日曜なら空いてるし、パァーっと遊ぶか。希美も呼ぶだろ?

 ああ、それと、もう一人連れて行こうと思ってる

 ん、誰を?

 えーっとさ、実は今、うちで預かってる子がいてさ。その子のお母さんが入院しちゃったからなんだけど、そのせいで元気がないんだよ。

 んで、元気づけてやろうってことか。

 ……ああ

 女の子か

 ……ああ

 へぇ~、なるほど~

 なんだよ

 いやいや、なんでもねぇよ。いいんじゃねーか。連れて来いよ


 一樹は武との電話のやりとりを思い返していた。武の考えてることが、腹立たしいほど丸見えだ。第一そんなつもりじゃないのだが、一樹も大きく否定はしなかった。

 一樹は梨花に惹かれていた。彼女がタイムスリップしてきたとか、魅力的な容貌をしているとか、そんなものでなく、もっと大きな何かを感じていた。

 一時間近く電車に乗って、ようやく下車駅に着いた。出発駅と比べると、と言っても比べようもないくらいの大きな駅だ。この駅で十ほどの線路が通っており、周辺は巨大なビルや娯楽施設が数え切れない。

 一樹たちが向かうのは、駅前のロータリーから出てるバスに乗って行き着く、日本で最も有名なテーマパークだった。

 バーチャル・スタジオ・シティ。

 数年前に誕生した次世代型の遊園地で、アトラクションのほぼ全てに3Dシステムが導入されている。立体映像により様々な仮想世界を表現しているアトラクションが売りなのだ。恐竜世界や時代劇、ファンタジーやSF。高精度の3Dで表現されたバーチャル世界を、客は実際にその世界にいるような感覚で体験できるということで大人気になっている。

 バスの中はかなり混雑していた。家族連れやカップル、一樹たちみたいに数人のグループ。たぶん彼らのほとんどが、同じ目的で乗車しているのだろう。

 当然、席に座ることはできず、一樹たちはつり革を握って、時折起こる振動に身を流していた。

「どうせなら、全部回りたいよなぁ」

「無理だよ。すっごい人気なんだから。ねぇ、梨花ちゃんはどれを見たい?」

 武と希美が話に花を咲かせていたところで、希美が梨花に振り向いて尋ねる。

 梨花は目を丸くして、返答に困っていた。

「向こうに着いてから考えようぜ。空いてるとこから回ればいいんじゃないか」

 一樹が横からフォローを入れる。彼女にこの時代のテーマパークの話題がわかるわけがない。一樹もあらかじめ、どういった場所なのかを教えたりはしていなかった。

 やがてバスは目的地に着き、停車時に小さく車体が上下した。

 ぞろぞろと流れる人波に任せて、一樹たちはバスを降りた。

 大人気テーマパークとなるだけあって、外観も、敷地面積も圧巻だった。巨大な装飾を施された入場ゲートには、かなりの人集りができていて、複数ある入口の全てに長蛇の列ができている。

 園内の方から、ゴォーッという騒音が聞こえる。ジェットコースターの試運転でもしているのだろう。バーチャル体験アトラクションが、ここの目玉ではあるが、もちろん遊園地らしく、そういった乗り物系もある。

 ぞろぞろと動く列に身を任せて、一樹たちもようやく入場した。

「さて、最初にどこ行こうか」

「バーチャルエリアに決まってんだろ」

 武がそう答える。しかし、希美がその発言を遮った。

「何言ってんのよ。今日の主役の梨花ちゃんに決めてもらうの」

「あ、そっか」

「ね、どこから回ろっか?」

「え、えっと……」

 梨花が口ごもる。そんな彼女をまじまじと見つめる希美と武。当然、一樹が助け船を出すこととなる。

「無理して答える必要ないよ。あれば聞くし、なければ俺たちに任せてくれればいいから」

 梨花にそう伝えると、彼女は幾分か安堵した顔になった。

「あの、それじゃあ、お任せします」

「よし、じゃあ、やっぱりバーチャルエリアから行こうか」

 武、希美もそれに賛成し、一樹たちは入り口の広場を抜けて園内の奥に進んだ。

 このテーマパークは、主に三つのエリアで区画されていた。レストラン街、ジェットコースターや観覧車などの乗り物があるパークエリア、そしてバーチャル体験ができるエリア。3D技術によって仮想世界を作りだし、その中で客は実際にその世界を冒険できるアトラクションエリアである。

 エリア内は、個々の世界を象徴する派手な飾り付けのされたドーム状の建物がずらりと並んでいた。SF世界を体験できる建物には巨大な惑星とかっこいいデザインのシャトル機が、ジュラ紀のには今にも襲ってきそうな恐竜が。といったふうに、各世界の建物に装飾がされている。

 どのドームにも、かなりの人数が並んでいた。さすがと言うべきなんだろうか。このエリアに入場者の大半が集まっているのかと思えば、乗り物エリアにも同じくらいの人数が殺到しているのだ。この時間で人が少ないのはレストラン街くらいである。

 一樹たちは、まずはどのドームに並ぼうかと悩んだ挙げ句、ファンタジー世界のドームに並んだ。

「待ち時間は、約三十分か。まだマシなほうだね」

「そうだな。梨花、大丈夫?」

 一樹が尋ねる。だけど、梨花は一樹の声に気づいていないように、ただじっと目の前に見える巨大なドームに釘付けだった。

「梨花?」

 一樹がもう一度言うと、彼女は、はっとなって一樹の方を振り向いた。

「ちょっと待つけど、平気?」

「うん。大丈夫」

 そう言って、梨花は再び視線を前方へと移した。梨花の顔は相変わらず無表情なものだったが、その目には、驚きと好奇心に満ちた感情が表れていた。

 そんな梨花を見て、一樹は胸の奥で、何か暖かいものが大きく溢れ出しそうな感覚を覚えた。この計画は大成功だと、確信できそうな気がしていた。

 待ち時間三十分だったが、思いのほか長く感じられた。一度に十数人がドームに吸い込まれていくわけだが、次のグループが入場するまでのインターバルが長いため、列の中で立ち止まっていることのほうが多い。そういった中、ようやく一樹たちの順番が回ってきた。

 ドームに入ると、まずは待機室のようなところで、スタッフからアトラクションの説明と注意事項を聞いた。その待機室から奥の扉の向こうは、バーチャル空間になっている。あらかじめ設定されているストーリーに沿って、立体映像としての登場人物や怪物などが動き回るファンタジーの世界だ。

 扉が開き、その中へと入る。二十人ほどの客が全員入っても、まだまだ広い。入り口の扉が閉じられると、ドーム内は暗転した。そしてすぐに照明が点く。初めは何もない、ただの空間だったはずが、一度暗転し、照明が点いたときには、そこはまるで別世界になっていた。

 ごつごつした山地の頂上に一樹たちは立っていた。眼下には広大な森が地平線まで続いている。遠くの方に小さく黒い居城のような建物も見える。

 ふと気づくと、鎧を身に纏った剣士やマントで身を包む魔法使いらしき人物、他にも数人が岩場の道なき道を進んでいる。

 立体映像化された登場人物だ。

 彼らのうちの誰かが叫び声をあげた。魔物の襲来である。岩々の隙間から、そして上空から、恐ろしい怪物が冒険者たちを襲った。剣士は剣で、魔法使いは魔法を使い、魔物たちをなぎ払っていく。

 冒険者たちの勇み声が響く。現実で、その様子を見てる客たちからも、ざわめきが起こっていた。



「すごい迫力だったね」

「ああ、立体映像だってわかってても、本物の緊迫感っつーのがあったよな」

「ねー梨花ちゃん、面白かったね」

 希美が、隣に座る梨花に言う。

 一樹たちはレストラン街のオープンテラスで、早目の昼食を摂っていた。まだ正午には一時間くらいある。今食べておけば、お昼に他の客で混雑するレストランを回避できる。それに、その間はアトラクションの混雑が無くなっているだろう。

「あんなの初めてで。すごかったですね」

 梨花が答える。笑顔こそ見せていないが、気持ちのこもった声だった。

「もう、敬語なんて使わなくていいよ」

「でも」

「いいからいいから」

 一樹は、ビッグバーガーを頬張りながら、そんな梨花と希美のやりとりを聞いていた。

「ほれ、飲み物」

「おお、サンキュ」

 ドリンクを買いに行っていた武が帰ってきて、一樹の隣に座る。

「梨花ちゃん、お前が言うほど元気なくないじゃん」

 武が一樹にしか聞こえないくらいの声で言った。

「まあ、表情はずいぶん緩んできたかな。これで笑ってくれるとこまでいけばいいんだけど」

「なかなか頑固だな」

 その言葉に一樹は首をかしげる。

「頑固? それって梨花のこと?」

「ん、ああ。だって無理に笑わないようにしてる感じがするだろ。なんか笑いそうになると、必死で堪えてるみたいじゃんか」

 武の言葉が、一樹の中で回る。前に遥香が言っていたことと同じだ。梨花は無理に感情を抑えようとしている。そんな彼女に、一樹は気づかなかった。いや、本当は知っていたのかもしれない。ただ、そこにある正体不明な何かに向き合いたくなくて、目を逸らしてしまっていた。

「二人で何話してんの?」

 希美が話しかけてきた。

「いやー、これ食ったらどこ回ろうかってな」

 武が対応する。

 一樹は、片手に持った囓りかけのバーガーを、定まらない視線で見つめていた。

 午後からも、一樹たちはバーチャルエリアで時間を過ごした。

 ジュラ紀のドームで迫り来る恐竜に悲鳴をあげ、SF世界で宇宙空間を漂う。他にもいくつかの仮想世界を体験した。

 時間は、あっという間に過ぎていった。そして、どれだけ楽しいイベントがあっても、梨花は笑うことはなかった。笑おうとしなかった。

 彼女を元気づけようとして、こんな場所にまで連れ出した。彼女に笑ってほしくて、自分たちと一緒にいる時間を楽しいと思ってほしくて。でもそれは、ただのエゴだったのだろうか。梨花の気持ちは、この時間にいることそのものを拒絶してしまっているのだろうか。

 そんなマイナス思考ばかりが、一樹の頭に浮かぶ。表面上は、みんなと楽しんでいたのだが、胸の奥の方では、そういった不安を抱えてしまっていた。

 いつの間にか夕暮れになっていた。空に夜の帳が降りようとしている。一番大きく輝く星が、早くも姿を現していた。

 一樹たちは乗り物エリアに来ていた。

 人気のある乗り物は、こんな時間になっても長い列に並ばなければいけない。一樹たちの目の前には、低速で回る車輪状のフレームがあった。そのフレームの先にはゴンドラが取り付けられている。遊園地で最後に乗る物の定番、観覧車だ。

 今、それに乗るための列に並んでいるのは、一樹と梨花だけだった。

「ねぇ、なんか喉かわかない? まだもうちょっとかかりそうだから、なんか飲み物買ってくるね。武、手伝って」

「ん、ああ」

 武と希美はそう言い残し、一樹たちに順番取りを任せて出ていった。そしていっこうに帰ってくる気配がない。

「なかなか帰ってこないな」

 二人で残されて、何を話せばいいのかわからず、一樹はそんなセリフを吐いていた。胸の中では、まだ不安は取り除かれていない。それでも、こうして二人だけになってしまうと、それ以上の別の感情も生まれていた。

 列は滞りなく進み続け、いよいよ一樹たちの順番がまわってきた。

「どうしよう」

 梨花が言う。

「しかたないから、乗っちゃおうか」

 一樹が答える。渋られるかと思ったが、梨花は落ち着いた様子で、「うん」と頷いた。

 ゴンドラに乗り込み、扉が閉められた。

 ゴンドラがゆっくりと上昇していく。十数分間の、二人だけ空間で、一樹は何の話題も見つけられず、ただ離れていく地上の、夜に沈んだ景色を眺めるだけだった。梨花も、黙ったまま窓の外を眺めていた。

 向かいのシートに座る梨花を見る。景色を眺める彼女の横顔を、その瞳を、頬を、口元を。それはまるで、子供のように無邪気で明るい。そんな彼女の素顔を見た気がした。

 どうして……。

 一樹は何かに問いかけていた。

 どうして君は、そんなに心を抑えようとするんだ。本当は楽しんでるのに、喜んでるのに。

 疑問が大きく膨れあがる。一樹はまるで、その灰色の衝動が自分を飲み込んでしまうような感覚を覚えた。慟哭、憤り、もしくは虚しさ。浸食されていく中、このままじゃいけないんだという気持ちが、一樹を動かした。

「梨花」

 そう口にする。

 今、自分はどんな顔をしてるのだろう。振り向いた梨花が、何か心配そうな顔でこちらを見ていた。

「なに?」

 梨花の声が遠くに聞こえた。

 一樹は今まで、自分が感じてきたものを吐き出すつもりで声を出した。

「こんなことになって、つらい?」

「こんなこと?」

「この時代にきてしまったこと」

 一樹のその言葉に、梨花の顔が一瞬くもる。

「なんだか、いつも浮かない顔ばかりしてるから。今日だって、無理に付き合わせてしまったかなって。迷惑だったなら謝る。ゴメン」

 一樹が軽く頭を下げると、梨花は慌ててそれを否定した。

「そんな、謝らないでよ。今日は楽しかったわ。みんないい人たちだし」

「うん、知ってる」

「え」

 梨花は目を丸くして、一樹に視線を合わせた。

 一樹はそんな梨花を見つめ、言葉を続けた。

「ゴメン、本当は楽しんでたのはわかってたんだ。でも、いつも梨花は笑わないんだなと思って」

「え」

 梨花の唇が震えた。

「すごく楽しそうな顔してたよ。長い列に並んでるときも、みんなと話してるときも。さっきだって、外の景色を眺めてさ……。それなのに君は無理矢理、笑うまいとしてるようで、つらそうだった」

 ゴンドラは上昇し続けていた。そろそろ折り返して、下降を始めるだろう。今が一番良い景観どころかもしれない。しかし一樹も梨花も、向かい合ったままで、外を眺めることはしなかった。

 梨花は、ただ黙っていた。俯いた視線は、一樹の足下を彷徨っていた。

 一樹も、これ以上何かを言うつもりはなかった。よく考えたら、自分がどうこう言うことではないのだ。梨花は笑顔を見せないけど、楽しんでなかったわけじゃない。表に出そうになる感情を無理に押し込める。そんな彼女を見てるのが、一樹にとってもつらかった。だから素直に笑っていてほしくて、こんな計画を立てた。

 これ以上、彼女の中に踏み入ることはできない。

「ゴメン。よけいなこと言っちゃったね」

 謝罪する一樹に、梨花は視線を上げることで応えた。目は虚空を見つめたままだ。

 しばらくの沈黙の後、梨花は意を決したかのように唇にぎゅっと力を込めた。そして恐る恐るといった感じで言葉を発した。

「私、本当は楽しんじゃいけないんだと思うの。世界は私を拒絶しているから、私は望んじゃいけないし、求めちゃいけない。きっとひどい仕打ちを受けることになるから」

「拒絶って、そんなこと……」

 一樹がそう言いかけたのを、梨花が遮る。

「私がいた世界は、私を見放したわ」

 梨花の口調が強まる。それなのに、今にも崩れてしまいそうな危うさが潜んでいた。

 一樹には、梨花の言葉の真意が掴めないでいた。

 拒絶。見放された。それは、彼女のいた世界から、この時代へ来てしまったことを言っているのだろうか。でもそれは、過去に干渉してしまったこちら側に責任があるのではないか。それじゃあ、こちらに来てしまう前、彼女に何かあったのだろうか。

 一樹の脳裏に、『地球の記憶』で見た梨花の姿が浮かぶ。梨花は建物の屋上でひとり、空を眺めていた。寂しげな梨花の表情。彼女は何を想い、そこに立っていたのだろうか。

「そんなことないんじゃないかな」

 一樹は、気がつけばそう口にしていた。

 梨花が驚いたように、一樹を見た。

「梨花が、俺たちの時代に来てしまったのは、きっと俺たちの時代にとって、梨花が必要だったからじゃないかな」

「必要? 私が?」

「そうだ。梨花は必要だったんだ。それに、楽しんじゃいけないとか、望んじゃいけないとか、そんなの関係ない。今、梨花は楽しい時間を過ごしているじゃないか。それが失われるなんてこと、絶対にない」

 一樹はそう言い切った。

 そうさ。たとえ世界が梨花の幸せを壊そうとしても、自分だけはずっと味方でいよう。彼女の望むもの、彼女の時間を失わさせるものか。

「そう、かな?」

 梨花が呟いた。弱々しく、消えてしまいそうな声。それなのに、どこか優しい響きを持っていた。

「ホントに、そうかな?」

 もう一度呟く。

 梨花はゴンドラの窓に体を寄せ、外を眺めた。

 下降していくゴンドラは、次第に地上をとらえ始める。そして、乗車した場所まで帰ってくると、扉が開かれ、一樹と梨花はゴンドラを下りる。

 降りた先では、武と希美が待っていた。

「わりーな。ちょっと混雑しててな。間に合わなかった」

 武の白々しい言い訳。

 特に怒っていたわけではないが、一樹は武の首に腕を回し、そのままヘッドロックをかけた。

「お、おいっ、何すん、まてまて、ギブ、ギブ」

 武が悲鳴をあげるが、一樹は腕を緩めない。それどころか、また新たな手が、武の剥き出しの顔めがけて伸びてきた。希美もこの悪ふざけに参加したのだ。

 希美は武の両頬を指で摘み、思い切り横に引っ張った。

「にゃんでおみゃへみゃで」

 なんでおまえまで。と言いたいらしい。

 周りから見れば、ガキの戯れにしか見えない。まぁ実際、ガキの戯れだ。そんなどうでもいいようなことが楽しいのだ。こういう時間を少しでも多く過ごすことが、大事なことなんだと、一樹は思った。

「あはっ」

 近くから笑い声がした。武でも希美でも、もちろん一樹でもなかった。

「あはははは」

 梨花が、今まで見せたことのないほど破顔させて、笑い声を上げていた。


     ☆


 遊園地の一件以来、梨花は次第に笑顔を見せるようになっていた。

 表情を抑え込んでいたとはいえ、彼女は無感情だったわけではなかった。ただ顔に表さなかっただけだった。それが今は、ちゃんと顔をほころばせて、声を出して笑う。本当はこんなにも表情豊かで、情緒溢れる人柄だったのかと、感心するくらいだった。

 遥香もそのことに驚き、そして歓喜した。

「よかったわ。いつも意気消沈って感じだったから心配してたのよ」

「ごめんなさい」

「いいのよ。それに、やっぱり笑顔でいるとメチャクチャ可愛いわよ。ね、一樹くん」

 遥香が一樹に尋ねる。

「え、あ、ああ」

 思わず、一樹は梨花から視線を外した。胸の高鳴りを感じる。ちらっと梨花のほうを見ると、梨花の顔がわずかに紅揚していた。そんな彼女の顔を見て、一樹の胸がさらに高鳴った。

「なんにしても、グッジョブよ、一樹くん」

 遥香が親指を立てた。その後、遥香は梨花に向かって言った。

「ねぇ、私の部屋に行こか」

 遥香の目が怪しく光ってた。

「遥香さん、いい加減、梨花で遊ぶの止めない?」

 一樹がうんざりとした口調で言うが、遥香がその言葉を受け入れるはずがない。

「いいじゃない、ねぇ梨花ちゃん」

「梨花、嫌なら嫌ってはっきり言ったほうがいいよ。でないと、ずっとおもちゃにされるよ」

 一樹が言うが、梨花は首を横に振る。

「私は別に」

「はい、一樹くんの負けー」

 そう言って、遥香はこの前買った服が……とか、化粧品が……とか話し始めた。

 一樹は小さく溜め息をついて、目の前で交わされるオシャレ談議に耳を傾ける。

 正直のところ、遥香によって変身させられる梨花を見てみたい気持ちもあった。遥香のセンスが良いのか、今までどんな格好をしても、思わず見とれてしまうほど梨花に似合っていた。

「それじゃあ行きましょ。楽しみにしててね」

 一樹にそう言い残し、遥香と梨花はリビングを出て行った。

 急に静まりかえった部屋で、一樹は何となしにテレビのスイッチを入れた。

 テレビのニュース番組をぼんやり眺めていると、携帯電話の着信音が響いた。

 父からだった。

「もしもし」

『おー一樹、元気にしてるか?』

 電話の向こうで、父は相変わらずの調子で話していた。

「問題ないよ」

『梨花ちゃんは?』

「大丈夫。ずいぶん元気になって、今は遥香さんと一緒に部屋にいるよ」

『そうか。それはよかった。それで、その梨花ちゃんのことなんだが……』

 父の声に真剣さが混じる。

 一樹は、なぜか胸騒ぎを感じた。

『彼女を元の時代に帰す事ができるかもしれない』

「ほんとに? どうやって?」

 一樹は声を荒げて言った。

『落ち着くんだ。まだ確実じゃないんだ。理論上は可能、といったところだ』

「どういうこと」

『うん、簡単に言うぞ。彼女は、NOVAが宇宙から「歪み」を受信したときに現れた。とすれば、そのときと同じ条件下で、今度はその逆を行えば』

「梨花を元の時代に帰せる」

 一樹は自分の中に、しこりのような違和感を感じつつ、父の話しを聞いていた。

『そうだ。そのときは研究所に来てもらうことになる」

「わかった。梨花にも伝えとくよ」

『ん、ああ、それなんだがな』

 父の声が途切れる。電話口の向こうで、父がバツの悪そうな顔をしている気がした。何か問題でもあるのだろうか。

『そのことなんだがな、まだしばらく時間がいるんだ。ぬか喜びさせてしまうとかわいそうだから、まだ梨花ちゃんには黙っててくれ』

「え、いいけど」

『よし。また連絡するよ』

 声の調子を落とした状態のまま、父は電話を切った。

 一樹はふいに、胸の奥につっかえている違和感に気づいた。

 梨花が元の時代に帰る、ということは、もう二度と彼女に会うことがなくなってしまうのだ。

 焦燥か虚無か、そんなチクリとする感覚が一樹の心に湧き上がる。父の言っていた通り、梨花を帰すことが可能なら、梨花は彼女の時代に帰っていく。父はまた、確実じゃないとも言っていた。もしそうなったなら。

 残酷な葛藤が一樹の中で起こり、一樹はそんな考えが頭に浮かぶ度に頭を振った。

 そうしてるうちに、扉が開いて遥香が戻ってきた。

「一樹くん、大成功よ」

「何が」

 慌ただしく叫ぶ遥香に、一樹はなるべく平静を装って聞き返す。ありがたいことに、遥香の昂揚した声は、一樹の中の陰鬱を吹き飛ばしてくれた。

「ねぇねぇ、梨花ちゃん、早く入っといでよ」

 遥香がそう声をかけると、梨花が恥ずかしそうに扉の向こうから現れた。

「おかしくないかな?」

 梨花が言う。

 梨花は薄紫色のワンピースを着ていた。薄くメイクもしているようで、彼女の白い素肌が、ほんのり色づいている。

「どう? きれいでしょ」

「……うん」

 一樹はひと言だけ、そう言った。声が出なかった。言葉も見つからなかった。目の前で、はにかんだ笑顔を見せる梨花から目を逸らせない。

 一樹はただ黙って、梨花の姿に見とれていた。


     ☆


 病院に行くのは久しぶりだった。

 一樹の祖母は数年前から入院生活をしていた。もう九十近い歳で体調を崩してしまったことが原因だった。一度は回復して退院したが、すぐにぶり返した。それなのに、病院内を動き回ったり、屋上で長時間過ごしたりで、とても病人とは思えなかった。

 以前、一樹が訪ねたときは三時間も屋上で風に当たっていたこともあった。

「そんなことばっかしてると、治るモンも治らないぞ」

 一樹が言うと、祖母はあっはっはと笑った。

「まだ大丈夫。一樹が恋人を連れて来てくれるまで死なないさ」

 そんな根拠のないことを言って、祖母はまた笑った。

 今、一樹はそのときの祖母の言葉を思い返していた。

「一樹のおばあちゃんって、どんな人なの?」

 一樹の隣で、梨花が尋ねる。

「うーん、超人」

 梨花がふふっと笑う。

「なにそれぇ」

「ホントだって。もう九十にもなるのに、腰は真っ直ぐで、耳も目もいいし、ボケてもない。体悪いくせに病院を歩き回ってんだ」

「わぁ、元気なんだね」

 梨花に祖母の見舞いに行くことを伝えたら、一緒に行っていいかと聞かれた。断る理由はなかった。一樹が承認すると、梨花は「会ってみたかったの。一樹、おばあちゃん子だったんだよね」と嬉しそうにしていた。「どこからそんな情報を」「遥香さんが」「そんなんじゃないって」「えー、でもしっかりお見舞いに行ってあげてるじゃない」

 そんなやりとりがあって、梨花がついてくることになった。

 病院の長い廊下を歩いて、祖母の病室の前に着いた。軽くノックをすると、中から返事があった。珍しく部屋にいるようだ。

 ドアを開けて部屋に入った。祖母はベッドから起きあがった状態で、こちらを向いていた。

「今日は大人しく部屋にいたんだ」

「ええ、一樹が来るんじゃないかと思ったからね」

 祖母はニヤリと笑みを浮かべた。そして、一樹の後ろにいる梨花に気づいて、あらっと声を上げた。

「ああ、父さんの仕事仲間の子供で、事情があって今うちで預かってるんだ」

「こんにちは」

 梨花は少し緊張気味に会釈をした。

「まあ、一樹が女の子を連れてくるなんてね。さあさあ、そんなとこで立ってないでこっちにいらっしゃい」

 一樹はベッドの側に置いてある丸椅子を梨花に勧め、自分は折りたたみの小型の椅子を出し、それに座った。

「お体は大丈夫なんですか? いつも散歩してらっしゃると聞いたんで」

「ええ、さっきも歩いてたのよ。戻ってきたところにちょうどあなた達が来てくれたわけ」

「本当にお元気なんですね」

「もちろんよ。一樹が結婚するまで死ぬつもりはないのよ」

 おばあちゃんってやつは、どうして本人の前でそんなことを堂々と言うのだろうか。しかも、なにげに前に言ってることより一段階進行している。そんな調子で長生きしていったら、最終的には曾々孫を見るまで死なないなんて言いそうだ。

「なにバカなこと言ってんだ」

 チラリと、一樹の視線が梨花の方に向く。梨花は何事もない様子で、祖母と会話していた。一樹は、なんだか寂しいような、自分だけが気にしてることが恥ずかしいような、そんな気持ちになった。

 梨花と祖母は、まるで昔からの友達であるかのように、意気投合していた。梨花は一樹の家での暮らしのことを、祖母は昔の思い出話などを、お互いに情報交換するみたいに、楽しそうに話している。

 一樹はときどき会話に混ざりながら、二人のやりとりを眺めていた。

 しばらくそうして時間を過ごしていると、突然祖母が一樹の方を向いて言った。

「一樹、悪いんだけど飲み物買ってきてくれないかしら」

「いいよ」

 一樹が立ち上がると、梨花も立ち上がる。

「あ、私も手伝う」

「ひとりで平気だよ。ここでばあちゃんの相手してやってよ」

 祖母から渡されたお金を手に、一樹は病室を出た。

 この病院には、一階に自動販売機と売店がある。祖母のいる入院病棟から渡り廊下を通り、エレベーターで一階まで向かう。エレベーターを降りてすぐ手前に売店。そこから玄関口に向かって行くと自動販売機がある。

 一樹は売店のドリンクコーナーからアイスティーを二つとカルピスを取ってレジで会計を済ませた。

 売店を出て、そのままエレベーターに乗ろうとしたら、ふいに一樹の視界に入ったものがあった。玄関口に向かう廊下の先、ちょうどロビーの辺りに、白衣を着た男が数人いた。病院なのだから、別に不思議なことではない。しかし、一樹は妙な違和感を感じた。医者と言うよりむしろ……。

 ピンポン。

 軽快な音がしてエレベーターの扉が開いた。一樹はロビーにいる白衣の男たちを気にしながらも、エレベーターに乗り込んだ。

 病室に戻り、ビニール袋から飲み物を出す。

「アイスティーだけど、良かった?」

 一樹は梨花に聞く。

「あ、ありがとう」

「んで、ばあちゃんはこれだったな」

 一樹はカルピスを祖母に手渡した。

「ありがと。おつりはとっときなさい」

「サンキュ」

 三人分のお礼が行き交ったところで、一樹は椅子に腰を下ろした。

 ふと見ると、梨花がどこかぼんやりとしてる。

「梨花。どうしたの?」

「え、ううん。何でもないの」

 そう言って、慌てたふうに笑みを浮かべた。でもすぐ伏し目になって、手に持ったアイスティーのボトルを見つめた。

「あらあら、疲れさせちゃったかしら」

 穏やかな口調で祖母が言う。

「い、いえ、そうじゃなくて」

 梨花がそう答える。すると祖母は、棚から紙コップを取り出して、カルピスを注いだ。そしてそれを梨花に差し出した。

「落ち着くわよ」

「ありがとう、ございます」

 紙コップを受け取ると、梨花はひと口飲んだ。

「おいしいでしょ。昔から好きなの。一樹は甘くてダメみたいだけど」

「そんなもんばっか飲んでて大丈夫なのかよ。まあ、買ってきたオレもオレだけど」

「大丈夫よ。いつも飲んでるから、かえって体に良いくらいよ」

 つくづく口の達者なばあちゃんだ。

 一樹は心の中で呆れる。

「おいしい」

 柔らかな口調で梨花が呟いた。



「ばあちゃんと何話してたの?」

「え」

 梨花が驚いたように一樹を見る。

「いや、オレが飲み物買ってる間、どんなこと話してたのかなって」

「あぁ、うん、えっと、いろいろ。一樹くんの小さな頃の話とか」

 梨花が歯切れの悪い調子でそう答えて、それを誤魔化すように笑った。

 一樹たちが病院を出ると、時刻は五時を回っていた。日中の長い季節なので、空はまだ十分な青色を残しているのだが、それでも東の方には黄昏の影がしっかりと伸びてきていた。

 病院前の駅から電車に乗り、降りたときには、太陽は落ちようとしていた。

「遅くなっちゃったね」

「ああ」

 赤い光に染められた道を歩きながら、一樹と梨花は少ない言葉を交わし合った。気まずい空気とか、不愛想な感情などではない。むしろその逆で、お互いにそれだけで通じ合っている。一樹にはそんな気がしていた。

 駅前の商店街を抜けると、公団住宅や一戸建てが建ち並ぶ住宅地に出る。公団住宅の側に小さな公園があった。滑り台にブランコ、ジャングルジム。今時、こんな遊具で喜ぶ子供がいるのかと不思議に思う。時代が過ぎて、子供の遊びはアウトドアよりもインドアに傾きだしていた。一樹自身、外で遊んでいた少年時代の記憶はほとんどなかった。

 それでも、ここの公園は意外と人気があるようで、付近の子供の格好の遊び場となっているようだった。今も、時間を忘れて遊ぶ子供の姿がある。

「あの子たち、こんな時間なのにまだ遊んでるんだね」

 梨花が公園で遊ぶ子供の姿を見て微笑んだ。

「もうすぐ、お母さん達が呼びに来る頃かしら」

「どうかな。もしかしたらオレんちみたいに共働きで、ほとんど親が家にいないって子供かもしれないよ」

 冗談のつもりで口にした一樹の言葉は、何か正体不明な空気に吸い込まれていった。

「一樹くんは……」

 梨花が重々しい口調で口にした。

「一樹くんは、ご両親がいなくて寂しいと思ったことがある?」

 遥香にも前に同じようなことを聞かれたなと、一樹は思い出し、やはりそのときと同じ答えを返した。

「全然。親が留守がちになったのは『地球の記憶』プロジェクトが始まってからだから、オレもう中学生だったし」

「そっか」

 梨花の笑顔は、どこか悲しげな想い含んでいた。

 ふと、一樹に思うことがあった。梨花の両親のことだった。

 梨花がこの時代に来てしまってから、彼女は親とは会えない身の上になってしまっている。今の彼女は嬉しそうに笑う。一樹や遥香とも馴染んで話しをする。それでも、心の中ではずっと寂しい思いをしているのではないだろうか。

 それから言葉を交わすことなく、二人は帰路を辿った。長く伸びた二人の影が、陽の受ける向きに合わせて縦横と動く。

 二人が、あと一つ角を曲がれば一樹の家に辿り着くというところまで歩を進めたときだった。二人のすぐ側を一台の車が通り過ぎた。車は一樹たちの数メートル先で停車した。ドアが開いて中からスーツ姿の男が二人現れた。一人はスーツの上に白衣を纏っていた。

「突然で申し訳ないが」

 その白衣の人物が一樹たちの前に躙り寄り言った。口調は丁寧だったが、どこか冷徹さを感じさせる。

「そちらのお嬢さんに用があってね。一緒に来てもらいたいんだ」

「誰ですか?」

 咄嗟に、一樹は梨花をかばうように、白衣の男の前に立ちはだかった。

「これは失礼。てっきり覚えていてくれてると思っていたんだ。僕は藤田。一樹くん、君のお父さんの同僚だよ」

 そう言われて、一樹は気づいた。どこかで見たことある顔だと思った。父に何度か連れられて行った研究所で見かけたことがある。

 一樹の脳裏に浮かぶ光景。

 あの日、地球の記憶の転送装置である『NOVA』から、梨花を抱えて出てきた、あのときの研究員だ。

「あ」

「思い出してくれたかな?」

 藤田はニヤリと笑みを浮かべた。

「さて、梨花さん。ようやく帰れますよ。研究所まで来てもらえますか」

 一樹は、焦りにも似た感情を覚えた。先送りにしていた問題が、いきなり目の前に突き出される感覚。梨花の帰還のこと。しかし、まだ時間がかかると父が伝えてきてから、まだ幾日も経っていない。あれから連絡もないままだ。それが父以外の研究員が来て、いきなり連れて行くなんて。

「あ、あの……、どういうことですか」

 梨花が不安げな声を出した。一樹はまたはっとした。そう、父に口止めされていて、梨花にはこのことは話していないのだ。

 藤田は「おや?」と口にした。

「すでに聞き及んでいると思っていたのですが」

 そう言って藤田は、チラリと一樹の方に目をやる。

 藤田と目が合い、一樹は訝しんだ。

 この男の言っていることと、父の言ったことが僅かに食い違っている。

「父さんは、まだ時間がかかるって言ってました。それは解決したんですか」

 一樹の発言に、藤田は微弱ではあるが、驚きの反応を見せた。

「そうか」

 そう呟いて、藤田は視線を梨花に移した。

「つまり、彼女にはまだ話してなかったわけだ」

 視線は梨花だったが、言葉は一樹に向かって発せられた。

 一樹は、どこかすっきりしない気持ちだった。彼には父の考えが伝わってなかったのだろうか。父は秘密裏な研究であってもその内容を話したり、関係者以外は立入厳禁な研究室に入れてくれたりで、どこかいい加減なところもあるが、それでもそれなりの地位にいる人間なのだ。梨花の件でわかったことなどを、他の研究員に伝えていないはずがない。そもそも、藤田は父と同じ研究チームのはずだ。父の知ったことは、彼も知ってなければおかしいじゃないか。

「その点は君の心配することじゃないが、まあいい。また改めて迎えに来ますよ」

 藤田の口調は、相変わらず冷ややかな態度を含んでいた。まるで、忌々しいものと対しているかのような、そんな態度だった。

 藤田ともう一人の男の乗った車が去った後も、一樹は車が消えていった方向をじっと眺めていた。

「ねぇ」

 その声で我に返る。

 梨花が、真っ直ぐに一樹を見ていた。

「あ、ああ、その、ごめんな。黙ってて」

 咄嗟に出た言葉は謝罪だった。梨花にとって、とても重要なこと。それを知っておきながら黙っていた。隠し事をされたととられても仕方がない。

「ううん、気にしてないから」

 梨花はそう断ってから、続けて言った。

「私、帰ることになるんだね」

 彼女の声が籠もっている。

「たぶん、そうなる」

 一樹のトーンも下がる。

 梨花が帰る。彼女は今、この時代にはいないはずの存在だ。帰ると言うことは、彼女の生きていた、存在すべき場所に戻っていくことで、もう二度と会うことはできないのだ。

 一樹がその後、何も言えなくなっていると、梨花がいつもの口調に戻って言った。

「暗くなってきたね。早く帰ろう。遥香さんを心配させちゃうよ」

 空の茜色はすっかりと色褪せ、夜を迎えようとしていた。街灯に明かりが点き、止みに沈む道を心許なげに照らしている。

「梨花」

「ん、何?」

 歩き進んでいた梨花が振り返る。暗闇の中、街灯の光だけに照らされた彼女は微笑みを浮かべていた。

 自分は何を言うつもりなのだろう。

 呼び止めたにもかかわらず、一樹は言葉を繋げないでいた。彼女に言いたいこと、聞きたいことがある。でもそれを口にするのに躊躇われた。梨花の浮かべる笑顔は、いつものように明るく柔らかだった。でもその裏に、まるで痛みを堪えているような切なさを含んでいる気がした。

「いや、何でもない」

「そ、じゃあ行こうよ」

 そう言って梨花は、前を向いて歩き出した。街灯の光が照らすエリアを抜け、彼女の姿がぼやける。一樹はその後を追いかけるように進んだ。


     ☆


 長期休暇に入る前というのは、いつの時代も浮き足立つもので、クラス内の雰囲気もいつもに増して賑やかになっていた。学年が三年生ともなれば、受験などの進路で慌ただしくなるのだろうが、一樹たちにはまだ少し先の話で、これから始まる休暇をどう過ごすかといった計画話があちらこちらからしていた。

 終了式、各教室でのミーティングが終わり、一樹たちは、まだ太陽が頂上につく前に帰路についた。

「休み中にまた遊びに行こうぜ」

「いいわね。どこ行こっか」

「やっぱ海とかプールは定番だろ。なあ一樹、梨花ちゃんも連れてさ」

 武が尋ねる。一樹は休暇の計画を立てる二人の話を、半ば上の空で聞いていた。

「え、ああ」

 そう返事をする。すると希美も質問をしてきた。

「そういえば梨花ちゃんて、いつまでこっちにいられるの?」

「えっ」

 一樹は思わず息を飲む。

「たしかお母さんの入院で、一樹ん家にいるのよね。お母さん、まだ具合が悪いの? 退院できたら梨花ちゃんも帰っちゃうんでしょ。それまでに遊びに行かなきゃ」

「まあ、会えなくなるわけじゃないだろうけど、近くにいるうちのほうがいいしな」

 武も後付で質問に加わる。

 一樹は安堵のような焦りのような、複雑な心地になった。

 武にも希美にも、梨花のことはニセ情報で伝えてある。当然だ。実は彼女は過去から来てます。なんてことを伝えたって信じてもらえるわけがない。余計な混乱を招くかもしれない。それなら秘密で通したほうが、二人にとっても、梨花にとってもいいだろう。

 希美が言った「いつまでいるの?」という問い。一樹は誰よりもその答えを知りたかった。彼女が帰っていってしまうのはいつだろう。一ヶ月後、一週間後、それとも明日にでも。そのときが来たら、もう彼女との繋がりが消えてしまうのだ。

「まだちょっと時間がかかるかも」

 そう答えて、それは自分の淡い願望だと気づく。あるいは儚いと言い換えてもいいだろうか。

「いや、もしかしたら近いうちに帰るかも」

 二人に気づかれないように、なるべく平常を保って言い直す。一樹は自分の中で何かが震えるのを感じた。自分の言った言葉が怖いくらいに重くのしかかってきた。

「ホントに。だったら急いで計画しなくちゃ」

 明るい口調で希美が言った。



 家に着くと、一樹はすぐ二階へ上がり、自分の部屋に入った。鞄を放り投げ、ポケットから携帯電話を取り出す。

 父の番号を打ち込み、発信する。

 一回、二回、三回と呼び出し音が鳴る。四回、五回。なかなか繋がらない。それでも一樹は根気強く待った。十回、十一、十二。やがてプツッという短い音が鳴り、留守番電話になった。

 一樹は一度、発信を止めて、次の番号を押した。母の番号だ。さっきと同じで、十回ほどの呼び出し音の後に留守番電話になった。

 一樹はケータイをベッドの上に放り投げ、自分もベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 数日前からずっと、こうして電話をかけているが、いっこうに繋がらない。研究所の番号にもかけてみたが、一般回線やケータイからだと、まずは守衛室に繋がってしまう。そこから父を呼び出してもらっても、結局は「後日かけ直してください」で終わるのだ。

 父たちに聞きたいことがあった。数日前に現れた、藤田という男のこと。彼は梨花を連れて行くつもりだった。父はまだ時間がかかるって言ってたけど、藤田はすぐにでも帰れると言った。どっちが正しいんだ。梨花は帰れるのか。帰れるんだったら、それはいつになるんだ。

 そんな疑問を一樹は頭の中で反芻した。どれだけ考えても、一樹一人では答えなんて出しようもなかった。ふと一樹は、以前にもこんな状況があったことを思い出した。

 父さんたちに頼りっぱなしだな。

 そう自分に向けて嘲笑した。

 部屋の外で階段を上がってくる足音がした。足音は一樹の部屋の前で止まった。

「一樹くん、お昼あるわよ」

 遥香の声が耳に届く。時計を見ると十二時をずいぶん過ぎていた。

「ありがとう。すぐ行くよ」

 そう返事はしたが、空腹感はなかった。それでも、部屋に一人でいると、禅問答のような疑問が巡って滅入るばかりだ。

 着替えてから、部屋を出た。キッチンのテーブルに一人分の昼食が用意されていた。

「お、今日はちゃんと着替えてるわね」

「うん、遥香さんがうるさいからね」

「なによ失礼ね」

 一樹の言葉に、遥香はふてくされたように答える。でも目は笑っていた。

 ホントに家政婦じゃなくてお姉さんだな。

「梨花は?」

「もう食べ終わって部屋にいるわよ」

 そんな遥香とのやりとりで、沈んでいた気持ちが和らいだ。

 テーブルについて、用意してくれていた食事に口をつける。遥香は向かい側に座って、なにやらノートに鉛筆を走らせていた。何を書いてるのだろうと思い、ちらっとノートを覗き見る。ノートには洋服のデザインらしきイラストが描かれていた。遥香が鉛筆を動かすたびに、みるみるオシャレな服が形作られていく。

 一樹の視線に気づいたのか、遥香がノートを広げて一樹に見せる。

「ねぇ、こんなのどうかな?」

「いや何が?」

「梨花ちゃんにね、服、作ろうと思ってるんだけど。ちょっと派手かな」

 見せられたノートには、繊細なタッチでまるでモデルの人が着るみたいな服が描かれていた。襟元や袖、スカートの裾の細かな箇所も明確に記されていた。

 確かに梨花にはもう少し落ち着いた感じの服が似合いそうだ。清楚って感じで……って、何考えてるんだ。

 一樹は自分にツッコミを入れた。

「何でまた服を?」

「だってそのほうがイメージ通りの格好にできるじゃない」

 遥香は服飾関係の専門学校を出て、デザイナーを目指していると聞いたことがあった。家政婦の仕事をしながら少しずつ勉強をこなしているようだ。

「だから梨花で遊ぶなって」

「もう、ひと聞きの悪いなぁ。遊んでるんじゃないの。勉強にもなるし、可愛い梨花ちゃんを眺めてるだけで嬉しくなるじゃない。一石二鳥ってやつ」

「楽しんでるだけじゃん」

 一樹は呆れた声を上げる。

 すると遥香がクスッと笑い声を上げた。

「やっと顔が緩んだ」

「はい?」

「だって最近、怖い顔ばかりしてたよ」

 そう言われて一樹は、自分が自然と笑っていることに気づいた。最近はいろいろあり、表情が強張りがちになっていた。それでも周りには知られないように、自然を装っていたつもりだった。楽しいことがあれば、胸の奥で大きな不安を抱えながらも、表情は笑ってた。

 遥香はそんな一樹の胸中を見抜いていた。

「何か悩みがあるなら一人で抱え込まないで相談してね」

 遥香はその後に「何かあったの?」と尋ねてこなかった。そのことが一樹は嬉しく思った。とても話せることじゃなかったし、もともと梨花のことは彼女に秘密なのだ。自分で何とかするしかない。どうしようもなことかもしれないけど、それでも何からの答えを出さなくてはいけないのだ。

 遥香は一樹を見つめていた。その瞳が、話してくれなくてもいいけど無理しないでねと言ってくれているようだった。それだけで、一樹は心強かった。

「大丈夫だよ」

 一樹は心の底からそう伝えた。

 昼食を終えて、一樹は自分の部屋に戻った。

 パソコンデスクの前に座り、電源を入れた。習慣的に『地球の記憶』のサイトへアクセスする。動画ファイルの更新は、ここしばらく停滞していた。

 一樹は椅子の背もたれに体を預けて天井を仰ぐ。まだ昼をちょっと過ぎた時刻のため、天井に設置された電灯は消していた。窓から差し込む光だけでは、さすがに部屋全体を照らせないが、わざわざ明かりを点けるまでもない。床には放りっぱなしの鞄が転がっていた。学校指定の袈裟懸けの鞄。しっかり閉じてなかったために中身が少し飛び出していた。教科書、ノートに紛れて、通知票も外に出ていた。今期の一樹の成績は過去最悪だった。期末テストの数日前、一樹は父に連れられ研究所に赴き、『地球の記憶』の実験を間近で見学し、梨花に出会った。この事件が気になってテスト勉強に身が入らなかった。テスト実施期間中に梨花を預かることになって、テスト明けの日曜日にテーマパークへ出かけた。考えてみれば、まだ梨花に出会って一ヶ月経ってないのだ。

 一樹がこの短期間に起きた出来事を思い返していると、部屋の外から階段を上る足音が聞こえてきた。

 初め遥香だろうかと思ったが、足音のリズムが違う。どっしりしていて、女性よりも男性の足音みたいだった。つまり梨花でもない。

 誰だ。

 一樹がそう思案してる間に、足音は階段を上りきり、一樹の部屋の前で止まった。一樹は一瞬身構える。

「一樹、いるか?」

 外から声が聞こえた。その声を聞き、一樹の緊張が弾けた。座っていた椅子から思わず立ち上がって、ドアの外に向かって声をかける。

「父さん」

 ドアを開けて、父が部屋に入ってきた。

「よう」

 軽く腕を上げて、父が言った。一樹は目を丸くするだけで、それには答えられなかった。

 ゆったりとした足取りで歩み寄る父は、一樹の部屋を見回して「結構きれいにしてるじゃないか」と言ったが、床に放り出されてる鞄を見つけ「そうでもないか」と付け加えて笑った。

「父さん。どうして?」

 ようやく絞り出した声で一樹は言った。そして真っ先に思いついたのが、以前やって来た研究員、藤田のことだった。

「まさか、梨花を迎えに?」

 そう言うと、父は一樹のほうに目を向けて、気難しそうな顔をした。

「どうしてだ?」

 父の声が一樹を刺す。声には相手を威圧するような響きが込められていた。

「どうしてって、この前、藤田って人が来て。それから何度も電話してるじゃないか。なんで連絡くれないんだよ。何かあったら教えてくれるって言ってたじゃないか」

 しゃべってるうちに勢いがついて、そのままに一樹はまくし立てた。

「そうか」

 父の声は落ち着いていた。

「それで、藤田から何を聞いた?」

 父は続けてそう言った。

「梨花を元の時代に戻す準備ができて、すぐにでも帰すことが可能だって。それで、また迎えに来るってことも」

 なるべく簡潔に伝える。

 父はそれを聞いて、また「そうか」と唸った。さっきと同じ威圧感が込められていた。一樹はふと気づいた。先ほどの「どうしてだ」という父のセリフ。そこに込められた威圧的な響きも、一樹の発言に向けられたものでなく、一樹にその発言を促した者に向けられていたのだ。

「今日まで研究所で何があったの?」

 一樹は落ち着きを取り戻して尋ねた。

 父はしばらく黙っていたが、ゆっくりと部屋の奥に進んだ。一樹の側をすり抜け、その先のベッドに腰を下ろした。

「まずは電話に出られなくてすまなかった」

 そう前置きして父は、今日までに知り得たことの説明を始めた。話の内容はこういったことだった。

これまで『地球の記憶』というのは、今まで地球上に起きた全ての現象が、宇宙空間をデータバンクとして保存されていたもので、それは過ぎ去った過去の記録、起こってしまったことの残像だと考えられてきた。しかし、梨花がこっちの世界に来てしまったことで、その考えが崩れた。地球の記憶で見れる過去は単なるデータとしての残像なんかではなく、俺たちがいる世界と同様、実態のあるものである可能性が浮上した。そんな実態のある過去から、梨花だけを切り取り現代に移動させてしまった。宇宙全体を一つの巨大なコンピューターとして、その中に地球というフォルダがあり、過去ファイルと現在ファイルがある。過去ファイルの中にあった梨花というデータを現代ファイルに移してしまったわけである。だから、パソコン操作と同じで現代ファイルから過去ファイルにデータを戻してやればいい。『NOVA』を使って今度は地上から宇宙に転送する。もちろん、送られてきた状態と全く同じ条件で。彼女の姿、格好。そしてその『歪み』の見つかった元の位置に向けて『NOVA』を起動させることで、梨花を元の時代に帰せる。

 そこまで説明して父は一息いれた。まるでその先を話しづらそうにしてるようだった。

「時間がかかるって言ってたのは?」

 話を渋ってる父に向けて追い打ちをかける形で、一樹は問いただした。

 ちらっと一樹に視線を向けて、父は静かに溜め息をついた。そして、ぽつりぽつりと声を出した。

「やろうと思えば今からでも、彼女を元の時代に帰すことができる。しかしこの理論はまだ不安要素が多い。もしデータ移動中にパソコンがフリーズしてしまったら、データが壊れてしまうかもしれない。今のパソコンならデータ移動中にフリーズするなんてまずない。データが壊れても修復もできる。だが、俺たちが送ろうとしてるのは、ただのデータじゃない。人間なんだ」

 そこまで聞いて聞いて、一樹は愕然とした。もし失敗すれば、梨花は元の時代に帰るどころか、この時代からも消えてしまう。彼女の存在が消滅してしまう。

「今はあらゆる方法で、その不安要素を取り除いてる段階だ。試験のできないことだから時間がかかる」

 そう父が口にしたとき、一樹はもう一つの気になっていることについて聞いてみた。

「藤田って人が来たのは?」

「藤田は、梨花ちゃんがこの時代に来てしまったことを、地球というコンピューターに起きたバグだと考えているんだ」

 一樹は一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。

「バグって、そんなバカなこと」

「確かにバグなんてことはない」

 一樹の言葉に、父は即答した。そして続けた。

「だが俺も奴の言い分がわからないでもない。そもそも梨花ちゃんがこの時代に来てしまうことなど、絶対にありえないことなんだ。過去の彼女が消え、現代に現れた。世界の時間軸に矛盾が起きてしまった。過去を書き換えてしまったことで、宇宙というコンピューターにどんな影響が出るか……」

 言い淀む父。まるで祈ってるように組んだ手を、だらりと下ろし、その手をじっと見つめている。

「今な、研究所の中で、二つの考えが対立してる。なにかしらの影響が出る前に、一刻も早く梨花ちゃんを元の時代に帰そうとする考えと、安全な処置が整うまで様子

を見て、安全と判断してから彼女を帰す考えだ」

 つまり藤田が、いわゆる強行派というわけだ。

 父の説明した対立は、梨花がこの時代にやって来てしまった直後に起きてしまったらしい。父が梨花を家に連れてきたとき、休養目的だと言っていたが、その実、対立の中心にいる梨花を避難させるためでもあったわけだ。

 そのことを一樹に隠していたのは、父なりに理由のあることなのだろうが、やはり一樹は釈然としない気持ちだった。しかし、そんな気持ちよりも、今一樹の感情を支配してるものがあった。

「父さんはどうなの。藤田って奴と一緒の考え?」

 父は何も答えなかった。ただ黙って項垂れている。

 父が何を考えているのかわからなかった。話しぶりからして、父はもう一方の考え方だと思う。だから、一樹は父に「それは違う」と言って欲しかったのかもしれない。こうして黙っていられると、奇妙な苛立ちが込み上げてきてしまう。

「父さんは違うんだろ。だったらそう言ってくれよ。なんで黙ってんだ。それに父さんなら……」

 父さんの立場なら強行派を抑えることだってできるだろ。そう言いかけた一樹が口を噤んだ。

 そのとき父が俯いていた顔を上げ、一樹に向き合った。その父の顔が、視線が一樹の身をすくませた。

「一樹、オレはな、梨花ちゃんに決めてもらおうと思っている」

 静かな声で父が言い放つ。

「実は言うと、安全を考えているとはいえ、確実に彼女を帰せる保証はない。今すぐにしろ、様子を見てからにしろ、彼女にとってはどちらも命がけになる。だから、今お前に話したことの全てを彼女にも伝え、彼女の決心が固まったら、元の世界に戻す」

 父はベッドから腰を上げ、一樹に近づく。一樹の目の前で一度立ち止まったが、すぐに体の向きを変えて部屋の出口に向かって歩き出した。

「何だよ、それ」

 父の視線に射すくまされていた一樹が、絞る声で言った。消え入りそうな呟きであったが、父の耳に届いたようだった。

 父はドアの前で立ち止まった。そのまま振り向こうとしない。一樹も父に背を向けたままだ。

「梨花ちゃんをいつまでもこの時代に留まらせる考えはオレにもない。遅かれ早かれ、彼女は元の自分の時代に帰らなければいけない。だから、彼女には全てを話す。彼女がいることで、この時代に及ぼす危険性のことも」

 話すうちに父の語調が強くなっていくのがわかった。そっと振り返り、父のほうを見る。父の背中がわずかに震えていた。だらりと垂らした腕、その先に握り拳を作っている。

「梨花ちゃんには今から話しに行く。ついて来るなとは言わない。お前のしたいようにしろ」

 そう言い残して、父は部屋を出て行った。

 残された一樹は、ただ呆然とその場に立ちつくしていた。すぐに追いかけて行くこともできたはずだった。

 父は梨花に「藤田が強引に君を連れ帰そうとしてる」と話すだろう。

 父は梨花に「元の時代に帰るには命がけになる」と話すだろう。

 父は梨花に「君がいるからこの世界に悪影響を及ぼす」と話すだろう。

 追いかけて、それを止めることもできる。止めたいとも思う。それでも一樹の足は床に根付いたみたいに動かなかった。


     ☆


 蝉の声が、やけに耳に障った。せわしく鳴き続ける蝉は、この世の全ての音をかき消してしまったかのようだった。道路を走る車のエンジン音も、近所の主婦たちの立ち話も、犬の遠吠えも。消されてしまった音はどこに行ったのだろう。いや、たぶん消えたんじゃない。隠されているだけなんだ。音はどこにも行かずに、普段通りその場にある。ただ聞こえないだけなのだ。

「もう少し行くと川だよ」

「大きい?」

「うーん、そんなに大きくないかな」

 目を輝かせる梨花の問いに、一樹はそう答えた。声を弾ませ、いかにも楽しんでますというオーラを前面に放出して。そうすることで一樹は、蝉の声がそうするように、訪れてしまった現実を隠した。

 本当はその全てを受け入れなければいけない。そう思いながらも、梨花が「この街を見て回りたい」と言い出したとき、全く何事もなかったかのような態度で接した。そうすることで、気持ちを紛らせていたかった。

 一樹と梨花。並んで街を歩く。

 やがて住宅地が拓けた。目の前には、幅の広くない川が流れていた。芝の生えた土手の下には、やはり芝生地があって、白や黄色をした小さな花が咲いていた。その先に流れる川の水はきれいで、水遊びをする子供や釣りをする人もいる。

「きれいなところ」

 土手の上から見渡して梨花が言う。

「向こうの対岸に並木があるだろ。あれ全部、桜の木なんだ。春は桜並木になるんだ」

 一樹が指さした対岸には、等間隔に植えられた木々がかなり先まで続いていた。

「きれいなんだろうな」

 梨花はそう呟くと、土手を降りて行き、川辺に立った。その場にしゃがみ込んで、そっと水に両手をつける。

「冷たくて気持ちいい」

「近づき過ぎて落ちるなよ」

「そんなにドジじゃないよ」

 からかう一樹に梨花が口を尖らせる。怒った口調だが、目は全く怒ってなかった。むしろ嬉しそうに輝いている。

 一樹たちのいる場所から少し川上のほうに橋が架かっている。橋の下を流れる川の、少し手前で釣りをしてる人がいた。川岸から竿を振っているのではなく、川の真ん中にまで入って行って、そこから竿を振っている。

 川下に子供が三人、水遊びをしていた。水着姿で水を掛け合ってはしゃいでいた。川の流れは緩やかで、危険ではないのか、親の姿はなかった。

 不意に梨花が立ち上がって、おもむろに靴を脱ぎ出した。靴下も脱ぎ終えると、裸足で川に入る。スカートの裾を少し挙げて、梨花はずんずんと川の中を進んで行く。

「おい」

 声をかけると、梨花は振り返った。彼女の笑みは透き通るように明るかった。そこには、以前の沈みがちだった表情や笑顔を見せまいとする辛そうな瞳はなかった。梨花は、本当はこんなにも明るく輝いた表情で笑えるのだ。

「あまりはしゃいでると転ぶぞ」

 梨花は川の中を、水の流れを確かめるように歩いた。小さな魚を見つければ、捕まえられるはずもないのに、そっと手を伸ばし、川底から小石をすくい上げては、川の中央目がけて放り投げた。

 まるで子供みたいだ。無邪気に振る舞う梨花。そんな彼女は胸の内に、一体何を抱え込んでいるのだろう。とても大きくて重いそれは、彼女一人で背負いきれるものなのだろうか。

 隠していた一樹の中にある迷いが再び顔を覗かせていた。一樹は自分の非力さを悔やんだ。梨花の力になりたいと思った。できるならこのままずっと一緒にいたいと思った。だけど、梨花はいずれ行かなくてはいけない。彼女にとっても、それが良いことなのだろう。それに、行く決心をするのも彼女自身だ。結局、もう自分にできることはないのだ。

 梨花が川から上がって来た。濡れた足をハンカチで軽く拭いてから靴を履く。

 そんな彼女の動作を眺めてる間に、一樹は込み上げてきたやりきれない思いを、また胸の奥にしまい込んだ。



 それから、あちらこちらと、街を詮索しながら歩き回り、気づけば夕刻の時間が迫ってきていた。

「そろそろ帰ろうか」

 梨花が言う。

「ん、そうか? どこかでメシ食ってこうと思ってたんだけど」

 一樹の提案に、梨花は少し考えて、やがて首を横に振った。

「ううん。やっぱり帰ろう。遥香さん、きっと夕飯の支度して待ってくれてるよ」

 梨花の声が少し低調になっている気がした。

 一樹たちは駅近くの繁華街にいた。一樹の住む街で、最も人が集まり、多くの店舗が建ち並ぶ場所だった。そこからバスに乗り、住宅地まで戻る。

 バスを降りて、家までは歩いて十五分ほどだ。その間、二人は他愛もないことを話ながら歩いた。今日一日の新しい発見。川で遊んでた子供に、釣りをしていた人。デパート内で喫茶店に入ったこと。意識してか、それとも自然となのか、最も気になる話題には触れなかった。

 公団住宅が見え、その側の公園を通り過ぎる。今日も公園では子供たちが遊んでいた。ボールを蹴ったり、滑り台やブランコに乗ってる。

 そんな光景を横目に入れながら歩き続け、ようやく家の前まで辿り着いた。

「あれ」

 声を上げたのは一樹だった。

 家の前に一台の車が停まっていた。一樹の家は、家々が密集する住宅地の真ん中に建っているのではなく、そこから少し横道に逸れた先にある。横道の奥は行き止まりになっている。

 車は家の前というより、家から横道の入り口の中間あたりに停まっていた。

 嫌な予感がよぎる。見覚えのある車だった。一樹はチラリと梨花に目をやると、その手を取って引き返そうとした。しかし、すでに車から降りてこちらに向かって歩いてくる藤田の姿があった。

「こんばんは」

 相変わらずの冷淡な声で挨拶をしてきた。

「悪いけど帰りを待たせてもらったよ。さあ、梨花さん、決心はつきましたか?」

 藤田は梨花に向かって手を差し出した。

 梨花の目が、威嚇と怯えの入り交じった様子で、藤田を睨んでいた。

「何言ってんだよ」

 一樹が藤田に食ってかかる。

「父さんから聞いてるはずだろ。あんたに梨花を連れて行く権利はないんだ」

「もちろん。だけどこういう風にも聞いているよ。彼女はもう全てのことを知っていると。だったら返事は一つしかないと思うんだが」

「だからそれも梨花が決めることだって言ってんだ」

 一樹がそう言い放って、次の言葉を発するかどうか迷った。できれば言いたくない言葉だったが、勢いに任せ、半ば自棄になって吐き出した。

「いつ帰るかは梨花が決めるんだ。帰るのに危険が伴うんだろ。だったら今よりも、もう少し時間が経ってからのほうが安全度は増すんじゃないのか」

 一樹は梨花のほうを見れなかった。彼女はどんな顔をしてるだろう。こんなこと、本人の前で言うべきでないかもしれない。言うにしても、もっと言い方があったはずだ。

 一樹は自責の念に駆られ、その責め苦から逃れるように藤田を睨みつけた。

「なるほど、それを気にしていたわけだ」

 嫌みたらしく藤田が笑う。

 藤田は手にビジネスバッグを提げていた。彼はおもむろにバッグを空け、中身を取り出した。

 出てきたのは小型のノートパソコンだった。電源を入れ起動させると、彼はポケットからメモリーデバイスを取り出してパソコンに繋いだ。

 モニターに映し出されたのは、赤く燃えるような夕暮れの風景だった。高い高層ビルの屋上が、赤いスクリーンに浮かび上がっている。そして屋上に立つ一つの人影。

 これは梨花だ。

 一樹は、以前父に見せてもらった『地球の記憶』の映像を思い出していた。吹きつける風で彼女の髪がなびく。彼女が空を見上げると、どこか寂しげなその横顔を窺える。しばらくはその状態のまま立ちつくしているが、やがて何かを決意したようにゆっくりと歩き進む。

「この映像が何だって言うんだよ」

 藤田が何を見せたいのか理解できなかった。彼が見せているのは、すでに父から見せられていたものと全く同じだった。建物の屋上で梨花が歩く。その直後に映像が途切れる。彼女が時代から切り離された瞬間だ。

 藤田の持つパソコンに映し出されるのも、一樹が予測するものと同じになる。

 ……はずだった。

 モニターの映像は途切れることなく、その先を映し続けていた。一樹の知らない『地球の記憶』だ。

 一樹は言葉を失い、モニターに釘付けになった。

 歩き続ける梨花。その先にあったのは、屋上の切れ目だった。金網のフェンスで区切られた、地上数十メートルの高さの床と空。

 映像の中の梨花はその金網を掴み、足を掛けた。

「やめて」

 ふいにか細い声が聞こえた。声のほうを振り向くと、青ざめた顔をしてる梨花がいた。彼女は、金縛りにあってるかのように体を震わせ、視点の定まらない様子で「やめて」と、また呟いた。

 動揺を見せる梨花に、一樹が混乱する。何も口に出せず、戸惑ったままモニターに視線を戻した。

 モニターの中の梨花は、すでに金網を乗り越え、屋上の縁に立っていた。彼女がこの後、どういった行動に出るのかは、明らかだった。何しろ、あと一歩踏み出せば、そこに足を置いておける床はないのだ。

「お願い。やめてください」

 後ろで梨花の震える声がする。しかし、一樹は振り向けないでいた。耳にだけ留め、モニターから目が離せないでいた。

 瞬間、一樹の胸に不快な振動が走った。モニターの中で、梨花が動きを見せたのだ。彼女の足がゆっくりと空へと差し出されて行った。

 そこで映像が途切れた。

 数秒、もしくは数分間、一樹は微動だにせずに立っていた。何か言おうとしても、虫のような吐息が漏れるだけだった。

「わかったかな?」

 その声は誰から発せられたのか、しばらく考えないとわからなかった。

 一樹から何の反応もないのを見届けてから、藤田が悪魔の言葉を繋げた。

「おそらく君が見せられていたのは、余分な箇所を編集したものだったのだろう。これが編集前の『地球の記憶』というわけだ。彼女があの後、どうしようとしていたか、わかるだろう?」

 はっと、一樹が正気を取り戻す。

「何なんだよ。あれ」

 やっと出た言葉はそれだけだった。

 藤田が小さな息を吐くのがわかった。

「彼女は飛び降りる直前に、こちらの時代に来てしまった。ということは、元の時代に戻るのに危険であってもなくても同じことだと思わないか」

 まだ混乱の抜けきらない頭に、藤田の声が染みこんでいく。

 研究者には変わり者が多いと、いつか聞かされたことがあった。藤田のように残忍なことを平気で言う奴も、変わり者で済まされるというのだろうか。

 こいつは人間じゃない。悪魔だ。

 一樹が藤田を睨みつける。藤田と視線が合った。が、すぐに彼の視線が一樹から外れる。藤田の目は、一樹の後方に向かっていた。

 一樹が振り向く。

 梨花が俯いたまま肩を振るわせていた。そして一歩、後退りした。さらに一歩後ろへ進むと同時に、梨花は踵を翻した。

「待ちなさい」

 藤田の腕が伸びる。

 一樹は咄嗟にその腕を弾いた。そのまま近づいて来ていた藤田に力一杯体当たりをした。

 藤田が呻き声を上げて背中から倒れ込んだ。勢いが余って、一樹もその上に倒れ込むが、梨花を追いかけようとすぐに体勢を立て直す。そのとき、藤田と同時に吹き飛ばされたノートパソコンが目に入った。

 咄嗟に手を伸ばし、一樹はノートパソコンに差し込まれていたメモリーデバイスを抜き取った。

 すでに梨花は見えなくなっていたが、構わずに走り出す。背後から藤田が何かを叫んでいたが、気にしてられなかった。

 すでに夕刻は過ぎ、空は夜へと移ろうとしていた。街灯が点り始め、人家の窓から明かりが零れている。もちろんそれらの光がなくても、季節的にまだ十分に明るい時間帯であるが、それもすぐに闇に落ちてしまうだろう。

 一樹は走りながら、注意深く周りを見回していた。余計なことをせずに、見失う前に梨花を追いかけていればと後悔した。

 一樹が住宅地の中を探し回り、公団住宅の公園のところまで来たときだった。公園の中、設置されたベンチに座ってる影を見つけた。

 一樹は乱れた息を整えながら、その影に歩み寄る。

「梨花」

 彼女は俯いていた顔を上げて一樹を見つめた。薄暗いせいで彼女がどんな表情をしているのか、よくわからなかった。ただ少なくとも、穏やかな顔をしていないことは確かだった。

 声を掛けた一樹だったが、その後、何を言えばいいのか戸惑ってしまった。

 藤田の言ってることなんか気にするなと言えばいいのか。それとも、行こうぜとひと言で済ませるべきか。どんなセリフを言っても正解でない気がした。

 一樹が黙ったままでいると、梨花は再び俯いてしまった。

 お互いに沈黙の時間が流れた。時間の感覚がなくなるほどの気まずい空気だった。やがて梨花は、座っていた位置から少し腰をずらして、ベンチの端のほうに座り直した。彼女の隣に、もう一人座れるくらいのスペースができた。

 梨花の無言の指示に従い、一樹は彼女の隣に座った。相変わらずの沈黙だったが、どういうわけか気まずい緊張が和らいだ気がした。

 そして、沈黙を破ったのも梨花のほうからだった。

「離婚しちゃったの。私のお父さんとお母さん」

 長い髪が横顔を隠し、表情は窺えなかったが、声の調子は悲しいくらい低かった。

「私ってね、もともと望まれて生まれてきたわけじゃなかったみたいなの。二人とも私ができちゃったから仕方なく結婚しただけで、いつもケンカばかりしてた。お父さんの帰りはいつも遅いし、お母さんは世間体ばかり気にするし。そんなだから私にもすごく冷たくて」

 その先を言い出せないかのように、梨花は言葉を詰まらせた。肩が小刻みに振動していた。彼女の小さな体は、それだけで脆く崩れてしまうんじゃないかと思えた。

「でも私には、お父さんとお母さんしかいなくて、嫌われて捨てられないように、中学に入ってからもずっと二人のご機嫌ばかりとってた。でも私が中学を卒業する前に、離婚が決まっちゃった。二人とも私を引き取ってくれる気はなかったみたい。最後に二人ともなんて言ったと思う。『せいせいした』だって。それで私、完全に捨てられたんだなって。私が生きてきたこと全部が無駄になったんだって思ったら、だんだん世界中に見放されてる気がして、あんなことを」

 公園に設置されている街灯に明かりが点った。気づけば辺りは暗く浸食されている。街灯は壊れかけていて、チカチカと鈍い光を点滅させていた。点いては消え、また点いて、その度に項垂れて座る梨花の輪郭を浮かび上がらせたり消したりした。

「前に、私のこと必要だって言ってくれたよね。すごく嬉しかった。まだ捨てられてないんだって思えたの」

 一樹は、梨花と二人きりで観覧車に乗ったときのことを思い出した。あのときの梨花の表情を、小さく呟いた声を、降りた後に楽しそうに笑う顔を。

 あのときの気持ちは本気だったし、もちろん今も本気だ。梨花はここにいていいんだよ。誓ったんだ。どんなことがあっても味方でいる。守ってやる。

 そう言ってやりたかった。けれど、何か大きな重圧に押しつぶされているみたいに、一樹は声を出せずにいた。

「でも、やっぱりダメみたいだね」

 梨花は顔を上げて、隣に座る一樹に振り返りながら言った。泣きそうな顔で、でも口元に笑みを作って。

 梨花が立ち上がる。そして黙って一樹の前を通り過ぎて行く。

 その瞬間だった。

 一樹が猛然と立ち上がり梨花の腕を掴んだ。そのまま引き寄せ、小さな体躯を腕の中に納める。

「行くな」

「無理だよ」

 梨花の声が震えた。

「父さんたちが、どんなに連れ帰そうと迫って来ても、俺が追い返してやる」

「そんなこと言っちゃ、ダメだよ」

「俺は見捨てない。絶対に。梨花のことを悪く言う奴らから守るから」

 梨花の腕が一樹の背中にまわる。梨花は一樹の胸に顔を埋めて、ただ体を震わせた。

 小さな喘ぎが耳に届いた。彼女の腕に力がこもる。その力を全身で受け止め、一樹は言った。

「一緒にいよう。ずっと、ずっと」

 梨花の頭がわずかに動いた。その腕にさらに力がこもる。

 一樹の胸に顔を埋めたまま、梨花は何度も頷いていた。



 藤田が追いかけて来るかと思ったが、その気配はない。家の前で待ち構えているかもしれないと警戒したが、結局は彼の姿を見ることなく無事に帰宅できた。鉢合わせした場合は思いっきりぶん殴ってやろうと考えていた一樹は少し拍子抜けしたが、何事もなかったことに安心した。

「遅かったわね。ご飯できてるよ」

 そう出迎えてくれた遥香は、梨花の目が腫れていたり、藤田を突き飛ばしたときについた一樹の衣服汚れを見て驚いた。

「どうしたの二人とも」

 一樹も梨花も、説明したものかと口を閉ざす。

「まあ、いいわ。まずは着替えてらっしゃい。ご飯はそれからね」

 一樹が、自分の部屋で着替えを済ませてリビングに入った。ソファーに遥香だけが座っていた。

「梨花ちゃんはお風呂よ」

 遥香が教えてくれる。

「そう」

 短く返事をして一樹は遥香の向かいに座った。そして見計らったように遥香が尋ねてくる。

「何かあったの?」

「え、いや、たいしたことじゃないよ」

「ケンカ?」

「違う違う」

 そう答えてから、一樹はケンカということにしておいても良かったかなと思った。例えば不良に囲まれたとか言えば、余計な説明をしなくてもいい。

 遥香はまだ追及したそうな顔をしていたが、これ以上は何も聞いてこなかった。

「遥香さん」

 詰まった空気を紛らすためか、何も説明できない償いのためか、一樹が口を開く。

「遥香さんの両親って、どんな人?」

「どうしたの急に」

「いや何となく考えただけで」

 遥香が首を傾げた。そして何かを思い出してる様子で顔をしかめた。

「うーん、そうねぇ。お母さんはいつも優しくて、お父さんはいつも厳しかったかな。小さい頃はいっぱい怒られてたなぁ。その後はいつもお母さんが慰めてくれてた。でもそんなお父さんも、時々すごく優しくしてくれてね、大好きな二人だよ」

 遥香が照れながら話してくれた。

 そうしてるうちに、梨花が入浴を終えてリビングに入ってきた。蒸気で火照った顔や、まだ乾ききっていない髪が、やけに艶めいて見える。

「よし、じゃあご飯にしましょうか」

 立ち上がってキッチン入って行こうとする遥香を、梨花が引き留めた。

「遥香さん。ご心配をおかけしました。ごめんなさい」

 真剣な表情で頭を下げる梨花。

「どうしたの改まっちゃって」

 戸惑う遥香。だけど梨花の真剣さに気づいて、小さく微笑んだ。

「いいわよ。許してあげる」

 キッチンへと入っていく遥香は「今日は二人とも変ね」と言い残した。

 梨花はまだ顔を上げてなかった。彼女の口が何かを呟いた。なんて言ったのか一樹は聞き取れなかった。


     ☆


 売店のドリンクコーナーで、一樹はアイスティーとカルピスを手に取った。カルピスは二本。祖母の分と、もう一本は梨花の分だった。前に来たとき以来、気に入ったらしい。そして前回同様、一樹は飲み物調達の使い走りをしていた。

 梨花は、祖母とずいぶん仲良くなったみたいで、病室に訪れてからずっと他愛のないお喋りをしていた。主に祖母が昔の話をして、梨花は嬉しそうに相づちを打つ形だったが、時には梨花が主体となって話をすることもあった。

 一樹は完全に蚊帳の外だったが、楽しそうに話をする二人を見ているだけで、退屈はしなかった。

 飲み物を抱えて病室に戻る。

「後悔しないのね」

 部屋の扉を開けるのとほぼ同時に、一樹はそう誰かが言ったのを聞いた。声は祖母のものだとすぐわかったが、言ってる内容がわからない。

 扉を開けた状態で停止してしまった一樹は、その場から祖母に視線視線を送る。ベッドの上で体を起こしている祖母は、梨花をじっと見つめいていた。

 しかし、すぐに一樹が戻って来たことに気づき、視線を一樹に合わす。

「ありがとう」

 そう声をかける祖母は、全く普段と変わらない様子だ。

 一樹は、流されるように部屋の中に進んだ。先ほどの祖母の言葉に疑問はあったが、すぐにそれは頭の奥深くに沈んで消えていた。

 その後も、梨花と祖母のお喋りで時間が過ぎた。

「それじゃあね」

 病室を後にする一樹と梨花に向かって、祖母が手を振る。

「また来るよ」

 一樹は言う。

「さよなら」

 梨花が頭を下げた。



 祖母の見舞いに行った翌日のことだった。

 少しばかり寝坊をした一樹がリビングに入る。

「梨花は?」

 遥香がいたので、そう尋ねる。

「朝早くに出かけたわよ。病院に行くって。お婆さまのところには昨日行ったから、今度はお母さんのお見舞いじゃないかしら」

 病院。そう聞いて一樹は自分の中で爆発するような不安を感じた。

 梨花は、彼女の母親が入院してしまったからという理由で一樹の家にいることになっている。時折、事情聴取や検査のために研究所に行くことがあった。母親の見舞いと称して。

「遥香さん。梨花が出て行ったのは何時?」

 怒鳴るよな声に遥香は目を丸くする。

「え、えーと、三十分くらい前かしら」

 それを聞くと一樹は踵を返し、リビングを出る。

「ちょっと、どうしたの」

 遥香の呼び声が追いかけてきたが、返事はせずに家を飛び出した。

 研究所に行くにはバスを乗り継ぐことになる。近くのバス停から市街地まで行き、そこから研究所前まで行くバスに乗り換えるのだ。

 バス停まで来た一樹は、次のバスの時刻を調べる。次が来るまで、まだあと十分かかる。タクシーに乗ることも考えたが、この辺りは滅多にタクシーが通らない。

 一樹はバスが来るまでの十分を、やきもきしながら待った。

 ふと気づいて、一樹は携帯電話を取り出す。メモリーを検索して、父の番号に発信する。

 気長なコール音にイライラしつつ、繋がるのを待つ。やがて呼び出しの音が途切れた。

『一樹か』

 父の声が電話の向こうにした。

「父さん。梨花は? そっちに梨花はいる?」

 沈黙があった。父は答えに言い倦ねている。今の一樹には、その時間を暢気に待っている余裕はない。

「どうなんだ。答えろよ」

 自然と声を荒げる。

 やがて電話口の父が冷静に言い放った。

『梨花ちゃんを送り帰す準備はあと少しで整う』

「なんだよそれ。ちょっと待ってくれ、俺もそっちに行く……」

『落ち着け』

 父の声が、一樹の言葉を遮る。

『梨花ちゃんは、自分の意志でここに来たんだ。お前が来て何ができる。彼女の決断に水を差すんじゃない』

「父さん、知ってるだろ。梨花が元の時代でどんな境遇だったか」

『そのことについては、お前に黙ってて済まない。だがそれでも彼女は帰る決心をしたんだ』

 そう言い残して、電話が途切れた。

「なんだよ」

 一樹が呻くように言う。

 梨花は自分の意志で帰る決心をした。

 なんだよそれ。なんでだよ。ずっと一緒にいるんじゃなかったのか。これからはこの世界で生きるんじゃなかったのかよ。

 一樹は、込み上がる疑問を頭に巡らす。

 父は来るなと言った。だからといって、このまま引き下がるなんてできない。

 梨花に会うんだ。会ってどうするかなんて考えてられないけど、会ってちゃんと話したかった。



 バスを乗り継いで、一樹はようやく研究所に辿り着いた。

 守衛のいる門を走り抜け、施設内に入った。

 何度か来たことがあるだけで、入り組んだ施設内の地図は頭に入っていない。それでも一樹は立ち止まることなく、うろ覚えの記憶で進んだ。

 梨花がいるとすれば、『地球の記憶』の転送装置NOVAがある部屋だろう。そこまで行ったのは一度きり、しかも父の背中について行っただけだった。

 道筋を必死に思い出しながら奥へと疾走する。

 途中いくつかのゲートをくぐり抜けた。以前来たとき、ロックされたゲートを父がコードナンバーを使って解錠していた。だが、今回はどのゲートも開いたままだった。

 この道であってるのかと不安になる。そんな中、一樹は二日前の出来事を思い出していた。誰もいなくなった公園で梨花を抱きしめた。腕の中で震えてる彼女の温もりを感じ、さらに強く引き寄せた。しばらくの間そうしていて、彼女が落ち着いてから、すっかり暗くなってしまった道を二人で話をしながら歩いた。湿っぽく淀んだ空気が二人の間を流れている気がした。それでもお互いに笑顔を作っていた。暗い話題など一つもなかった。休み中に、みんなで海水浴に行く予定を立てていることや、夏祭りと花火大会、まだまだ先のことになるけど、並木道のある川原まで桜を見に行こうなど。

 そういったイベントに、これからも一緒に参加していくのだと意気込んでいた。それなのに……。

 施設の中を奥へ奥へと進んでいくと、見覚えのある場所に出た。廊下の先にひときわ大きな扉が見える。

 一樹の足が加速する。が、思ったようなスピードは出ない。疲れ切った体を引きずるように扉の前に立つ。施錠されているかと思ったが、扉はすんなりと開いた。

「梨花」

 部屋に入ると同時に叫ぶ。息切れした声はかすれて出た。それでも、室内にいる研究員が振り返るくらいの音量だった。

 全体を見渡し、梨花の姿を探すが、白衣を纏った研究員ばかりだった。

「一樹」

 甲高い声がした。すぐ側に母がいた。

「何してるの。ここは立入禁止なのよ」

 厳しい顔つきで母は言った。

 息を切らしてる一樹に返答する余裕はなく、ただ睨みつける。

 母の背後から父が歩み寄ってくるのが見えた。険しい顔をしている。咎められても、一樹は引き下がるつもりはなかった。いざとなれば殴ってでも黙らせる気でいた。

 父が近づく。一樹は身構えた。しかし、父は母の肩に手を置いて母を宥める。それから一樹に向かって言った。

「梨花ちゃんはすでに『NOVA』の中にいる。音声だけなら、まだ繋がってる」

 父は数多く並んでるうちの、スピーカーとマイクのついたコンピューターまで一樹を誘導した。

 部屋のガラス窓の向こう、ドーム状の真ん中に『NOVA』があった。あの中に今、梨花がいる。

 父はコンピューターの前に座り、通信スイッチを操作しながらマイク越しに話しかけた。

「梨花ちゃん。問題はないかい?」

『はい。大丈夫です』

 スピーカーから梨花の声が流れた。

「梨花」

 父の横からマイクに向かって言う。

『一樹』

 スピーカーから驚いたような声が出る。一樹の言葉が詰まる。何を言えばいいのか思い浮かばなかった。

 その一瞬の沈黙のあとに、続けて梨花の声が届いた。

『来てくれたんだね。ごめんなさい、黙って出てきちゃって』

「梨花、どうして。この時代で生きていくんじゃなかったのかよ」

 そうじゃない。一樹は言ってしまってから思った。こんな咎める口調で話したいんじゃないんだ。

『ごめんなさい』

 再び謝罪の言葉。

『本当はね、とっくに決めてたの。私は、私の時代に帰るって。たぶんそれが一番良い。私にも、一樹にとっても』

「良いって、そんなわけないだろ。帰っても梨花は……」

 言いかけて止める。

 帰っても梨花は一人ぼっちじゃないか。

 そんなこと口にするだけで怖かった。一樹は誤魔化すように言葉を繋げる。

「とにかく、帰るにしても、危険のある今じゃなくても。もっと先なら安全度も増すんだ」

『大丈夫。私はまだ死なないよ。ちゃんと元の時代に戻って、そこで生きていける。一樹が、私を救ってくれたのよ。だから今度は私が一樹を守ってあげるの』

 梨花が何を言っているのかわからなかった。

『一緒にいようって言ってくれて、すごく嬉しかった。一樹の傍に私はいられなくなっちゃうけど、私はずっと一緒にいるよ』

 そう言った後、梨花が小さく笑った。

『ごめん。変な言葉だったね』

 一樹は何か言おうと口を開きかけた。しかし、隣の父の声がそれを遮った。

「そろそろいいかな。短い時間しか取れなくてすまない」

『はい。いろいろとありがとうございました』

 梨花が返事をする。

「梨花」

 一樹が叫ぶ。

『一樹……じゃあね』

 それを最後に通信が途切れる。

 一樹はその場を動けないまま、『NOVA』から発せられる起動音を聞いた。


     ☆


 梨花が元の時代に帰ってしまってから一ヶ月後、一樹の祖母が亡くなった。

 葬式はしめやかに、小さな会場で行われた。

 出棺の前に、最後に祖母の顔を見ることができた。祖母は装束を纏い、化粧を施され、穏やかな表情で横たわっていた。

 祖母を見守る人の中からすすり泣きが聞こえた。その泣き声が死別の痛みとして、一樹に届いた。

 やがて棺のフタが閉じられ、祖母の遺体を乗せた車が焼却場へと向かう。一樹たちもバスでその後を追った。

 焼却口に棺ごと入れられていく祖母を見送ると、あとは何も考えなかった。

 数十分後、祖母の欠片を丁寧に骨壺に入れ、葬式は終わった。

 ささやかな宴会の後、家に帰り着いた。

 喪服を着たまま、一樹はリビングのソファーに腰を下ろす。今日は遥香の「着替えてきなさい」の言葉もなかった。

 母と遥香は、帰るなりキッチンに入って行った。特に片づけもないはずなのだが、何かをしていないと落ち着かないのだろう。

 ぼんやりと時間を過ごしていると、親類の送迎を終えた父が帰ってきた。父は一樹の隣に立ち「ご苦労だったな」とひと言呟いた。

 それから内ポケットに手を入れ、封筒を取り出し、それを一樹に差し出す。

「ばあさんから一樹にだ」

 すでに送り主のいない手紙というのは、なんだか不思議な感じがした。

 父は一樹の隣に座ると、読んでみろと促した。

 一樹は封筒を開け、中の手紙を読んだ。


 一樹へ

 あなたには伝えておきたくて手紙を書きます。少し信じられないようなことを記しますが、あなたなら信じてもらえると思います。

 私の息子、つまり一樹のお父さんにも話したことないんだけどね。私は十五歳の頃にちょっと不思議な体験をしました。突然、今までいた世界から別の世界に移動してしまったの。そこは私のいた時代よりもずっと未来の世界だった。タイムスリップって言うのかしらね。その時代には『地球の記憶』なんていう技術が発展していて、私はそれの影響を受けてしまったの。


 一樹の思考が一瞬停止した。祖母の残した手紙に、まさか『地球の記憶』なんて言葉が出るとは思ってなかった。しかもタイムスリップだって。それはまるで……。

 一樹は慌てて続きを読んだ。


 その未来の時代で、私はある男の子に出会った。彼は私にすごく優しくしてくれた。けれど私ったらね、自分の周りに壁を作ってしまっていた。いきなり知らない時代に来てしまって戸惑っていたのもあったんだけど、それ以上に、もう自分は生きていても仕方のない存在なんだって思ってたの。誰かを受け入れても、結局は捨てられるんだと思ったから、自分の中に閉じ籠もっていた。でも心のどこかで、まだ誰かを信じていたいという気持ちがあった。自分でも気づかなかった想いだったんだけど、彼はそれに気づかせてくれた。

 私がタイムスリップしてしまう前、どんな境遇に遭っていたかを知った彼は、彼の時代で一緒にいようって言ってくれた。嬉しかった。本当にそうできたらって思った。

 でもそうしなかったわ。その時代でね、私、彼のお婆さまにも会ったの。その人が教えてくれた。私は、その人自身なのだって。私はいつか元の時代に戻って、結婚して子供を産む。その子供が結婚して生まれてくるのが彼だった。つまり私は、彼の祖母となる。

 おかしいでしょ。そのとき、十五歳の私と彼の祖母となった私が同時に存在してたの。

 それを知ったからといって、未来の時代で彼と一緒に生きる道が閉ざされたわけではなかった。私が未来にいても、その時代の私や彼が消えてしまうことはない。ただ、過去の時代で彼が生まれることがなくなる。

 だから私は、元の時代に帰ることにした。私は彼のことが好きだった。元の時代に戻らないことで、私の時代に生まれてくるはずの、彼の存在を消してしまいたくなかった。

 私は帰る決心をした。もし彼に話したら、きっと引き止めてくれる。決心が鈍るから、彼には別れを言わずに帰るつもりだった。

 それでも、私が行ってしまう直前に彼が駆けつけてくれた。顔は合わせられずに、ただ声のみの別れだった。たくさん彼に伝えたいことがあった。でも全部を伝えるだけの時間もなかった。

 ねぇ一樹。お願いがあるの。あのとき、彼に言えなかったことを、あなたが受け取ってもらえないかしら。

 短かい間だったけど、あなたに会えて良かった。みんなで遊園地に行ったとき、すごく楽しかった。私の時代だったら信じられないくらい面白いアトラクションがいっぱいで、でも昔と変わらない観覧車があったりして、ちょっと不思議な感じだった。二人きりで乗ったあと、あなた達がふざけあってるのを見て、私めいっぱい笑っちゃったね。今思うと、ちょっと恥ずかしい。

 遥香さんにたくさん服を着せてもらって、その度にあなたと遥香さんの言い合いになって、本当の姉弟みたいだった。私は一人っ子だったから、少し羨ましかった。

 二人で街中を歩いたこともあったね。わがままに付き合わせてしまってごめんなさい。そのときはもう帰る決心をしていて、最後にあなたの住む世界を見て回りたかったの。

 公園で落ち込んでる私に、一緒にいようって言ってくれてありがとう。私、本当に嬉しかった。あなたの腕の中で、あなたの温もりを感じていたい。そう思えた。帰る決心が揺れたけど、留まってしまったら優しいあなたがいない世界ができちゃうんだ。そうも考えたわ。

 公園から帰る道で、これから先の予定をたくさん話したね。みんなで海水浴に行きたかった。花火も見たかった。桜並木を歩きたかった。ごめんなさい。私はいないけど、あなた達は楽しんでね。

 死ぬつもりだった私に、生きる力をくれてありがとう。あなたが救ってくれた命で、私は自分の時代で生きるわ。そして、いつか生まれてくるあなたに、できる限りの幸せをあげるの。いつも傍にいて守ってあげたい。あまりしつこいと嫌われちゃうかな? それでも大好きなあなたがいてくれるだけで、私は満足しちゃうわ。

 最後に、もう一度だけ言わせて。あなたに会えて良かった。私は幸せだよ。


 手紙は途中から、祖母ではなく梨花になっていた。あの日、研究所で聞いた梨花の声。別れの言葉。そのとき自分はただうろたえていただけだった。ちゃんと別れも言えなかった。

 ずるいよ、梨花。今更こんな形で別れを言うなんて。俺はまだきちんと別れを言ってないのに。言いたくても、もういないのに。

 一樹は胸の奥から込み上げるものを感じた。手紙はまだ少し続いていたが、それを読むことができなかった。

 一樹はソファーから立ち上がった。

「着替えてくるよ」

 父にそう言って、リビングを出る。自分の奥から湧き上がるもの。それが溢れ出てしまうのを見られたくない。

 自室に入り、扉を閉める。それと同時に抑えきれなくなった感情が溢れ、こぼれ落ちた。祖母からの、いや梨花からの手紙を握りしめ、次から次へと流れてくるものを、一樹はしばらく止められなかった。



   エピローグ


「父さんは知ってたの?」

「何がだ?」

 一樹は父と川原にいた。一ヶ月前に梨花と来た場所だ。その土手の上に父と並んで立っていた。

 秋を告げる風が、蒼く茂った草を揺らす。あの日、川で遊んでいた子供も、釣りをしていた人も、今日はいない。川の水面は驚くほど静かに流れている。

「梨花のこと」

「……ああ」

 少しの間をあけて、父が言った。

「彼女の来た過去が約八十年前ということは、もしかしたらこの時代にまだ生きてる可能性があった。戸籍を調べたら、ばあさんに繋がった。養子だったことは知ってたが、まさか改名までしてるとはな」

「そうなんだ」

 梨花は元の時代に戻ってから、どこかの家の養子になった。その関係で名前を変えていた。それが、梨花にとって、今までの過去との決別になっただろうか。確認のとりようがないが、一樹はそうであってほしいと思った。

「そう言えば、梨花が帰ってしまったあの日、研究所のNOVAの部屋に行くまでの扉が全部開いてたんだ。あれ、父さんの仕業だろ」

 話題を変えて、一樹はまた父に尋ねる。

「ああ、お前が来るってわかってたからな。おかげであとで母さんに怒られたんだぞ」

「俺に来るなって言っておきながら、よく言うよ」

「何言ってるんだ。俺は来てどうするつもりだとは言ったが、来るななんてひと言も言ってないぞ」

 父が意地悪くニヤリとして一樹を見つめる。

 間違いなく父は、あの祖母の息子なんだと思った。

「さてと、そろそろ行かなきゃな。まだ片づけが残ってるんだ」

 そう言って、父が面倒くさそうに伸びをした。

 梨花の件以来、『地球の記憶』の研究は凍結されることになった。今まで発見、解析された『記憶』は整理され、オリジナルデータ以外の、バックアップやコピーは全て処分されることになった。ネット上のサイトも閉鎖された。今、研究所はそれらの後片づけ作業に追われているのだ。

 今回の研究に自身と期待を持っていた父にとって、それは残念なことだろう。もっとも、凍結の決定を下したのも父であったのだが。

「一樹はどうする? 帰るなら先に送っていくぞ」

「まだいいよ」

「そうか」

 そして父が、近くに停めていた車まで歩いて行った。

 残された一樹は、土手の斜面を降りて、川のほとりまで来た。

 ポケットに手を入れ、中にあった小さな物体を取り出す。メモリーデバイスだった。

 藤田を突き飛ばしたとき、同時に転げたノートパソコンから引き抜いた。あのとき、どうしてそんなことをしたのか自分でもわからなかった。ただ、彼に見せられた梨花の『記憶』を忌まわしいと思ったのは確かだ。

 一樹はメモリーデバイスを握りしめたまま、ただただ静かに流れていく川の水面を見つめていた。


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