いざ。戦空へ!!
島での訓練は厳しかった。まず座学。さすがに英語の取得はなかったが、天測をするための航法訓練。計器やエンジンに関する知識や簡単な整備が出来る程度の知識も覚えなければいけなかった。また、天候に関する物や、戦闘時の対応の仕方など、実戦に即した物もあった。
体力面でも鉄球に入ってグルグル回るや平均台の上を歩くなどの、平衡感覚を養う訓練が行われた。
こうした基礎訓練が凡そ2週間ほど続き、そこからはシミュレーターを使った模擬操縦訓練に入った。
そうした課題を一つ一つ、五十六はクリアしていき、ついに訓練開始一ヶ月目で念願の飛行訓練に入った。
訓練機はセスナ機であった。もともと才能があったのか、それとも運が良かったのかはわからなかったが、彼は短期間で飛行技術を習得していった。そのため、飛行訓練をはじめて2週間もすると、セスナ機の操縦に物足りなさを感じた。
それを教官の沢村に言ってみた。しかし。
「ジェット機に乗るわけではないから今はこれで充分だ。基礎を積むことも重要だ。」
と沢村教官は笑いながら言った。
それまでに、新たに2人のパイロットと3人のパイロット候補が加わった。ただし、新しい練習生たちは五十六とは一ヶ月遅れであったため、彼らと共に訓練をすることはなく、専ら沢村とのマンツーマンの訓練が続いた。
訓練の間に、五十六は彼に関する情報を幾つか入手していた。
彼の年齢は32歳。どうやら元は航空自衛隊で戦闘機のパイロットとして働いていたようだが、何か訳があって除隊し、河口にスカウトされたらしい。その理由が何であるかまでは、まだ五十六にもわからなかった。
一方、河口が言っていたもう一人のパイロットと会ったのもこのころである。
もうひとりのパイロットは既に白髪が目立ち始めた50代後半の男であった。男の名は藤沢といった。もと海上自衛隊員で、長い間対潜哨戒機P3Cのパイロットをしていたベテランだった。彼もまた、どうしてこの組織に加わったのかはわからなかった。
そして、新たに加わったのはパイロットだけではなかった。2人の整備員も加わっている。
一人は畑という50代の男で、話によると友人の作った借金の連帯保証人になって多重債務を抱えてしまい、富士の樹海で自殺しようと彷徨っていた所を河口に拾われたという事だ。元の仕事は自動車整備工だ。
もう一人は、落合という30代前半ぐらいの女性で、彼女も技術系の大学を出たが、職が無かったことからスカウトされたらしい。
「家の隊員は皆訳あり人間だ。」
後に沢村が言った言葉だが、五十六には全くそのとおりだと思った。何故ならその後もちょくちょく補充されてくる人間も同様に何か訳があった。借金から逃げるため、リストラされたため、妻に先立たれたためという者もいた。
五十六が島に来てから3ヶ月目には、パイロットが練習生含め13名、整備員が10名にまで増えていた。もちろん、これでも不足だから河口はスカウトを続けているという。
その頃には、五十六の飛行時間は120時間に達し、練習機から実機に移しての本格的な訓練に移った。
使用機材は最初に見せられたyak9型戦闘機である。
この機体は第二次大戦中のソ連戦闘機の代名詞と言える機体である。五十六たちが乗るのは、ソ連崩壊後に地方の工場で部品が見つかり、アクロバットやエアショー用に再生産された物だ。そのため、エンジンはアメリカ製のアリソンエンジンに改修されていた。
この機体をどうやって手に入れたか知らないが、河口は5機入手していた。しかも完全武装つきで。その全てが船便で島に持ち込まれた。
さらに、それに前後してT6改造零戦も運び込まれた。
T6とは米国で第二次大戦前に開発された練習機であるが、操縦のし易さ、加えて簡易な改修で武装できる事から様々な国で重宝された。
そして、アメリカの映画では零戦と似ているという事で、単座化等の改修を加えられて、零戦として大活躍した。映画撮影後もエアショーや別の映画で零戦役として活躍している。
河口はこの機体も6機入手していた。もちろん、武装付きである。
相手が日露戦争時代の装備なら、これらに対抗できる物はない。しかし、もし戦場に出るなら飛行機は消耗品として考えなければいけない。事故などで失われる機体が出るはずだ。とてもじゃないが11機では心許ない。
ミリタリーオタクの五十六にはそれが良くわかっていた。
それを、五十六は島を訪れた河口に言ってみたことがあった。その質問に対し、河口は渋い顔をして言った。
「飛島博士が異次元移動装置を改良すれば、タイムマシーンとしても使えるようになると言っている。そうすれば、過去からじゃんじゃん持って来れるんだが・・・・」
この言葉を聞いて、五十六はあまり期待しないでおこうと思った。
そんなこんなの内に、五十六が島に来てから3ヶ月が過ぎた。
すでに飛行時間は200時間に迫ろうとしていた。既に簡単な洋上飛行や夜間飛行も出来るようになっていた。ただし、それでもかつての帝国海軍のパイロットの飛行時間から比べれば短い。旧海軍では1000時間飛ばなければ一人前とは認められなかったからだ。しかし、沢村は「対地攻撃なら十分出来る。」と太鼓判を押していた。
そして、ついに運命の日が来た。その日、五十六は沢村、そして藤沢と共に河口の下へと呼び出された。