白黒の部屋
「トマトは赤い。空は青い」
白黒の部屋の中、一人の少女が白黒の本を片手に、白黒のソファーの上で仰向けに寝そべって譫言のように呟いた。
少女はずっと、この白黒の部屋で暮らしている。
ずっとと言うのは、少女が物心ついた頃まで遡ることとなる。
少女の記憶にある限り、一度として外に出たという記憶は無かった。
また、この部屋は外界からは完全にシャットアウトされており、例え少女自身が外へ出たくても、外へ出る手段が存在しない。
窓が無ければ、扉も無い。
この白黒の部屋は、そういう部屋だからだ。
この部屋にあるのは、白黒のベッドに、白黒のソファー。
それに、白黒の本棚に置かれた沢山の白黒の書籍と、白黒のブラウン管テレビが一台。
――ただ、それだけ。
白黒の書籍は言うまでもなく記載内容も白黒で、ブラウン管テレビも白黒の番組しか映し出さない、「白黒テレビ」と呼ばれる代物だ。
故に、少女は白と黒以外の色を『見る』術は無かった。
しかし、少女は色を『知る』術を持ち合わせていた。
沢山の書籍に書かれた色に関する知識や、白黒の映像で世界中の出来事を垂れ流すブラウン管テレビ。
それらを使えば、少女はありとあらゆることを知ることができた。
そして、少女は自らに与えられた無限とも思われるほどに長い時間を駆使して、ありとあらゆることを知る努力をした。
その結果、少女は「視覚に関する全ての物理的事実」を知った。
人々が「トマト」や「空」を見るときに生じる、脳内で繰り広げられる物理的過程。
人々が、ある特定の波長の光の集合が網膜を刺激した際に「赤色」や「青色」を認識すること。
また同時に、神経中枢を通じて声帯が収縮し、肺から空気が押し出されることで、人々は「トマトは赤い」、「空は青い」と発声を行うこと。
少女は、白黒の書籍や白黒テレビを通じて、ありとあらゆることを知ったのだ。
少女が視覚に関する全ての情報を理解したある日、今まで存在しなかった白黒の部屋の扉が、何の前触れもなく、大きな音を立てて開いた。
そして部屋を木霊するように、ノイズがかかった男性の野太い声がアナウンスされた。
「少女よ。この扉から外へ足を踏み出し、現れる男の問いに答えよ」
少女は疑問に思いつつも、言われたとおり白黒の部屋の外へ出たのだった。
白黒の通路を、少女は一歩一歩、着実に進む。
どれだけ歩いても、変わり映えのしない風景。
どれだけ歩いても、白と黒の二色しかない通路。
しかし立ち止まることなく歩き続けると、また一つ大きな白黒の扉が少女の前を立ちはだかった。
扉には白色のドアノブは一つ付いている。
――恐らく、あのドアノブを動かせば、扉は開くのだろう。
少女は意を決して扉を抜けると、その先には今まで少女が住んでいた場所と変わらない「白黒の部屋」がそこにはあった。
少女は元の部屋に戻ってきたのか?
――いや、違う。
今まで住んでいた場所と違う点が、一つだけ存在した。
――目の前に、全身を黒色で覆い尽くした、「人のような形をしたモノ」が立っている。
「お前にクイズを出そう」
目の前にいた『それ』が、唐突に話を切り出し、少女の前に右手のひらを差し出し、その上に一つの物体を乗せてこう尋ねた。
「私の手に乗っかっている野菜、これは何だ?」
少女は考える。
「きっと、アナウンスで言われていたのは、このことであろう」と。
少女は、男の手のひらをまじまじと見つめる。
丸い球体、そして上にはフサフサとした蔕のようなものが付いている。
――あの部屋の中で見たことがある。そう、これは。
「トマト?」
目の前の男は、一度息を吸うと再び少女に尋ねた。
「ああ、そうだ。これは『ナス目ナス科ナス属』の『ごく普通のトマト』だ。それなら、このトマトの実は何色だ?」
男は蔕の部分を軽く摘み、実を少女へ押し付けた。
少女は、既にトマトの色を確信していた。
――普通のトマトなら、答えは。
「……赤?」
「違う。このトマトは『青く塗られた』トマトだ」
「マリーの部屋」という哲学的思考実験に関しての一個人の意見を徒然と。
「色」は認識できるが、それが「何色」なのかを答えることはできない。
または、「答えた」としても、それはあくまで「白黒の部屋で学んだ普遍的な物の色」であり、例えば「青く塗られたトマト」や「に塗られたトマト」も「赤いトマト」と少女は答えるだろう。
故に、「色についての新たな情報を少女は得るだろう」と私は考えた。
ただし、少女は白黒の世界で育ってきた為、白と黒については紛うことなく判別できるだろう。
また、周囲に同じ色をした物体があった場合、少女がその物を見て「直感的に」色を当ててしまう可能性も存在する。
なので、この思考実験をする試す際は、同じように白黒の部屋で行うことを推奨する。
これだけ堅苦しく書いてはいますが、要は「全ての物理的知識を知っていようが、少女はクオリアを培っていないので、物体の形状以外は正しくは理解できていないだろう」という考えです。
(恐らくD・ルイス氏の哲学的見解が私の意見に一番近いはずです)