コーヒーを頼んだけれど紅茶が出て来たから店員さんに頼んで取り替えて貰った
じっとりと空気が肌を締め付けてくる。バイト帰りの午後三時。東京の夏を路上で過ごすものじゃないと、当たり前の結論を出した僕は相棒のママチャリを押して、近くの公園へと逃げ込んだ。ぱっと見た時に目に飛び込んできた緑と、風鈴のような水の音に惹かれたのである。
「……ああ、」
数分後、木陰のベンチに座り僕は後悔することになる。目の毒だ。肌にも悪い。空気を吸い込む鼻が壊死してしまいそうだった。
ぽちゃぽちゃ、と涼しげな水音を公園中央の噴水が垂れ流す。水を吹き出している縦に長い立方体は暑苦しそうな玄武岩で、立方体の下で受け皿の役割を……。
いやいや。
点々と広い園内のあちこちに視線を転がし、多分、どうにかしてその邪魔臭い障害物をこの山地水明、風光明媚な公園から取り除こうと努力はしてみたのだ。
無駄である。脳内でそんなことを呟いたのは、昨日寝る前に鏡で見た自分の笑顔だった。邪悪に口元を歪ませながら、そいつは見ろと耳元で囁く。
「カップルだらけじゃねーか……」
怨念のような言葉が両足の間に落ちる。ただ一人でベンチに腰掛けて無気力に空を見上げる自分が、途方もなく情けない人間になったような気分だった。蝉の声が頭上で響いた。耳に残る独特な鳴き声はきっと夜まで消えないだろう。
視界の横に入って来たカップルの接近が何だかとてつもなく恐ろしくて、咽喉の渇きを理由に席を立った僕は再びママチャリを押して歩き出す。重力がいつもに増して重く、その場の空気が僕の背中を押す。
まるで、結界に侵入した不埒な男を追い出すかのように。
なるべく人のいる方を見ないように気を付けた。少なくとも公園を出るまでは、桃色の気配を纏う二人達を視界に少しでも収めないように。ママチャリの回転するスポークを見て気を紛らわせる。
蝉の声が遠い。
公園の切れ目、歩道のアスファルトが見えて来たところで僕はようやく、視線を上げた。詰め物のように体を強張らせていた妙な重さが消え、呼吸が少しばかり回復するが、背中を濡らした冷や汗はすぐには退いてくれそうにない。
丁度その時だった。車道を遮る車の流れの切れ目から、看板が見える。なにかと思って、再び目を凝らすと某コーヒーショップの屋台だった。とはいえど、丁度その時にたまたま僕の咽喉が渇いていなかったならば、散歩の時に見かける本店と同じように素通りしていたに違いない。更に言うならば、もし公園の出入り口から五メートルと離れていない場所に横断歩道がなければ、僕の興味はきっとどこか別の自動販売機に移っていただろう。
そんなこんなの偶然に導かれ、僕は屋台の前に辿り着く。屋台では店員のおねいさんが不覚にも欠伸を漏らしていた。
「すいません」
「あ、はい」
こちらの呼びかけに虚を突かれたような表情を晒すところからすると、まあ入って二ヵ月程度のアルバイトなのだろう。特に文句も浮かばなかった。
「アイスコーヒーを一つ、サイズは……」
熱気に脳の湯だった胡乱気な僕の視線が、おねいさんの横の窓に張られたメニューを彷徨う。
「エルで」おねがいします、と口の中で小さく言葉にする。
「はい。エルサイズのアイスコーヒーをお一つですね。二一〇円、になります」
原価不明の笑顔に二五〇円を渡した。返ってきた四〇円はひんやりと冷たい。財布入れようとしたを汗ばんだジーンズは、摩擦を大にして最後まで抵抗したが結局は僕の腕力に敗北を受け入れた。
「お待たせしました、アイスコーヒーのエルとなります」
「ども、」
紙コップ越しに液体の温度を感じ取った時には、僕の口は既にストローを吸い上げていた。口の中にひんやりとした苦さが……苦さが……うむ、紅茶である。
「すいません、」
後ろに並んでいる男の人には悪い気がしたが、
「はい、なんでしょうか?」
その時、屋台のおねいさんはぎょっとした表情で僕の差し出した紙コップを凝視していた。
「これ紅茶なんですけど」
「え、あ!申し訳ありません。すぐにお取替え致します!」慌てふためく女の人というのはそれはそれで愛らしいものである。このことは一定数の男性にとって共認識だろう。そうでなければドジっ娘などと言う単語は世に存在しない。
「はい、お待たせしました!」
そういうわけで、顔を赤面させたおねいさんがコーヒーの紙コップを差し出すというのは、僕にとってピンポイントな破壊をもたらしたようで、つまりもう一度ぐらいこの店に来たいな、という僕の内部で生じた欲望はその裏に「この可愛いおねいさんとお近付きになりたいな、と口に出しては言えないような、つまり、
また来たいな、ということである。
キコキコと紙コップを右手に、左手で自転車を押して屋台から離れていく。蝉の鳴き声と車のエンジン音に混じって男女の会話が僕の耳に入って来た。
「ごめーん、最後に何かウザイ客が来て」
「自重しろよなー、」
うんたらかんたら、
どーたらこーたら。
僕の右手が茶色に染まった。
紙コップなのか紙カップなのか迷いました。どなたか真相を教えて下さい。
追記、紙コップに修正しました。